『アートはそもそもフェミニンである』アート界の常識を覆す未来へと向かうローマの女性たち: FEMME

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「アートは政治である」

▶︎FEMMEのリサーチは、これからも続けていくのか。そうであれば、どのように発展させようと考えているのか。

アンナ・マリア:もちろんわたしたちのリサーチはまだまだ続いていく。とても労力がいることだけれど、続けていかなければならないし、終わることのないリサーチだから。そして続けていくことを熱望してもいる。それに今回出版した本は、多くのアーティストや学者たちが関わった大作だから、ぜひたくさんの人々に読んでいただきたいとも思っているわ。

しかしアートとフェミニン、という分野は、さっきみたいにプラトンをテーマにするだけで、次から次にさまざまな問題が浮かび上がってきて、簡単にひっくり返す、覆す、というわけにはいかないの。女性を巡るアートの世界に携わる人々に対比するなら、わたしたちのリサーチに関わっている女性アーティストもまだまだ少数。もちろん基金も、支援も必要だし。

ヴェロニカ:正直にいうと、どんな風に発展させていくか、まだよく目標が見えていない状態かもしれない。でも、たった1回のエキジビションで終わるようなリサーチにはしたくない。わたしたちは、イデオロギーを主張しながら政治活動をしたいわけではなく、言葉で論理的に説明できる、リサーチ/フィールドワークをしていきたいわけだから、これをどのように発展させていけるか、もう少し理解したいと思っているところ。でも『アートとフェミニズム』というカテゴリーには属さない、まったくポピュラーではないアプローチでもあるから、容易ではないわ。

たとえば米国では、アートとフェミニズムをうまく融合することに成功し、イタリアとはまったく違う形で発展しているんだけれど、イタリアのフェミニズム・ムーブメントではアートと政治闘争は、完全に分離してしまっているから。わたしはあくまでもアーティストで、アートを諦めるわけにはゆかず、だからアートの世界に身を置きながらアートで政治に関わっていく、という考えを持っているわけ。

それに、わたしにとっては、アートそのものが政治であり、独立した政治行動でもある。さらに言えば、想像力もまた、政治だと考えている。たとえば何の想像力も働かせず、社会を見たままの現実で捉えて、なんて悲しく、醜く、気味の悪い現実なんだろう、としか思えないのなら、それは死んでいるのと同じことよね。将来に何の希望もないなんて。

想像力は、政治の基盤を構成する要素。今、われわれが身を置く現状とは違うリアリティを想像することが政治。わたしはアートは政治である、と納得しているから、政治闘争のためにアートを捨てる必要はなく、自由に作品を作れば作るほど、政治に関わることだと思っている。イデオロギーに囚われることなくね。

アンナマリア:パラドックスだけれど、アーティストが自由であればあるほど、多くの人に受け入れられ、歓迎される傾向にあるわ。イデオロギーになんらかの形で奉仕するアートは、今日、さまざまな問題を引き起こしているし、何のインパクトも与えない。もちろんわたしは『政治』を、イデオロギーとか、党派とかを意味する言葉として使っているわけではなく、ある特定の社会的ヴィジョンという意味で使っているんだけれど。

アートは政治であり、人間としてのヴィジョンであり、アプローチであり、横暴な独裁主義が生む、避けることのできない戦争、競争に明け暮れる輩の非道に溢れる社会を、リアルに解放する可能性を持っている。誰もが新しいヴィジョンを持つ可能性を秘めているし、われわれは既存の社会ヴィジョンに囚われることなく、そこから解放されなくてはいけないでしょう?

「歴史からパージされる女性アーティストたち」

▶︎FEMMEのリサーチで、ハッとしたのは女性アーティストたちは、社会状況がどんなに厳しくとも、時代時代に存在し、仕事場を見つけ、多数の作品を残したにも関わらず、その存在は歴史から、まるでFemminicidio(女性殺人ー西洋社会で大きな社会問題となっている配偶者や恋人による女性殺人)のように消される()ということだった。近年では、女性アーティストたちに注目が集まり、存在にも関心が高まっているようだが。

アンナ・マリア・パンツェーラは、ARTE [EVENTUALMENTE] FEMMINILEのプレゼンテーションで、1976年に出版されたシモーナ・ウェーラーの『Il compresso di Michelangelo (ミケランジェロ・コンプレックス)』を引用し、ウェーラーは男性アーティストに対する女性アーティストのコンプレックスを表現したのではなく、アート界に存在するコンプレックスについて述べたことを強調。つまり西洋文化には、何世紀にも渡って。ステレオタイプの『天才』アーティストを見出して、注目が集中する傾向があり、その『天才』は、いつの時代もマスキュリンなアーキタイプを持つアーティストが選ばれてきたことを指摘。

