『アートはそもそもフェミニンである』アート界の常識を覆す未来へと向かうローマの女性たち: FEMME

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「アートはそもそもフェミニンである」

▶︎なぜ、アートを巡る女性に関するリサーチの、すべての文脈で、フェミニン (il femminile)という形容詞に冠詞をつけて、名詞として使ったのか。単純にIl genere femminile (女性というジェンダー)を省略しただけなのか。それともその選択は何か他の意味を持つのか。

ヴェロニカ:まず、Femminile( フェミニン、女性的な)という形容詞を使ったのは、それが女性にだけ使われるとは限らないから。形容詞であれば、ぼかしながら曖昧に使うことができる。どうしてフェミニズム、という言葉を使わなかったのか、とはっきり言われたこともあるけれど、それには明確な理由があるということは、さっきも言ったでしょう? イタリアでは70年代の急進的なフェミニズム・ムーブメントのせいで、アートとフェミズムの関係はとてもデリケートなの。それに特に女性に限った議論ではないことをも明確にしたかった。

形容詞であれば、男性にも冠することができるわけだし、観念のひとつとして、振る舞いや考えにも使うことができる。また、フェミニンは実存的次元にあり、アートとは何かを考えることにおいて、決して挑発ではなく、真の理解のために必要不可欠な要素だと考えているから。

そしてフェミニンという形容詞こそが、わたしにとっては想像力という、フェミニンなルーツを背景に持つイメージ(作品)のコンセプトだとも考えている。アートのは、創作に行き着くまでのアイデア、そして完成させるまでのプロセス。その、あらゆるすべてのプロセスそのものが、フェミニン/女性的だと言えるわ。生物学的な女性の身体的特徴(受胎から出産)と、創作のためのアイデアがイメージとして変容するプロセスは、いずれも絶対的にフェミニンなアクティビティ。

想像力を連鎖させ、アイデアを構築していき、その構築されたアイデアを受け入れることで受胎。他のあらゆる要素と関係しながら増殖を繰り返し、最終的にはイメージとして生まれる。イメージに到達するまでの増殖の、その発展過程がフェミニンであり、アイデアはやがて形となって誕生し、世界、つまり現実とリアルな関係性を結ぶようになる。

アンナ・マリア:わたしもフェミニンという形容詞は、強くアートに結びついていると思っているわ。ただ、目に見えるイメージだけではなく、もっとぼんやりして、曖昧なものだとは思っているけれど。さらに違うエレメント、例えば受容性であるとか、行動するキャパシティとか、レジスタンス、そして感受性。また、『個』ではあるけれど個人主義ではない、フェミニンな有り様。個人主義というものは、非常に西洋的なものだからね。ところで日本といえば、アマテラスが神々の中心にあるという宗教観があるから、社会そのものがフェミニンではないのかしら? (ここでわたしは、わたしなりの現在の日本社会の女性観を彼女たちに述べました)

 

MACLO ASILOでのARTE[EVENTUALMENTE]FEMMINILEのプレゼンテーション、左からアンア・マリア・パンツェーラ、美術史学者ラファエッラ・ペルナ、ヴェロニカ・モンタニーノ

▶︎「アートはそもそもフェミニンである」という定義に、全面的に賛成している。別のアプローチになるが、この定義からふと考えたのが、カール・グスタフ・ユングの『元型論』であり、またアニマ・アニムスの理論だった。ユングもアートとアニマー女性性と強く結びつけているが、アプローチとしてはまったく関係ないのか?

ヴェロニカ:まったく関係ないわね。今言ったように、「アートはそもそもフェミニンである」という定義は、世界との関係性におけるアクションであり、リアルな力学(dinamica)から発展した定義なの。アートはスピリチュアルというか、精神論ではない、とわたしたちは考えているわけ。そのような抽象的なものではないプラトンが言う「イデア」というものをわたしたちは否定しているのよ。プラトンを全否定しているわけではないけれど、アートに関しては、プラトン的な考えにはまったく賛成していないから。抽象的で、形而上学的なアイデア、何もない『無』の状態からアートが生まれるわけではない。

創作の発展におけるそもそもの導火線となるのは、リアルな世界との出会いであり、創作に至るまでのアイデア、あるいは創作のプロセスにおいて、あらゆる多様なアイデアと関係を結び、増殖させ、その連続が作品を生む。身体、経験、記憶、力関係、変容、リアリティ、マテリアルと精神。その連鎖のプロセスが、フェミニンだと言っているの。もちろん作品の完成は、アーティストの想像力と、発展のプロセスにおける力学(dinamica)すべての最終地点。マテリアルを認識し、それを使って創作する。だから作品の創作というものは、とてもリアルで具体的な作業よ。

アンナ・マリア:付け加えるなら、ユングの『元型論』の構築は、プラトンの『イデア論』とそう違いはないのよ。プラトンは、わたしたちにとって批判の対象である哲学者であり、彼のアートへのアプローチやヴィジョンもまた批判の対象としている。アニマ・アニムスという概念は、わたしたちの無意識のリアリティとして、ひとりの人間に男性性・女性性があるという理論だけれど、やはりこの考え方は、現実の社会生活にジェンダーでヒエラルキーを作る考え方でもある。一方、わたしたちはジェンダーにおけるヒエラルキーをまったく認めてないから。

