イタリア国外ではあまり語られることはありませんが、60年代後半から80年代前半にかけてのイタリアは、もはや「市民戦争」、あるいは「内戦」ともいえる、すさまじいバイオレンスが吹き荒れた時代です。
とはいえ、もちろんわたしはそのころのローマを知らないので、その時代を生きた周囲の人々から話を聞く以外には、その時代のイタリアに流れた空気感を知る手立てがありませんでした。Anni di piomboー『鉛の時代』と呼ばれる時代を生きたローマの人々が「今から思うなら想像もできない、暗く、悲しく、恐怖に満ちた時代だった。よかったよ、平和になって」とため息をつくのを、さまざまな事件の詳細を調べるまでは、漠然としか理解できないままでもありました。
タイトルの写真は、『鉛の時代』をシンボライズするイメージともなった、イタリアでは有名な写真(Paolo Pedrizzetti撮影)です。イタリア全国で学生運動が繰り広げられ、右翼、左翼、そして当局との衝突がピークを迎えた1977年、5月14日のミラノで行われた抗議デモのワンシーン、学生と思われる若者が、警察に向かって発砲する姿は、今のイタリアからは到底考えられない、ショッキングな光景です。海外でも名を馳せる、欧州の歴史上、最も大規模なテロ集団Brigate Rosseー『赤い旅団』の活動が次第に大きく常軌を逸しはじめたこの時代、テロ集団(極左、極右いずれにおいても)のメンバーではない普通の青年が『武装』するという事態にまで、テロが常態化します。
多少時間はずれますが、日本でも1959年から70年にかけて、まさに空前、ともいえる安保闘争が繰り広げられ、『赤い旅団』と比較されることも多い「連合赤軍」「日本赤軍」などの過激派が生まれました。67年に日本がGDPで西ドイツを抜いて世界第2位になったその直後、「三島由紀夫割腹」「よど号事件」(70)「浅間山荘事件」「テルアビブ乱射事件」(72)など、多くの衝撃的なテロ事件が次々と起こり、しかし日本においては、その時代の騒乱はいつしか静まり、続く経済ブーム、『プラザ合意』のあとに拍車がかかる狂乱のバブルに飲み込まれてゆきます。
最近の日本では再び安保に関わる議論、アクションが顕著ではありますが、70年代初頭までの安保闘争、抗議活動を含む一連の騒乱は、最終的には「過激派による逸脱した犯罪」で締めくくられ、「忘れるべき忌まわしい時代」としてその後の日本の社会に、表面的には影響を及ぼすことはなかったように思います。
たとえばわたしの年代は、騒乱の意味を深く考えることもなく、過去の「恐ろしい出来事」「思想=犯罪者集団」「思想は危険、政治活動はかっこわるい、時代遅れ」という考えが刷り込まれたまま、経済ブームの流れに乗って「消費こそパワー、消費こそしあわせ、短、小、軽、薄、Japan as number one、記号の集積としての都市、ポストモダン」という価値観が覆う世間を当たり前のように受け入れ、成長したわけです。
しかし、あとになってよくよく考えてみると、当時の学生たちの「権利の平等」の夢は、バブルも最高潮に達しようとした80年代後半、消費の分野において、「一億総中流」という幻想に昇華されたのかもしれません。そして「権利」の分野はともあれ、社会主義国家すら実現できなかった「消費」における平等を、一時期ではあっても実現したのは日本だけかもしれない。
それも今となっては「一抹の夢」、今の時代からは想像もつかない「お祭り」のような経済ブームでした。そのころの日本には精神的閉塞感はあっても、みなの目の前に可能性の海が広がっているようでもあり、「いつか何もかもがうまくいく」そんな楽観的な空気が世の中に満ちていました。そしてファッション、芸術、映画、演劇、文学、アニメ、音楽の分野で、多くの日本人アーティスト、デザイナー、作家、サブカルが世界から大きな注目を浴びた時期でもありました。
ともかく、日本の過去のことは、いったんさておき、話をイタリアに戻したいと思います。
