全米犯罪シンジケートの設立
こうして米国マフィアの世界に、遂にラッキー・ルチアーノの革命の時代が訪れることになりました。
邪魔な旧勢力を一掃したルチアーノは、マッセリーア、及びマランツァーノの組織を受け継ぎ、ニューヨーク最大のルチアーノ・ファミリーを構築。ニューヨークの密造酒、アルコールの密輸入、麻薬、売春、違法賭博、恐喝、ブックメーカー(ノミ屋)、高利貸し、また、マンハッタンのウォーターフロント、ゴミの運搬、建設業、衣料品街、トラック輸送、畜産業、水産市場などを「みかじめ料」で一挙に支配し、さらに労働組合の活動にも強引に介入します。
これは労働者が「組合に加入する際、組合員から組合費を取り、さらに賃金をピンハネ」する搾取で、「雇い主には脅迫によって配下の組合員を雇わせ、組合の条件を一方的に受け入れさせる」仕組みでした。このような組合の支配は被服組合を牛耳るユダヤ系ギャングのやり口を踏襲したもので、ルチアーノは「被服組合以外に、クリーニング業、染色業、映画映写業などにも支配の手」を伸ばし、労働組合支配をいよいよ拡大しています(書籍「マフィアーその神話と現実」)。そういえば、映画「Once upon a time in America」や「アイリッシュマン」もマフィアと労働組合の政治癒着を描いた物語でした。
またルチアーノは、「犯罪組織として成功したいのであれば、米国型資本主義を反映した組織でなければならない」と考えていましたから、マランツァーノが分割したニューヨークの5大ファミリーを残したまま、シチリア・マフィアが重んじる閉鎖性、排斥性を排除。かねてからの構想通り、シチリア出身者のみならず、すべてのイタリア人に解放し、アイルランド系ギャング、ユダヤ系ギャングとも共存の関係を結ぶ、解放的な組織改革に着手します。自らのルチアーノ・ファミリーに関しては、ジェノヴェーゼを副官に、コステッロを相談役、アドニスを筆頭に数人の幹部を決め、またソルジャーと呼ばれる下部メンバーを20~25人単位に分割し、それぞれの幹部の下に配置しました。
なお、ジョー・ヴァラキの米国上院議会の公聴会によると、相談役はソルジャーを保護する、という役割を追っていたそうで、ランスキーとシーゲルはイタリア人ではないためファミリーの公職に就くことはできませんでしたが、ランスキーはルチアーノの最高顧問となり、役職はなくとも、シーゲルもまた信頼のおける仲間として大切にされました。さらにこのときジョニー・トッリオも、ルチアーノに全面的に協力しています。
そして1931年の終わり、いよいよルチアーノは、シカゴのアル・カポーネを含む全米20地域のマフィアのボスを招集。抗争のない、まったく新しい犯罪組織構造を提案することになります。それはすべてのボスたちが対等な発言権を持ち、あらゆる議題を暴力を使わずに議決する「コミッション(委員会)」と呼ばれる議会の設立で、何か規則を変えなければならない場合や、縄張りの変更、問題が起きた際は、必ず「コミッション」で話し合わなければならない、一種のマフィア政府議会のようなものでした。
ルチアーノはこの「コミッション」で権力闘争を避けるため、「ボスの中のボス」という存在を否定し、あらゆるすべての決定を多数決に委ねることにしています。これはある意味、犯罪組織の民主主義的システムへの変革とも言え、もちろんこの時点で、ルチアーノが「ボスの中のボス」となることに、誰ひとり、意義を唱える者はいませんでしたが、ルチアーノはその地位を進んで放棄したわけです。
この提案にすべてのボスたちは賛成し、全米規模の犯罪シンジケートを発足させたのが、FBIも認める犯罪組織革命と呼ばれるルチアーノの功績です。また、シンジケートのアイデアは、トッリオが提案したと言われており、違法ビジネスにおいて、発展的に機能するシステムであれば、即刻採用するルチアーノには、リーダーとしての十分な裁量があったということでしょう。考えようによっては、シチリア・マフィアがシチリアの各地域に構築する小規模な「国の中の国」を、米国という大国に「コーザ・ノストラ」という「国の中の国」、もうひとつの政府を形成した、ということでもあります。