ヴェロニカ:そうね。女性アーティストは確かに増えていると思うわ。でもアート市場を見ると、女性アーティストの作品の価格は、相変わらず非常に低く、女性アーティストのオークションも存在しない。こんな状況では、現代の女性アーティストたちも、やがて消えていく運命にあるのではないか、と危惧もする。

Femminicidio(女性殺人)は、リアルな身体攻撃だけれど、女性アーティストへは、賞賛を贈ってもくれるし、ビエンナーレやトリエンナーレなどの国際アート・フェスティバルに招待してもくれるけれど、作品は買ってくれない。美術館が作品を買ってくれたり、オークションにかけられなければ、市場はアーティストをサポートしないのよ。すでにこの時点で、女性アーティストたちは消えてしまう、ということが理解できるんじゃないかしら。

アンナ・マリア:生き残るためには、今、取り組んでいることを中止することなく、またリサーチを続けながらレジスタンスしていくしか道はないわね。女性アーティストが歴史から消えていくのはおかしい、と思われることなく、周知の事実として、まったく普通のことだと認識されることは大問題であるし、確かに絶望的な想いを抱く。ときどき発表されるアートを巡る女性アーティストの統計を見て、「どうしてこんなことが起こっているの?まったく理解できない」と、人々に気づかせ、動転させるのよ。だからその統計は、長きに渡って染みついたステレオタイプを再評価することに貢献し、それを助けることになるの。

実際、いまだに発掘しなければならない女性アーティストたちが多く存在する。時代時代に、多くの女性アーティストの手による作品が残されているから、そのアイデンティティを発掘しなければならない。彼女は誰だったのか。何を描いたのか。どこで仕事をしていたのか。彼女たちの抵抗の背景には何があったのか。

ヴェロニカ:確かにイタリアのルネッサンス紀に多くの作品を残した何人かの女性アーティストの名前は挙がるけれど、それもごく少数でしかない。たとえばソフォニスバ・アングイッソーラ。彼女は『女レオナルド』と異名をとるほど偉大なアーティストで、現代の美術界にまで大きな影響を残し、当時も非常に有名で大きな賞賛を受けていた。それほど重要なアーティストなのに、現代で彼女の存在を知る人が、とても少ないのは異常なことだわ。

 

ソフォニスバ・アングイッソーラ、セルフポートレート(1556ー1565)

 

アンナ・マリア:さらに例をあげるなら、サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会には、有名なカラヴァッジョの作品を配したコンタレッリの礼拝堂とともに、女性建築家によって実現された非常に美しい礼拝堂があって、しかしこの礼拝堂については誰ひとり、何も語らない。最近になってようやく彼女についての本が出版されたのだけれど、いったい何世紀の間、彼女の存在が消されたままになっていたか、気が遠くなるわよね。時間が経てば経つほど、資料が失われていくわけだから、その足跡をたどることが難しくなってしまうのよ。

ヴェロニカ:女性アーティストの作品が、時代の共有財産になることはなく、何世代にも渡って消されていた女性アーティストたちが、今になってその存在が発見されるということは、そもそもアートと女性を結びつける考えがなかったからだと思うの。アートと女性は、離れた次元に住み、アートは常に男性とだけ結びついている。女性が消失してしまうことは、そういうことでしょう? ということは女性はアートにおいて、まったく価値がないと言っているのと同じことよね。わたしたちは、男性アーティストも含め、アーティストはとてもフェミニンな存在だと定義しているというのに。

アンナ・マリア:ピカソは明確にそう言ってるわね。作品を創作するときは自分が妊娠しているようだ、と言っている。彼はそれを自覚しているアーティストだったわ。

ヴェロニカ:これはあくまでわたしの意見なんだけれど、男性アーティストが女性像を描く場合、それは多分自画像の次元で創作するのではないか、と思っている。つまり女性像に自分自身、そして自らのフェミニンさを投影していると考えるの。レオナルドにしても、ラファエッロにしても、女性像は彼らの絶対的な代表作になっていて、彼らの女性との一体化が、ユニヴァーサルな傑作になっていることは、美術史が認識していることでもあるわ。わたしは、それは彼らが自分自身の深層にあるフェミニンさを、女性像として表現しているからだと思う。

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