『鉛の時代』:その後のイタリアを変えた55日間、時代の深層に刻み込まれたアルド・モーロとその理想 Part2.

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わたしの血

4月20日に届いた、モーロがザッカニーニに宛てた手紙は、「モーロは人が変わった。狂気に満ちている」とはまったく思えない明晰なものであると同時に、以前の手紙にもまして、率直な表現が使われた手紙でした。

また、ザッカニーニへの1通目の手紙の、投函されなかった別ヴァージョンにあった「血」という表現は、この手紙で現実にぶつけられることになります。

「もし君たちがこの状況に何の行動も起こさなければ、イタリアの歴史に凍てついた1ページを刻むことになるだろう。わたしの血は、君たちに、政党に、そして国に滴り落ちることになるのだ。親愛なる友人たちよ。よく考えて欲しい。君たちはそれぞれ独立した存在だ。明日を見るのではなく、明後日を見て欲しい」この生々しい表現のせいで、いくつかの新聞は手紙の公表を見合わせたそうです。

「『キリスト教民主党』のリーダーとして言わせて欲しい」との書き出しからはじまるその手紙は、かなり長いため、以下、いくつかの箇所を抜粋します。

「君たちは、わたしが国のために(交渉の拒絶を)認めないことを問題に思っているだろうが、わたしは国家安全保障の見地からも、キリスト者としての人間性からも、そして民主主義的にも、バランスの取れた解決を見つけたいと思っているのだ。(キリスト教民主党)は今まで、無実の人間を救うという出来事には、繊細で、人間的な立場をとってきたではないか。そして今、この国の前には、わたしというひとりの人間と、わたしの家族を顧みるという問題が立ちはだかっているのだ」

青ざめながら、それこそが国の問題をすべて解決する、と提案しているであろう誰かのせいで、国のため、と君たちが皆、私の死満場一致で賛成する、ということなどあるのか? その決断は解決ではなく、君たちが、分裂という手に負えない最悪のスパイラルに突入するだけだ。(君たちと)まだこの国に存在する人道主義の人々との分裂がはじまるのだ」

「わたしは明確に言う。わたしは誰をも免罪せず、裁きもしないだろう。『キリスト教民主党』に、深遠な誠実さと人間性が自然に湧き起こり、人道主義の精神に基づいて、議会で議論が行われることを待っている」「いますぐに、簡単には(わたしの)死を受け入れないと発言して欲しい」「すべての政治勢力に、イタリア共和国憲法は、戦後の新しいサインとして死刑を廃止したことを思い出してほしい」

「わたしは、別れも告げないまま家族から引き離され、たったひとり、誰からも慰められることなく死刑が宣告された囚人だ。もし、君たちが介入しないのであれば、イタリアの歴史に凍てついた1ページを刻むことになるだろう。わたしの血は君たち、政党、そして国に滴り落ちることになるだろう」「もし憐みが勝利すれば、国は滅びない」

もちろんモーロは、この手紙で、自らの命乞いをするためにテロリストと交渉しろ、と言っているわけではないことは明白です。『キリスト教民主党』のリーダーであるとともに、モーロはイタリアの一市民であるわけですから、その自分を殺すような判断を国が下すと言うことは、戦後のイタリア、特に『キリスト教民主党』が守ってきた人道主義の価値、倫理を覆すことになる、と訴えているのです。

4月24日、同じくザッカニーニに書いた手紙の末尾は、さらに凄まじいものでした。「繰り返して言うが、『キリスト教民主党』が下した不平等で恩知らずの判決を、わたしは受け入れないし、さらに繰り返すが、わたしは誰をも許さず、誰をも裁かない。わたしには、それをする政治的、倫理的理由がない」「モーロを精算することで、『キリスト教民主党』の問題が、終わるとは思わない。わたしは異議、そして代案として、『キリスト教民主党』が今日やっていることを妨害するために、これ以上小さくならない『点』のように存在し続けるだろう

「したがって、明らかな矛盾とならないために、わたしの葬儀には国の権力者も、政党のメンバーも参加しないでほしい。わたしを本当に大切に思い、祈りと愛情を持って伴ってくれる少数の人々だけに参加してほしい」