したがってイタリアの『鉛の時代』は、日本の政治混乱の後半に重なってはじまり、われわれ日本人がバブル景気に我を忘れそうになった80年代前半(なお、92年、93年の、マフィア『コーザ・ノストラ』による一連の検察官殺人事件から、「ジョヴァンニ・ファルコーネ爆破事件」「パオロ・ボルセリーノ爆破事件」、ローマ、フィレンツェ、ミラノ爆破事件までを『鉛の時代』とする説もあります)まで、大規模爆発事件、虐殺、暗殺、誘拐、終わりなき政治的武装衝突が繰り返されるという、きわめて不安定な時代が続くということになります。
テロ集団のモデルケースとして大きくフォーカスされる極左グループ『赤い旅団』の暴走のみならず、国家、ネオファシストグループ、秘密結社『ロッジャP2』、CIA、NATO、SID (servizio informazioni difesa-内務省諜報局)、SIFAR(Servizio informazioni forza armati-軍諜報局)ーいずれも現在は解体ー、マフィア、ヴァチカンが理解不能なほどに入り乱れ、テロが日常となり収拾がつかず、日本とは比較できないほど多くの無辜の市民が犠牲にもなりました。
80年代以後のイタリアは、日本ほど大きな経済ブームに沸くことはなく、つまりその騒乱が経済ブームにかき消されることがなかったため、『鉛の時代』は忘れられることのない「悲しみと謎に満ちた記憶」として、人々のこころに刻み込まれてもいます。その時代から30余年が経った今でも、当時のそれぞれの事件のメモリアルデー、たとえば『赤い旅団』による『元首相、アルド・モーロ誘拐殺人事件』が起こった3月16日に、新たな手がかりが見つかって、当時の捜査が蒸し返されたり、新たな捜査が開始されたりもする。
イタリアの人々は、なかなかその時代を過去に置き去りにすることができないのです。立ち寄ることの多いアルジェンティーナ広場の、イタリアで最もポピュラーな書店『フェルトリネッリ』の棚には、常に300冊を超える『鉛の時代』関連の本が並び、続々と新刊が増え続けているという状況です。後述しますが、この書店もまた、『鉛の時代』と深い関わりを持っています。
もちろん、現代ローマの人々は何事もなかったようにケロッとした顔をして、エネルギッシュな日々を送ってはいますが、人々の記憶からその時代の亡霊が消え去らず、あるとき突然蘇るのは、どの事件も事実の90%は暴かれながらも未解決のままうやむやに、悪夢として時代を彷徨っているからでしょう。しかしその悪夢はまた、へえ、と驚く意外な慎重さ、用心深さで世界の動きを捉えることに長ける、新しい世紀を生きるイタリアの人々の教訓となっているのかもしれません。さらに言えば、その痛ましい時代は、イタリアにおける『民主主義』の意味、そして謎に満ちた行政、司法の有り様を、個々の人々が再確認するために、重要な役割を果たしているようにも思います。
戦後から80年代初頭まで、冷戦期イタリアの、この騒乱の裏の注目すべきメカニズムとして、「欧州諸国の共産主義化を食い止める」という名目において、米国CIAと欧州各国の諜報機関、イタリアのシークレットサービスSID、軍諜報 SIFAR幹部、そして少数の政治家の合意による『グラディオ作戦』(stay behind)と名づけられた謀略が張り巡らされていたことが、いまや明白な事実となっています。
その『グラディオ作戦』下、イタリアにおいては、『緊張作戦』(Strategia della tensione)と呼ばれる謀略下、数多くのテロが、米国CIA、イタリアSID、SIFAR、そして北大西洋条約機構NATOも加わり、イタリア極右団体Ordine Nuovo(New Order)とともにプロジェクトされた、と一般的に認識されています。もちろん、その状況下、CIA、英国MI6などの西側諸国のエージェントだけではなく、KGBを含む東側各国のエージェントも参入し、国内の混乱にさらに混乱を上乗せる諜報ゲームが繰り広げられた可能性があることは、想像に難くありません。
