『鉛の時代』: 「蛍が消えた」イタリアを駆け抜けた、アルド・モーロとは誰だったのか

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冷戦という時代とアルド・モーロ

1916年、南イタリアのプーリアで生まれたアルド・モーロは、第二次世界大戦後に形成された、『イタリア共産党』を含む、あらゆる全ての党が参加した大連立政府を経たのち、1948年の国政選挙で第1党に躍り出てからの30年間、イタリアで揺るぐことのない権力を誇った『キリスト教民主党』政治初期象徴とも言える人物です。

1959年にわずか33歳で党の一等書記官となり、1963年から1968年の5年間、イタリアで最も長く持続した中道左派政権を担い、さらには1972年から1974年にも首相を務めています。

1947年からは憲法制定議会に加わり、イタリア共和国憲法第1条の「イタリアは労働に基づく民主主義共和国である」部分の論議にも関わった経緯があるそうです。

レジスタンスそのものには参加していないモーロは、その際、「憲法はファシスト、アンチファシスト、いずれであってもならない」、共和国憲法は、確かにレジスタンスを出発点として制定されるが、それは「思想とは関係がない」とし、「Felice convergenza di posizioniー(国は)それぞれ違う立場の者たちの幸福な集合体であり、共和国としての国家機構は撤回できない」との論点を提示し、制定議会で採用されたことを、グエルゾーニが指摘しています。

自由公正こそが、われわれの国の民主主義における、人間の条件として最も相応しい、本質的で、それぞれが相関するアスペクトだ」と考えるモーロは、常にその実践を目指していました。

以前の項にも書いたように、イタリアの『民主主義』における個々の市民の権利、社会の相互扶助のアイデアは、ファシズムの圧政に立ち向かったパルチザンたちが勝ち獲ったものです。したがってイタリア共和国憲法は、確かにパルチザンたちのレジスタンスから生まれたものですが、「憲法は思想とは関係なく、国はそれぞれ立場が違っても、幸福な集合体であるべきで、それぞれの個的な生活、社会的相互扶助、集団の独立性は侵すことはできない」とモーロは考えていたということです。

しかしながらモーロは、ファシズム思想、右翼思想は憲法に反するエゴイズムだとして、自らが政権にある間は、右派勢力を遠ざけたため、『キリスト教民主党』内の右派やMSI(イタリア社会主義運動)など極右政党からは、「敵」とみなされていました。

また、モーロは政治家であっただけではなく、大学教授でもあり、1951年からはプーリアのバーリ大学で法哲学教授として教鞭を握り、63年からはローマ大学サピエンツァ、政治学科へ移動。政権にある間も含め、刑事法・刑事訴訟法の教授として、政治の状況がどれほど厳しくとも、授業を休むことはなかったそうです。

のちに『赤い旅団』の人民裁判にかけられ『死刑』となるモーロは、その授業では「復讐は異なるものである」とし、「法で定められた殺人は、民主主義の社会、政治にとって考えられないほど恥ずかしいこと」、と『死刑』には絶対的反対しています。

さらに学生たちとの交流にも活発に参加し、学生たちを連れて刑務所に慰問に訪れるなど、生涯に渡って受刑者人権についての働きかけも継続。1978年3月16日、ファーニ通りで誘拐された際、乗っていたフィアット130に残された鞄のひとつが、学生たちの卒業論文でいっぱいだったことは有名な話です。

このように、モーロという人物は、若者たちとの対話に熱心で、68年(激しい学生運動が巻き起こった時代)の若者たちの討論会をテレビで観た際には、「あの若者たちに会いたい」とのモーロの要望で、69年、実際に両者の討論会が実現し、その中には極左グループに属していた青年もいて、彼はのちに政治家になっています。

なお事件当日、『歴史的合意』として語り継がれることになる、ジュリオ・アンドレオッティを首相とする『キリスト教民主党』の政府に、戦後の大連立以来はじめて、『イタリア共産党』がApoggio esterno(外部からの過半数参加)として政府に参入する、議会における記念すべき投票に参加したのち、モーロはいつも通りにローマ大学へ向かい、卒論の懇談会に立ち会う予定でした。

 

学生たちとバスに乗るアルド・モーロ。Cento anni con Aldo Moro/aldomoro.euより。

 

モーロが『キリスト教民主党』、つまり政治の中枢にいた時代は、もちろん冷戦まっただ中です(参考▶︎ 諸刃の剣『グラディオ』のち、90年になってアンドレオッティが「公表」したグラディオ作戦のもと、CIA、NATOの国際諜報、イタリア軍部SIFER、内務省SIDなどの諜報、カラビニエリの幹部、君主制を目指す右翼分子、そして国家の中枢の一部、さらには秘密結社ロッジャP2が加わり、東欧からイタリアに迫る共産主義を水際で堰き止め、国内で勢力を拡大する『イタリア共産党』の躍進を阻止する目的で、何度もクーデター未遂が起こっています。

