生命を踊る Maddalena Gana

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はにかむような柔和な微笑みからはまったく想像できない、時にハッと観客に固唾を呑ませるほど、ほとばしる官能。『舞踏』ダンサー、マッダレーナ・ガーナにローマのアンダーグラウンド文化の現状を語っていただきました。

マグダラのマリア、『マッダレーナ』という名を持つ彼女は、熟練したヨガのマスターで、ダンサーである彼女のヨガの、そのひとつひとつのフォームが、思わず見とれて稽古にならないほど精密で、洗練されていることに定評があります。ヨガにおいてもきわめて美的な動き、アクロバティックに躍動する筋肉のラインとプロポーションに魅了され、思わずレッスンを忘れて「見惚れてしまった」という声を、彼女の生徒からも多く耳にします。

「ヨガも素晴らしいけれど、彼女、かなりいいダンスを踊るよ。一度観てみるといい。日本人の『舞踏』のマスターからも指導を受けて、もう随分長い間踊っている。君、『舞踏』好きだっただろう? イタリア的なセンスも兼ね備えているから、面白いんじゃないかい」

彼女を昔から知っている現代音楽家の友人がそんなことを言っていて、彼女が「舞踏」ダンサーとして、ローマのアンダーグラウンドシーンで名を馳せていることは知っていました。しかし日本で『大御所』と言われる舞踏家のダンスを何度も観ているわたしは、正直なところあまり鑑賞に乗り気でもなく、「日本の60年代世界貢献しているんだな」ぐらいにしか、考えてはいなかったのです。

ところがAngelo mai altrove occupatoではじめて彼女のソロのダンスを観たときは、じわりと迫るその濃密な空気感、たちのぼる熱量に驚くことになります。ちいさく、華奢な彼女の周囲にエネルギーの渦が生まれ、観客は静かな動きからにじみだすその官能に、あっという間に引きずり込まれます。

ダンスを観る、ということはその技術、演出に驚いたり、楽しんだりすることもさることながら、「ダンサーの肉体から湧き出る『生命』の息吹に共振、ともに体験することだ」と、日頃のわたしは考えています。特に内へ奥へ底へと向かう『舞踏』は、外へ、上へと向かう、西洋的な華やかなダンスと違い、ライブで見ないと、その臨場感は伝わりません。

さて、インタビューに応じてくれた彼女は、飾り気なく、ときどきはにかみながら、ひとつひとつ言葉を選んで誠実に話してくれました。さらにローマのアンダーグラウンド文化のシーンで長い期間活動してきた彼女が語ってくれた話から、若い世代のアーティストが日々不満を募らせる、文化的危機の輪郭と、その理由が、おぼろげながら掴めてくることにもなりました。

 

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Maddalena Gana とGiordano Giorgio(マッダレーナ・ガーナとジョルダーノ・ジョルジョ)

 

『舞踏』のダンサーとなった経緯を教えてください。

ちいさい頃からクラシックバレエを習っていたんだけれど、ある年齢になると、そのまま本気でバレエを続けていくか、それとも他の道を歩むか決めなくてはいけないでしょう? プロのバレリーナになるためには、それなりに特別な、しかも厳しい訓練が必要だし、容易なことではないから。でもそのころのわたしは、それほどバレエそのものに大きな関心はなく、訓練のために自分に多大なストレスを課す、という気にはどうしてもなれなかったの。やめたのは13歳か、14歳のころかしら。ちょうど思春期で自分の身体が大きく変化する年頃、その『現実』をどう受け止めていいか分からなかった。学校の勉強もしなければならなかったしね。

17、18歳のころは、自分自身の身体をもてあます、という感覚に悩まされた。自分と身体の折り合いがつかない、という奇妙な気分が続いて、あまり幸せな気分にはなれなかったかもしれない。ちょうどそのころのことだけれど、親友の叔母さんがヨガのレッスンをしている、という話を知って、その子と一緒に通いはじめたのが、ヨガを勉強することになったきっかけ。それが現在まで続いているわけだけれど、ヨガ自分自身身体の自然を「知る」、「感じる」ための基本になっているかもしれないわね。

ダンスとの出会いは1998年、20歳のころだったかしら。そのころのわたしは、いよいよ自分のなかで何かがもやもや蠢いているのが明確になって、とても居心地が悪い気分を味わっていたの。それが嵩じて一種の『危機』的な心理状態に陥ってもいたぐらい。父が哲学畑の出版社、母は心理学者。非常に知的な環境で、子供のときから彼らの文化的な教養の影響を受けていたから、迷わずLiceo Classica(リチェオ・クラシカーイタリアで最も伝統的な形式を持つ人文主義高校で、歴史と哲学を中心にラテン語、ギリシャ語を学ぶ)を選んで、そのあとの大学では『文学史』を専攻した。だから頭のなかには常に知的情報があふれていたんだけれど、それなのに大きな何かが欠けていると感じ続けていた。毎日直面する『現実』というものを、それまで学んできた情報を駆使して解読し、理解しようとしても、それだけじゃまったく足りなかったの。わたしが知りたいと思っていることの『核』に、どうしてもたどりつけない。何かが阻んでいる。

