『鉛の時代』諸刃の剣 Gladio

Anni di piombo Deep Roma Eccetera Storia

多くの無辜の市民の生命を奪い、若者たちの人生を狂わせた、陰謀と流血、虚栄と野望と絶望が渦巻くイタリアの『鉛の時代』。その物語を現在から俯瞰するうちに、先進国と言われる国々に住むわれわれが、かつて『終戦』を迎えた、というのは、実は幻想なのではないのだろうか、という感覚に陥ります。第二次戦争大戦ののちの冷戦下、朝鮮半島、ヴェトナムなどアジアの国々、南米各国、東欧、中東、そして『ベルリンの壁』崩壊後は中東、アフリカへと戦火の矛先は集中していく。われわれの日常からは遠くとも、爆音と燃え盛る炎は、この地球上から消えたことがありません。

GladioーStay behind( グラディオ作戦ーステイ・ビハインド)のコード名を持つ国際諜報オペレーションを背景に、もはや市民戦争と呼べる騒乱にまで発展した1969年から1984年までの『鉛の時代』と呼ばれるイタリアの15年は、現代のローマの風景からは全く想像できない時代です。確かに現代でも、過去を彷彿とする活発なアンダーグラウンド・カルチャーの分野に、アンタゴニズムの痕跡が残っている。あるいはその時代から脈々と生き延びた地下犯罪組織と政治、経済界の強い絆が、突如として暴露されることもありますが、たとえば市民の日常であるデモが銃撃戦に発展するようなことは、当然のことながら皆無。「すわ!『鉛の時代』の再来か」と、国中がざわめいた2001年のジェノバ、G8サミット・アンチグローバルデモの混乱、警官によるデモ隊銃撃事件以来、「民主主義」の基盤を揺るがすような酷い事故は起こっていません。

先日のこと、日中でも夜の空気を漂わす、薄暗いカエターニ通りを歩いていると、壁に掲げられた「アルド・モーロ元首相」のメモリアルの石版を囲んで、教師と思われる熟年の女性が深刻な表情で事件の顛末を説明している場面に遭遇した。10人あまりの高校生らしい、無邪気な眼差しの少年少女たちは、もはや自分とは遠い世界、「40年も昔の物語じゃないか」という風に、あまり興味をそそられない様子で話を聴いていました。このカエターニ通りは1978年、極左テログループ『赤い旅団』に誘拐されたアルド・モーロ元首相が、ルノー4のトランクで無残に銃殺された姿で見つかった、重い記憶を残す通り。今の高校生たちにとって(わたしも同感ではありますが)ゲームや映画ならともかく、武装による『革命』、テロでイタリアで変革しようだなんて時代錯誤も甚だしく、さっぱり理解できないメンタリティなのでしょう。

『鉛の時代』(年表はこちらからの15年間、イタリアでは大がかりな無差別テロで多くの市民が犠牲者となり、政治家、警官、司法関係者、資本家、ジャーナリストを狙った衝撃的な殺人事件、あるいは暗殺、自殺が途切れなく続きます。幾度となくクーデター未遂が摘発され、時代の空気に踊らされた学生、労働者たちが武装するまでに荒れ狂い、冷戦下とはいえ、国際諜報、イタリア軍部のシークレット・サービスたちが、極右テロ、極左武装勢力に入り乱れ、陰謀を巡らせる緊張の時代。やがて当時のイタリアにおける最大与党であったキリスト教民主党の党首であり、次期大統領とも目されていたアルド・モーロが極左テログループ『赤い旅団』に誘拐され、55日間に及ぶ監禁ののち殺害される、という、極端にエスカレートした事件が起こるほどの騒乱となる。この『アルド・モーロ事件誘拐、殺害事件』を境にイタリアは大きく変化した、と近代の歴史研究者たちは口を揃えますが、イタリアの何がどのように変わったのでしょうか。だいたい、この『鉛の時代』とは一体なんだったのか。

 

7866件の爆発事件、4990件の暴行が記録される『鉛の時代』の騒乱。写真はvelvetnews.itより引用。

 

極左テログループ『赤い旅団』を軸に、東・西各国国際諜報の痕跡、リーチオ・ジェッリをはじめとするフリーメーソン秘密結社ロッジャP2メンバー、イタリア軍部のアンチコミュニスト秘密諜報組織であるSIFER幹部の暗躍が囁かれ、ジュリオ・アンドレオッティ、フランチェスコ・コッシーガという、その後の国政の核を担う政治家たちの権力欲が渦巻く、この『アルド・モーロ元首相誘拐、殺人事件』については、別項でまとめたいと思っているので、ここでは詳細を述べません。

しかし強調したいのは、その時代を生きた市民たちは、メディアが流し続ける政府、軍部の公式発表を少しも疑うことなく、『スターリニズム』を狂信する、邪悪なテログループ『赤い旅団』の思い上がった単独犯だ、と長きに渡って信じていたということです。いや、ひょっとしたら、いまだにそのオフィシャルな情報を信じる人が、イタリアには多く存在する可能性もある。実際、過去の事件の経緯が真実でも虚構でも、目の前の生活の方がよほど大切なわたしたちは、自分には関係のない話だと、あまり関心を寄せない傾向があります。

