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機が熟すとき: 『鉛の時代』の幕開け、そして『赤い旅団』誕生の背景

Anni di piombo Occupazione Società Storia

フランスの五月革命 そしてイタリアの68年

『赤い旅団』が誕生する背景の最も重要なファクトとして、冷戦下、欧州各国のソ連と連帯する共産主義勢力の拡大を阻止するために綿密に計画されたグラディオの下、イタリアにおいては、すでに1965年から、CIA、SIFAR、SIDなどの国内外の諜報機関と、マフィアを含む有力極右グループ、また主要政党の政治家たちが『緊張作戦』と名づけたオペレーションを実行しはじめていたのは、先の項で書いた通りです。つまり共産主義勢力が欧州で最も強かったイタリアは、冷戦におけるシンボリックな戦場』のひとつであった、と考えられます。

65年には軍部カラビニエリ大佐によるクーデター、Piano Solo(ピアノ・ソーロ)の計画が、エスプレッソ紙にすっぱ抜かれたこともあり、ギリシャに軍部独裁政権が樹立したこの時代、イタリアもまた、何度もクーデターの危機に晒されていました。また、第2次世界大戦以来、君主専制主義を支持する極右勢力のパルチザンと共産主義を支持するパルチザンの間には、常に微妙な緊張状態が続いていたのです。

この時代の世界の動きを見るなら、1963年にジョン・F・ケネディが暗殺された翌年、東京でオリンピックが開かれた1964年には、カリフォルニア大学、バークレー校で爆発した、学生たちのFree Speechムーブメント、激化の一途を辿るヴェトナム戦争への激しい批判、人種差別に反対する大規模なストライキ、そしてデモが米国中に広がり、やがて欧米や日本にも拡大し、多くの知識人、若者たちが反戦を訴えるようになります。また、その頃、既存の常識を完全に覆す新しい価値観、自由と平和を求める「フラワーチルドレン」と名づけられた若者たちによるヒッピーカルチャーが出現。若い世代の『旧体制』への抵抗が、あらゆる形でグローバルレベルで高まっていきます。

先進国と言われる国々の、反体制の若者たちの間で、時代の英雄と称えられたのは、まずチェ・ゲバラ、そしてヴェトナムの武装共産主義ゲリラであり、パレスティーナでした。このように世界の若者たちの沸騰が次第に広がる68年、フランスで、当時の大統領シャルル・ドゴール体制に大きな反発が起こります。大学自治権を巡りソルボンヌ大学の学生が校舎を占拠し、フランス当局と学生たちは、かつてなかったほどの暴力的な衝突に発展。その学生たちを応援する労働組合や市民が続々と集まり、それまでに類を見ない規模の大きい抗議デモがパリを席巻することになりました。

5月革命とも呼ばれる、この「フランスの5月」が、パリからフランス全土へ、そして欧州、世界各地へと広がっていった。怒涛の時代でした。1967年にはチェ・ゲバラが敵の銃に倒れ、1968年にはマーティン・ルーサー・キングが暗殺され、当時の若者たちの心理はいよいよ反発へと向かい、旧体制への攻撃へと動いて行きます。しかしネットがない時代に、世界中の若者たちが一斉に立ち上がったという事実は、今から思うなら非常に感慨深い現象です。媒体になったと言われる音楽や文学のパワーの大きさには驚かざるをえません。

そして、この「フランスの5月」が起きた68年から69年、イタリアでも、その頃 本格的に大学を占拠しはじめた学生たちと工場労働者の共闘による極左グループが次々に創立され、その後のイタリアの十数年を決定的に方向づけることになります。1968年3月1日には5月革命より一足早く、ローマ大学建築科の学生と警察隊とが激しく衝突するデモがローマで起こっていますが、これは警官隊148名を含む600名という負傷者を出した、当時の左翼系知識人たちもまったく予想していなかった大規模な衝突で、イタリアではそれまでに例を見ない暴力的な過激デモへと発展しました。

この時、ピエール・パオロ・パソリーニは「中産階級の金持ちの出身である学生たちが反乱を起こして怪我をさせたのは、真の労働者階級の貧しい家庭の出身である、学生たちと同じ年頃の警察官だ」と、学生たちを強く非難しましたが、この時の騒乱が学生たちを昂ぶらせ、後戻りできない方向へと向かわせることになります。学生たち、そしてフィアット、ピレッリなどの大企業の工場労働者たちによる激しい抗議活動は、社会を根底から変革する開かれた市民の闘争、すなわち『革命』を目標にした共闘という形で、イタリア全土へと拡大していきました。

そして、「Vogliamo prendere la vita ( 生活/生命をこの手につかむ)』のスローガンを掲げ、この年の労働者共闘運動、騒乱のリーダーであった若者たちが、まさに1969年に火蓋が切られる『鉛の時代』、国家が絡んだ『Strategia della  tensione -緊張作戦』に巻き込まれる時代の主人公と重なってゆくのです。具体的には、トレント大学の学生運動のリーダーであったミラノのレナート・クルチョ、マラ・カゴールが『赤い旅団』の創立メンバー(70年の創立)として、パドヴァではアントニオ・ネグリが『Potere Operaio(労働者の力)』(67-68年創立)を率い、ピサのアドリアーノ・ソフリが創立した『Lotta Continua – 継続する闘争)』(69年創立)が、ヴィアレッジョの騒乱を指揮しています。

『毛沢東語録』が学生たちの間で爆発的な人気を博し、刷っても刷っても、あっという間に売れ切れた時代です。ちなみにこの時代の渦中を生きた世代のイタリアの人々は、日本の『全学連』のこともよく知っていて、驚かされた経験があります。

また、69年の秋は『Autumno Caldo (熱い秋)』と呼ばれ、労働組合が中心となった大規模な工場労働者たちの激しいストライキ、デモが繰り広げられ、警察官が労働者たちに銃口を向ける、という事態にまで発展した重要な時期です。しかしその闘争の結果、欧州では最も低かったイタリアの工場労働者たちの給料は上がることになり、労働条件も着実に改善され、その改善が法律として定められることとなりました。つまり労働組合の闘いは実を結び、資本家による搾取を徹底的に糾弾することには成功したわけです。当時、学生として極左運動に関わった人々からは、当時の工場労働者たちの多くは学生たちよりも知的で洗練され、勉強も怠らず、優れた戦略で抗議活動をしていた、という証言があります

同時に69年は、『緊張作戦』に関わった極右グループの存在もまた社会の表面にその姿を現し、その活動が活発化しはじめた年でもあります。フォンターナ広場爆発事件の主犯と目される『Ordine Nuovo』(オルディネヌオヴォ:新しい秩序)のジョバンニ・ヴェントゥーラ、フランコ・フレーダが計画した(この計画は10年ののちに明るみに出たのですが)イタリア国内鉄道、8カ所の爆破事件で12人が負傷するという出来事も起こってます。そして遂にその後10年以上イタリアを混乱に陥れ、市民戦争のレベルまで紛争を拡大させる『鉛の時代』の幕を開く『フォンターナ広場爆破事件』が、突如として起こるわけです。

▶︎既存の共産主義の弱点を補うカトリックのDNA

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