もちろん、表面的というか、「機能」、「理論」という意味ではすべて理解ができるのよ。こうすればこうなる。そしてこれはこう機能する。その事実はすべて推論できるし、理解もできるんだけれど、それじゃ何ひとつ問題を解決することができない。それにわたしの人生は、ある意味、環境的に、ひとつの方向へ向かって進んでいけるように階段ができあがってもいて、その事実も不安だった。つまりそのまま大学を卒業して、何らかの知的職業につくか、あるいは大学の研究室に残るか。でも本当にそれでいいのだろうか。それがわたしにとって最も正しい道なのだろうか、思い悩んだ日が続いた。

そのときのわたしには、自分がいったい何をしたくて、何を感じているのかさえ、まったく見えていなかった、と今となっては思うわ。『向こう側』のことを理論に沿って話しているけど、いったいわれわれは何について話しているのだろうか。「現実」っていったい何なのだろうか。そんなことを考えていたら、自分自身が完全にブロックされて、何もできなくなってしまったの。すべての行動に「動機」を失ってしまった。

いつもたくさん友達がいて、たくさん恋人もいたから(!)、世界から孤立していたわけでもないのだけれど、いったい何のためにいま続けている勉強をしなければならないのか、まったく納得できない。わたしに必要なのは勉強して理解できることではなく、それ以前の『本質的』な何かだ、としては何となく、そう感じていたけれど、あまりに漠然としていた。でもそれこそがわたしに足りないものだ、という事実は明らかに分かっていたから、ただ、ただ、もがいてもいたの。

いろいろな文化を学ぶことは、もちろん大切だけれど、先人が発見したり、熟考して結論づけたり、発明したことを学ぶことは、実際の体験とはまったく違うでしょう? わたしには、この『直接的な体験』こそが足りなかった。そこで本能的に閃いたのが身体的アプローチ。『肉体』。そう、この実感足りないと思ったの。

そう感じたときに偶然見つけたダンスレッスンのコースに通いはじめたことが、結果的にはその後の人生の、すべてのスタート地点になったと言えるわ。レッスンをはじめたカンパニーの手法は、身体の構造を学びながら、それを表現に変えていく、という指導法だったから実験的な動きが多くて、はじめは自分がそこでいったい何をしているのか、さっぱり分からなくてね。レッスンがワンターム終わったあとも「何をしているのか分からない。どうしよう。やめようかな」とも考えた。

そんなときにレッスンをオーガナイズしていたマスターから電話があったの。「君はレッスンを続けなければならないよ。やめちゃいけない。君は気づいていないかもしれけれど、ダンサー不可欠な『何か』、を持っているんだから。3回のレッスンを無料にするから来てみなさい。そのレッスンが終わってから、続けるか、やめるか決めるといい」今思うなら、レッスンに継続的に月謝を払ってくれる生徒が、必要なだけだったのかもしれないけれどね(肩をすくめ微笑)。

「じゃあ、続けようかな」と軽い気持ちで、再びレッスンに通うことになったの。当時、その先生は『マイム』の踊り手で、と同時に日本の『舞踏』も勉強していた。今現在は、フランスに住むMASAKI IWANAという『舞踏』アーティストとコラボレーションで、『舞踏』の要素を含めたダンスのレッスンのコースも開講しているわ。

それから1年が経った1999年、エラスムス奨学金でパリ1年留学することになったんだけど、その機会にマスターであるMASAKI IWANAに直接『舞踏』の指導を受けることができたの。彼はノルマンディに住んでいて、1ヶ月に1度、パリでセミナーを開いていたから、そのレッスンに通って、さらにノルマンディにまで直接行ったこともあった。そのレッスンがあまりに面白くて、「舞踏」の世界にのめり込むことになったわ。

その『舞踏』との出会いがわたし自身を『解放』したとも言えると思う。もともとアーティストになろうと思って『舞踏』をはじめたわけじゃなく、自分自身の必要性から、そうせざるを得なかったってことなんだけれど。今だって自分を『アーティスト』と定義しようとは思わないし、そんな理想はないのよ。いつも戻るのは、一番最初のアプローチ「生きるっていうことはいったいどういうことなのか」という問い。もちろんヨガもそうなのだけれど、生きている肉体」を探求すること、わたしたちそのものである「生命」を探求することが、ダンス、「舞踏」ということなの。