真っ赤な五芒星のシンボルフラッグ、誘拐写真と公開脅迫文、『アルド・モーロ事件』をきっかけに、突然凶悪になった『赤い旅団』の、資本家、司法関係者、ジャーナリストとターゲットを定め、とどまることなく続く誘拐と銃撃、そして殺戮。また、裁判での、メンバーたちの太々しい態度が繰り返し報道もされ、『赤い旅団』は狂気のテロ集団、というイメージが、今でも人々の脳裏にくっきりと焼きついている。

その時代、他の極左グループに属して、政治活動をした経験のある年代の人々は一様に「Brigatisti(赤い旅団メンバー)を支持するなんてとんでもない。言っておくけど、自分は全く関係ないからね。われわれは平和的(?)な運動をしていたんだから。だいたい武装などありえないじゃないか」と顔色を変えて断言し、『赤い旅団』を肯定する人物には、まず、なかなか会うことがありません。それでもたとえば、人気作家エンリ・ディ・ルカなどは、潔く『赤い旅団』のメンバーをCompagno–仲間、と呼んで、病死した『赤い旅団』のメンバーにオマージュを捧げている。時代を共有し、事情をよく知る人々の中には、肯定はしなくとも、断罪もしない人々がちらほら存在します。

この、そもそも武闘派で、過激ではあっても殺人を犯したことがなかった『赤い旅団』のイメージを、『革命』の赤から『血塗れ』の赤に塗り替えたのが『アルド・モーロ事件』でした。その事件の裏に渦巻いたと推測される陰謀に迫る多くの書籍、ドキュメンタリー、名作映画が発表されていますが、その中には『赤い旅団』単独説をあっさりと覆した、事件当時の『赤い旅団』メンバー取り調べ主任であった検事、イタリアの司法界の重鎮(さらに元上院議員)でもあるFerdinando Inposimato(フェルディナンド・インポジマート)も含まれている。

ベストセラー『イタリアを変えた55日』の著者であるインポジマートは、「自らが検事主任としてテロリストたちのインタビューに直接関わったのち30年の間、『赤い旅団』の背後には『赤い旅団』しかいない、と陰謀説を一笑に伏していたが、事件に関するシークレット・サービス、ロッジャP2の動きに浮上するあらゆる疑問を裏打ちする証拠、証言を掴むうちに、単独説は間違いであった、と確信を抱いた。『赤い旅団』は確かに陰謀に使われた」とはっきり語っています。さらに言うならば、『赤い旅団』のテロリストたち自身も、自分たちの置かれている状況を充分に把握できないまま、イデオロギーに憑依され、虚栄と野心、『ブルジョア打倒!プロレタリアート革命!』と欲動に突き動かされたメンバーもいたのではないか、と思える状況も垣間見える。

 

赤い旅団の有名なシンボル。『鉛の時代』、このシンボルフラッグとともに公開文が発表されると、人々は震え上がった。Wikipediaの写真から。

 

グラディオ–ステイビハインドと、その時代背景をもう一度見直さなければならないのではないか、と考えたのは、このBrigate Rosseー『赤い旅団』に関する書籍を何冊か読んでいた時です。フィアットなど当時イタリアの経済を牽引していた大工場での派手な爆弾騒ぎや、資本家、司法関係者の誘拐(75年までの『赤い旅団』による誘拐の被害者はすべて釈放)ののち、75年以降、彼らが急激に常軌を逸し、みるみるうちに凶悪な殺人集団に変遷を遂げる過程に不自然さを抱いたのがきっかけでした。また、創立メンバーのインタビュー、事件を扱った書籍や映画、ドキュメンタリーを調べるうちに、この時代のイタリア極左活動に関わった若者たちのメンタリティは、戦中戦後まで遡らなければ理解できない、とも改めて気づいた。

畢竟、『鉛の時代』のイタリアの動乱には、ファシスト政権崩壊に向けて半島沿岸に上陸した戦勝国、米国軍の、欧州におけるソ連侵攻を地政学的に防衛するためのオペレーション–のちのグラディオのみならず、戦前戦中と、完全武装でファシスト政権に立ち向かったパルチザンのレジスタンス運動の大きな影響があることも否めないのではないかと思います。つまりレジスタンスを繰り広げたパルチザンは、武装に走った極左勢力の青年たちの 、祖父であり、父であり、モデルでもある、ということです。また、パルチザングループの大部分を構成していたのは、米国の仇敵『ソ連』、マルクス・レーニン主義に忠誠を誓った共産党員、共産党支持者たちでもありました。イタリアは、その共産主義者たちの勢力があまりに強大だったために、米英露で『ヤルタ会談』が開催された瞬間から始まった、『冷戦』という途切れない戦争シナリオに、戦後も巻き込まれていった、というわけです。

『鉛の時代』に起こったひとつひとつの事件を巡るアーカイブは膨大です。司法関係者、政治家、ジャーナリスト、元テロリストたちの回顧録、告発インタビュー、元CIAエージェントの告白など、関連書籍も星の数ほどある。つい先ごろも百科事典ほどの厚みのある『赤い旅団』という3人の学者によるリサーチが出版されたばかりです。このように「これでもか、これでもか」と関連書籍が次々に出版、再版されるため、果たしてどの説が真実なのか、どの見解が的を得ているか、逡巡して絶望的な気持ちにもなることもあります。しかし同時に、この時代が現代のイタリアにとって、どれほど大切な物語を孕んでいるか、ということをも再認識しています。

