そののち、15年もの長期間に渡って続く『鉛の時代』と呼ばれる、イタリアの悲劇の時代は、ミラノの『フォンターナ広場爆破事件』を皮切りに、前触れなくはじまることになります(タイトル画像は、1969年12月12日、ミラノ全国農業銀行で、爆発が起こる寸前の16時37分の様子が描かれた劇画。「チャオ、フェラーリ、子供達は元気かい」「元気だよ。君の家族はどうだい?」、その日、クリスマス前の銀行では、のどかな会話が交わされていました)。
もちろん、当時の人々は、その事件の裏に謀略が張り巡らされていたことなど知る由もなく、多くの無辜の市民が巻き込まれた Banca Nazionale dell’agricoltura-全国農業銀行で突然起こった、大規模な爆破事件に、イタリア全土は恐怖と悲嘆にくれ、何が起こっているのか、まったく理解できないままに、そののちの不穏な時代へと突入していくことになりました。この『フォンターナ広場爆破事件』では17人の方々が亡くなり、88人もの人々が重軽傷を負っています。
事件が起こる以前の、1960年代のイタリアは、戦後、ファシズムの呪縛を解かれ蘇った『民主主義』の理想のもと、市民側からさまざまな価値観が提示され、デモや集会など、それぞれの『権利』が主張された、いわば市民たちによる『実験的で活力に満ちた』時代であった、と一般には捉えられています。1963年に、当時のイタリア喜劇映画の マエストロ、マリオ・モニチェッリ監督が、1800年代後半のトリノの巨大工場を舞台に、当局に追われながらも工員を扇動する左翼思想教師(マルチェッロ・マストロヤンニ)を配した悲喜劇『I campagni-同志たち』を制作していますが(アカデミー賞で脚本賞を受賞)、この映画の思想的背景は、時代に漂う「立ち上がる労働者」という社会の「うねり」を反映している、と捉えてもいいかもしれません。
60年代のイタリアは、過酷な労働条件改善のため、労働者グループが長期ストライキを試みたり、学生たちもその闘いに共闘し(やがてそれが69年の「熱い秋」へと発展するわけですが)、マルクスだけではなく「毛沢東語録」などを読み、中華人民共和国の政体に憧憬を抱き熱狂していた時期でもあります。また60年代の後半、過激な闘争に発展する以前は、労働者たち、学生たち、それぞれの政治活動、デモなどに目立った衝突もなく、比較的緩やかで牧歌的な「革命」の気運が流れてもいたとも言います。いずれにしても、当時中国の「革命」に憧れを抱いた学生たちは、のちにその凄惨な状況を知ることとなり、おおいに失望し、一時であっても、それを支持したことで「深く悔恨の念に囚われた」という告白を、その年代の人々から多く聞くのも事実です。
50年代、60年代、イタリア国内の経済は、マーシャルプランの恩恵を受け、次第に発展していきますが、しかし経済発展と同時に労働条件はさらに過酷になり、60年代後半ともなると、その状況をめぐって、学生、労働者で構成された左翼グループ、アナーキズムの運動が活発化しはじめます。またこの時代、「イタリア共産党」が国政選挙のたびに躍進し、市民の生活に大きく影響しはじめることになりました。
そのころのデモ集会やストライキに参加する、工場労働者の人々のインタビューをYoutubeなどで見ると、「ストライキは民主主義における、労働者の当然の権利だ」と力強く主張していて、「なるほど、現代のイタリアで、「今日もストライキ?」 と、あらゆる業種でストライキが多いのも、この時代に端を発しているのだ」と思わぬところで、そのルーツに出会うことにもなったわけです。
その、市民による民主主義における実験的な政治活動が盛んになりつつある時代の水面下、イタリア軍部、そして内務省のシークレットサービス、ネオファシスト=極右グループは、CIAなどの国際諜報、NATO諸国のインテリジェンスとともに、1967年、クーデターによる軍事専制国家となったギリシャと同様に、イタリアに軍事政権を樹立しようと目するプロジェクトを練りつつあったということは、それから20年以上が経った80年代に明らかになります。
ネオファシストグループのテロリスト、ヴィンチェンツォ・ヴィンチグェッラが取り調べの途中、「1965年、ローマのホテルParco dei Principiにて、軍部高官のオーガナイズによる会議が行われ、ネオファシストOrdine Nuovo (オーディネ・ヌオヴォーMSI(政党『イタリア社会運動』の幹部、ピーノ・ラウティが結成した当時の主要ネオファシストグループ)幹部、警察幹部、判事、ジャーナリストなどが参加して、イタリアを、まず不安定化させ、それから一気に政情を安定化へと導くことを目的とした「Strategia della tensioneー緊張作戦」の具体案が提示された」と、供述、謀略の存在をはじめて明らかにしました。
冷戦期、欧州の共産党勢力の拡大を恐れた米国CIA、北大西洋条約機構NATOの、共産勢力を地中海沿岸諸国で封じ込める謀略、Gladio (諸刃の剣)ーグラディオ作戦の一環として、欧州で最も共産党勢力が強大となったイタリアにおいては、軍部諜報局、内務諜報局、ネオファシストグループにより、緊張作戦(Strategia della tensione)」がプロジェクトされ、ローマのホテルで、ひっそりと合意されていたのです。