このように、感情がまっすぐに表現され、党への不信感が露わになっていくモーロの手紙を、ピチェーニックはコッシーガと一緒に読みながら、「モーロの性格が変わった」と感じた、と言います。モーロは絶望的になり、政党への恐れを抱き、最後は悲劇的な表現に変わっていったのだ、とピチェーニックは分析しました。

また、「モーロは生きるという目的のために、国、政党、友人を脅迫する」ようになり、それが重荷になった、とピチェーニックは言っていますが(La7)、これはあまりに短絡的で稚拙な分析で、この米国のエキスパートは、イタリアの歴史、キリスト教、またモーロという人物をまったく理解していなかった、というより他ありません。というか、この時点で、「モーロは国よりも、自分の生命を大切に考え、命乞いをしている」という世論が構築されるように、タスクフォースが意図的にメディアを誘導していった、ということなのでしょう。

このような理不尽な空気が漂うなか、『キリスト教民主党』は「交渉の余地はまったくない」ことを再度強調し、さらに『キリスト教民主党』機関紙『ポポロ』をはじめとするメディアは、「現在のモーロは、霊的にも、政治的にも、共和国憲法に基づいた法律的にも、われわれがまったく知らない人物だ」と書き立てました。

そして、その反応に対するレスポンスが、4月27日、再びモーロから送られてくることになります。

「わたしの手紙が届いた後には、わたしが巻き込まれた事件に関して、曖昧で無秩序、そして本質的にネガティブな『キリスト教民主党』の反応が出現しただけで、何ひとつ変わらなかった。議論する要素が多くあるにも関わらず、政党、その書記長、そしてわたしの生命とバランスの取れた解決策について、勇気を持って一市民として議論を開始しようとするメンバーはいないのだ」

「確かにわたしは囚人で、幸せな状態ではない。しかし、わたしはドラッグ漬けにされているわけではなく、そもそもあまり達筆とは言えない、わたしのいつものカリグラフィで、ひどいスタイルで書いているだけだ。これがわたしだ。真面目に取り合う必要のない、違う人間と言われているが、それはわたしが提示する議題に(『キリスト教民主党』が)答えたくないからだ

「(わたしという)ひとりの人間の命、そしてその家族の運命を翻弄している状況で、わたしが正直に、党幹部や政党の憲法機関での議論を求めても堕落した秘密会議でこそこそ話し合っている。これは議論、そして真実を恐れ、さらに『死刑宣告』に署名することを恐れているからだ」、とモーロは状況を鋭く見抜きます。

また、友人であった聖職者弁護士たちが、「モーロは霊性の自由と明晰さを失い、手紙は『旅団』に脅されて書いているのだ」と騒いだことには、「なぜわたしの手紙が真正ではない、と言えるのか。わたしと『赤い旅団』の間に、ほんの少しも共通の見解は存在しないのに」と主張しています。

「この血の海は、決してザッカニーニアンドレオッティ、そして『キリスト教民主党』、国にいい結果を生まないだろう。誰もが責任を負わなければならなくなる。何度も言うが、わたしは自分の周囲に、権力に囚われた人間たちに取り巻いてほしくない。わたしを真に愛し、祈ってくれる者たちだけに傍にいてほしい。(わたしが)こう決めたということは、神の願いなのだ。しかしこそこそしながら、その義務を履行しようとする者には、責任感というものがない。真実は今に明らかになるだろう。しかも早い時点で明らかになるだろう」

一方、モーロから「助けていただきたい」との手紙を受け取った教皇パオロ6世は、『赤い旅団』にひざまずいて(カトリックの権威者として、これ以上ない譲歩です)、モーロの救済を懇願しましたが、そのメッセージの最後に「シンプルに、あらゆる(交換)条件なくモーロを解放してください」と問いかけたことが、『赤い旅団』にも、モーロ自身、そしてエレオノーラ夫人にも、絶望として刻み込まれました。つまり、『旅団』にひざまずいた教皇も、交渉を拒絶したということです。