『鉛の時代』の幕開けとなった1969年の「フォンターナ広場爆破事件」、そして最も多くの無辜の市民を犠牲者にした1980年の「ボローニャ駅爆破事件」まで、毎年、毎月、驚くほどたくさんの爆弾が、市民が日常生活をおくる街角に仕掛けられ、多くのジャーナリスト、司法官、検察官、作家が暗殺され、学生、工員が銃で撃たれた。この「緊張作戦」のルーツは1947年にパレルモで起こった、イタリアの戦後最初の大量虐殺事件「ポルテッラ事件」(労働組合のフェスタを、『コーザ・ノストラ』が襲撃した事件)まで遡れるとする学者もいます。また、イタリア国内での『緊張作戦』の実現について、CIA、SID、SIFAR、そしてイタリア極右団体幹部が合意したのは1965年、とされています。
騒乱の最中、常に疑われてはいても証明することができなかった、各国諜報とイタリア極右団体が合作したその謀略の存在を、まず、極右グループに属していたテロリスト、ヴィンチェンツォ・ヴィンチグエッラが1984年、取り調べの過程で暴露しました。72年、ポテアーノで起こったカラビニエリ(軍所轄の警察)3人をフィアット・チンクェチェントに仕掛けた爆弾で、爆破殺害した事件の実行犯として逮捕されたその極右テロリストは、事件のあと、SIDのエージェントに助けられてスペインに逃亡したことを自白しています。
また、1990年には、当時首相であったアンドレオッティが「グラディオ」プロジェクトの存在を認める発言をもしています。さらに『鉛の時代』、防衛庁補佐官として「グラディオ作戦」の参事であったとされるフランチェスコ・コッシーガは「アルド・モーロ、パオロ・エミリオ・タビアーニ、ガエターノ・マルティーノ、SIFAR(軍諜報局)のムースコ、ディ・ロレンツォ大佐が『グラディオ作戦』の父親である」とも語っています。しかし、のちにイタリアの大統領にまでなったコッシーガには疑わしい発言が多く、残念ながらあまり信用できない、と言わざるをえないでしょう。
特に、のちに『赤い旅団』の犠牲となったアルド・モーロが「グラディオの父」であったという説は荒唐無稽であり、長年、政府の中枢にいた経緯から、プロジェクトの存在は知っていても、直接には関わろうとしなかったからこそ事件に巻き込まれた、と考えられているのです。
いずれにしても、そのころのイタリアは、ほかのどの欧州の国々より、共産党勢力の台頭がめざましく、民主主義の政体下、つまり選挙を通じてPCI『イタリア共産党』が大躍進し続けた時代です。また、そのころの第一党であった『キリスト教民主党』には、党内にグラディオ作戦に関わったと推測される大物政治家が多く存在してはいますが、一応は中道<中道左派(『イタリア社会党』と連立を組んでいたため)とカテゴライズされます。
ところで、そのグラディオ作戦、イタリアにおいては『緊張作戦』として実行された謀略について、イタリア語のWikipediaに興味深い記述があります。
この Starategia della tensioneという表現は、実は英語のstrategy of tensionからきている:英国の週刊誌 The Observerが創作したものだ。1969年の12月7日ーフォンターナ広場爆破事件のたったの5日前ーにLesie Finerというジャーナリストの記事内で、はじめて使われた。MI6、英国のシークレットサービスが、イタリアのギリシャ大使館から持ち去った機密書類を基に構成されたこの記事で、Finerはギリシャの軍事政権を支持したアメリカ合衆国の政治ー軍事作戦について語っている。この作戦は地中海沿岸諸国の民主主義政府に焦点が向けられ、それらの国でテロ活動を活発化させ、軍による専制体制を樹立させることを目的にしている。
また、ガーディアン紙も類似の記事を掲載しましたが、「フォンターナ広場爆破事件」の後も当時のイタリアメディアは、これらの英文記事にはほとんど注目しなかったようです。
δῆμος (démos): popolo e κράτος (cràtos): potere:「民衆と力、民衆による政治」、デモクラシー発祥の地であるギリシャが、クーデターにより軍事独裁政権下にあった時代の話です。そのころのイタリアのネオファシストグループは、共産主義勢力の脅威とムッソリーニへのノスタルジーも手伝って、ギリシャの軍事政権におおいに共鳴していたと言います。CIAはイタリアにおいて政治対立するグループの動向をくまなく観察、ネオファシストたちの不満を共産主義封じに利用しようとしたわけです。
