難民の人々を巡る混乱とプロパガンダ戦、2019年イタリア、そして欧州はどこへ向かうのか

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緊張に満ちたイタリアの政治状況も、時間が経つにしたがって「少しは沈静化するかもしれない、いや、そうあってほしい」と淡い希望を抱いていましたが、今年5月の欧州選挙が近づくにつれ、過度にショー・アップされた『同盟』、やや控えめな『5つ星運動』によるプロパガンダの応酬で、政治はむしろ過激な混乱に傾いています。さらに、政府が醸すファッショな空気に断固対抗するアンチファシズムのムーブメントもいよいよ活発化、野党議員をはじめ、さまざまな市民運動、アソシエーション、NGOネットワークの結束が広がり、社会は大きく分断されています。『ファシスト』という、イタリアにおいては、本来デリケートなはずの言葉がメディアの見出しに踊り、たとえば、マテオ・サルヴィーニ副首相を批判する新聞記事やSNSのコメント欄は攻撃と侮辱に溢れかえっている。これはちょっと前のヒューマンなイタリアでは考えられなかった状況です。

年頭に考えたことあれこれとウォーラーステイン

お正月気分からようやく脱したと思ったら、新年早々高熱を発して1週間以上寝込む、という、個人的にはなかなか趣のある、2019年の幕開けを迎えました。

その間、普段は読まないネット記事やコメントのあれこれを携帯で読むうちに、率直に言って、現在のイタリアのネットの傾向と日本のネットの傾向は非常によく似ている、という印象を抱いたのです。右vs.左、保守vs.リベラル、ファッショvs.アンチファッショ、意地悪主義vs.善良主義、と呼び方はどうでもよいのですが、イタリアにも、いつの間にかネット右翼のような人々が出現し、敵対する価値観とみなす意見には、どこからともなくわらわらと人が集まって、論理を逸脱して脈絡なく攻撃する、弱者とみなすと侮辱する、常識的には正論と思われる知的な意見を嘲笑する、エリートと言われる人々を罵倒する、という現象が起こるようになっています。その傾向があまりに似ているため、どこかにマニュアルがあるのではないか、と疑うくらいです。

また、たとえばマテオ・サルヴィーニ内務相など施政者自らフェイクニュースを大々的に流し、事あるごとに衝撃的で非常識な発言と行動を繰り返す、いわばピカレスク・エンターテインメント型の『ショック政治』とも呼べる昨今のイタリアの傾向は、米国モデルにも似ているかもしれません。そういえば、先ごろFBIに逮捕された伝説の共和党ロビイスト、大統領選の選対責任者だったロジャー・ストーンを追ったNetflixドキュメンタリーで、「教養のない有権者に、エンターテインメントと政治の違いがわかると? 政治はショー・ビジネスだ」、とストーンが自信満々に語っているシーンがあり、「米国市民も随分見くびられたものだな」と思いましたが、イタリアで現在巻き起こっている、ひたすら「アンチ・エリート」なマテオ・サルヴィーニ人気も、結局似たようなアイデアで形成されたものです。

この米国的「ショー・ビジネス」ストラテジーが、とりあえずはイタリアでも功を奏し、多くの支持者を集めているところを見ると、もはや現代の民主主義という政体は商業同様、マーケティングによって成立している、と考えざるをえないかもしれません。米国にしても、イタリアにしても、人々の不満の受け皿として、移民、難民の人々を巡って「あることないこと」を吹聴、『憎悪』を煽る人種差別政策が突如として出現したのは、寄る辺なく、選挙権もない、マージナルな人々なら攻撃しても、体制には何の影響もないからに他ならない。しかしそれは、本来「平等」だと世界人権宣言に謳われているはずの人間にランク付けする、尊厳を無視した、非人道的でグロテスクな政策であるには違いありません。