ヴェロニカアドリアーナ・カヴァレーロ(*)が言っていたのだけれど、プラトンを父祖とする哲学が現代の西洋哲学の基盤にあることは間違いなく、その彼がアートというものをまったく認めなかったどころか、異物と見なし、イメージ(作品)に価値を認めなかったことが先入観となって、その後のアートの世界に大きな影を落とすことになった。また、女性については不安定な存在だと断じ、ミソジニーの原点ともなってもいるわ。

アンナ・マリア:プラトンはフェミニンなことを、理解しなかったわけでもないのだけれど、女性を『不合理』という次元に置いている。要するに、彼は女性に恐れを抱き、不合理と断じたわけだけれど、もしその女性が男らしく振る舞い、合理的であれば受け入れているのよ。哲学的な議論においては、不合理な事象は排除しなければならない、不合理は危険である、と見なしている。

つまり、女性たち、アーティストたちは社会秩序に問題を起こす厄介な存在であるため、遠ざけるべきである、そうはっきり言っている。女性やアーティストは、管理されなければならない存在だというわけ。それはアドリアーナ・カヴァレーロやマッシモ・カッチャーリ(哲学者)がはっきり言っていることよ。

つまり西洋社会の問題の原点はそこにあり、現代まで続いているということ。わたしたちが勝手にそう解釈しているのではなく、現実としてそうなの。哲学者たちもまた、その事実を明確にしているから。もちろん、プラトンを批判する思想というものは、まだ広まっていないし、ほとんど議論もされていないけれど、少しづつは表面に現れていると思っている。著名な現代哲学者たちで、いまだに影響力を持っているサルトル、ハイデガー、デリダなどの哲学者のうち何人かは、ある意味で、プラトンを批判しようと試みているけれど、結果的には複雑な葛藤を抱える哲学世界に飲み込まれてしまった。

ヴェロニカ:まだしっかりとは深めてないのだけれど、ジャック・ランシエールが、よく構築された理論でプラトンを批判しはじめているわね。アンチ・プラトンというわけではないけれど、どこに問題があるのか、理解を深めている。アートと政治、美学と政治の問題は、明らかにプラトンからはじまった議論だし、彼がこの理論を継続していけるのかどうか、追っていく必要があると思っているところよ。

*アドリアーナ・カヴァレーロは、ヴェローナ大学の政治哲学教授。N.Y大学でも教鞭をとるイタリアの哲学者。MACRO ASILOのレクチャー「La filosofia e le sue inquietudine (哲学と気がかりなこと)」 では、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」という有名な言葉を引用し、西洋哲学はすべてプラトンを基盤にし、あらゆる哲学が、細部にコメントはしても、結局プラトンから離れることができなかった事実を指摘。

悲劇、ホメロス、詩という、エピカ(叙事詩)が支配する古代ギリシャ世界を、プラトンは科学的に、あらゆる分野に共有できる普遍の哲学を作ろうとしたと同時にLinguaggio(表現方法)そのものを熟考することで大きく変化させた。アートは古代ギリシャ語では「テクネー(技術)」だが、プラトンは同じテクネーであっても、パン職人や木工職人、たとえばパンのイデアからパンを、机のイデアから机を実現する、市民の役にたつテクネーとしたが、アートには敵意を持ち、幻想、幽霊、影だと見なしている。

つまり彫刻などの作品は、イデアではなく、現実世界のコピーでしかなく、したがって「イデア」のコピー(現実世界)のコピー(アート)だと考え、市民にひどい幻想を抱かせるために作られると考えた。さらにカヴァレーロは、2300年も昔、当時の世の中をアカデミアで哲学を学んだエリートたちで政治を管理し、哲学を知らないデマゴーグに扇動されるポピュリズムを衆愚としていることをも指摘。現代の西側諸国の政治にプラトン思想が、いまだに影響を与えていることを暗示した。

 

モンタニーノとミケーラ・パスクアーレによる、CIRCUS NATURAEを巡って『プロジェクトすることと揺れること』のワークショップが開かれた5月4日、アンナ・マリア・パンツェーラによるトーク、『北斗七星が吊る座席』が同時に開催された。「トランスフォーメーションとは、変容。通過し、別の次元へ到達すると言うことは素晴らしく、われわれは変容することがなければ、生き延びることはできない。はじまりとその後、過去と未来、この場所、今、そして何処へ。しかし移動の出発点は、描写するにはあまりにも曖昧だ。その大地は揺れ動き、アーキトレープ(梁部)、ロープに不確実に支えられることが大切なのだ: そしてそれがブランコである」をテーマに、時代時代に創作されたブランコのモチーフを紹介しながら、ブランコ(シーソー)にシンボライズされるコンセプトを考察した。

▶︎「アートは政治である」、「歴史からパージされる女性アーティストたち」は次のページで。

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