もちろん爆弾が飛び交っているわけではありませんが、見えない敵との厳しい闘いは、いまだ続いています。国家市民保護局とISS(国家高等衛生機関)により、毎日18時のプレスで発表されるその日のCovid-19の総感染者数の増加率が5%を切り、安定はしはじめても、なかなか好転しないデータに直面するたび、重く、張りつめた気持ちになる。暗いトンネルの中、長い道のりが目の前の闇に続き、遥か向こうに、うすぼんやりとした淡い光が見えては消え、消えては見える、希望と失望の繰り返しです。それでもここ数日は、ようやく感染状況が減少トレンドに入り、少なくともどこへ向かえば良いのか、出口の方向が見えてきました。
イタリア全国がロックダウンとなって、4週目に突入しました。
あっという間のようにも、長かったようにも感じます。しかし毎日緊張して暮らしてはいても、いったんロックダウンとなり自宅待機に入ってしまえば、Covid-19に「感染する=感染させない」可能性が著しく低下するため、精神的にはぐんと落ち着きます。
ただ、親しい人々と会うことができない日々はちょっと寂しくもあり、いつもよりはSNS上でのメッセージの回数も増え、しばらくは会えないであろう友人たちをより近く、大切に感じる気持ちが強くなった。「距離にためされて、ふたりは強くなる」という昔のJR東海の広告コピーをなんとなく思い出しました。
もちろん、距離にためされるのは3人でも10人でも1億人でもいいんですけれど、理想をいえば、フランシスコ教皇がおっしゃるように、もはや同じ船に乗る「運命共同体」となった地球人口76億人±すべての人々、国々が、この得体のしれないCovid-19との、非常識きわまりない世界戦争に、互いに鎖国しながらも一丸となって協力。強い絆を深める夢のパラドックスが実現すれば、こんな嬉しいことはありません。
実際4月1日には、少し最近まで、イタリアが外国に注文していた大量のマスクを税関で堰き止めていたトルコが、一隻の大型船いっぱいの医療器具をイタリアに送ってくれる、というサプライズもありました。ちなみに、あちらこちらの国の税関で堰き止められていたイタリア行きのマスクは、ブローカーたちによってネットに流され、高額で売られているのだそうです(ミレーナ・ガバネッリ)。
今のところはまだ、いつになるか先が見えないポストコロナのイタリア経済の見通しは、予測できないほど暗く、社会に茫洋とした不安が広がるなか、エゴと欲望に魂を奪われた経済ハイエナたちまでウイルスに怯え、なりを潜めている間は、なるべくお花畑な考えで封鎖を乗り切りたい所存です。ソーシャル・ディスタンシングで同じスペース内でも誰もが距離をおき「咳をしてもひとり」。素直に日々心配し、悲しくもあります。
さて、ロックダウンの1週目はイタリア中で士気も上がり、あちらこちらで斉唱された国歌や各家庭のバルコニーで繰り広げられた歌や踊りも、4週目ともなるとずいぶん静かになりました。それでもネットで発信されるオーケストラやミュージシャンのデジタル・ライブ、送られてくる友人のジョークにはずいぶん助けられます。
イタリア全国に発令されたこのロックダウンは、当初の予定では4月3日で解除されることになっていました。しかし現在のデータから判断して「復活祭までの解除はありえない」と数日前からISS(国家高等衛生機関)が言及していたように、少なくとも復活祭の次の日であるパスクエッタ、4月13日まで延長されることが決定された(追記:4月10日に5月3日までの延期が発表されました。詳細は7ページの4月10日の資料とともに記載しています)。イタリアのパスクエッタには家族や友人たちが集まって、ピクニックや外食を大々的に楽しむ習慣があるからです。
毎日発表されるデータでは、感染の増加が緩やかにはなっていても、犠牲者の方が15887人(4月5日)となり、いったい何が起こっているのか、毎日目を疑う、過酷な状況です。したがって「今すぐ封鎖解除なんてとんでもない」と疫学にはまったく暗いわたしでも思います。
それにも関わらず、経済のいっそうの落ち込みを心配したマテオ・レンツィ元首相(現Italia Viva)が「工場や商店を今すぐ再開すべき」と大騒ぎしはじめ、それを受けたISS(国家高等衛生機関)の局長は「いったい何を言っているんだ。封鎖解除だなんて。そんな言葉はしばらくの間、考えから消し去ってほしいね」と、コリエレ・デッラ・セーラ紙のインタビューで発言したという経緯がありました。