作戦の目的は文字通り、無防備に市民が生活するイタリア社会を強烈な「緊張」に投げ込み、政情を急激に不安定化させると同時に、政府に「非常事態宣言」を発令させ、その緊張状態と混乱のなか、クーデターによる軍事専制国家を実現しようという作戦でした。
たとえば、『フォンターナ広場爆破事件』が起こって一年も経たない1970年の7月には、「黒い君主」と呼ばれるボルゲーゼ家(貴族)のジュニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼが組織するネオファシストグループFronte Nazionale(フロント・ナチョナーレ)が内務省及びイタリア国営放送Raiを占拠するクーデター未遂事件が起こっています。ボルゲーゼ家は、ルネサンス後期に教皇パオロ5世、そののち4人の枢機卿を輩出した名門で、ジュニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼは大戦中、軍で功績を挙げた『英雄』としても名高く、さらにはスペインのフランコ政権と強い絆を結んでいたため、当時のネオファシストたちへの影響力は多大なものでした。ちなみに、このクーデターの合図は「トラ、トラ、トラ」だったそうです。
なお、この時代のイタリアには、ネオファシスト=極右グループが大小10ほどあったそうですが、そのなかでも、このボルゲーゼの「フロンテ・ナチョナーレ」、ピーノ・ラウティが率いて、数々のテロリストたちが属した「オーディネ・ヌオヴォ」、さらにそのグループから派生した「アヴァングァルディア・ナチョナーレ」が最も規模の大きく、賛同者を多く有していました。
さて、これから4回に分けて『フォンターナ広場虐殺事件』の経過を追跡していきますが、この大規模テロは、その後イタリアに起こった、いくつもの大規模テロ同様、取り調べでも、その後の裁判でも、犯人と目される人物を巻き込み、大勢の人々の証言と捜査により、真実に近いであろう事実がいくつも暴かれながらも、主犯、実行犯いずれも、有罪になった犯人が誰一人存在しない、という、理不尽な結果となっています。
『鉛の時代』を語るうえで、最も重要なこの事件は、のちにいくつもの小説、映画、報道特集が組まれ、その後何年にも渡って続く大規模テロ事件を総称して「Le stragi di stato」(国家による虐殺事件)のとも呼ばれています。現在もよく使われる、『鉛の時代』の数々の事件を総称するこの名は、弁護士エドアルド・ディ・ジョバンニ、ジャーナリストであるマルコ・リジーニ、エドガルド・ペレグリーニらが1970年、匿名で出版した分析エッセイ集の題名から取られたものです。この本は、未だ真相がまったく明らかになっていなかった爆破事件が起こった数ヶ月後に出版されたにも関わらず、事件の背後にCIA、イタリアの軍部諜報、ネオファシストによる謀略の存在があることを分析、指摘する驚異的な内容で、当時の左翼学生たちに大きな影響を及ぼしています。
しかしながら、『フォンターナ広場爆破事件』以降、『鉛の時代』に起こったテロ事件の数々を、この本の表題通り「イタリア国そのものがテロの陰謀をくわだてた」と短絡的に断定するわけにはいかないかもしれません。一般的な解釈としては(たとえば近代史家などの)大統領、首相、内閣で構成される法治国家としてのイタリア国家の心臓部に属するすべてのメンバーが、その謀略をプロジェクトした、と捉えられているわけではなく、あくまでも国家の心臓部に属する数人の政治家たち、その周縁の機関、たとえば一部の軍部官僚、警察官僚、また諜報メンバーによるものであるとされます。のちに、謀略に関係したそのほとんどが、秘密結社『ロッジャP2』のメンバーであったことが明らかになりました。これをDoppio stato (二重の国家)、国家の中心と周縁で国政に力を持つ勢力、と表現されることがあります。
いずれにしても、事件を追ううちに15年余り続いた、『鉛の時代』の一連のテロ事件に有罪者が出なかったことに、本当に当時の政府の有力者たちにまったく同意がなかったのか、司法に圧力がかかったのではないか、と疑問が残ることは確かで、何人かの当時の政府有力者たちが「グラディオ作戦ー緊張作戦」に関わっていた、いや、認識、合意していたと確信できる証言が多々あるのも事実です。実際、その作戦の存在を認識していたことを吐露した元首相(ジュリオ・アンドレオッティやのちの大統領フランチェスコ・コッシーガなど)も存在します。
この『フォンターナ広場爆破事件』から端を発した『鉛の時代』、1969年から84年までの間に、イタリア各地では60個の爆弾が爆発(8個が不発)、16の大規模テロ事件が起こり、136人の死者、770人の重軽傷者が出たにも関わらず、それぞれの事件の多くが暴かれながらも有罪者が出ない、という謎に包まれたままになっていることが、現在のイタリアに大きな影を残していることは確かです。
