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ピニェートから音楽革命 Fanfulla

Cinema Cultura Deep Roma Intervista Musica

前々から、インタビューしたいと思っていたManuにようやくじっくりと話を聞くチャンスに恵まれました。十数年前までは、散歩するのがためらわれるほど、殺伐と荒れた空気が流れる、うらびれた地区だったピニェート。それがあれよあれよという間にローマの若者たちの間で「Fico(cool)!」と話題になる、音楽に溢れた街角になった。しかもピニェートのその動きからローマのインディ・シーンは激変。マヌーはその変貌の背後に、ひそやかに、しかしブリリアントに存在する人物です。

ピニェートは位置的にいうと、このところ、ストリートアートのライターをはじめ、若い世代のアーティストが続々と集まるようになったRoma Est(ローマ東部)の出発点にあたります。ピニェートの北と南に走るプレネスティーナ通りとカシリーナ通り、そのいずれの通りもひたすら進むと現れる、ローマ郊外の風景。貧困、移民問題、ドラッグ、売春、盗み、マフィアの跋扈と数々の問題を抱えた郊外には、しかしその、隠しきれない厳しいリアリティの凄みと、行き届かない管理の緩みから生まれる自由な空気が流れ、時代の変化に敏感なアーティスト、特にカウンターなアーティストたちの拠点となりつつある。

余談ですが、移民問題、犯罪と、最も過酷な問題を抱えているローマ郊外地区のひとつといわれる、Tor Bellamonaca(トル・ベッラモナカ)を舞台に撮られた、過激エンターテインメント映画「Lo chiamavano Jeeg Robot (J『皆はこう呼んだ、「鋼鉄ジーク」』)」(日本では5月にイタリア映画祭で公開)は、多少大げさに誇張されているとはいえ、「毒々しい笑い」という、ローマ・カウンターのひとつのGustoー趣味、美意識に貫かれているかもしれません。

ヴァイオレンスと不幸と絶望に彩られるリアリティ、ローマ郊外という小宇宙では、スーパーヒーローも笑いを醸す存在となる。また、この練り上げられたダークでチープなコメディのセンスが、Roma Est全域のカウンターな感性に通じ、ピニェートあたりからはじまり、郊外に行くほどに濃密に、一層こってりとカルトになっていく。何れにしても日本の人々が、ローマ郊外のリアリティを寓話化した、若い世代を中心に大好評を博すこの映画をどう観るか、非常に興味深いところです。

ともあれ、トレ・ピンニャッタラ、チェントチェッレ、トル・サピエンツァ、さらにはトル・ベッラモナカ、とローマの東に向かって、ひとつのカウンターカルチャー圏が形成されつつある現在、その起点となるピニェートの現在のカルチャー・スポットとしての勢いは、いったいどこから生まれてきたのか。その変遷を探るうち、バーニング・ポイントとして浮上するのが2006年、Via Fanfulla da Lodi(ファンフッラ・ダ・ローディ通り)にオープンしたFanfulla101(ファンフッラ)というクラブ。さらにはその運営の中枢をなす『マヌー』という人物と彼を巡るミュージシャン、アーティストたちのパワフルな存在感です。

かつてこのサイトでインタビューさせていただいたミュージシャン、Gun Kawamuraの口からもその名がでましたが、ローマの音楽シーンの話題になると、わたしの周囲の人々からも「マヌーという人物の影響力」という評判を、たびたび耳にしました。そしてそのマヌーこそが、ピニェート地区、いやローマの音楽シーンそのものを激変させることになった、いまや老舗クラブでもある『ファンフッラ』の運営を、設立当時から現在まで引っ張る人物。

 

名称未設定

Via Fanfulla da Lodi 5/a ファンフッラの外観とクラブの内部。

 

そもそもわたしがはじめてFanfullaを知ったのは、今からざっと9年ほど前、ひょんなことからローマ大学、サピエンツァの学生の卒論を手伝っていた頃でした。熟考は好ましからざること、という強い信念を持つその学生は、かなりライトなリサーチで、独創的に奇抜な論文を書き進めるため、ときどきは困り果てましたが、いたって性格のいい、なにより街の新しい動きに関してはきわめて敏感な青年だった。その彼が「ピニェートにファンフッラっていうクラブができて、めちゃくちゃ自由でかっこいいんだ。絶対行くべき」とさかんに言いはじめ、「そんなに言うなら、行ってみようか」と、彼が友達と一緒にFanfullaに提案した、ドキュメンタリー映画の上映を観に行ったのが、その新しいクラブを知るきっかけです。