しかしながら、このメッセージが発表されるまでの短い間に、教皇が政治的な動きに巻き込まれていたことが、現在では明らかになっています。メッセージの草稿そのものは、教皇自身が何時間もかけて作成したものでしたが、枢機卿を通して当局の推敲が入り、草稿にはなかった、「シンプルに、あらゆる交換条件なく」という一節が、強制的に付け加えられたのだそうです。

そもそも、教皇のオリジナル草稿は「semplicemente senza alcuna imbarazzante condizione(シンプルに、何らかの困惑するような条件なしに)となっており、ところがこの一節に関して、「イタリア共和国としては受け入れられない」、とのメッセージがアンドレオッティ首相から通達されています。そのため草稿は、3回、4回と推敲され、「何らかの」「困惑するような」という言葉が削られていき、単数であった「condizioneー条件」が、一切の潜在的な交渉の可能性拒絶する、複数の「condizioniー条件」ー「あらゆる条件」に変えられました。そして、この単数から複数へと変わった「condizioni」が、モーロとご家族、そしてモーロを助けようと奔走していた人々を奈落に突き落としたのです。

しかし現実はといえば、このメッセージが発表された頃の教皇パオロ6世は、自ら方々に打診して、モーロのために巨額の身代金を用意しており、枢機卿時代からモーロときわめて親しかった教皇は、最後の最後まで秘密裏に『赤い旅団』と交渉を進めていましたが(後述)、当時のヴァチカンには海外の諜報が幾重にも入り込み、教皇の一存では、何も決定できない状況だったそうです。

その事情をまったく知らなかったモーロは、「ヴァチカンはあまり何もしてくれなかった」とエレオノーラ夫人への最後の手紙に綴り、教皇への失望を露わにしています。このような困難な状況のなか、あらゆるルートを駆使して、モーロを救おうと動いていた教皇パオロ6世の、モーロが亡くなったあとの嘆き悲しみは尋常ではなかったそうで、その心痛からか、モーロの死からたった3ヶ月後の8月、静かに世を去っています。

 

教皇パオロ6世とモーロのご家族。ansa.itより引用。

 

さて、ここから『イタリア社会党』が大きく動きはじめることになりました。『社会党』は『旅団』側が要求する「獄中にいる『旅団』メンバーとモーロの交換」には反対しましたが、政府が『断固とした交渉拒否』からまったく動かないことを激しく非難。モーロを救うために他の方法を探るべきだ、と主張しはじめたのです。党首ベッティーノ・クラクシーはまず、獄中の『旅団』メンバーをも巻き込んであらゆる人脈を駆使し、『旅団』コマンドたちとのコンタクトを試みます。

当時、獄中のメンバーたちの元には、ダリオ・フォーのパートナー、フランカ・ラメをはじめ、当時の有名な文化人たちや活動家が続々と訪れ、「モーロの解放をコマンドたちに公言してほしい」と懇願したそうですが、その頃の獄中のメンバーは、外部のコマンドたちとはまったく連絡が取れない状態で、動きようがなかったようです。

また、獄中のメンバーたちは、メディアなどを通じて、公に「モーロ解放」の意向を示すことは断っていますが、実は弁護士に、自分たちを逮捕したダッラ・キエーザ大佐を通じてなら(なぜか、獄中のメンバーは、自分たちを逮捕したダッラ・キエーザ大佐を信頼しており)、「コマンドたちに「モーロ解放」の意向を伝えてもよい」とメッセージを託しています。しかしその意向は、途中で妨害にあってコマンドたちに届くことはなく、宙に浮いたままとなりました(『政府議会モーロ事件調査委員会』)。

僕らは『モーロ解放』に向けての交渉を承諾していた。レナート(クルチョ)はその決定を公にはしなかったが、もしコマンドたちがモーロを殺害すれば、ドイツ赤軍に起こったように、獄中の僕らが次々と『自殺』するようなことが起こる、と理解していたからだ」とアルベルト・フランチェスキーニも、『政府議会モーロ事件調査委員会』の聞き取りで語っています。