「コミッション」には、当初ニューヨークの5大ファミリーのほか、バッファローのマフィアファミリー、シカゴの「アウトフィット」などの代表で構成されていましたが、のちにフィラデルフィア、デトロイト、ロサンジェルス、カンサスシティなどのファミリーが加わり、他の小規模ファミリーは、「コミッション」に属するファミリーの代表に一票を委ねることになりました。「コミッション」にはまた、ランスキーなど、ニューヨークのユダヤ系犯罪組織の代表も参加しています。
そして、それから50年もの間、この「コミッション」が米国の第2の政府となり、あらゆる産業を管理すると同時に、政治家、警察、司法を賄賂と恐喝で腐敗させる「コーザ・ノストラ」の時代を決定づけることになったのです。
なお「オメルタ=沈黙の掟」は、「コミッション」において大切な掟として残されましたが、「古臭い」とルチアーノが排除したがっていた「プンチュータ」など、ファミリーのメンバーとなる際の儀式は、ジェノヴェーゼの助言により、それぞれのファミリーの決断に任せることになりました。実際、「コミッション」の設立以来、計画通り暴力犯罪はぐんと減り、1934年には、闇賭博の売り上げが8億ドル、麻薬の売り上げは1500万ドルに達し、マフィアはゼネラル・モーターズより大きな企業になったと言われます。
また、ルチアーノは政治家たちを抱き込み、彼らから保護を得ることに成功しています。たとえばニューヨークの民主党代表アルバート・マルティネッリと親密だったことから、ルチアーノは1932年の選挙キャンペーンのために民主党に多額の資金援助をしており、ルチアーノとコステッロは、その見返りとして、当時、金の卵を生むと言われたスロット・マシン設置の利権を獲得。巨額の利益を得ていたそうです(書籍「マフィアーその神話と現実」)。
この頃のルチアーノは1秒で100万ドル(シンボリックな意味で)を稼ぐ男となっており、ニューヨークの最高級ホテル、ウォルドーフ・アストリアのスイートルームで暮らし、最高の品質のスーツをエレガントに着こなし、常に美女に囲まれ、プライベートジェットで米国中を駆け巡っていました。さらにルチアーノはパーティが大好きで、ニューヨークに多く所有するナイトクラブをはしごして、クラブの歌手たちと踊る、夜毎の「ドルチェ・ヴィータ」を過ごしています。特定の恋人がいた時期もありますが、朝方の電話ひとつでウォルドーフ・アストリアのスイートに駆けつける女性は大勢いたそうです。
フランク・シナトラや映画俳優たちとも友人の若く親切な大富豪として、彼が現れれば「ほら、ラッキーが来た」「ラッキーだ」と、政治家や企業家で構成された上流階級から、マフィアファミリーのソルジャーまで、あらゆるクラスの人々の囁きが充満し、ルチアーノの周囲に群がりました。美食家でもあり、いつも最高のイタリア料理レストランで、最も高級なワインを嗜み、特にお気に入りは、6番街の近くにあるレストラン、ヴァッラノーヴァの「ポッロ・アッラ・デアヴォロ(鶏の悪魔風グリル)」だった、とジャーナリスト、マウロ・デ・マウロは記しています。
こうして米国で、シチリアをルーツに持つ犯罪組織に大きな変革が訪れ、マフィアたちの権力が「コーザ・ノストラ」としてますます拡大する一方、シチリア・マフィアは受難の時期を耐え忍んでいた、と言わざるをえないでしょう。
1922年にベニート・ムッソリーニがイタリアを掌握した2年後の1924年、シチリアを訪れ、パレルモ、トラーパニ、ジルジェントを旅する間に、ムッソリーニはシチリアがマフィアに支配され、政治と癒着しきっていることを目の当たりにします。旅の途中、マフィアのボスであるヴォスチェンツァの市長フランチェスコ・クッチャの車に乗っているとき、「ヴォスチェンツァに警官は必要ないんです。私と一緒にいる限り、何も恐れることはありません」と言われたムッソリーニは、それを強烈な屈辱と感じたのです。そしてこの日を境に、シチリア・マフィアはファシスト党に徹底的に弾圧されることになります。