ローマのクラブはたいてい、10時以降でないと開かないため、サマータイムであっても出かけるのは夜の帳が下りたころ。のたうつ大蛇のように頭上を走る高架の下、夜になっていよいよスピードを上げた車が無神経にガンガン行き交う、都市の孤独に荒んだプレネスティーナ通りから、路地を曲がりピニェート地区に入ると、シックな店があちらこちらに点在する現在からは考えられない真っ暗闇でした。人通りもほとんどなく、閑散とした街並みのしんとした静けさに、かえって胸騒ぎすら感じる不穏な空気が流れていた。

当時は『ピストルを突きつけられ身ぐるみ剥がされる、いや、殺人もときどき起こる物騒な地区』として誉れも高かったので、早足で歩いてたどりついたファンフッラの入り口の前、数人の若い子たちが立ち話をしているのを見つけて、ようやくホッとしたものです。なかに入ると、外の夜とは別世界、映画の上映前、アグレッシブに流れる音楽とざわめく人波のなかを動き回る若い子たち、何かが起こりそうな刺激的なフェスタのエネルギーが渦巻いていた。そしてその80平米ほどのちいさいスペースが、この10年間にローマのインディ音楽シーンに劇的な革命を起こし、ピニェートをセンターとした大きな人の流れを生み出すことになったのです。

 

Trans Upper Egypt  Trance/Afro beat/Idol 、最近のマヌーのバンドから。

 

煙草が吸える、自分たちのためだけのスペースを。

「まあ、偶然というかね。はじめは新しい動きを生み出したい、流れをつくりたい、というような特別なアイディアもプロジェクトも、まったくなかったんだ。きっかけは10年前、ほら、イタリアで公共の屋内スペースは『禁煙』という法律ができただろう? コンサートでもライブハウスでもシアターでも、煙草が吸えなくなってしまったじゃない? そこで僕らは非常に困ってしまった。煙草が吸えないなんて、とんでもないことだってね。じゃあ、しかたない。煙草も吸えて、フェスタが開けるようなスペースを僕らで開こうよ、と5人の仲間でFanfulla da Lodi 通り101番地のガレージを借りたことがストーリーのはじまり。きっかけは、そういうわけでいたってシンプルな動機だったんだ。いずれにしても、ファンフッラ101のオープンから、ローマの音楽シーンが大きく変わったという現象は、もちろん僕ひとりの力ではなく、周囲の仲間たちと一緒だったからこそ起こったことだよ」

「当時、僕らが住んでいたピニェートには夜開いている店がIsola pedonale(ピニェートの遊歩道)の端っこにあるバール、たった一軒だけ。まあ、言ってみれば、そのバールが当時のピニェート文化の中心でもあって、友達と会う場所だったんだけれど、それでも11時には閉まっていたからね。そのあとは何処にも行く場所がないから、サン・ロレンツォ(テルミニ駅の東側、ローマ大学近辺、学生が集まるパブやクラブ、ライブハウス、レストラン、バールが多くある地区)に出かけていたけど、その頃のサン・ロレンツォは飽和状態のうえ、ちょっとしたヴァイオレンスな雰囲気もあって、あまり楽しめなかったんだ。だからはじめは、じゃあ、自分たちのスペースを作ればいいじゃないか、という感じだよね」

マヌー自らいくつかのバンドもやっていて、マニアックでラディカル、複雑な音で迫るので、気難しい人物を想像していましたが、実際会って話すと、ナチュラルで誠実。フレンドリーな印象に驚きました。毎日、多くの音楽プロジェクトでめまぐるしく動き、それに伴うちょっとした難しい問題や、クラブ運営の困難もある、と話しながら、やはりそれでもソフトなトーンが崩れない。堅苦しさや排他的なところがまったくない人物で、マヌーと話しながら、こんなチャーミングな人の周囲には、自然と人が集まってくるのだろう、と素直に思った。そういえば、Gun Kawamuraが「彼のアイデアがいつもズバ抜けて面白い。彼がやっぱり牽引力なんです」と言っていたことを思い出し、その意味を実感しました。その中心にいて、力ではなく湧き出るアイデアで、自然発生的に人を動かしていく、マヌーはそんなマジカルなオーラを放っています。