「肉体」「精神」「魂(Anima)」、どう定義していいかわからないけれど、とにかく生きている身体」を意識すること、生命の『実存』がどのような表現になるか、その探求はわたしが『生き抜く』ため、つまり、現実の表層のもっと奥深く、「生命とはいったい何なのか」「人生とは何なのか」その神秘に触れること。わたし自身をーそれはパーソナリティではなく「実存」という意味でー確認するための行為なの。自分の深い部分でほとばしる、生命の源泉に触れたい。そのためにわたしにはダンスが必要。頭で考えることだけでは、体験は限定されるでしょう? 芸術性というものは、そのあとに少しづつ生まれてくるものでね。肉体を探求すればするほど、イメージが浮かび上がって、さらに舞台と観客、ライト、それらすべてが「表現」というものを醸造させていくのだと思う。

Angelo Mai altrove occupato

Angelo Mai altrove occupato(アンジェロ・マーイ・オキュパートにて)

ローマにはMASAKI IWANAに師事する7人のダンサーがいて、ひとつのグループを形成していた。そのグループがフリオ・カミッロ劇場に誘ってくれたの。グループのメンバーの一人がフリオ・カミッロ劇場の女優だったから、週に一回それぞれが稽古するスペースを提供してくれてね。そのうち、劇場から「月に1回公演をしてほしい」とも要請された。そのときわたしは「こんな変なことを観客に観せるの?」(笑)と思ったんだけれど、それがアーティストとしての経験のはじまりよね。

それからはミュージシャンや演出家とコラボレーションで、集中的に活動しはじめて、わたしたちのグループーLiosーのメンバーは、それぞれがソリストだったから、個々でも活動しながら、それぞれの「表現」を探求していた。グループとして活動するために、わたしたちは1年に1回、フリオ・カミッロ劇場で”Trasformazioni(変容)“と名づけた「舞踏」のフェスティバルを企画、開催ーはじめは自分たちのダンスを観せるためだったんだけれどー、最終的には世界から「舞踏」ダンサーを招くインターナショナルフェスティバルにまで成長させたのよ。そして最後にグループみんなで大仕事をした。その仕事は長い間、温めていたプロジェクトで、世界的に有名な日本の舞踏家、AKIRA KASAIが振り付け、日本文化会館サポートを得て実現したもの。ローマだけではなく、パレルモまで遠征もした。そのあと、わたしたちのグループのメンバー二人が国外に行ってしまって、わたしも結婚して出産したり、と結局解散することになったんだけれどね。

そういうわけで、「生命」の探求という動機は、少しづつ芸術性を目標とする、という動きに変遷を遂げ、でも結局はまたはじめの動機へと戻ってくる。つまり「肉体」の探求。たとえばヨガを続けていくことも「存在」の自然を探求するための一要素。そして探求をすればするほど、わたしの「情熱」は掻き立てられるの。

現在のローマのアンダーグラウンド文化シーンについて、どう考えますか?

(大きくため息をつきながら)2008年から、ローマの状況は大きく変化してしまった。わたしの観察したところによると、中道右派の市長が政権を獲得してから、金融危機が起こり、そのころ未だに居座っていたベルルスコーニ首相が、自分のメディアを駆使して流布した、まったく思慮のない文化」の有り様こそ、イタリアの「基準」と見なされる不幸な現象が、世界でブランド化されてしまった。それらすべてが一緒になって、ローマを悪い方向へ押し流したと思うわ。ローマのアンダーグラウンドシーン破壊された、と言ってもいいかもしれない。

2008年までは、とてもエネルギッシュシーンだったというのにね。市や州から、少しではあったけれども予算が出て、スペースもたくさんあったし(『占拠』スペースも含めて)、自主開催のアンダーグラウンドカルチャーフェスティバルがたくさんあったのよ。ローマにおけるアンダーグラウンド文化は、長い時間をかけて行政に関心をもってもらうために働きかけをしてきた分野で、廃屋スペースの「文化的占拠」をも通じて、行政関心を惹き、さらにその管理能力で観衆を含める人々の信頼を勝ち取ってもきた。