「この封じ込めの規制の効果が明らかに見えてもいないのに、日常に戻ろうとでもいうのか。ありえない」と、「解除」を囃すレンツィ元首相はぐっさり釘を刺されることになったわけです。
「初期のレッド・ゾーン、特にコドーニョでは封鎖の効果を明確に見ることができるが、イタリアの他の地域では3月9日(全国的には11日)から封鎖がはじまっているんだ。たったの2週間(ほぼ3週間ではありましたが)では効果はまったく見えない。明確な効果を見るには、少なくとも4月末まで見なければいけない。あと2週間は封鎖するのが論理的な判断だ」
人が生きていくうえで、経済はもちろん基盤であり最重要な要素ですが、その経済を支えているのは市民に他ならず、市民の健康なくしては、経済そのものが成立しません。おそらく経済界や金融界にそそのかされたであろうマテオ・レンツィが、急に騒ぎはじめたことは、われわれの目には本末転倒としか映りませんでした。
戦後のイタリアを創り上げてきた、当局やメディアが「イタリアの財産。偉大な賢者たち」と呼ぶ、たくさんの高齢の方々や、持病をお持ちの方々が、家族の誰からも看取られることなく、次々にお亡くなりになっている状況で、「経済のために封鎖を解除する」などと言い出すなんて、非常時になればなるほど、人の本性というものがあらわになります。
パラダイム・シフト
ただ家にじっといて、SNSで友人たちとおしゃべりしたり、新聞を読んだり、過酷なニュースに涙しながら、非現実的な「封鎖という日常」を送っていても、新型コロナウイルスとの世界バトルが、経済システムそのものを一変させるほどの歴史的重大イベントになる可能性を秘めていることは、さすがのわたしにも何となくわかります。このまま、あれよあれよという間にパラダイム・シフトが起こるかもしれない。
だいたい「堅牢である」と人間たちが自信満々に思い込んでいた現代社会そのものが、目には見えないミクロの有機体の増殖に、いまだ解決策を見出せず、世界もろともウオサオするほど脆弱な『砂上の楼閣』であったことが見事に証明されたわけです。
インド哲学が言うところの『マーヤー』という言葉が思い出されるとともに、医療テクノロジーが華々しい発展を遂げ、AIやロボット談義で賑わっていた人類万能感のわりに、未知の疫病への対策はどうだったのか、といえば、ボッカチオの時代からそれほど変わってはいませんでした。
つい先日のことです。スーパーマーケットで、ffp1(欧州基準)マスクをかけた顔見知りのレジの青年に「生きている間に、まさかこんな不条理なイベントが起こるなんて予想してなかった。いったいどういうこと?」と愚痴ると、彼はわけ知り顔で知的な視線を投げかけた。
「いいかい。世界はいくところまでいってたんだよ。崩壊寸前のところまでシステムが腐っていたんだ。このまま経済が破綻して、世界が国粋主義に染まって分裂するのか、それともこれを機会に協調できるのか。今が勝負どころだね。映画みたいだけれど、それがリアリティだ」と呟いて、「悪い。10セントが足りないから、これで」とおつりの代わりにコーヒー飴をふたつくれたのです。
確かに、世界が新型ウイルスの攻撃に震撼し、日常に絶え間ない緊張と不安が走り、世界経済システムが激動しています。
「しかしひょっとすると、近い将来、今までとはまったく異なる未知の世界が待ち受けているかもしれない局面でも、われわれ庶民は意外と呑気に平常バイアスを保ったまま、ずるずると巻き込まれるのかもしれない。しかも破滅的かもしれないその未来を、意外と冷静に客観視できるものなのだ。第二次世界大戦の時代も、こんな風に普通の日常社会に、突然次々と爆弾が降ってきたのだろうか」
と、そんなことを考えながら、苦味走ったコーヒー飴を頬張って、他の人との1m以上の距離規制を厳格に守りつつ、まっすぐ家に帰った次第です。
日によっては亡くなる方が500人、600人と目を覆いたくなる数字となり、そのひとりひとりの方の残された家族、友人の方々を思うと祈るような気持ちになります。
また、他の国々同様に、病院、介護センター、修道院など高齢の方、身体の自由が効かない方が多くいらっしゃる場所でクラスターが発見されることが多いのは、どうにもやりきれないことです。今のところ毎日5%を切る増加率で、爆発的な感染は見られないローマ市があるラツィオ州でも、毎日じわじわと感染者の数が増加し、総数が3880人(4月5日)となりました。
▶︎本当にイタリアは医療崩壊したのか