「そういうわけで、自分たちで楽しむ場所を持つために、軽い気持ちで友達とガレージを借りて、使い易いように改装しようということになってね。で、僕らがガレージを改装しはじめると、この地区に住むアーティストたちや、学生が、いつの間にかそのスペースに好奇心を抱いて寄るようになったんだ。そのとき僕らは初めて気づいたんだけど、ピニェートやすぐ近くのTor Pignattara(トッレ・ピンニャッタラ)は、ローマの中心街に比べると断然家賃が安いから、20歳から30歳くらいの若いアーティストや学生が、思いのほかたくさん住んでいたんだね。そこで、そのガレージでちいさいパーティを開いたら、おお、と驚くほど大勢の子たちが集まった。そのなかには音楽をやっている子たちもたくさんいて、このスペースを開くまでは彼ら同士は面識はなかったし、もちろん僕らも彼らのことを知らなかったけど、ファンフッラを通じて、皆が少しづつ知り合っていったというわけさ」

 

*Grip Casino ファンフッラに集まるミュージシャンのレーベルをも手がけるアントニオの現在のプロジェクト。

 

仲間うちだけで、好きに使うつもりだったにも関わらず、スペースをオープンした瞬間からあまりにたくさんの人々が押し寄せることになったので、オープンと前後して、合法的なスペースとして運営する必要が出てきたそうです。そこでマヌーは仲間たちと話しあい、自然とCircolo ARCI(チルコロ・アルチ)がいい、ということになり、ARCIの本部にコンタクトをとって加盟、ピニェート地区のARCIカルチャークラブという体裁をとることにした。ARCIとは、イタリア国内に5000の加盟クラブを持ち、100万人のメンバーを持つ、相互扶助を旨とするイタリアの伝統的な市民によるアソシエーション。アンチファシストを掲げ、憲法にのっとった民主主義を強固にするために、ソーシャルな文化プロモーションを目的に1957年に設立された組織です。

「はじめはそういうわけで、まったくプログラムを決めないまま、当時一軒の家を僕とシェアしていた友達、たとえば今、GripCasinoというバンドで、かなり特殊な実験的ノイズをやっているアントニオやRanius Bをやってるラニエロにリクエストしてイベントをオーガナイズしていたんだ。アントニオはファンフッラで演っているミュージシャンたちのレーベルも手がけているんだけれど、変わった映画にも詳しくて、彼のセレクトで一ヶ月間映画の上映なんかもしたんだよ。スペースに関わっているのは、運営者であろうと、その友達であろうと、みんなとても仲がよく、彼らが毎晩のプログラムをあれこれ提案しはじめて、いろんな動きがはじまった。アメリカ人のバンドを紹介したいとか、フランス人のバンドに友達がいるんだけれど、ドイツ人のバンドがローマに来るんだ、とか、はじまりはそんな感じ」

「その頃、みんなが集まれる場所はこの辺りにはここしかないわけだから、凝縮したスペースに、常に人がいっぱいだったよね。そもそもはこの辺りに住んでいたミュージシャン、学生、芝居関係者、映画監督たちが集まっていて、たとえばそのころ、ここで実験的な音楽イベントをやっていたValerio Mattiolli(ヴァレリオ・マッティオッリ)は、今ではジャーナリストになって、音楽のことはもちろん、他のテーマでもずいぶん書いていたりする。彼が当時企画したイベントは、30人から40人の観客を想定したもので、別の場所で開催するのは難しかった。お金もかかるし、広すぎるしね。ファンフッラのスペースが彼のイベントにちょうどいいディメンションだったんだ」

「僕らはやってくる人々からお金はとらなかったし、バンドには出演料も少ししか払えなかったけれど、自分たちの音楽を人々に提案する、演奏の機会をミュージシャンたちに提供することはできたからね。僕らは、常に実験的な音楽を提供していくことが目標で、そうそう、面白いデザインで、すっごく楽しめるFanzin(ファン雑誌)を何冊か作った時期があったよ。その一環としてPropaganda666というVideoのシリーズを制作して、それを月曜日の晩にファンフッラで上映して、みんなで楽しんだこともあったね」

 

 

*The Last wanks マヌー、アントニオ、ラニエロ、Fanfulla101初期の頃のバンド。

 

Gun Kawamuraによると、その時期のファンフッラのメンバーは、次から次にクリエイティブなアイディアを実現して、大変な熱気だったそうです。毎晩、ごった返すような超満員で、その熱気が次第に噂となり、メディアもファンフッラの動きに注目。ピニェート近辺からだけでなく、ローマの街のあちこちから、年齢を問わず、いろんなタイプの、いろんな人々が集まるようになった。そしてこの時期あたりから、ピニェートの街の雰囲気が次第に明るく変わっていくことになります。