それが突然、文化予算削減、あるいはまったく出なくなり、「占拠」スペースを含めるあらゆるシーンが閉鎖されはじめることになったの。行政はアンダーグラウンドシーンを、ローマの街から閉め出そう、破壊しようとしているかのようだったわ。だから大半のアーティストたちは活路を求めて海外、パリ、フランス、スペインへと移住して行った。あるいはサバイバルするために、他の仕事につくことを余儀なくされた人たちもいる。ローマのそれは他のヨーロッパの都市のアンダーグラウンド文化シーンよりは、規模は多少ちいさかったかもしれないけれど、批評家たちも、新聞も、そのシーンのエネルギー、ヴァイタリティを高く評価していたし、実際そのシーンから多くのアーティストが輩出されてもいるのよ。その厚みのあるシーンが、たったの数年で、いとも簡単に破壊された。

いまやローマの文化は少しづつ砂漠化しようとしているように思える。中道右派の市長が「文化」と定義していたものは、ひどく趣味の悪い、世俗的なもので、それらをデモンストレーションするイベントには気前よく予算を出していた。そのせいだけではないけれど、長い間のあらゆる浪費とずさんな会計の結果、前市長が退いたときには、ローマ市にはまったくお金がなくなってしまっていた。でもその後、中道左派の市長に変わっても相変わらず『占拠』は閉鎖され続けるているし、もはや破壊される文化もないくらい。ひどい状態

アンダーグラウンドシーンは『鉛の時代』、70年代からたくさんの人々が長い時間をかけて作り上げ、そのために寸暇を惜しんで動いてきた世界なの。もちろん「占拠」スペースは違法であるし、行政が表向きは認可できないこともよく理解している。でも、スペースを閉鎖して、占拠者たちを追い出すだけじゃ、何も生まれないじゃない。そこでひとつの文化が閉ざされてしまう。「占拠」閉鎖の動きは、警察であるとか、国家であるとか、他の流れから来ているものだと思うけれど、今の中道左派の市長には、その動きを阻止、政治圧力をかけて文化を守ることができるはずだ、とわたしは思うわ。『占拠』スペースが違法で、どうしてもだめであるのなら、他のスペースをアーティストたちに提供してくれてもいい。ローマ市には、維持する能力がなくて、使われずに遊んでいる場所がたくさんあるのよ。

だからローマの状況に対する、今のわたしの気持は、とても荒れたもの。だってわたしが過ごしたローマでの一時期は、みなが生き生きとして、いつも何か新しい動き、作品が生まれていた。わたしたちの課題は、この状態からどのように未来を作っていけるか、ということをしっかり考えることだと強く思ってもいる。少し希望が持てるのは、このところ、周囲に新しい動きが生まれ始めていることね。破壊された瞬間は、みんな何が起こっているのかわからず、呆然としただけだったけれど、これではだめ、新しい未来をイメージしなければならない、という気運が巻き起こりはじめている。自分の「表現」を続けていきたい。働いていきたい、アーティストたちはみなそう願っているのだから。

なかにはやっぱり外国へ旅立とうとしているアーティストもいるけれど、わたしは今のところはローマに残るつもりにしている。だってローマは時間の層に覆われた、こんなに美しい街で、常にわたしを触発してくれる街だもの。3歳の息子を幼稚園に送っていく毎日の道のりで、いまだに街の美しさにIncantata(幻惑させられる)ことがたびたびあるの。ローマはそのエネルギー美しさで、わたしを捕えて離さないことは、紛れもない事実なのよ。

いずれにしても喫緊の課題は、わたしたちがいま置かれた状況でどう動くか、自分たちの手で切り開かなければならないということ。新しい現実を創っていかなければならない。経済危機のせいで、確かに誰もが、生き抜くことが精一杯で、明日のことも心配、なかなか文化のことが考えられないのは事実だし、危機は現実に存在しているけれど。でも、じゃあ、どうする? 何かしなければローマの文化は死んでしまうでしょう?

わたしたちは新しい動きを考え出さなければならない。さらには、その動きに行政が答えてくれるように、話し合いをする機会を作りたいとも思っている。ミクロから動かなければマクロを動かすことができないから、ひとりひとりの市民、アーティストが今出来ることをやっていかなければね。それは文化の分野だけでなく、社会保障の分野についても、同じだと思っているのだけれど。

わたしが住んでいる地域では、最近いくつものアソシエーションが集まって自主的に街を清掃したり(ローマはここ1、2年でゴミの街のようになった)、ゴミを分別したり、街角を修復する動きも起こっているのよ。その市民の熱意が、市政の関心を惹いて、市政を動かすことができれば、破壊されたローマも、きっともっといい方向へ動いていくと信じているわ。そして、必ず再び、文化にとって『よい時代』が訪れる。そのために、わたしたちは今、新しいプロジェクトを始めなければならないの。

※ライブで観ないとその空気感は伝わらないが、雰囲気だけでも、とライブの風景を。ローマ、リアルトにて。

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