Operazione Gladio – Stay behind

『鉛の時代』の幕開けとなった『フォンターナ広場爆破事件』(I)直後の1970年、そのオペレーションの存在を暴露、弁護士エドアルド・ディ・ジョバンニ、ジャーナリスト、マルコ・ジリーニらの共著、当時は匿名で出版され、多くの左翼系の若者たちのバイブルとなった有名な書籍『La Strage di stato (国家による殺戮)』。完全な筋書きではないとはいえ、巷間ではすでに密かに語られていた、CIA-イタリア軍部による極秘オペレーションの内容が、時の首相ジュリオ・アンドレオッティが送った政府議会への書類で公に明らかにされたのは、「ベルリンの壁」崩壊後、1990年、10月17日(この書類は、随所検閲が入り加筆訂正され、「正式」なものが公表されたのは10月24日)のことです。

また、翌年にはオペレーションに関わったオフィシャルな622名のグラディエーター(文字通り、諜報として極秘のオペレーションを実施した戦士たち)のリストも公開されています。

グラディオは戦後、CIA、NATOが『脅威』とする共産勢力の侵攻から欧州各国を防御するため、極秘中の極秘としてオーガナイズされた各国シークレット・サービスによるClandestino( クランデスティーノ– 非合法、地下活動)オペレーション。イタリアにおけるグラディオ、「ステイビハインド(後方につけ)」は、CIA、イタリア軍部「アンチコミュニスト」諜報秘密組織SIFARの合意のもとでプロジェクトされ、のち国防情報庁SID、SISMIと共同で進行していきます。グラディオの正式な由来は、1951年に実施されたパリの会議での、「米国主導の反共産主義のための地下組織と計画」国際秘密合意とされますが、共産党勢力がきわめて強かったイタリアにおいては、戦後間もない時期から、すでにこのオペレーションの兆候が見られます。

しかし、イタリアという国は、わたしにとっていつまでたっても謎深い国です。通常は公表されることはないであろうシークレット・サービスの地下活動の機能と構成(詳細は述べられないまま)を、冷戦後とはいえ、その中枢にいた首相自ら公表するという行為は、歴史上、稀な例ではないのか。また、公表をもって「脅威から国を守るためには仕方がなかった」と、国家が絡む殺戮事件の数々を決定的に正当化したアンドレオッティの行為も、ある意味、複雑な倫理体系を持つイタリアらしい、老獪でしたたか、「われわれのせいじゃないですよ」という、あてつけがましい正直さを感じます。

いずれにしても、国を混乱に陥れ、大勢の人々の生命を奪い、運命を狂わせた、まさに『神』のごとき全能のオペレーションのもと、数々の大型無差別テロ事件の実行犯とみなされる極右テロリストグループ、SIFAR、SID、SISMIのシークレット・サービス、CIAエージェント、P2メンバー、政治家の誰ひとり、『有罪』判決を受けていない。カトリックの「あの世」で用意された『最後の審判』では地獄へ堕ちたかもしれませんが、現実世界の司法は彼らの罪を裁いていません。

さらに、あれこれ資料を読んでいくうちに、この関係者たちは、『米国との同盟の重要性』、『反共産主義』という米国への忠誠、政治信念からのやむをえない行動、というよりは、実際のところは個人の悲願達成、あるいは政治生命、権力の確立、既得権益のためにグラディオを利用した面もあるような印象を受けます。また、この時代の極左のテログループの動きが、ターゲットを定めた政治テロが主であったことと比較するなら、国家が絡むグラディオに忠誠を誓った極右テログループのそのほとんどが、無辜の市民を巻き込む無差別テロを実行している。あらゆるテロ行為は唾棄すべき、許しがたい犯罪ですが、この有り様にイタリアの極左、極右テロの性格が表れているかもしれません。そして政治の『正義』はいつも、その時代の権力側にある。

 

グラディオのエンブレム。SILENDO LEBERTATEM SERVOはラテン語で、「静寂の中で、自由を守る」というグラディオのモットー。

 

『鉛の時代」のあらゆる事件、あらゆる政治グループの背後には、とても人間業とは思えない、周到に張り巡らされたInfiltrati (諜報潜入)があります。その潜入者たちが暗躍し、司令に従って冤罪を演出、陰謀を張り巡らし、騙し、裏切り、対立するグループの憎悪を煽り立てた。またテロ組織への資金、武器の供給(CIA、NATOだけでなく、KGBをはじめ、東欧諸国のシークレット・サービスも参入し)ルートの確立をも幇助しています。

しかしこのような、複雑怪奇に構成されたステイビハインドというオペレーションは、そもそもどのような状況から生まれ、発展したのか。そこでここから、元イタリア共産党(PCi)議員で、アルド・モーロ事件、ロッジャP2、アンチマフィアの国会議員捜査委員会のメンバーでもあったSergio Flamigni (セルジォ・フラミンニ)編、KAOS出版、Dossier Gladio (グラディオ・ドキュメント、2012年)、またイタリア国営放送Raiの歴史番組、主要紙の記事を参考に、探っていきたいと思います。