「やがてファンフッラに来ていた子たちの間で、たくさんのグループが形成されはじめてね。HIROSHIMA ROCKS AROUND という有名なバンドのトニとアンドレアは、はじめファンフッラで演奏していたけど、2009年あたりにDal Verme(ダル・ヴェルメ)というコアなクラブをこの近くに開くことに決めた。そのあとにTrenta Formiche(トレンタ・フォルミーケ)ができて、そのころから僕らの作ったピニェートの音楽シーンが次第に明確に、ピニェートのキャラクターとして定着していったんだ。ファンフッラ、ダル・ヴェルメ、トレンタフォルミーケと連携して、音楽シーンへフォーカスするようになったし、もちろんそれぞれの音楽性はそれぞれ違って、実験的な音楽、ポップ、ノイズ、ガレージ、と提案も違うけど、それらをカテゴライズして、プログラムできるようになったことは、大きい意味があったよね。通常、スペースのオーガナイズにはだいたい15人から20人ほどが関わっているんだけれど、彼らがそれぞれに情報を持っていて、演奏者、オーガナイザー、音楽のセレクト、海外からバンドを呼ぶコンサートの企画、DJ、とネットワークを、いよいよ大きく広げることができるようにもなった」

 

*Real Miracolo は、アントニオがボーカルをつとめるソニック・ユース的プロジェクト。

 

2004年にマヌーがパリからローマに来たころの音楽シーンは、ノイズ、実験的な音楽、ガレージ、ポップ、パンクロックと、それぞれにそれぞれのテリトリーがあって、ひとつひとつのジャンルのグループ通しに交流がなく、互いが互いを批判するという閉鎖的なセクトに分かれていたそうです。あらゆる音楽の要素が葛藤することなく混在するパリとは違う、そのsecteurな雰囲気にマヌーは戸惑ったと言います。ローマのその排他的な音楽セクトの分断が少しづつ壊れ、さまざまなカテゴリーの音楽の交流がはじまったのは、ファンフッラ、続いてダル・ヴェルメができてから。それぞれの音楽シーンからやってきた子たちが、ピニェートで顔を合わせて、他の音楽のカテゴリーにも興味を持つようになり、やがて一緒にプロジェクトを組むようにもなった。パンクロックの子たちがファンフッラに来て、ノイズやポップを聴くことは、10年前なら考えられないようなことでしたが、マヌーにとっては、この柔軟なオープンさが、何より重要なことでした。

「そしてそのネットワークが、ローマ、いや、イタリア国内だけでなく、インターナショナルに広がっていったんだ。フランスのストラスブルグにGrande Triple Alliance Internazionale de L’estという、The DreamsとかScorpion Violenteとか、欧州のあちこちでライブを開く、多くの素敵なバンドを抱えているグループがいて、そのメンバーのひとりである僕の友人、サミールもピニェートにやってきて、彼との連携で、ストラスブルグのバンドもピニェートで演奏するようになったしね。さらにはスイス、ドイツ、パリのミュージシャンたちも演奏に来るようになった」

「アメリカのバンドに関しては、Bob Cornというレッジョ・エミリアのミュージシャンがファンフッラとダル・ヴェルメに、ずいぶん連れてきたんだよ。もちろん彼自身も何度もライブをしてくれたけれどね。ポートランド、シカゴ、デトロイトから、ポップ、実験的な音楽、フォーク、それからちょっと変わったフォークを演るミュージシャンが大勢来たよ。さらにはオーストラリア、エストニア、ポーランド、ロシアのバンドもやってくるようになったんだ。そういうわけで、ここピニェートは、インターナショナルな音楽ネットワークのひとつのポイントとなっているとも言えるかな。僕らの形成したネットワークで、ミュージシャンがインターナショナルに友情を深めて、ネットワークそのものが、だんだんに大きく成長するのは嬉しいよ」

 

* アンダーグラウンド・アシッド・フォークとも呼べる実験的なサウンドのTrapcoustic。

 

