『鉛の時代』: 「蛍が消えた」イタリアを駆け抜けた、アルド・モーロとは誰だったのか

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 禁断の共生へ向けて

同盟国が一斉に敵と見なす『イタリア共産党』と、『キリスト教民主党』が手を握る決断をしたのは、「憲法こそがすべての法律の上位に存在する」と考えていたモーロが、憲法に明記される『民主主義』における自由公正を、市民の意志にしたがって実現しようとしたからです。

また、『イタリア共産党』への接近と対話を、当時のイタリアを覆っていた『Strategia della tensione(緊張作戦)』を皮肉ったのか『Strategia dell’attenzione(心遣い作戦)』と名づけています。そしてその、時代の空気を読まない(ふりをする)、揺るがぬ態度が、同盟国を逆撫でしました。

そもそもソ連からはスターリニストと定義されていた、当時の『イタリア共産党』は、多くの同志や知識人から激しい反発を受けながらも、ゆるやかに武装革命旗を降ろし、やがてソ連とはさらっと距離をとり『民主主義』における『選挙』での躍進を目指していました。これが、ソ連からは独立した『イタリア共産党』独自のユーロコミュニズムという穏健路線です。

77年の国政選挙では(投票率93.40%!)、下院『キリスト教民主党』38.71%に対し『イタリア共産党』34.37%、上院『キリスト教民主党』38.88%に対して『イタリア共産党』33.83%肉薄。70年代に入ってアルド・モーロとエンリコ・ベルリンゲルによって模索されていた『歴史的合意』は、ここで一気に加速します。この時期、合意が成立する最後の最後まで、いずれの党にも「騙されるのではないか」と疑心暗鬼に陥る反対派が多く存在し、緊張がみなぎっていたそうです。

当然のことではありますが、モーロが若く、勢いがあるベルリンゲルに両手を開いたのは、真の『民主主義』を実現すると同時に、支持を失いつつある、自らが長きに渡って率いてきた『キリスト教民主党』の威信を守るためでもあったことは、疑いの余地はありませんし、グエルゾーニもそう分析しています。さらにこの時期、イタリアでも『ロッキード事件』が勃発していますが、メディアから一斉に攻撃されても、モーロは収賄で糾弾された同僚を議会で徹底的に弁護し、『キリスト教民主党』を守っています。

 

エンリコ・ベルリンゲル、アルド・モーロ、ルイジ・ロンゴ、ジャンカルロ・パジェッタ『歴史的合意』の1コマ Rai Culturaより。

 

もちろん、イタリアの共産主義化を恐れていた同盟国及び党内右派、極右政党、極右グループは、際限なく左傾化し、『イタリア社会党』を政府に迎え入れるのみならず(63年〜68年の長期政権時代に、モーロは『イタリア社会党』と連立しています)、さらには次第に『イタリア共産党』に近づくモーロを激しく警戒。何度も脅しをかけ、連立を阻止しようとしています。

後年、レスプレッソ誌によってすっぱ抜かれた、64年、カラビニエリ大佐、デ・ロレンツォが画策したクーデター「ピアノ・ソロ」では、当時首相であったモーロの殺害計画まで組み込まれていたそうですし、72年に起こったイタルクス列車爆発事件の目的は、その列車に乗っていたモーロの殺害であったとされます。ネオファシストによって爆弾が仕かけられ、12人の方々が亡くなる大惨事となったイタルクス事件では、列車が出発した直後、モーロは秘密裏に連絡を受け、次の駅で下車。九死に一生を得ています。

政権を率いていた74年(72年〜74年)には、レオーネ大統領の渡米に同行したモーロに、当時、国務長官だったヘンリー・キッシンジャーが「もし、わたしがあなたのようにカトリック教徒ならば、無原罪懐胎の教義を信じるだろうが、わたしはカトリックではないから、そんな教義も、『イタリア共産党』の民主主義的進歩も信じない」と言ったそうです。

おそらくキッシンジャーが言ったのは、そんなメタフォリックで上品な言葉だけではないと思われますが(米国は、このまま『イタリア共産党』が躍進を続けるのであれば、軍事行動も辞さない、と発言したこともあるそうですから)、その後、教会のミサに参加していた際に具合が悪くなったモーロは、予定を切り上げて帰国しています。

モーロはイタリアに到着するや否や、「少なくとも2年間、わたしは政治の世界から消える。各メディアにそう伝えてほしい」と、グエルゾーニに連絡。いくつかのメディアが、モーロを批判するとともにそのニュースを書き立てました。しかし結果的には諸事情が許さず、モーロはそのまま政治の世界に留まることになります。

一方キッシンジャーはその後、その発言を否定し、後年には「アルド・モーロ? 誰?」とまでとぼけますが、モーロとキッシンジャーの間に激しい葛藤が繰り広げられたことは明らかです。なお、71年には、モーロがモスクワを訪問し、『ソビエト最高会議』を見学。ブレジネフと会談した、というエピソードもありました。

モーロが首相の座を降りた75年ごろからは、米国大使館、企業家、姿が見えない策士たち、各国の諜報が、モーロをおだてたり、すかしたり、脅迫したりという攻撃暗示が多くなり、右派のメディアがフェイクニュースを拡散するなどして、モーロを『キリスト教民主党』内で孤立させようと仕向ける動きが目立つようになったそうです。またアンドレオッティがワシントンに招かれ、『キリスト教民主党』の勢力を蘇らせる作戦を伝授された、との情報もあります。

なお60年代、モーロが米国デビューした際、米国の政界では「モーロは踊らない」と囁かれたと言います。というのも米国では、イタリアの政治家は文字通り(ダンスができる)にも、メタファー(1歩進んで2歩下がる)としても、「バレリーノー踊り子」と表現されていたからだそうです。つまりモーロが、従来のイタリアの政治家のイメージとはまったく違う、踊らない、つまり意見を変えない、空気を読まない異例の政治家だ、という意味なのでしょう。

▶︎パソリーニの『蛍の記事』とシャーシャの『Todo Modo』

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