なお、このステイビハインドは、1943年、米国軍上陸とともに、CIAが当時収監されていたシチリア出身のNYマフィアのボス、ラッキー・ルチアーノをイタリアに逆輸入、ボスの親戚縁者であるシチリアのマフィアを使った地域のコントロールをはじめたあたりから、片鱗を見せはじめる。そもそもマフィア組織の価値観は共産主義者とは折り合いがつかず、CIAは『鉛の時代』においても、マフィアのその特徴を利用したかったのではないか、と推論するジャーナリストも存在します。

アンチファシスト・パルチザンのレジスタンス運動

イタリアは日本と同様、第二次世界大戦の敗戦国ですが、日本と大きく異なるのは、ファシズムに敵対しレジスタンスを繰り広げていたパルチザンが存在し、彼らにとって敗戦は『自由』を勝ちとった勝利の瞬間でもあった、ということでしょう。また、ムッソリーニ政権の侵攻に、激しいゲリラ戦を繰り広げたパルチザンのほとんどは共産党員、マルクス・レーニン主義の革命支持者でもあり、米国は、この国民の『英雄』でもあるパルチザンのレジスタンスを背景に持つ共産党の、国内政治における影響力の増大、選挙での躍進を何より恐れていた。当然ではありますが、ゲリラ戦を繰り広げていたパルチザンの武器は、ソ連、あるいは東欧諸国から供給されていたはずです。

イタリアでは戦後まもなく、サヴォイア家による「専制君主政治」か、「共和制」かを巡る、イタリア初の国民投票が行われ、その国民投票で共和制支持が54.3%の票を獲得して勝利。現在のイタリア共和国が誕生するのは1946年のことです。なお、パルチザンには共産党員だけでなく、サヴォイア家による専制君主政支持、カトリック支持が少数ながら存在し、特に共産主義支持と君主政支持のパルチザングループはレジスタンスの間も激しく反目していました。また、共産党パルチザンにとって敗戦ののち国民投票で勝ち取った「共和制」は勝利であっても、君主政支持のパルチザンにとっては、大きな敗北でもあった。そしてこの、両極端のパルチザンの反目と憎悪が、のちのステイビハインドに大きく反映されていくことになります。

というのも、70年代に、未遂に終わったとはいえ、クーデターを企て取り調べを受けたエドガルド・ソーニョをはじめとする君主政支持、アンチコミュニストのパルチザンたちが、軍部の諜報秘密組織SIFARをはじめとする、ステイビハインドの中枢を担う重要なポストについていたからです。したがって『鉛の時代』の心理的な対立は、レジスタンス時代から脈々と続いたパルチザングループの反目、幾度となく企てられたクーデター未遂は、君主政支持の悲願に端を発するという経緯もある。このエドガルド・ソーニョという人物は、『赤い旅団』の初期中核メンバーが「何故ここに、こんな人物が、と不思議に思った」という人物と深く連帯する、オペレーションの随所に名前が挙がる要注意人物です。

さて、グラディオがグラディオの名を持つ以前、戦後まもないメーデーの日にシチリアで起こった事件は、注目すべき『鉛の時代』の予兆と呼べるかもしれません。その事件が起こったのは、「ナチファシズム同様、市民から自由を奪う全体主義の共産党勢力が強くなった国には米国が介入する権利を持つ」というトルーマン・ドクトリンが宣言された1947年(事実上の冷戦宣言)のことです。

シチリアののどかな農村地帯、ポルテッラ・デッラ・ジネストラの人々は、長い戦争がようやく終わり、ファシズムからも解放され、誰もが華やいだ気分でメーデーを迎えていた。共産党を支持する、その村の農民たちは家族とともに大挙して広場に集まり、メーデーを祝うフェスタに興じていました。ところが突如、そこに集まった人々を標的に、広場のすぐ裏にある丘の上から激しい銃撃が開始され、その銃撃で11人が死亡、57人が重軽傷を負うという大惨事が起こった。

当時、犯人は地域の札付きのチンピラ、マフィアグループと断定されましたが、のちの調査で、軍部でなければ所有できない武器が銃撃に使われたことが判明、犯行にファシスト、軍関係者が関わっていた可能性が浮上しています。CIAがNYから連れてきたマフィアのボス、ラッキー・ルチアーノの采配で、シチリアのマフィアたちが地域を管理しはじめた時代の出来事です。市民レベルでは長い期間、調査が行われたにも関わらず、当局の捜査は早々に打ち切られ、迷宮入りになっています。うがった見方をすれば、ジネストラの銃撃は、イタリア共産党、共産党支持者への「見せしめ」だったのかもしれません。

 

激しいレジスタンスを繰り広げたパルチザン、Brigate Garibaldi『ガリバルディ旅団』のメンバー。Il Fatto Quotidiano紙より引用。

イタリア軍部、アンチコミュニスト秘密諜報組織SIFAR

なんとかしてイタリア共産党の「選挙」による躍進を阻もうと、あの手この手で米国が圧力をかけたにも関わらず、戦後1948年に実施された国政選挙において、イタリア共産党は30%を超える、予想以上の支持を得ています。その結果に米国は慌てふためき、イタリアの軍部に、直ちにアンチコミュニスト秘密諜報組織を創るよう支持。その支持を受けて1949年に誕生したのが、ステイビハインドの核となるSIFAR(Servizio Informazione delle Forza Armate)で、のち、ロッジャP2のメンバーであったことが暴かれる、このSIFARの幹部たち(デ・ロレンツォ大佐、ムスメキ大佐ら)が、CIAとともに『鉛の時代』の混乱をデザインしていくことになる。また、当時の国務大臣は、一般市民のレベルでも、アンチコミュニストグループを組織するようエドガルド・ソーニョに要請、君主政支持のパルチザンを中心に6000人が参加するOSoPPOが即刻構成されている。