Via Fanfulla da Lodi の101番地にスペースを持っていたファンフッラは、いまでは5/a、プレネスティーナ通りに近い番地に移りましたが、その移動の途中、マヌーとその仲間たちは、やはり同じ通りにForte Fanfuraというかなり広いスペースを運営していた時期もあります。スペースにはコンサート・ホールだけではなく中庭もあり、またギャラリーとして使える広い部屋、ライブラリー、アンダーグラウンド・アート&サウンドショップ、リハーサルルーム、ビストロも完備した、斬新なアートスペースでした。しかしファンフッラの存在からピニェートが注目され、人々が押し寄せる流行の街角になってから、地区の賃貸料が著しく高騰。矛盾を孕む市場経済循環の逆流に巻き込まれ、運営管理、経営の困難で、2014年に閉鎖されることになった。ピニェート地区の文化のシンボルとして、その名がローマじゅうに轟いた、フォルテ・ファンフッラが閉鎖の危機を迎えたときには、多くのメディアがサポートを募る報道をしています。たとえば、ラ・レプッブリカ紙、ローマ版も2014年の6月に以下のような記事を書いている。

Circolo Arci、フォルテ・ファンフッラがその活動のいったん休止をプレスで発表した。月に12000euroという過酷なスペースの賃貸料を支払うことは困難、という苦渋の決断だ。ピニェートに誕生し、重要な文化拠点となった、この歴史的なアソシエーションは、2007年から2万人のメンバーを集めた実績を持っている。

しかしファンフッラ側は、その困難には屈する様子を見せていない。早速#fattifortefanfullaのハッシュタグでキャンペーンを開始、6月の23日から30日まで、充実した音楽、演劇、クリエティビティのためのワークショップ開催を予定している。

ここ数年の間、フォルテ・ファンフッラは1年に1000件ものイベントを実施してきた(コンサート、プレゼンテーション、展覧会、映画上映、演劇、語学学校、社会福祉活動など)。”僕たちが有益な、市民のための政治活動を目指したことで、実際、社会的、文化的な見地からのピニェート地区再評価が実現した。この実現は、Circoloに加盟したすべてのメンバー、また彼らが提供してくれたプロフェッショナルでアーティスティックな働き、またファンフッラに格別な機会を与えてくれたすべての友人たち、イタリア国内、またインターナショナルなインディンペンデントに活動している人々すべての、集合的な貢献のおかげだ”とファンフッラのプレスは発表した。(後略)

結局、広々としたフォルテ・ファンフッラは閉鎖され、その一角として残された現在の5/aのスペースが(アプリIndie guides RomaFanfullaのプレイリストはこちらから)、現在のファンフッラの拠点。しかし、5/aは100人入れば満員になるスペースであっても、最も良い環境でライブが聴ける広さでもある。わたし個人としては、ライブを聴きに行くクラブとして、こぢんまりと、誰とでもすぐに話ができる5/aのスペースを、かなり気に入っています。

「僕らが10年前、101番地に初めてスペースを開いたころ、近隣の住民たちは、僕らのことを好ましく思っていないようで、『うるさい』『出て行け』とかなり嫌がらせをされたんだよ。暴力的な出来事もいくつか起こったしね。でも、この辺りに人がどんどん流れてくるようになって、近隣の住民たちは随分得をしたとも思うんだ。アパートの値段は、何倍にも跳ね上がり、貸せる家がある人は家賃収入がどんどん入ってくるようになったんだから。この地区はそもそも貧しい地区で、犯罪も蔓延していたし、ちょっとした詐欺や盗みで暮らしている人々が大勢住んでいた普通の郊外。最近は、パソリーニの愛した街としてもてはやされるけど、それも一種の流行だと僕は思っている。ピニェートのイメージ・アップにもなるし、後づけだよね。とにかく、僕らに関して言えば、10年前に比べれば、近隣の人々とも仲良くやっていけるようになったし、僕らの関係は、まずまずうまくいっている。閉鎖的だった地域が、人の流れとともにオープンになってよかったよ」

 

F FANFURA

Forte Fanfulla 入り口はガレージのようだったが、中に入ると、中庭があり、ライブラリーなどカルチャースペースが充実。食事もおいしいと評判だった。

 

パリの古書マーケットからローマへ

「パリの大学で『哲学』を勉強したあと、はじめ、僕は本屋だったんだ(笑)。15区にGeorges Brassens(ジョルジョ・ブラッサンス)という、今でも有名な古書マーケットがあってね。そもそも馬の屠殺場だった場所の構造を生かして作られた、毎週80店舗もの本屋が出る大きなマーケットなんだけど、500年代や600年代の貴重な古書から、気軽な文庫本まで何でも揃うんだ。ジョルジョ・ブラッサンスに店を出すと同時にパリの東の地区に倉庫の一角を借りていてね。そこに人々がもう必要ない、捨てようとしていたLPレコードをすべて引き取って(当時はCDが主流になりはじめた時代だったから)、整理しないままに積み重ね、1ユーロとか2ユーロで売ってもいた。その倉庫の一角にLPレコードマニアたちが、毎週レコードを探しに集まってきていたんだ。彼らは何時間もかかって、欲しいレコードをLPの山から探して探して・・・夕方まで帰らずに、僕と一緒に夕食まで食べて話し込んでいく人もいたぐらい(笑)。台所もあって、僕はそこに寝起きもしていたんだけど、楽しかったよ」