いずれにしても、フランスの『黄色いジャケット』運動、英国のブレグジットを巡る一連の騒動、米中貿易戦争、中東、アフリカの騒乱、ベネズェイラの市民蜂起、混乱、と世界が怒涛のように揺れ動く今の世界状況を、いったいどう整理し理解したらいいのか、何が世界を揺り動かしているのか、やはりその背後に隠されるのは、『新冷戦』と語られる、ロシア、中国、米国、欧州の派遣争いと謀略なのか、それとも特定の「経済」権力者の意向を慮って、なのか、日々あれこれと考えます。そういえば、世界を揺るがすさまざまな動乱のわりに、『市場』の世界は、多少の乱高下はあっても意外と静かで、各国が国境を閉ざしつつあるなか、市場には相変わらず国境は存在しないまま、猛スピードで数字が循環している。

世界各国に、もはや「流行」している、と言ってもいいほどの、クセノフォビア、セクシズムを憚ることなく前面に押し出す、ナショナリズム+ファシズムの台頭は、資本主義を基盤とする近代世界システムの行き詰まり、多国籍企業と巨大投資家、金融機関が国境をまたぎ、天文学的数字の利益を吸い上げていくネット時代の先鋭化したグローバリズムの綻びから生まれた、「著しい格差に苦しむ市民の不満と不安が一気に炸裂した結果」。

一般にそう結論づけられるロジックは、確かに納得できる一面もありますが、「世界各国でシンクロを起こすように、たったの数年で非人道的、非道徳的な人種差別傾向がこんなに広がるなんて、人間の精神性ってそんなに単純でスピーディに変化するものだろうか?」ともやもやした気分になります。むしろ、グローバル市場の円滑な循環、あるいは特定の資本を保護、優遇するために、作為的に創出された傾向ではないのか、と勘ぐりたくもなるのです。それとも市場の世界でも、これから大きな波乱が待ち受けているのでしょうか。といっても、その波乱から、巨額な利益を上げる多国籍企業群が、常に存在することも見逃してはいけません。

イタリアに関して言えば、少なくともつい1年ほど前までは、マフィア関係の事件が勃発して、いくらか暴力的な空気が流れることはあっても、あくまでも新聞やテレビのニュースで語られる遠い世界の話であり、市民の日常の次元では、イタリアに潜む暴力性を実感として感じることはなかったように思います。したがって政権が交代された途端、『同盟』マテオ・サルヴィーニ副首相が、命がけで地中海を渡ってきた、まったく罪のない難民の人々のイタリア上陸を完全に拒絶するという『人命』に関わる決断を下し、イタリア国民の3分の1強が、その決断に快哉を叫んだことには仰天しました。さらに移民・難民、外国人の生存権剥奪の可能性を含む国家安全保障案』が議会で可決した際は、何が起こっているのか、変化に対応できないほどの衝撃でもありました。

しかし移民・難民の人々を虐める、という社会的弱者への『人種差別』は、やっぱり日々の生活の不満に満ち満ちた大衆に、謂れなき優越感をもたらすために周到に用意された「フラストの受け皿」です。クセノフォビアにしても、セクシズムにしても、あらゆるすべての差別は、自然発生的であれ、作為的であれ、施政者にとっては、国民の不満を政治の混乱や不備、経済不安から目を逸らさせ、憎しみを核として団結させる、あるいは分断を生むために利用される典型的なレトリックで、その裏には必ず、体制に影響するであろう何らかの動きが隠されている。

では、今の欧州の場合、人々の『憎悪』を巧みに扇動して支持を集める背景には何が隠されているのか、というと、やはり、ロジャー・ストーンが言う「無名より悪名、選挙に勝つためには何でもする」欧州選挙キャンペーンとしてのプロパガンダ、怒れる支持層のさらなる拡大、ということになるでしょうか。そしてもし万が一、『同盟』であるとか、『同盟』と強い連帯を持つフランスの極右政党『国民戦線』など、スティーブ・バノンを教祖と仰ぐ欧州極右勢が、選挙で大勝利を収めた場合、英国が離脱した後の欧州議会の何が、どう変化するのか、そもそも極右政党が何を目的に、これほど欧州議会に熱意を注いでいるのか、巷間で囁かれるように彼らは欧州「共同体」スピリットの破壊、分裂を目論んでいるのか、欧州経済を弱体化させたいのか、今のところまったく予想がつきません。このように、突然方針が大転換し、今後の欧州のあり方に影響を与えるであろうイタリアにいると、まったく筋道が掴めず、何をどう考えたらいいのか途方に暮れます。