この時点で、トルーマンは「トップ・シークレット」として、イタリアを「米国防衛の鍵となる」国に指定。「米国は、政治的、経済的支援を惜しまず、また必要であるなら武力をも投じて、全力を挙げてイタリア共産党勢力を抑える。もし万が一、共産主義者が政権を担うような場合、あるいはイタリア政府が、政府内、あるいは政府以外の場所で、共産党の脅威に立ち向かえなくなるような事態に見舞われた場合、米国はあらゆる手段を使って共産勢力を阻止する準備をしなければならない」と発言しています。ちょうど朝鮮戦争が勃発した1950年のことです。

また、まるで007、スパイ映画のようなストーリーですが、同年、軍部のアンチコミュニスト秘密諜報組織SIFARの選抜メンバー7人が英国に渡り、「情報、プロパガンダ、サボタージュ、コミュニケーション、暗号、潜入」とClandestino(非合法、地下活動)における6つの分野の諜報グループを管理、調整する司令官になるためのトレーニングを受けています。そのトレーニーたちは、実際には1951年から、イタリア国内に構成した6つのセクターの諜報グループの指導にあたりはじめた。さらにその年、CIAは「心理ストラテジーボード(心理操作プラン)」を作成し、イタリア・フランスにおける共産勢力を抑えるための情報システムを本格的に構築しはじめます。市民レベルでは、またもやエドガルド・ソーニョが反共を煽るためのPace e Libertà(平和と自由)という組織を内務大臣の要請で1953年に設立している。

こうして着々と準備が進められ、CIAの管理による欧州におけるアンチコミュニスト地下活動チーム、「共産主義に対する、オーソドックスではない、あらゆるスタイルの戦争の調整と発展」が誕生し、NATOの司令官がパリで開催した会議「市民防衛と平和な時代のスパイ活動」において、欧州各国に合意されたのが1951年、グラディオの正式な発足となります。イタリア国内オペレーションがステイビハインドと名付けられるのは、1956年のことです。

また、このころから、CIAはイタリア共産党、イタリア社会党など左翼政治家すべての履歴を集め、SIFARは知識人をはじめあらゆる分野の左翼の情報、また、左翼にオープンな態度を取る政治家たちをリストアップしています。特に共産党を始め左翼政党との対話を重視していたとされる、キリスト教民主党のアルド・モーロの協力者たちはマークされました。

Partito Comunista Italiano イタリア共産党

ところが、これほど米国に厭われ、内閣に参加することを禁じられていたにも関わらず、イタリア共産党は、58年の選挙で22.7%、1963年には25.3%、1968年には26.9%、1975年には33.4%、76年には34.4%と、躍進を続け、選挙のたびに大きく支持を増やしています。ちなみに最大与党であるキリスト教民主党の76年の得票率は38.7%と拮抗。1984年のヨーロッパ議会選挙では、キリスト教民主党の32.97%を遂に抜き、33.33%の票を獲得している。このように欧州最大の共産党であったイタリア共産党は、しかし1991年の解散まで、どれほど支持を集めても政権の座につくことは叶わず、また、上院、下院で多数の議席を獲得しながらも内閣にも選出されることなく、『永遠の野党』としての存在を余儀なくされた。共産党員というだけで米国ヴィザが下りなかった時代です。

イタリア共産党は、もちろんソ連と緊密に連帯し、そもそもはレーニンのボルシェビキをモデルに掲げ、「ブルジョワ打倒」「農民、労働者たち(プロレタリアート)による専制政治」という、絶対『革命』を目標として、アメデオ・ボルディーガ、アントニオ・グラムシにより1921年に創立されています。

しかしイタリアがアメリカの同盟国となった戦後は、「アメリカの支援がなければ新しい国創りには着手できない」、と武装による『革命』を完全に退け、民主的な政治システムの中で勢力を伸ばす穏健な方向、すなわち「新しい共産党」「民衆の政党」への変換へと大きく舵を切った。ところが、その穏健な姿勢も米国、SIFARにとっては、いまだ緊密にソ連と繋がる『脅威』以外の何物でもなく、1948年には、当時の書記長パルミーロ・トリエッティが何者かに銃撃を受け、重症を負うという事件も起きています。 さらに結局はイタリア政府により退けられましたが、共産党の存在を法律違反に追い込むよう、米国が要求したこともありました。

また、前述したように、イタリア共産党はファシズム政権時代に、『革命』を目指して武装レジスタンスに参加。パルチザン勢力の60%を占めていた『Brigate Galibardiーガリバルディ旅団』のほとんどはイタリア共産党のメンバーでした。したがって、そのイタリア共産党が戦後、共和国を再建するために『革命』を退け、他の政党と政治均衡を保つ、という方向性を打ち出したことは、山中を、森林を駆け巡り、ゲリラ戦で凄まじいレジスタンスを繰り広げた武装革命派、スターリニストのパルチザンたちにとっては、「裏切り」とも感じられたようです。革命派のパルチザンたちは、「とりあえず大戦は終結したが、ファシストとの戦争はまだ決着がついていない。今はとりあえずイタリア再建のために停戦しているだけ」と捉えてもいた。