「ところがその倉庫のある地区が、都市開発されることになってね。結局出ていかなくてはならなくなった。その倉庫を出て行ったあと、パリじゅうで違う場所を探そうとしたんだけれど、気に入ったところが見つからなくて。そうこうするうちに、本屋友達から、『ローマで900年代のフランス語の本を売ろうと思っているんだけれど、一緒に来て助けてくれないかい』と誘われて、『じゃあ、付き合うよ』と軽い気持ちで引き受けたのが、ローマに来ることになった発端。もちろんパリではイタリア人の友達もいたし、イタリアも好きだった。で、その友達とふたりでローマでちいさい本屋をはじめたのが、ローマで暮らしはじめた理由なんだ」

フランス語の現代文学、詩集、哲学書、漫画、推理小説の本を売る、という野心を持ってローマに来たマヌーと本屋友達は、しかし永遠の都市の非常に複雑な状況に、立ち向かわなければなりませんでした。当時50歳代だった友達の思惑通りには行かず、かなり失望した様子だった、とマヌーはそのころを振り返ります。時はベルルスコーニ首相が隆盛を誇った時期、60年代、70年代にはフランス語を普通に話していたイタリアの若いインテリたちは、もはやローマにはほとんどいなくなっていた。商業的なエンターテインメントばかりが街にあふれ、消費主義が巷を席巻、マスメディアが喧伝する、ベルルスコーニ風原始的快楽文化が街を飲み込みそうでもあった。『フランスの5月』(五月革命)を体験した68年世代のインテリだったマヌーの本屋友達は、ローマに70年代の知的な熱気を夢見ていましたが、当時のローマの文化の有り様の酷さに、2年間ですっかりやる気をなくして、持ってきた本をまとめてパリに帰ってしまいます。

「フランスとイタリアには思想的にも、政治的にも伝統的な交流があるだろう?  70年代にはイタリアから逃走してきた『赤い旅団』のメンバーをパリが匿ったぐらいだから(笑)。でももはやフランス語の原書で本を読もうとする人が、ローマにはとても少なくなっていたんだ。それでも本屋をしていた2年間はポジティブだったよ。僕らはエキジビションをしたり、フランス文化会館とコラボレーションをしたりと、いろいろ面白いことも企画したしね。それに僕には彼ほどパリに戻りたいという気持ちがなかったんだ。そのときにはすでにローマでコンサートをオーガナイズしはじめていて、LPレコードを売ったりもしていたから。昼間本屋で働いて、夜はヴェスパに乗ってあちこちのスペースにコンサートを聴きにいく毎日、すでにローマとの絆はできていたんだ」

「だからローマに来ることになったのは、そもそもいた古い工場の一角を追い出され、友達に誘われるままに流れてきたという経緯、まあ、偶然が生んだ運命なんだけど、僕は自分が今やっていることを、とても気に入っているよ。まず、パリでこんなスペースを見つけることは難しいからね。パリはローマよりも法律の管理も厳しいし、スペースを持つためにはかなりの資本が必要だ。気軽にガレージを借りたあと、オーソライズされるということも、まずないことなんだ。パリは土地がすごく高いからね。『チェントロ・ソチャーレ(反議会主義の文化的占拠スペース)』もあることにはあるが、いまはひとつかふたつしか残っていないんじゃないかな」

 

*Gun Kawamuraも曲を提供したWOW は最近人気急上昇のバンド。

 

「それにローマはパリに比べると断然のんびりしているし、空気が違うよね。それに距離がとても長い。そう、『距離』、これは僕にとって、非常に大切なことなんだ。パリ時代からずっとヴェスパに乗っているんだけれど、パリでギアをトップに入れることは皆無、ありえなかった。だって、ちょっと走ると信号があって、ギアをトップにまで入れる暇なんてないんだから。ローマに来て何よりしあわせだったのは、2kmも信号がないからブレーキを踏むこともなく、トップギアのままヴェスパで走れること。こんなに広々としていて、なんて素敵だ! と思ったよ」