「ひとつの国に、ふたつの同じ制度は存在しえない」。ムッソリーニは、フリーメーソンも含め、自分以外の権力がシチリアを支配することを、断じて容認できませんでした。シチリアからローマに戻るとすぐに、すでに何度がシチリアへ派遣され、マフィアと闘った経緯のある凄腕のチェーザレ・モーリ代議員を、まずトラーパニの県知事に任命します。
トラーパニに着任したモーリは、マフィア撃退のための本格的な軍事作戦を開始し、本人自ら馬に乗ってマフィアを追跡し、激闘を繰り広げたそうです。政権が指示したマフィアとの戦争ともいえる、このモーリの反マフィア軍事作戦で、あまりに暴力的な打撃を受けたトラーパニのファシストの中には、モーリの過度とも思われる厳格な作戦に不満を述べ、彼の解任を要求する嘆願書をムッソリーニに提出した者もいましたが、このとき嘆願書に署名した者は全員、国民ファシスト党(PNF)から、即刻除名されました。
このように、ムッソリーニから全面的に支持されたモーリは、1925年にパレルモ県知事に任命され、シチリア全土を管轄する特別な権限を与えられました。特に有名なのは、ガンギという地域への攻撃で、1925年12月、カラビニエリと警官で構成された総勢約800人の軍隊が10日間、電話線と電気を遮断してガンギの街を包囲した後、侵攻。一斉家宅捜査が行われましたが、マフィアたちは地下トンネルに隠れて姿を現さなかったため、彼らの所有する家畜を虐殺したり、女性や子供たちを人質にとる、あるいはカラビニエリが女性たちをレイプしている、などのフェイク・ニュースを流すなど、どちらがマフィアかわからないような過激な心理戦に出ています。そして結局、ガンギのマフィアたちを一網打尽にすることに成功しました(イタリア語版Wikipedia)。
そのガンギへの攻撃が功を奏したのちの1926年から1927年にかけて、モーリはシチリア全土のマフィアを急襲し、前項で紹介した「ボスの中のボス」、ヴィート・カッショ・フェロを含む400人以上が逮捕され、コルレオーネを全包囲したのちに襲撃。数十人のマフィアを逮捕しています。
1927年5月には、下院議会における予算審議の冒頭で、いくつかの議題について演説したムッソリーニが、マフィアに関して次のような発言をしています。
「諸君!マフィアの正体を明かす時が来た。まず第一に、私はこの山賊のような団体から、その魅力や詩のようなものを取り除きたい。シチリア全土を真に侮辱したくないのであれば、マフィアの気高さや騎士道精神について語るのはやめようじゃないか!なぜなら彼らはそれらにまったく値しないからだ。あなた方の多くは、この組織がどれほど酷い病理なのかをまだ知らない。ならばわたしが、それを手術室に誘おうと考えた:そしてわたしのメスによって、組織はすでに切除されたのだ。(略)ここにモーリ県知事からの報告がある。これはシチリア全土を対象としたものである。1923年には696件の家畜窃盗があったが、1926年には126件に減少した。強盗は1216件から298件に、強奪は238件から121件に、恐喝は16件から2件に、殺人は675件から299件に、損害は1327件から815件に、放火は739件から469件に減少した」
「では、マフィアとの闘いはいつ終わるのか?それはマフィアがいなくなったときではなく、シチリア人の記憶からマフィアの記憶が永久に消えたときに終わるのだ」(storiologia.it)
マフィア撲滅をメディアが鳴物入りで報じたことも手伝って、1929年にモーリ県知事は上院議員に選出され、シチリアを離れたのち、ムッソリーニは2回目の反マフィアキャンペーンを繰り広げました。この2回のキャンペーンで、マフィアの力は表面的には衰えたように見えましたが、その間、マフィアの大ボスたちはファシズムに寝返るふりをしたり、マランツァーノのように米国に逃げ、姿をくらましています。
つまり、ムッソリーニのマフィア撲滅キャンペーンは一定の効果はありましたが、部分的にしか実行されなかったということです。また、第二次世界大戦中にも、マフィアの主要な経済的利益の一部はそのまま残っており、英米軍が1943年にシチリアに侵攻したハスキー作戦の際、マフィアが以前よりも強力になって表舞台に現れたのは偶然ではなかったのです(ilsicilia.it)。