たとえば現在、イタリア最大の書店として国内にチェーン店を展開する出版社、フィルトリネッリの創立者、ジャコモ・フィルトリネッリをはじめとする革命派パルチザン、あるいはグラムシに心酔、ゲリラ戦で弟を亡くしたピエールパオロ・パソリーニなどは、共産党の「ブルジョア化」に、激しく反発、その非難は、極左思想を持つ労働者、学生たちのグループに大きな心理的影響を与えていきます。のち、別項で詳細を述べるつもりにしているフィルトリネッリという裕福な人物は、極左武装派グループに多くの資金援助、武器の供給、東欧、南米、ドイツやフランスの極左武装派グループとのコンタクトを担った一風変わった人物です。

一方、イタリア共産党はソ連に忠誠を誓いながらも、次第にイタリア共産主義と呼べる独自のイデオロギーを発展させるようになります。この時代、おそらく共産党自身、米国に実質管理されることになった敗戦国イタリアの闇に蠢くグラディオの存在を知りながら(共産党内にソ連、東欧と繋がる『赤いグラディオ』と呼ばれるものが構成された時期もあるようですが)、その状況下で存在感を増すためには、最大与党キリスト教民主党、特に民主主義における各党の政治融和を図るアルド・モーロ派の議員と協調、多少のブルジョア化もやむなし、最大限に政治力を駆使することが生き延びる道だと判断したのだと考えます。しかし68年あたりからは、その柔軟な姿勢がソ連からも強く批判され、イタロ・カルヴィーノを筆頭に、多くの知識人たちも強く批判しはじめた。

さらに72年にエンリコ・ベルリンガーが書記長になると、ソ連とはいよいよ一定の距離を取るようになり、イタリア共産党は、欧州独自の共産主義「ユーロ・コミュニスト」を推し進める姿勢を強調。この態度は相当ソ連を怒らせたようです。ベルリンガー自身は語っていませんが、秘書の告白によると、1973年、ブルガリアのソフィアにベルリンガーが滞在中、何者かが車に衝突し大事故となり、ベルリンガー自身は間一髪で一命をとりとめる、というエピソードもあったそうです。事件の詳細をもはや伺い知ることはできずとも、おそらくKGBかブルガリアのシークレット・サービスがベルリンガーの暗殺を図ったのではないか、と推測されています(これは、Unità紙が1991年に記事にしたものですが、近年になって、暗殺は確かにありそうな話ではあるが、ただの事故だったのでは?という説も浮上しています)。

このベルリンガーがキリスト教民主党のアルド・モーロと共産党の内閣入りを協議、確約を取り交わし、共産党はいよいよ波に乗り、人気を高めていきました。が、アルド・モーロが『赤い旅団』に誘拐されたのは、ジュリオ・アンドレオッティ内閣が発足、共産党が内閣入りするという、歴史的な予定を控えた日だった。イタリア共産党の内閣入りの悲願は、この重大な誘拐事件のために流れています。

 

14回イタリア共産党会議に集まる党員たち。Unità紙より引用。

オーソドックスではない、完全に極秘に計画された地下戦争

69年の『フォンターナ広場爆破事件』が起こるまで、密やかに、しかし周到に時間をかけて準備されたグラディオ、ステイビハインドの動きを、1959年『キューバ革命』あたりから、フラミンニの書籍を参考に、ここでざっと追ってみたいと思います。この10年は、ケネディが暗殺され、マーチンルーサー・キングが暗殺され、チェ・ゲバラも敵の手に落ち銃殺されるなど、世界が大きく変動した時代です。

1959年 CIAは共産党議員の履歴の詳細をさらに綿密に調べるようイタリア政府に要請。SIFARでグラディオ発足以来の司令官、のちロッジャP2メンバーであることが暴露されたデ・ロレンツォ大佐が、カラビニエリの最高司令官に任命される、1961年にはイタリア軍部最高司令官となるが、その後もSIFARの実質的な指揮をとり続ける。

1960年 ジェノバから起こった、ネオファシスト政党、MSi ( Movimento Sociale Italiano)に抗議するデモ、ストライキがローマ、ミラノ、イタリア各地へと広がった。このデモの最中、警察がデモ隊に発砲するという事態に発展。この一連の発砲事件も共産主義支持者とネオファシストの対立を煽るオペレーションの一環と考えられている。共産党がきわめて強かったエミリア・ロマーニャでは、アンチファシストのデモに参加した若者5人が、警官の発砲により死亡。また、リカータ、カターニャのデモでも、それぞれ若者が警官に銃殺された。Cgil (労働組合)は抗議のゼネストを実施。一連の警察の暴走で当時の首相、タンブローニは辞任に追い込まれた。

1961年 Nsc (アメリカ国家安全保障会議)は「万が一、イタリア共産党が政権を握る、あるいは内閣に参入することがあれば、アメリカ合衆国は合法的方法であれ、非合法な方法であれ、同盟を結んでいる組織とともに万難を排し、適切な方法で共産党の覇権を阻止、あるいは共産党を転覆させようとするイタリアの構成グループを支える」とレポート。11月、ローマで「共産党勢力の、世界における脅威」というテーマで国際会議が開催され、「革命的な戦争」「心理戦争」「オーソドックスではない戦争」を定義とした論文が再配布される。