この作戦の目的は、イタリアの中道左派政府(『キリスト教民主党』+『イタリア社会党』)、そして、その政府への外部からの参画(Apoggio Esterno)を目の前に控えた『イタリア共産党』による民主主義政府を不安定化させ、イタリア国内にクーデターを実現し軍事政権を樹立、日増しに強くなるソ連、共産主義の脅威を地中海沿岸諸国で封じ込めることでした。そしてその謀略には、当然ながらNATO諸国も参戦します。ちなみに英国のメディアが報じた記事に関して、当時、騒乱の渦中にあった年代の人々の間では、戦後のイタリアは英国諜報の管理下にあったと信じられてもいて、べつだん不自然とは感じられないことだった、との証言もありました。
余談ではありますが、最近、グレン・グリーンウォルドが書いた、エドワード・スノーデンのNSA機密情報告発「暴露」に記されていた、FBIの国内向け対敵諜報活動「コインテルプロ」の計画から、一般的な諜報のダイナミズムが理解できます。FBIのこの計画は、反戦活動家の暴露から明らかになったものだそうです。
コインテルプロ計画の存在を暴露する文書が公表され、FBIがありとあらゆる政治団体や活動家を危険分子と見なし、諜報活動の標的に定めていた事実が発覚したー全米有色人種地位向上協会も、黒人民族主義運動家も、社会主義・共産主義団体も、反戦活動家も、右翼団体も、作戦の一部として、FBIはそれらの団体に工作員を送り込み、メンバーを犯罪行為に誘導しようとまでしていた。罪を犯させたところで逮捕し、起訴するというのがFBIの魂胆だった。
もちろん、それぞれの国のそれぞれの時代背景、状況が異なるわけですから、国内諜報であるFBIと各国国内の諜報、あるいは国際的なフィールドで活動するインテリジェンスを、同様に捉えるわけにはいきませんが、あらゆる政治活動を観察し、その隙間を狙う、またはその政治活動を利用して謀略を企てることが、諜報の、そもそもの仕事のひとつでもあります。『鉛の時代』のイタリアにおいても、「もともと火種のある政治的に対立するセクターに、スパイとしてエージェントが入り込み、活動に油を注ぎ、体制を不安定化させる」というメカニズムが構築された、ということが、のちの捜査で明らかになりました。
とりわけインターナショナルな活動をするインテリジェンス組織というものは、何者にも属さない、ひょっとしたら、その組織を所有しているはずの国家にすら属さない可能性もある、「権威者」が明らかではない組織です。『鉛の時代』に張り巡らされた謀略もそうでしたが、今のような何もかもがグローバルな時代は、各国入り乱れるインテリジェンスの活動が、単純に国益のためだけになされている、と考えるわけにはいきません。
わたし個人は「陰謀、謀略説は、にわかには信じがたい。いや、信じるべきではない」と常日頃から思ってはいますし、巷で騒ぎになる陰謀論については、基本的にはまったく信用しません。しかし『鉛の時代』のように、50年を超える時間、夥しい数のジャーナリスト、検察官、司法官、政治家により、あらゆる謀略のメカニズムの詳細が、微に入り細に入り検証され、謎も含めて明らかにされた近代の史実を突きつけられると、「なるほど、世界というものは、このように出来上がっているものなのだ。目に見える世界のほかに、別の世界があるのだ。われわれの知り得ない意志をも含んで時代は動いているのだ」と、ある種、感嘆すらします。
そういうわけで、『鉛の時代』に起こった事件の詳細、そのメカニズムと謀略の有り様を、もちろんわたしが知りえる情報のみ、それも主要紙をはじめ発行された新聞、放映された報道番組、あるいは信頼できる書籍、ネット情報に基ずいて、これからいくつか少しづつ、休み休み書いてゆこうと思っています。また、その時代、学生として政治活動に関わっていた人々のインタビューも行い、時代の空気、当時の活動を語っていただきました。
イタリアの歴史のなかでも、なかなか一筋縄ではいかない時代です。その時代を生きた人々の時間を追体験することも、わたしにとっては、知らなかったイタリアへの冒険旅行かもしれません。そしてこの冒険旅行から、何か違う次元の世界が垣間見えるかもしれない、とも考えています。