さらにフランチェスキーニは、この聞き取りで「(ファーニ通りからはじまった)この事件の鍵は『ヒペリオン』にある。『ヒペリオン』は、パレスティーナが国際諜報のルールに従うよう指導する、ドイツ、フランスのシークレット・サービス主導の国際諜報、いわば世界の007議会のようなものだ。そこにモサドも関わっていた」と強調してもいます。

以前の項で触れたように、『ヒペリオン』創立者のひとりであり、普段の会話をラテン語(!)で話すほどのインテリだったコラード・シミオーニは、そもそも『イタリア社会党』のメンバーで、ベッティーノ・クラクシーとともに党の「ホープ」だった時代があるそうです。しかし米国諜報機関との関係が疑われ、65年に党から追放されています。

なお、『モーロ事件』の背景にコラード・シミオーニが存在するのでは? と最初暗示したのはかつての同僚、クラクシーでした。1980年の下院議会で、クラクシーは次のような発言をしています。

「テロリストを月まで探しに行く必要はない。自分たちの周り、たとえば学校時代の友人たちをよく見てほしい。(『赤い旅団』の)『Grande Vecchioー黒幕』について語るとき、われわれは記憶をたどる必要がある。われわれが政治をはじめた時は傍にいたのに、その後、突然党から消えた人物たちに思いを馳せるべきだ」

事件ののち、『旅団』メンバーの取り調べ主任検察官を務めたフェルディナンド・インポジマート検察官、ロザリオ・プリオーレ裁判官が、この『ヒペリオン』捜査を、フランス当局へ何度も打診していますが、フランスの国民的英雄であるアッベ・ピエールにがっちりとガードされたシミオーニは、たった一度も取り調べを受けることはありませんでした。

ともあれ、『旅団』との本格的な交渉に向けて動き出した『イタリア社会党』は、というと、クラクシーの要請を受けた副党首クラウディオ・シニョリーレが、極左グループ『ポテーレ・オペライオ』の当時の幹部、フランコ・ピペルノ、ランフランコ・パーチェにコンタクトを取ることに成功。このふたりが、『ポテーレ・オペライオ』から『赤い旅団』へ移った、顔馴染みでもある『モーロ事件』のふたりのコマンド、ヴァレリオ・モルッチ、アドリアーナ・ファランダに連絡を取り、モーロの解放を説得するために、複数回会って説得を試みています。

 

1978年、『赤い旅団』との交渉の提案をしていた『イタリア社会党』のベッティーノ・クラクシー。クラクシーはこのあと、じわじわと政界を席巻し、1983〜1987年まで首相を務めます。1992年に発覚した、国中を揺るがした大規模な収賄事件『タンジェントポリ』で糾弾され、晩年はチュニジアへ亡命しますが、戦後のイタリアで、最も印象的で、興味深い政治家のひとりです。映画Hammametでは、ピエールフランチェスコ・ファヴィーノが瓜ふたつのクラクシーを演じています。

 

それも「極秘で会った」というわけではなく、白昼堂々、ローマの中心街の誰もが知っている有名なバールでカジュアルに会ったにも関わらず、まったく尾行がなかったそうで、パーチェは捜査陣の、そのあまりに手薄な様子に驚いたと言います。また隣のテーブルには、有名な検察官が座って新聞を読んでいたこともありましたが、その検察官は、モルッチ、ファランダ、そしてパーチェの存在には、まったく気づいていなかったそうです(もちろん、気づかなかったふりをしていただけかもしれませんが)。

その際、パーチェとピペルノは、モルッチ、ファランダに、「もしモーロを殺害すれば、あらゆるすべてが危機に陥る。もしモーロが解放されたなら、逆に事態は好転するだろう」と延々と説得したそうですが、その時のふたりは頑なに『死刑』にこだわったと言います。最近になって、パーチェはそのときのふたりの印象を、「これは多国籍企業帝国主義と闘う、マルキシストの『革命』なのだ、と繰り返すばかりで、それが愚かで幼稚に感じた」と、ドキュメンタリー番組で語っていました。