1962年  「米国との同盟関係に伴う、国内の対立を煽る心理戦争。攻撃と防御」というテーマの書類を軍部研究センターが起草。「心理戦争のための組織」設立が提案される。
※この年の10月には元パルチザンで、原油価格を巡って、アングロ・アメリカンの企業と対立していたイタリアの主要エネルギー会社、ENIの会長エンリコ・マッテイが飛行機事故を装って殺害されている。当初は事故とみなされたが1997年、当時の最新テクノロジーを使った調査の結果、故意の墜落と判明。CIAと連携する企業家、エウジェニオ・チェフィスが主犯と囁かれるも、確証がなく司法に裁かれることはなかった。チェフィスはロッジャP2設立のアイデアを出した人物とされ、マッテイの死後、ENI、さらにはもうひとつの主要エネルギー会社モンテエディソンの経営権を握っている。このエンリコ・マッテイを巡る事件は、ジャーナリスト、マウロ・デ・マウロ、ピエールパオロ・パソリーニの殺人まで繋がるとされる。

1963年 CIAから供給された膨大な量の武器を、グラディオの実行のために人里離れた場所にNATOが隠し始める(Nasco)。1969年に起こった「フォンターナ広場爆破事件」では、このNascoの爆発物が使われた疑いが持たれている。また、CIAの新しい出先機関がローマに設立され、ウィリアム・ハーヴェイ(コンゴのパトリス・ルムンバ暗殺の首謀者と疑いを持たれる人物)が、SIFERのレンツォ・ロッカ大佐(65年に死亡。「自殺」とされる)と、極左勢力に濡れ衣を着せる挑発的な事件を起こすためのチームを組織することを合意。この年、アルド・モーロが首相として初めての内閣を組閣。キリスト教民主党(DC)、イタリア社会党(PSi)、イタリア社会民主党(PSDi)、イタリア共和党(PRi)が連立し、イタリア初の中央左派の内閣が誕生する。ちなみにキリスト教民主党を含み、この時代のすべての政党は、現在イタリアでは完全に消滅。

1964年 SIFARの「オーソドックスではない戦争、心理防御作戦チーム」の責任者、アドリアーノ・マーギ・ブラスキが、軍部の諜報を市民の間、つまり攻撃すべきグループ内にくまなく紛れ込ませるというエスカレートしたコンセプトを示唆(この作戦により実際の武力侵攻を行わず戦争に発展させる)。また、デ・ロレンツォ大佐は、カラビニエリ、軍部、SIFARの幹部を集めて秘密会議を開き、「Piano Solo」として、クーデターの緊急事態における占拠マップ、監禁すべき政治家、労働組合の幹部のリストを配布している。なお、1964年までのSIFARの内部記録は残されているが、それ以降の動きは全く記録されていないか、破棄されている。

1965年、3月、ローマのHotel Parco di Principeで、「革命的な戦争」というテーマでSIFARの「オーソドックスではない、心理防護作戦チーム」の責任者ブラスキが会議を開催。ステイビハインドのオペレーションの一環としての 『フォンターナ広場爆破事件』から本格的に適用される 「La strategia della tenzione( 緊張作戦)」の思想、具体案が発表される。この会議に出席したのはネオ・ファシストグループ、Ordine Nuovoの幹部、極右ジャーナリスト、SID (内務省諜報部)エージェント、右翼学生たちだった。この会議で、「フォンターナ広場爆破事件」からはじまる『鉛の時代』の方向性が決定され、オーソドックスではない『戦争』を起こす、という認識が、参加者たちに共有された。この年の10月には北イタリアで、グラディオ構成員、及び米国軍部共同で、「地方が(共産党に)侵攻されたケース、内部暴動」のための訓練(コード『白い鷹』)」が行われている。

1966年、アルド・モーロが3度目の組閣。防衛大臣秘書に、『鉛の時代』、ジュリオ・アンドレオッティとともに『鉛の時代』以降の政治の主人公となるフランチェスコ・コッシーガが任命され、シークレット・サービス関係、つまり諜報、軍部、そして「グラディオ」を管理することになる。4月にはトリエステでグラディオの予行演習実際に市民の間で実行。ダイナマイトで共産党地域本部を爆破し、共産主義に傾倒するカトリックの僧侶に暴行を加え、さらには労働組合のデモに潜入、収拾のつかない混乱、暴動が起こるよう扇動するという実地訓練をした。この訓練は「イルカ訓練」と呼ばれた。

1967年、ギリシャでクーデターが起こり、軍事政権が樹立。このクーデターは、SIFARのデ・ロレンツォ大佐がオペレーションのひとつとして配布していた、「Piano Solo」と全く同様のクーデタープログラムであったことから、その事実をL’Espresso誌がすっぱ抜き、デ・ロレンツォ大佐が指揮する軍部、カラビニエリがクーデターを計画していることが外部に漏れた。この年の11月、ミラノのカトリック大学と、トレント大学が、アヴァンギャルドな学生運動をはじめた学生たちに占拠され、これがイタリアの校舎占拠のはじまりとなる。

