『鉛の時代』: イタリアのもっとも長い1日、ブラックホールとなった1978年3月16日

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『モーロ事件』の背景に蠢くもの

さて、『赤い旅団』が工場労働者の敵である資本家から、執行部が変わった75年を境に、司法官ジャーナリストへと攻撃のターゲットを変えたことは以前の項で述べた通りです。しかしなぜ突然、まさしく「国家の心臓部」である『キリスト教民主党』のリーダー、アルド・モーロというヒエラルキー頂点にまで、そのターゲットを飛躍させる決断をしたのか、という問いに、『旅団』のコマンドたちは「モーロをターゲットとしたのは、いわば偶然の成り行きであり、最も攻撃しやすかったからだ」と供述しています。

そもそも彼らは、党のメンターであるモーロ、あるいは党内で権力を振るいはじめたジュリオ・アンドレオッティ、さらにアミントーレ・ファンファーニの3人に攻撃の焦点を絞っていたと言い、「そのうちのひとりであれば、誰でもよかった」と言うのです。しかしモーロとアンドレオッティ、ファンファーニでは、事件の意味が根本的に変わり、国際政治に与えるインパクトも大きく変わります。

それでも『旅団』のコマンドたちは「ファンファーニの家は見つからず、アンドレオッティはあまりに警護が固く、誘拐事件をプログラムできなかった」ため、モーロにターゲットを絞り、「行動を監視していた」、と全員が口を揃えて言い張るのです。

その、『赤い旅団』の攻撃の動機は「国家に戦争をしかけ」「武装政治勢力として、国家に認めさせる」ことであり、「決して『キリスト教民主党』と『イタリア共産党』の『歴史的合意』を妨害するつもりはなく、むしろ自分たちには、あまり関心のないことだった。目的は、すでに逮捕され、裁判がはじまろうとしていた『旅団』創立メンバー(レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニら)を含む仲間たちと、誘拐したアルド・モーロの交換を、政治勢力と認知された『武装政党』として、国家対等に交渉することだった」、と供述しています。

つまり、大物であるならターゲットは誰でもよく、やみくもに社会を錯乱させ、その混乱に乗じて革命のきっかけとなる支配権を握りたかったのだ、と「マルクスーレーニン主義」を標榜する『革命家』たちにしては、緻密なストラテジーがまったくない、「ただ暴れて、注目されたい」山賊集団のような供述を繰り返すのです。彼らに言わせれば、犯行を起こした日は、たまたま『歴史的合意』の議会信任投票の日に重なっただけでした。

しかしながら、そのとき刑務所に入っていた『旅団』創立メンバーであるフランチェスキーニは「違う! われわれは、あくまでも『歴史的合意』に反対していたのだ」と語り、さらにはモーロが誘拐された直後に、イタリア政府(フランチェスコ・コッシーガ内務大臣)の要請を受け、ローマを訪れた米国政府のアンチテロリストのエキスパート、スティーブ・ピチェーニックも、冷戦下、「米国はどんなことがあっても、『歴史的合意』阻止しなければならなかった」とはっきり語っています。

さらに、『秘密結社ロッジャP2』のリーチョ・ジェッリは『モーロ事件』が起こったのは、「人々が『歴史的合意』に反対だったからだ。『キリスト教民主党』も『イタリア共産党』も、米国もソ連も、誰ひとり『歴史的合意』を望んでいなかったから起こったのだ」、と「当たり前じゃないか」とでもいうように、インタビューで言及していますから、事件の核に存在する『旅団』コマンド以外の『旅団』メンバーを含め、『背景論』として事件に関わる要素となる人々は、口を揃えて『歴史的合意』の妨害こそが事件の理由、動機だ、と述べているのです。

 

※最もクラシックな、1986年に制作されたジュゼッペ・フェラーラ監督の『モーロ事件』。事件の8年後、フィクションではありますが、モーロ夫人の証言とともに、鍵となる諜報の存在なども描かれています。フェラーラ監督は、4時間半に及ぶ、克明なP2ドキュメンタリーも残しました。レオナルド・シャーシャ原作、エリオ・ペトリ監督の『Todo Modo』同様、モーロをジャン・マリア・ヴォロンテが演じているのは印象的です。

 

そこで、以前の項といくぶん重複することになりますが、ここでもう一度、イタリアの1978年の時代背景と、『モーロ事件』に関連する『背景論』の要素を要約しておきたいと思います。

グラディオー冷戦下、欧州各国はCIA 、NATOによる共産主義勢力を水際で堰き止めるグラディオ作戦のターゲット(1948年から)となっており、欧州で共産主義勢力が最も強かったイタリアが、グラディオに賛同する軍部諜報、内務省諜報、極右ネオファシスト勢力共謀の、「オーソドックスではない戦争」に直面していたことは以前の項に書いた通りです。

