平和と友愛のシンボルとして街を蘇らせた市長、ドメニコ・ルカーノの逮捕劇
リアーチェは、レッジョ・カラブリアからあともう少し行けばシチリア、というイタリア半島、長靴の爪先寄りにある16キロ平米の面積に人口2309人(2018年4月)というちいさい街です。潮風で枯れた石造りの建物の褪せた色の向こう、深々とした青を湛える地中海が惜しみなく広がる。「これぞ南イタリアの海辺の街」という独特な侘び感がある風景には、故郷でもないのに、ある種の懐かしさを覚えます。
また、リアーチェといえば、1972年、紀元前5世紀あたりの制作と推測される、見事な均整を持つ2体の戦士のブロンズ像『リアーチェのブロンズ』が、ダイバーにより偶然にその沿岸で見つかったことでも有名です。紀元前5世紀頃は、古代ギリシャのソポクレス、エウリピデス、アイスキュロスという三大悲劇詩人が、アテナイで活躍していた時代。そのアテナイの息吹は、当時ギリシャの統治下にあったイタリア南部にまで届いていたわけです。なお、リアーチェという街の名前もまた、古代ギリシャービザンチン時代の名が由縁となっています。
ところが、そんな謎めいた古代のロマンを秘めた美しい街でも、ほかの南イタリアの田舎の街同様、若者たちは職を求めて都会へ移動、残るのは老人ばかりという過疎が進行していました。2001年の段階では1900年代初頭の2500人に対して、1605人にまで人口が落ち込んでいます。その頃のリアーチェは街中に廃屋が溢れ、学校は閉鎖され、このまま潮風吹きすさぶ無人の街へと突き進むかのような風情だったそうです。
そこに現れたのがドメニコ・ルカーノでした。ルカーノもまた、かつてはレッジョ・カラブリアを離れた若者のひとりでもありました。若き日々、ローマで大学生として医学を学んでいましたが、途中勉学を諦め、教師の職を得て働くようになった。やがてカラブリアに戻り、リアーチェの街に難民の人々を受け入れる活動をはじめることを決意。有志とともに『Città Futuraー未来の街』というアソシエーションを立ち上げ、本格的に難民の人々の受け入れをプロジェクトするようになります。そしてその功績が認められ、2004年にはリアーチェ市長に選出されたのです。
ルカーノが考え出したリアーチェ・モデルは、戦争や紛争から逃亡してきた難民の人々を街に受け入れ、彼らが安心してイタリアで暮らせるように、まず無人となった廃屋を修復、亡命者たちの住居を確保しながら、ビザを手配。さらに難民の子供たちのために学校、そして病院を整備しました。また、国から支給される助成金を、織物やガラス細工など手工業の工房の基金とし、彼らに技術を教えて、それぞれの生産品を売り、マイクロビジネスとして循環させました。そして、そのささやかなビジネスで得た収益を、職人である難民の人々にサラリーとして分配。難民の人々が自分たちで働いて、毎日の糧を得られるシステムを構築しました。リアーチェの人々も難民の人々を両手を広げて迎え入れ、広場や通り、バールやレストランも賑やかになり、深閑としていたリアーチェに一気に生命が蘇りました。
難民の人々と街の人々が一体となった、このリアーチェ・モデルの発展と成功は、やがてだんだんに世界の注目を集めるようになり、2009年、あのヴィム・ウェンダースがリアーチェを題材にショート・ドキュメンタリー『Il Volo』を制作。2010年にルカーノは「世界の市長第3位」に選ばれ、2016年には「フォーチューン」誌から、唯一イタリア人として、世界に影響を及ぼすリーダー50人のひとりに選ばれています。また、フランチェスコ教皇からも深い感謝と共感を表明された。
※ルカーノ市長とリアーチェに暮らす人々を追った2015年ルポルタージュ。市長は、リアーチェは日常にあるユートピアと定義。この時すでにルカーノは、サルヴィーニ に「ここにきて、現実を見て欲しい」と語っている。サルヴィーニは3年も前から、リアーチェをターゲットにしていたようです。
2017年のISTATの統計では、リアーチェには人口の26.2%を占める470人の外国人が生活。1998年、地中海を渡ってきた、72人の子供たちを含む184人のイラク、シリア、トルコからの難民(全てクルドの人々)を受け入れた、最初の試みの成功からルカーノはさらに夢を膨らませ、それから20年をかけ、アフガニスタンやナイジェリア、エリトリア、ソマリア、カメルーンなど各国からの難民の人々を次々と受け入れていくことになりました。2001年にはトリエステとともに難民受け入れを表明した最初の街として名乗りをあげ、それがやがてSprar(亡命を求める難民の人々を保護するシステムー内務省が基金を拠出)に発展します。