1968年、カラビニエリ最高指揮官デ・ロレンツォ大佐は、ローマの裁判所に、Espressoにカラビニエリのクーデター計画をすっぱ抜いたジャーナリスト、エウジェニオ・スカルファリ、リーノ・ジャンヌッツィを名誉毀損で告訴。エウジェニオ・スカルファリは週刊エスプレッソ誌、ラ・レプッブリカ紙の創立者。※スカルファリは現在93歳の現役のジャーナリストとして、度々テレビにも出演している。なお、現在ラ・レプッブリカ紙は、『フォンターナ広場爆破事件』の捜査責任者であり、1972年に殺害されたルイジ・カラブレーゼ警部の子息、マリオ・カラブレーゼが昨年より主筆。
この年の8月、チェコスロバキアのソ連侵攻、プラハの春の終焉に「あらゆる国の共産党は、それぞれに自主独立した党であり、国際的な労働者の統合のためにはそうあることが必要なはずだ」と、イタリア共産党はモスクワ政府に強く抗議。また68年には、のちにロッジャP2のメンバーであったことが発覚するジャーナリスト、カルミネ・ピコレッリが諜報ーシックレット・サービスの分野を専門とした情報エージェンシー「OP」を設立している。

1969年、SIFARの「オーソドックスではない戦争、心理防御作戦チーム」は、イタリアに適した作戦の進行シナリオを取りまとめ、国内に混乱を起こす準備が完了する。4月には「フォンターナ広場爆破事件」の主犯とみられているネオファシスト、フランコ・フレーダがパドヴァで仲間と会合、その一週間のちに、ミラノの見本市で爆弾が仕掛けられる。8月にはイタリア国内の鉄道で爆弾が仕掛けられ、11人が負傷。

12月12日、『フォンターナ広場爆破事件』が起こり、『鉛の時代』の幕開けとなる。

 

1977年に合意を取り結んだ、アルド・モーロと共産党書記長エンリコ・ベルリンガー

 

イタリア国内を安定化するための不安定化

『フォンターナ広場爆破事件』は突然起こった『鉛の時代』の幕開けではなかった。戦後から20年もの長い時間をかけて、密かにイタリア全国で準備され、国政に野心を抱く共産党員、革命を夢見る極左勢力をも入念に調べ上げられ、あらゆるグループに軍やマフィア、CIAのスパイが潜入。機が熟したところで、市民の日常を直撃する無差別テロ事件が起こったという経緯です。不意を突かれたイタリアは、計画通り大きく混乱、1969年12月12日を境に「オーソドックスではない戦争」がはじまった。

『フォンターナ広場爆破事件』が、『赤い旅団』、『労働者の権力(Potere Operaioートニ・ネグリ)』、『継続する闘争( Lotta Continua)』『マニフェスト』などの極左勢力の憎悪を掻き立て、危機感、焦燥を生み、武装革命を本格的に計画させる決定的な動機となる。そしてこの極左グループのメンバーの間にも、多くの諜報が入り乱れていたことが、のちに明らかになっています。

もちろん、未来が全く見えないその時代に生きた極左武装グループも、市民も、またSIFARの存在を知らなかった学生たち、労働者たち、司法官たち、ジャーナリストたち、さらにはカラビニエリ、警官たちも、自分たちが置かれている状況が一体どういうシナリオで進行しているのか、全く理解できなかったに違いない。特に日常を普通に送るわれわれのような市民は、全ては政治対立の激化で自然に起こった事件だと把握し、感情を高ぶらせ、深い怒りと悲しみの15年間を過ごした。

ところがそのシナリオの制作サイドであるジュリオ・アンドレオッティは、「アルド・モーロ事件」が起こった78年以降、12回も首相として組閣、フランチェスコ・コッシーガは、1985年から92年までの間、満場一致の議会投票でイタリア大統領を務めています。

歴史が物語を自発的に生み出さない、デザインされる時代もある。グラディオ–ステイビハインドは、イタリアにひたすら膨張する共産勢力の「脅威」から国家を守るために、『イタリア国内を安定化するための不安定化、カオス化』を演出するために周到に構成され、まさにしかけられた極秘の『戦争』だった。

一旦どん底の混乱を経験をしたイタリアの市民はその後、デモやストライキでかなり激しい抵抗はしても、たとえば武装『革命』を起こして、『国家』を変革しようなどという野心を抱かないようになりました。また、政治的な揉め事は日常茶飯事で収拾がつかなくとも、日常はとりあえず安定した『鉛の時代』以降のイタリアは、それ以前と何ら変わりなく、トニ・ネグリが言うところの『帝国』の一端を担う国となっている。わたし自身は政治的には何の思想もありませんし、絶対的に、テロリズム、戦争を含むあらゆる暴力には反対です。しかしあれこれとイタリアの戦後を調べるうちに、「イタリアのこの時代を昔のことだ、と忘れ去ってはいけない」とイタリアの多くの知識人、ジャーナリストが、繰り返し述べる理由が、少し理解できたような気がしています。

 

※今でも、たとえばファシズム崩壊の日である、イタリア共和国建国記念日4月25日の機会などには、あらゆる場所で度々聴かれるパルチザンのテーマソング『Bella Ciao(ベッラ・チャオ)』。自分が埋葬された山の花影の下、花が咲く季節になったら人々が通りかかって、「なんて綺麗な花だろう。この花は自由を勝ち取るために死んだ、パルチザンの花だよ」と言うだろう、という歌詞の部分では、ぐっときます。

 

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