些少残る公文書によると、NATOにおける共産主義排斥アクションに関わるグループは、1. 心理戦争グループ(新聞、ラジオなど)2. 政治戦争グループ(共産主義国内のレジスタンス支援、民主主義国内の反共産主義者の支援など)3. 経済戦争グループ(貿易の妨害、市場妨害、ブラックマーケット、投機)4. 防衛活動グループ(戦闘員の支援、妨害、破壊、潜入)と、4グループに別れて機能していたそうです。

「すべての活動は、複数の国家の反政府グループ、あるいは互いに対立するグループが、複数の国家やグラディオに関わる者たちの支援を受けて遂行されるが、米国のあらゆる機関は(オペレーションの)責任を負う義務はない。もし、その存在が発覚したとしても、尤もらしく、その責任を否定することができる」

「なお、その秘密オペレーションには、破壊工作、反破壊工作、プロパガンダ、経済戦争、破壊活動、スパイ(潜入)活動、対立する国家の転覆、(その土地の戦士たち、自由主義グループたちの)レジスタンス活動の支援、自由主義の国家における反共産主義者たちへの支援が含まれる。このオペレーションは軍部による武装攻撃ではなく、軍事作戦としてのスパイ活動、防諜、隠蔽、謀略として遂行される」 当時、グラディオのオフィスであった機関は、そう定義しています(エマニュエル・アマーラ)。

秘密結社ロッジャP2ー上記グラディオの非合法網に、イタリアでは『秘密結社ロッジャP2』が全面的に協力し、あらゆる政治ー軍事的性格を持つ謀略の中心となるオペレーションの采配を振るうことになります。支配者であったリーチョ・ジェッリは、72年あたりにこの秘密結社に参入したとされ、69年『フォンターナ広場爆破事件』から実行された、「社会の安定化のための不安定化」を目的とする、連続的な大規模テロにより社会を混乱させる『緊張作戦』ーステイ・ビハインドにおいて重要な役割を担った、と考えられています。

大統領府、シークレット・サービス=諜報、政府、及び内務、防衛、外務、司法などの各省、さらに各政党、銀行、メディアなど、各分野で権力を振るうメンバーが集う『秘密結社ロッジャP2』が、グラディオーCIA、NATO、国内外のファシスト(特にアルゼンチン)、マフィアグループと深い絆を結び、『モーロ事件』のみならず、『鉛の時代』のあらゆる政治暗殺事件、80年に起こった『ボローニャ駅爆破事件』、さらに92年に起こったマフィアによる『検事ファルコーネ暗殺爆破事件』『検事ボルセリーノ暗殺爆破事件』などの事件の背景に暗躍していたことは、現在ではほぼ明らかです。

なお、フランチェスコ・コッシーガが率いた『モーロ事件』のタスクフォース(Comitato politico -tecnico-operativo)のメンバーすべてが、P2メンバーで占められていたことが発覚した際、ジェッリは「P2メンバーは軍部、Sismi、Sisdeを含む 諜報局、カラビニエリなどの幹部らがメンバーであったのだから、その幹部で構成されたタスクフォースが、皆P2メンバーになるのは当たり前だ」という、よく分からない言い訳をしています。

ヒペリオンーさらに、『モーロ事件』で重要な役割を果たしたと見られる要素として(のち、検察官フェルディナンド・インポジマート、裁判官ロザリオ・プリオーレが追求)、フランス、パリ語学学校『ヒペリオン』があることを忘れるわけにはいかないでしょう。

この語学学校こそが、69年に結成された、『赤い旅団』の前身である、CPM(Colettivo Politico Metropolitano)時代、レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニ、マラ・カゴールに、「世界を揺るがすような、インパクトのある事件を起こさなければならない」と大胆な武装闘争を煽り、NATOの要人秘書や海外の諜報機関との繋がりを誇示した、金満家らしき謎の人物、コラード・シミオーニがドゥーチョ・ベニオ、ヴァンニ・ムリナリスらとフランスに渡って設立した語学学校です。フランチェスキーニによると、シミオーニはオイルショックが起こることまで予言していたそうです。

このシミオーニという人物を、クルチョ、フランチェスキーニ、カゴールは、信用ならない「スパイ」と見なして、短期間付き合っただけで決別し、その後改めて『赤い旅団』を創立しています。その際、のちに『モーロ事件』の主犯となるマリオ・モレッティ、プロスペロー・ガリナーリ(彼らはシミオーニが秘密裏に構成していた革命戦士「スーパークラン」のメンバーでもありました)も、シミオーニととも消えていた時期があり、いずれも『赤い旅団』がプロパガンダに成功し、その名が極左武装グループとして認識されはじめた頃に、ふらりと舞い戻ってきました。