カラブリア州は美しく、豊かな自然に抱かれながら、そもそも『ンドゥランゲタ』の本拠地であり、ドラッグの輸出入、売買だけでなく、産業ゴミに絡む犯罪、森林放火、また難民の人々を餌にした悪どいビジネスが、次から次に展開されています。しかも地域の実力者とも密につながっている、というがんじがらめの環境なのです。そのカラブリアにありながら、リアーチェというちいさい街がマフィアとの関わりを一切持つことなく、平和的な難民受け入れモデルを維持できたのは、ひとえにルカーノの強い信念の賜物でもありました。ルカーノは、映画『I cento passi (ペッピーノの百歩)』のモデル、アルド・モーロ元首相が殺害された1978年5月9日同日、『コーザ・ノストラ』に惨殺されたペッピーノ・インポスタートに強い共感を持つ人物でしたが、ルカーノ自身も何度もマフィアに脅迫され、街の壁に銃弾が撃ち込まれたことがあったそうです。
その、世界に賞賛されたドメニコ・ルカーノが、突如として『逮捕』されたのは10月2日の早朝のことでした。ニュースが流れた途端、各メディアに衝撃が走り、SNSのタイムラインにも「ミンモ・ルカーノが逮捕された? どういうこと?」と、どよめきに満ちた。これまでも国の規定には沿わないモデルであるために、リアーチェの合法性にはさまざまな議論があり、さらには内務省から拠出される基金の使途明細漏れで、調査が入っていたそうですが、まさかこのような、寝起きを襲った大げさな『逮捕劇』が繰り広げられるとは、誰も予想していませんでした。
発端は、2016年の県の調査で「システムに異常がある」と報告されたことに遡ります。その時点から、身分証明書を持たない、つまり非合法の難民の人々を、規定を逸脱して受け入れたうえ、収賄、汚職に関与している、と疑われ、検察の捜査がはじまっています。と同時に当時の『民主党』政権は、リアーチェへの基金拠出をいったん中断したそうです。当然のようにルカーノは「わたしは一切不正を働いていない。調べれば分かるが、わたしには一切財産などないし、秘密口座も持っていない。難民の人々を巡るこのようなシステムでは、明細が不明な出費があるのはどうしようもないことだ。それに基金の拠出は常に大幅に遅れていた」と主張しました。また、ルカーノを知る、有名無名のすべての人々は「彼ほど正直な人物はいない」と口を揃えています。
いずれにしても、2017年に調査を行ったレッジョ・カラブリア県は、「リアーチェ・モデルはたとえ違法の可能性があっても、そのあり方には感嘆せざるをえない」と叙情的に調査書をまとめています。経済紙 Il sole 24 oreの2018年、2月27日の記事の一部を引用したいと思います。
リアーチェの「学校は様々な人種の子供たちの歓喜に満ち」「サハラからやってきたコックがピッツァを焼いている」木工細工、ガラス、陶器、ウール工房が並ぶなか、「絶望から逃れてきた男性たちと女性たちの住居は、古い簡素な家だが、とても清潔で整頓されていて、それぞれの部屋には、どことなく彼らの故郷を思わせる気配が漂っている」「傾斜でできた自然の入り江に差しかかる曲がりくねった道を歩くうち、まるで隠されていたかのようにちいさな家が次から次に現れるのだ」「(難民の人々を)受け入れ、未来へ投資するために創出され、発明された特異なミクロコスモス」狭いベランダの下にあるバールでカード遊びをする老人、学校に行く子供たち、公園、木工の人形に色付けするクルド人、機(はた)を織る、あるいは家事に忙しい女性たち。牧畜する人々、畑を耕す人々、リアーチェの市民、難民の人々が、互いに調和しあって生活している。「リアーチェはカラブリアにとって重要である。その存在はこの地域を素晴らしいと語ってもらえるに足る、特徴的なモデルだ」
このように、世界からもレッジョ・カラブリア県からも絶賛されたリアーチェにも関わらず、検察の捜査は夏ごろから急転直下、結局「非合法に滞在する外国人の違法援助」と断定され、ドメニコ・ルカーノは自宅待機という形で逮捕されることになった。「ビザ取得のために難民とイタリア人との偽装結婚をオーガナイズした」など、そのいくつかの罪状のひとつに「公的なリストに登録していないゴミ業者に街の清掃を依頼していた」というものが含まれていましたが、そのゴミ業者というのはロバに籠をぶら下げてゴミを拾い歩く、難民の人々が運営するアソシエーションだった、というまるで笑い話のような話です。多くの支持者たちは「それらは難癖だ。リアーチェ・モデルが平和に機能したからこそ、当局から閉鎖に追い込まれた。当局にとって目障りだったからだ」と声をあげています。