※マルコ・トゥリッロ・ジョルダーナ監督の「Romanzo di una strage(邦題:フォンターナ広場・イタリアの陰謀)。
また、このミラノの全国農業銀行の爆破事件は、マルコ・トゥリッロ・ジョルダーナ監督により「Romanzo di una strage(ある虐殺の物語)」として映画化され、日本でも『フォンターナ広場・イタリアの陰謀』として公開されています。事件の複雑怪奇な人間模様を含め、ドラマティックで興味深く、参考になる映画ですが、事件を扇動した嫌疑をかけられ自殺した(他殺?)とされるアナーキスト、ジョゼッペ・ピネッリと、捜査の指揮をとった警視ルイジ・カラブレージを核に、ある意味ロマンティックにストーリーが展開され、その後の気が遠くなるような長時間の経過が理解できないので、ここでは映画を参考にせず、全体の流れを、あくまで一般に認識される概要としてまとめてみようと考えます。
なお、この事件に関わる、資料に出てくるすべての人物を網羅すると、あまりの多さに混乱するため、大筋の人物だけに絞ることにしますが、この「フォンターナ事件」を追跡することで、それからの時代の流れがおおかた理解できそうです。
さて、その後のイタリアを揺るがし、大きく変容させることになったその爆破事件は、1969年、クリスマスを間近に控え、街が賑わう12月12日、夕刻に起きました。クリスマスのためのマーケットが開かれていたその日、4時30分に銀行が閉まったあとも、ミラノのフォンターナ広場にあるBanca Nazionale dell’agricolturaー全国農業銀行には多くの顧客が詰めかけていました。
そこには、帰りにクリスマスの買い物に出かけようと銀行を訪れた家族、入金、送金に訪れたビジネスマン、店主たちがホールを行き交い、日常の会話、挨拶を交わすいつもの銀行の風景が繰り広げられていたそうです。それが一変するのは、4時37分のことでした。大勢の顧客がいるホールで、突然、すさまじい大爆発が起こり、冒頭に記したように、この大規模な爆発で、17人が死亡(3人の遺体不明)、88人が重軽傷を負う(Wikipedia)。大惨事でした。
その爆発と同日、ミラノのスカラ座広場にあるイタリア商業銀行にも爆弾が仕掛けられましたが、それは不発のまま処理されています。また、同日午後4時55分にはローマ、ヴェネト通りの地下道、サンバジリオ通りのBNL(全国労働銀行)でも爆発が起こり、13人が重軽傷を負っています。さらにヴェネチア広場では午後5時20分から30分の間に2つの爆弾が爆発。つまり12月12日だけでミラノ、ローマに5つの爆弾が仕掛けられたのです。
この、突然起こったミラノ、ローマ連続爆破事件に、イタリアじゅうが震撼し恐怖に青ざめる中、ミラノ警察署が充分な捜査もしないまま、「アナーキストの犯行」と断定的に行った発表を、各メディアは即刻、一斉に報道しています。当時、政治活動を行うグループでは、アナーキストが最も過激なグループだと一般に認識されていたからですが、専門家たちは「アナーキストが通常攻撃するのは資本家、権力者であり、一般の市民を巻き添えにする無差別テロは信じがたい」と一様に首を捻ったという証言もあります。いずれにしても、即日、警察は84人の政治活動家に嫌疑をかけ、ジョゼッペ・ピネッリを含むアナーキストグループを連行、本格的な取り調べがはじまることになりました。
ところが一方ではこんな動きが起こっているのです。事件から4日後のことでした。トレヴィーゾの『キリスト教民主党』のメンバーであり、またネオファシストとも関わりがあったグイド・ロレンツォンが弁護士を伴って、警察に出頭、事件の犯人は友人の「オーディネ・ヌオヴォ」のメンバーである、ジョバンニ・ヴェンドゥーラではないか、との疑惑を告白しているのです。
ロレンツォンによると、事件後の14日に会ったヴェンドゥーラが「フォンターナ広場で爆発した爆弾をどのように作ったか、その爆弾はどのような仕組みになっていたか」を克明に説明し、「スカラ座の商業銀行が爆発しなかったのはおかしい。何を間違ったのか」などと不満を語ったというのです。ヴェンドゥーラはまた、「この爆発によって、左翼と右翼の間にもっと混乱が起こってもいいのに、なぜ起こらないのか。政府も『緊急事態宣言』を発令しない。これでだめならもっと大掛かりな他のことを考えなければならない」とも語っていたそうです。
ヴェンドゥーラという男は、ちいさい出版社を経営し、そこで右翼雑誌を発行していたネオファシストで、「自分はテロリスト組織に属し、強力な爆弾を作っている。これから政府を挑発し、クーデターを起こす予定だ」ともロレンツォンに話していました。このときのロレンツォンの話から、トレヴィーゾのカロジェーリ検事は捜査を開始し、その過程で、ネオナチズム新思想家であるフランコ・フレーダもヴェンドゥーラ同様、事件に関わる可能性をつきとめることになります。しかしこのときのロレンツォンの告白は、中枢の捜査においては重要証言とは見なされないまま、空洞化していくことになりました。
そして捜査は、まったく違う方向へと進んでいくのです。