マヌーにその話を聞くまで、わたしはパリのほうがローマよりも断然大きい都市だと思っていました。「そう、なぜかみんなそう思っているんだよ。ローマはパリの、なんと9倍も大きいというのにね」と、その大きさを比べるのにマヌーが使ったのが環状線。約100kmの距離がある『ローマ環状線』に対して、パリの環状線は30kmしかないのだそうです。確かにローマの中心街はかなりの人口密度で住宅の価格もきわめて高額ですが、少しセンターを離れ郊外へ行くと、道の両脇に空き地が広がる場所が多くある。

「だからローマで暮らすことは、僕にとってはまったく苦痛じゃないし、喜んでここにいるつもりだよ。とにかくいまの仕事が続く限りはね。失業者への保障が行き届いたパリやベルリンと違って、仕事がないとローマは生き抜くのが難しい場所だから。パリの場合、学生にもアーティストにも国が生活を保障するけれど、ローマはその社会保障が整備されていない。フランスという国が学生の生活を助けることを、僕は好ましく思っているんだ。勉強をすることは大切だよ。学ぶことから、人生の可能性、選択が広がるんだからね」

マヌーのバンド、Holiday Innとローマの音楽

このような経緯を経て、ファンフッラ101をオープンし、多くの仲間たちに出会ったことから、マヌー自身もしばらくやめていた音楽を再開します。初期のファンフッラ時代に、家をシェアしていたアントニオ、ラニエロと組んだバンドがThe Last Wank、その後もBobsleigh Baby、Trans Upper Egypt、Hissといくつかのバンドで演奏し、ファンフッラだけでなく、イタリア国内外でミュージシャンとしてツアーもしている。最近はHoliday Innというバンドでツアーすることが多いそうです。

「最近はじめたHoliday Innというバンドでは、Sofferente(悩み苦しむ)な音というのを追求しているんだけどね。Trans Upper Egyptというバンドで、ずっとサイケデリックをやっていて、ちょっと方向変換。最近の傾向として、みながサイケデリックに戻っている感じがするよね。声にエフェクトをかけるのが、一種の流行のようになっているしね。もちろん、僕はロックンロール・ガレージも、サイケデリックも好きなんだけれど、しばらくやってきて、雲のなかにいるような気分になって、明瞭に見えなくなってきたんだ。そこで、もっと衝突する、アシッドな音をやりたい、と思ってはじめたのがHoliday Inn。エフェクトをかけるのをやめて、苦悩に満ちた、コンパクトで、歪んだ音をつくりたかった。ボーカルのガブリエーレの悩み苦しむような歌声がアンプからダイレクトに迫って、インパクトあるだろう? ガブリエーレの動きとか、歌い方とか、声には、聴いている者を夢見心地にさせるような、ロマンチックな要素がまったくないし」

 

*これはかなりのSofferente。マヌーの最近のバンドHoliday Inn。

 

「このバンドのプロジェクトは、未来をまったく語らないんだ。いうならば、ローマのこのあたりのゾーンの『隠された違法、乱用、犯罪』の空気から生まれてきたのかもしれない。突然生まれたプロジェクトで、こういう音を作ってみたいと思ったところからはじまった音楽なんだけどね。このバンドで、ライブをしょっちゅうするんだけれど、ツアーをして、レコードを作るということは、ちいさい経済循環でも、まず、とても面白いこと。レコードのジャケット作りも楽しいしね。それにHoliday Innというバンドにとって、ライブというディメンションはとても大切で、CDよりもずっと伝わる。いずれにしても次に作ろうとしているCDは、あまり騒々しくなく、ゆっくりしたテンポだし、きっと受け入れやすい曲になると思うよ。5月にリリースを予定している」

「僕らの周囲には、ポップを好きな人が大勢いるんだけれど、本当のことをいうと、僕にはポップというジャンルがあんまり理解できないんだ。ファンフッラに集まる子たちがみんなポップを好きだということは、Grip Casinoのアントニオから学んだ。彼は騒々しくてアシッド、暴力的な音楽を作ることもあるけど、すごくよくポップを聴いていて、そのメロディが確実に頭に残るということを知っている。もちろん、ポップは軽い音楽じゃないし、人の記憶に残ることは確実で、しかしじゃあ、ポップがどんな音楽なのか、と言われても、定義することが、僕にはできないけどね」