実際、まさにこれこそビジネス、と呼びたくなりますが、リアーチェのすぐ近くにあるクロトーネ県では、亡命を希望しながらヴィザの取得ができない難民の人々を援助するセンター(Cara di Isola Capo Ravolto)を設立するために、3年間で6千万ユーロの助成金を申請し、ルカーノが20年間をかけて作ったリアーチェ・モデルを否定しながら、内務省の移民局が試算した助成金をすでに受け取っているのだそうです(レスプレッソ誌)。一方、ルカーノたちがプロジェクトした難民救済システムSprarは、逮捕と同時に内務省から強制的に閉鎖を要請され、基金拠出が中止されました。
ルカーノ市長逮捕のニュースがイタリア全国に駆け巡った直後、マテオ・サルヴィーニは「なんてこったい。善良主義の奴らがどんな顔をするか、見てみたいもんだよ」と、とても内務大臣とは思えない、非常識な冷笑ツイートで、リアーチェを応援していた人々を『挑発』、その日のうちにSNSで呼びかけが起こり、ローマ、ミラノで大がかりな抗議集会が開かれています。
その数日後に開催されたリアーチェでの抗議集会には、行き着くのがなかなか難しいイタリア半島の南端に、6000人以上の人々が集まり、ルカーノが今まで作り上げたミクロコスモスに共生する難民の人々と市民、そしてイタリア全国の有志が溢れかえりました。ルカーノの自宅前まで行進した人々は「ミンモに自由を!リアーチェは逮捕できない」と口々に叫び、伝統的パルチザンの歌である『Bella Ciao』を大合唱。感極まったルカーノが涙ぐむシーンもあった。集まった誰もが、「これはリアーチェだけの問題ではない、人間性、文化を問う抗議だ」と断言。アフリカ人の青年は「ミンモこそノーベル平和賞にふさわしい人物」と叫ぶようにインタビューに答えています。合法、合法、と言いますが、『人種法』が合法だった時代もあるわけで、法律は時代とともに変化する相対的な基準でしかなく、『絶対』でない。ルカーノは法を超えた、友愛の次元で世界から絶賛されていたのです。
※リアーチェの抗議集会に詰めかけた人々。
それに引き換え、サルヴィーニがルカーノ市長の逮捕の直後にFacebookで投稿した「難民たちは俺たちの仕事を取り上げ、しかも盗んだり、悪事を働いたり悪質。自分はリアーチェで働いていたが、給料ももらっていない」などとビデオで語っている市民は、なんと『ンドゥランゲタ』の関係者だったということが判明し、そういえば「自分の言葉には責任持てない」とその市民はビデオでもはっきりと言っていました。こうして、内務大臣自らフェイクニュースを流していたことが再び明らかになり、世界各国、なんだか少し狂いはじめていることを実感します。
10月13日、リアーチェは当局から一方的に解体が宣告され、今まで街で暮らしていた難民の人々は、それぞれに別の場所にあるセンターへと振り分けられることが内務省から発表されましたが、し難民の人々が「リアーチェを絶対に離れたくない」と主張し、たちまちのうちに抗議集会が開かれ、その結果、強制的に連行されることは中止になりました。メディアのインタビューには、「僕はここで死ぬんだ」「ここ以外には行くところがない」と彼らは力なく語っています。
そうこうするうちに、大御所であるイタリア全国パルチザン協会A.N.P.I.の会長が、リアーチェを巡ってシーンとしている『5つ星運動』のメンバーに、「サルヴィーニの蛮行にそっぽを向かないで止めて欲しい」と懇願する事態にまで発展しました。ルカーノが希望と理想を抱いて作り上げた、南イタリアの質素な、しかしあらゆる人種が調和しながら平和に、温かく暮らすユートピアであるリアーチェ・モデルが、たった2週間で簡単に解体されたことは、イタリアの良心を打ち砕く、悲しく野蛮な出来事です。10月16日にルカーノは釈放されましたが、リアーチェに留まることは許されず、その日のうちに家をたたんで立ち去らなければならないという、あまりにあからさまな悪意を見せつけた当局の決定でした。
当のサルヴィーニは、今回のミンモ・ルカーノの逮捕を政治的な問題にするつもりはなかった、と発言しているようですが、成り行きを見る限り、今回の逮捕劇に政治的な動機がなかったとは考えられません。むしろ、難民の人々が幸せに暮らすリアーチェを存続させないための、明らかな政治弾圧、「見せしめ」でした。
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