さらに、長期モーロ政権が崩壊した翌年の69年(『キリスト教民主党』右派の嫉妬によるとされますが)には、「安定のための不安定化」を目的に、社会を劇的な大混乱に陥れる『Strategia della tensione(緊張作戦)』『Stay Behind(ステイ・ビハインド)』と名づけられた謀略が、『フォンターナ広場爆破事件』の凄まじい極右テロで幕が落とされました。その衝撃に煽られた、極左グループをはじめとする若者たちの反発は次第に激化し、イタリアはやがて、市民戦争にまで発展する、『鉛の時代』に突入するわけです。

つまりモーロが生きたイタリアは、ある意味、南米の状況に近い、冷戦における「オーソドックスではない戦争」が繰り広げられたひとつの戦場でもあり、西側諸国が悪魔と見なす『イタリア共産党』が、『民主主義』における『選挙』によって、欧州の国々の中で、市民の支持を最も多く集めた国でもありました。その『イタリア共産党』は、『選挙』のたびに支持率をじわじわと伸び続け、70年代中盤からは国政に手が届きそうな勢いとなります。

しかしながら、こう言っては何ですが、イタリアという国そのものが、米国から支援された共産主義パルチザン(カトリック僧や君主制主義のパルチザンも存在しますが、きわめて少数です)の、レジスタンスから建国された国でもありますから、そのパルチザンの流れを汲む『イタリア共産党』が、市民の支持を集めるのは、当然といえば当然の流れです。

ちなみに、現在でも4月25日の解放記念日の前後には、必ずといっていいほど『ムッソリーニ最後の日々』という映画が放映されるため、外国人のわたしにも、パルチザンの重要性が叩き込まれています。イタリア市民は基本、祖国が敗戦国だとは決して認識せず、胸を張って、ファシズムからの解放を祝いますから、おそらく当時の米国にとっては憎らしい存在ではあったに違いありません。しかも戦後は、といえば、『ヤルタ会談』における大国の勢力圏合意など、まったく無視して、『イタリア共産党』が勢力を伸ばし続けていたのです。

なお、長年のスポークスマンであったグエルゾーニは、モーロはNATO誕生のきっかけとなる北大西洋条約には、なんら関係がなかった、と断言しています。つまり戦後のイタリアの背景にある、NATOが全面に支援した一連の謀略『グラディオ』を、政権の中枢にある人物として、おそらくうすうす知ってはいても、決して加担した人物ではなかった、ということです。むしろその謀略を、「薄暗い何か」として忌み嫌う発言を、周囲に漏らしてもいたようです。

そしてモーロを語る際に、まず重要なのは、冷戦という時代を生きる国を担う政党のリーダーとして、同盟国から敵視され続ける、『イタリア共産党』と積極的に手を結ぼうとしたことでしょう。

現代から俯瞰するならば、バイオレンスカルトに満ちたその緊張の時代、『キリスト教民主党』のモーロも、『イタリア共産党』のエンリコ・ベルリンゲルも、対立ではなく対話思想を超えた和解多様性を認める共生こそが、社会の緊張を和らげ、イタリアだけでなく、世界の発展をもたらすのだと考えていました。この、モーロとベルリンゲルが、交渉に交渉を重ねてきた『歴史的合意』としての連立政府が、もし実現していたならば、イタリアがいち早く『ベルリンの壁』になった可能性すらあるのではないか、と語る歴史家も存在します。

おそらく、両者ともに、時代に張り巡らされた危険な謀略の数々の、その背景を知っていたでしょうから、国内外からのさまざまな妨害に屈することなく、憲法に認められたヴィジョンに向け、交渉を重ねた姿勢は、当時の世界を覆った「ヤルタ体制」に真っ向から挑む、まさにレジスタンス、とも呼べる勇断であったと思います。加えて、このレジスタンスの魂こそが、現代に至るまで、人々の情熱を掻き立てながら『モーロ事件』を連綿と生かし続ける、最も重要な要因ではないか、とも思うのです。

さて、演説が「長く、ゆっくりとしていて、難解で退屈だった」と、その複雑な言語表現を指摘されることも多いアルド・モーロという人物を、あらゆる説明を飛ばしてシンプルに表現するならば、血塗られた時代の背後にうごめく「薄暗い何か」と、深い絆を持つ者も存在する『キリスト教民主党』の中枢にあって、彼らからは距離をとり、「左右の思想で分裂し争うのではなく、ともに認め合いながら市民のよりよい生活を取り戻そう」と静かに、ゆっくりと、しかし信念を曲げることなく対話し続けた人物というところでしょうか。

ファシズム時代に青年期を送ったモーロは、自らをファシストともアンチファシストとも表明しておらず、そもそもアンチファシストを旨とする『キリスト教民主党』の結党メンバーになる際には、その出自を疑われたというエピソードもあるそうです。

そのモーロを強く推薦したのはカトリック司教だったそうですが、つまりモーロの政治の中核は思想ではなく、キリスト教への深い信仰であり、その信仰に基づいて熟慮された『民主主義』のあり方、憲法だということでしょう。そしてその姿勢は、最後まで貫かれることになりました。

 

教会で祈りを捧げるモーロ。2018年3月9日La Repubblica紙より。

▶︎禁断の共生へ向けて

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