サン・サルバドーレへのコロンブスの到着。ここからヨーロッパ的普遍主義ははじまった。

そんな時、なんとなく手にしたのがイマニュエル・ウォーラーステインの『ヨーロッパ的普遍主義』(山下範久訳/明石書店)という本でした。そしてやはりなんとなく再読するうちに、最終章で予言的とも言える、ハッとする一文に出会うことになりました。この本でウォーラーステインは、15世紀の大航海時代のアメリカ大陸侵略からはじまり現在に至る、かつては『神学的正義』そして近代では『民主主義という正義』を掲げ、独善的な侵略を正当化するシステムをヨーロッパ的普遍主義と名づけ、われわれは、その時代の終わりに立ち、ポストヨーロッパ普遍主義の時代に突入しつつある、と定義しています。以下、引用します。

『ヨーロッパ普遍主義に変わるものとしては、普遍主義の多元性が可能性としてあげられよう。それは(いくつもの)普遍的普遍主義 <普遍的普遍主義とウォーラーステインが呼ぶのは、社会的現実を本質主義的に性格規定することを拒否し、普遍的なものと個別的なものを共に歴史化し、いわゆる科学的な認識論と人文的な認識論を単一の認識論に再統合するもの。それによって、ともかくわれわれは、極めて冷静に、かつまったく懐疑的な目で、弱者に対する権力の「干渉」の正当化を見ることができるようになる>のネットワークのようなものである。またそれはサンゴールの「与えることと受け取ることが一致する場(万人が与え、万人が受け取るような世界)ともなろう。われわれがそこにたどり着くという保証はまったくない。これは今後二十年から五十年にわたる闘争である』

『(普遍的普遍主義がその闘争に敗れた場合に)唯一現実的な選択肢は、新しいヒエラルキー的で非平等主義的な世界である。そこでは普遍的価値に立脚していると称しながら、人種主義および性差別主義が、われわれの実践を支配することになろう。既存の世界システムよりも、さらにひどいものになることさえ、まったくありうることである。そうであればこそ、われわれは皆、移行の時代における世界システムを分析し、可能な選択肢の所在をはっきりさせることで、われわれがなさねばならない道徳的選択を明示し、そうしてわれわれが選び取ろうと望む政治的道筋の可能性を照らし出すことに、ひたすらこだわる必要がある』

この『ヨーロッパ的普遍主義』という本は、現在の世界各国のナショナリズムの顕著な引き金となった、2008年の世界金融危機「リーマンショック」以前の2004年の講演を元に加筆編集されたものだそうですから、ウォーラーステインは、すでに現在の人種主義、性差別主義の表舞台への台頭という価値観の揺れ戻し、『難民』問題を含む、新しいヒエラルキー的な不平等主義を、その時点で読み取っていたわけです。と同時に多くの多元的な抵抗ムーブメントも世界中で起こっていますから、まさにウォーラーステインの言う闘争は、粛々とはじまっていたのだ、と、多少考えが整理されると共に、納得もした次第です。

いずれにしても、2008年のリーマン・ショックがもたらした『世界同時金融危機』が市民の暮らしをじわじわと蝕み、日に日に市民の間に不満と怒りが募りはじめた頃から、米国においては「ナショナリズム」「ポピュリズム」が現れた、と件のスティーブ・バノン(最近、欧州に移住したということですが、これも怪しい動きです)も発言しています。したがって2008年という年は、米国のマーケティング選挙運動にとっても重要な年であったのでしょう。そういえば、ウィキリークスに連絡し、民主党クリントン候補のe-mailハッキングを要請したロジャー・ストーンに指令を出したトランプ陣営幹部は、『同盟』をはじめとする欧州の極右政党、原理主義者たちと強い友好関係を結ぶスティーブ・バノンであった、とも報道されています。さらに「なるほど、やっぱり世界は繋がっている」と、思わず膝を打つようなブレグジット関連記事を、ガーディアン紙The Observerが掲載していました。

さて、長い前置きになってしまいましたが、あらゆる疑いを抱きながらも、ウォーラーステインが言う「ひたすらこだわる必要」を感じつつ、何はともあれ、今年もはじめていきたいと思います。

▶︎難民の人々を巡る、終わることなき闘い

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