パリとローマの音楽性の違いについて尋ねると、マヌーのフランス人の友達は、ヘビーメタルやハード・コアを聴いて成長した人がほとんど存在せず、ハード・コアというジャンルの音楽をほとんど知らないという答えが返ってきた。一方ローマには、メタルやハード・コアを聴いて育った友達が多くいて、たとえばポップやパンクをやっている子たちでも、ほぼ、みんなが知っているそうです。したがってローマのインディ音楽シーンの要素には、メタルやハード・コアの影響がかなり紛れている。ノイズをやっているミュージシャンたちには、特にメタルの影響が強く、それがローマの音楽シーンの特徴だと感じるそうです。

「フランスのなかでも、パリとストラスブルグの音楽は完全に違うんだ。もちろん、それは互いの都市の歴史がまったく違うからだけれどね。ストラスブルグはドイツとの国境から5kmしか離れていないから、いまだに第二次世界大戦のドイツの影が垣間見えることがある。パリはその時代、しっかりと保護されていたから、明るくて、開放的。しかし、あまり思慮深くない音楽表現が多い、といえるかもしれないね。ストラスブルグはどこか暗くて、はっきりしないエレクトロニックが多くて苦悩に満ちている。こんな風に都市によって音楽性が違うのは面白いことだよ」

 

*マヌーおすすめのMaria Violenza。ぐいぐいたたみかけてくる熱い痛みがわたしも好きです。

 

「ファンフッラに来る日本人ミュージシャンも素敵だよね。Gun Kawamuraはいまだにみんなのミステリーで、彼がいつやってきたのか、誰も覚えていないのに、誰もが彼のことを知っているんだ。僕のフランス人の友達も含め、誰もがGunのことを覚えていることはとてもファンタスティックだよ! 彼はいつも協力的だし、音楽に対する批判も鋭くて、その批判精神がとても大切だと僕は思っている。いろんなバンドをよく聴いて、よく観ているし、好き嫌いもはっきり言ってくれるしね。最近のアーティストは家で自分の作品だけを作って、他のコンサートへ言ったり、展覧会に行ったりと他のアーティストの作品を見ることが少なすぎるよ。みんな自分のプロジェクトのことしか考えていない。しかしGunも、そして、まだイタリアに来て2年ぐらいのYogo trenoも、常に敏感に他のアーティストを観て、聴いて、感じて、それを自分の栄養にしていくところがあって、そのスピリットを、僕はとても素晴らしいと感じているんだ。彼らはファンフッラにとって、とても大切な存在だよ」

フォルテ・ファンフッラが、5/aのスペースを残して閉じたあとは、運営と資金繰りでかなり困難な時期が続いた。フォルテ・ファンフッラを一緒に運営していた仲間たちが立ち去って、5/aをはじめたとき、マヌーがひとりですべての運営を一手に行うことにもなりました。しかも、フォルテ・ファンフッラの閉鎖のニュースが瞬く間に街に広まり、5/aの存在を知らないまま、人々の足が遠のく日が続いたそうです。しかしやがて新しい運営のパートナーたちが加わり、1年も経たないうちに昔の常連、それも10年前にオープンした当時に来ていた人々が続々と戻りはじめ、新しい顔も増えてきた。

「去年1年は、毎日仕事をしても、正直、運営はなかなか難しかった。自分のバンドでツアーに行く以外は、1日も休まずに働いているから、ツアーに出かけるのが、僕にとっての唯一のヴァカンスかもしれないね。もちろん、ツアー中に完全な休日なんて取れないけれど、イタリア国内でも、フランスでも、久しぶりに友達に会って、一緒に過ごして、家に一泊泊めてもらうことはとても楽しいことなんだ。ローマからちょっと離れることで、リフレッシュすることもできるから。今年に入って、やっといろんなことがうまく運ぶようになったところだよ。この場所はオープンした101番地に似た構造で、あのころの雰囲気が好きな人がたくさん集まるようになったんだ。プログラムも順調に組むことができるようになって、スペースがいよいよ面白くなったところだと思うよ。いろんな人とのコラボレーションも昔と同じようにやっているしね」

「フォルテ・ファンフッラの厳しい状況に直面した時期から考えると、いまの状況を『奇跡』、とまでは言わないけれど、僕らはいまだに成長し続けていると感じているよ。だからファンフッラ5/aの目標は、この場所で、さらになにか特異で、実験的なプロジェクトを、多くのヴァラエティで提案し続けること。ちいさいスペースだから、あまりたくさんの人は入れないけれど、その少人数こそ、とても大切だと僕は思っている。そのちいさいグループから、新しい流れ、面白いカルチャーが自然に生まれてくるんだ」

 

*ファンフッラ、ピニェートからイタリア全国で、大ブレークしたCalcutta

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