なお、フランスのレジスタンス運動の英雄であり、有力な慈善家であったアベ・ピエールの孫、フランソワ・トゥッシャーを学長に冠した「ヒペリオン」は、実はヨーロッパのテロリストグループ、たとえば、Eta(バスク祖国と自由)、Ira(北アイルランド共和軍)、Raf(ドイツ赤軍)をはじめ、PLO(パレスティナ解放機構)の一部が情報を交換する、欧州の極左武装集団の一種の国際ロビーとなっていたとされ、欧州の西側諸国、東側諸国の諜報と連帯し、米国、ソ連から独立した『第3の欧州』について話し合いがなされる場になっていたと見られています。

しかしながら、同時にCIA、KGB、モサドとの関係が指摘され、実はCIAの管理下にあった、と言われてもいて、『ヒペリオン』はフランスのシークレット・サービスに、常に強力に保護され続けることになりました。実際、イタリア当局者が学校内部で交わされる会話を盗聴しようとしてもガードが固く、まったく埒が開かなかったそうです。

ところで、『冷戦』というイデオロギーの二項対立の時代において、この『ヒペリオン』という語学学校の節操のない有り様が、長い間理解できなかったのですが、ある時「ウォーラーステイン」(川北稔編)を読んでいた際、多少合点がいく、次の一節に出会うことになりました。

「米ソ対立とはいわば見せかけの対立にすぎない」「米ソ対立は、根本的にはアメリカのヘゲモニーを承認した上で、そのヘゲモニーを政治的に安定化するために、他のあらゆる政治的、経済的利害対立を全て米ソ対立、東西対立、資本主義対共産主義の対立へと還元する体制に他ならない」(小論:敵としての友)

なるほど、そう考えれば、『モーロ事件』の後、79年に殺害されることになる、ロッジャP2のメンバーでもあったジャーナリスト、ミーノ・ぺコレッリが「モーロはヤルタに殺害された」と自ら創刊した軍事雑誌『OP』に書いた内容にも合致するかもしれません

なお、クルチョ、フランチェスキーニが逮捕された75年以降、『旅団』の執行幹部となったマリオ・モレッティは、身分を隠しての「クランデスティーノー非合法活動」のため、偽のドキュメントを携帯していたにも関わらず、飛行機に乗っても一回も怪しまれることなく、頻繁にパリに通っていたことが明らかになっています。

ロッサーナ・ロッサンダによる獄中でのインタビューで、モレッティは「パリにはしょっちゅう行っていたが、1回もシミオーニには会っていない。彼とは相性が悪かった」と言っていますが、「モレッティはシミオーニが苦手だったかもしれないが、シミオーニはモレッティという人物を高く評価していた」との証言もあるのです。また、シミオーニには会っていなくとも、この謎の人物とともにフランスへ渡った、かつての同志、ヴァンニ・ムリナリス、ドゥーチョ・ベニオには会っていたかもしれません。

その『ヒペリオン』は、78年になって『モーロ事件』の直前、交換留学のオーガナイズを理由にローマに事務所を設立(軍部諜報のオフィスと同じ建物内に)しながら、事件が終わると間もなく、静かに閉鎖しています。『モーロ事件』を追い続けた、『赤い旅団』メンバー捜査の主任検事だったフェルディナンド・インポジマートは、何度もフランス側へ「ヒペリオン」の捜査を要請していますが、シミオーニに近づくことは出来ず、フランス警察の協力を得ることもできなかったそうです。

なお、1978年3月16日、『モーロ事件』直後の10:45、校長であるフランソワ・トゥッシャーの、サルヴォーニ・イノチェンツォが、『旅団』のコマンド2人とバールで会っていたところを目撃され、裁判に召喚されています。しかしアベ・ピエールの『キリスト教民主党』への圧力(推測)で、イノチェンツォは、ただちに放免となりました(ロザリオ・プリオーレ、シルヴァーノ・デ・プロスペロー)。

この、元々は『イタリア社会党』の有力メンバーだった(米国諜報機関との関係が疑われるなどして、党から排斥)コラード・シミオーニについて、のちに政界を席巻した、同じく『イタリア社会党』のベッティーノ・クラクシーが、「彼こそ『赤い旅団』のグランデ・ヴェッキオ(黒幕)だ」と発言しましたが、裏付けが取れないまま、シミオーニは2008年に他界。なお、クラクシーは『秘密結社ロッジャP2』について、「イタリアのメディアの50%を牛耳っていた」など、かなり踏み込んだ内容の発言をも残しています。

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