しかしながら、モルッチもファランダも、実はパーチェの説得に心を動かされており、やがて『旅団』内で、「政治的にも人間的にも、モーロを殺害することには反対である」と主張しはじめ、執行幹部マリオ・モレッティと激しく対立することになります。

ここで『赤い旅団』に迷いが生まれ、団結に揺るぎが出ていますが、そもそも『キリスト教民主党』がこれほど強固に交渉を拒むとは思っておらず、脅しをかけ続ければ、武装政治勢力、つまり『武装政党』としての『赤い旅団』を、国が認めざるを得なくなると考えていたのでしょう。スパイと捉えられることが多いモレッティにしても、この展開には強い焦りを見せています。

こうして、罠にかかった『旅団』が不調和を起こすうちに、事態はいよいよ差し迫る状況になり、『キリスト教民主党』を政治的にも、人間的にも「決して許すことができない」モーロは、この時はじめて、「権力」が何であるかを理解した、とレオナルド・シャーシャは考えています。

「モーロは『キリスト教民主党』に忠実だった。一方、われわれはパソリーニが『謎めいた関係』と呼んだものを理解することを試してみようと思う。モーロはそれを理解できていなかったが、権力の座を追われ、権力の魔性を認めることで、神を前にして(すべてを)理解したのだ。しかし彼は、イタリア共和国の市民の前では、それを理解できてはいなかった」

つまりモーロは、「死」に対峙したひとりの人間、一市民となって、「権力」の無慈悲、無情を真に実感した、ということですが、『Todo Modo』の原作者であるシャーシャにとっては、戦後のイタリアを、(パソリーニが言うところの)「消費主義」という新しいファシズムで統治した『キリスト教民主党』とそのリーダー、アルド・モーロは敵対すべき存在でしたし、それはまた、産業化が急ピッチで進み、貧富の差が開き続けたイタリアの戦後においては、ある意味、当然の評価であったかもしれません。

しかし権力の座から引きずり下ろされ、一市民となったモーロは、救済されなければならないのです。

他方、『旅団』の動きはといえば、モルッチ、ファランダに『死刑』執行を反対されたモレッティは4月29日、「獄中にいる13人のメンバーとモーロの交換」を提案する8番目の表明をメッサッジェーロ紙に送り、翌日の4月30日には差し迫った様子で、モーロの家に電話をかけています。

モレッティは電話を受けたエレオノーラ夫人を、モーロの娘と間違えるほど焦っており、「できることはすべてやっている」と言う夫人に、「これは重大なことなんだ。われわれも軽く考えていない。あなたたちはもっと『キリスト教民主党』に働きかけるべきだ。これは政治の問題なんだ。『キリスト教民主党』が介入しなければならない。ザッカニーニなら、この状況を変化させることができるんだ」と、長話をすれば逆探知されるにもかかわらず、矢継ぎ早に3分近くも話しています。そして「この事態を何とかするために『キリスト教民主党』に働きかけることができるのは、家族しかいないんだ」と、懇願している。

このときのモレッティは、自分たちが優位だったはずの状況が、明らかにその手から離れていく焦りから、エレオノーラ夫人に「このままだと『死刑』以外になすすべはない」「何とかしてほしい」「こんなはずじゃなかった」とでもいうような、ナーバスな口調に終始し、エレオノーラ夫人の方が、冷静に、毅然と答えているという印象すら受けます。

エレオノーラ夫人へのこの電話の報告を受けた後、ザッカニーニは『キリスト教民主党』の幹部を集め、再び会議を開いていますが、まるでダメ押しとも言わんばかりに『断固とした拒絶』の姿勢が、揺らぐことはありませんでした。

のち、『イタリア社会党』副党首クラウディオ・シニュリーレは、「どんなことが起こっても『キリスト教民主党』はまったく態度を変えようとしなかった。81年に、国家安全保障を司るあらゆる機関、諜報局に『秘密結社ロッジャP2』のメンバーが巣食っているのが暴かれたが、同時に、この政治ロビーは、共産主義のあらゆる動きに反対していることをも表明した。つまり、モーロこそが彼らの最大の敵だったということを、このときはじめて理解することになったのだ」と語っています。

▶︎パレスティーナ

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