人が暮らす現代美術館: Metropoliz、あるいはMAAM

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ローマで「現代美術館は?」と聞かれて、すぐに思いつくのはフラミニオ地区のMAXXI、そしてテスタッチョ地区のMACROというところですが、実はもうひとつ、プレネスティーナ通り913番地に、土曜日だけ公開されるMAAMMetropoliz(メトロポリツ)という巨大アートスペースがこっそり存在していることは、一般にはあまり知られていません。しかもそのスペースには、250人余りの人々アート作品と共に普通に暮らしているのです(タイトル写真は、ある角度から部屋を見ると、LE SPACE EST A VOUS. スペースは君たちのものだ、と文字が浮き上がるフランス人アーティストによる作品)。

このサイトをはじめて、ローマの「占拠」をすでにいくつか取り上げているので、余程のことがなければ、しばらく「占拠」関係には触れまい、と決心していたにも関わらず、その余程のことに再び遭遇してしまうことになりました。実際のところローマには、かなりの数の廃墟となった公共スペースの「占拠」が存在し、人の話やメディアの報道に、少し気をつけて耳を傾けると、次から次へと今まで知らなかった大がかりな「占拠」に出会うことになります。今朝も偶然、1ヶ月ほど前のスプレッソ紙が、ローマ郊外の大がかりな「占拠」について、8ページものレポート掲載しているのを見つけたところです。

そこで本題とは離れて、最初から余談になってしまうのですが、このところイタリア国内では、その「占拠」、特に市民に親しまれる有名な占拠強制退去が相次いでいます。ローマでも12月に入ってからBaobab(バオバブ)という、一般市民、医師、看護師、学生、アーティストなど、少なくとも200人以上のボランティアが関わっていた、戦禍を逃れて欧州を訪れた、難民の人々中継地サポートセンター強制退去となりました。Baobabは、2004年、打ち捨てられた古いガラス工場を有志が占拠、長年の文化活動ののちに難民の人々の受け入れをはじめるようになり、2015年の年頭からは市民の自主管理で、難民の人々にトラベルキットまで配布する、本格的な救援活動が行われていました。

「一体誰が、アンチテロリスト特殊部隊まで導入しての、この強制退去を決めたのか知らないが、今まで国家予算1ユーロ使わず、市民のボランティアだけで十分に機能してきたこのスペースを強制退去にすると同時に、市民の好意で集まった1トンのパスタ200kgのビスケット衣服倉庫医薬品が詰まった戸棚ふたつも強制的に取り除かれた。忙しい日々のわずかな自由時間を難民の人々のために割き、医療活動をしていた医師看護師もまた退去となっている。今までに35000人の難民ーその4分の1は、ボートで地中海を渡り、イタリアに到着した人々でもあるーをBaobabは受け入れている。しかもボランティアたちは、彼らの旅の途中の宿と食事を提供するだけではなく、ローマの中心街を一緒に散歩したり、サッカーの試合を観に行ったりと、何ヶ月もサハラを歩き、リビアでは牢獄に入れられ、拷問を受け、死を覚悟して地中海を渡ってきた人々を、人間同士温かい抱擁で迎えていた。国家の介在のないボランティアだけの市民救援センターが十分に機能し、発展するということを示した素晴らしい例であったにも関わらず、『強制退去』にしたのは、まさにそのボランティア活動に国家が介在する余地がなかったからかもしれない。つまり国家にとっては目障り邪魔な存在だから、根こそぎ消してしまおうとしているのだろう」(抄訳)

レスプレッソ紙のブログでは、ジャーナリストのアレッサンドロ・ジリオリがこう書き、このほかにも多くのメディアがBaobabの突然の強制退去に疑問を呈しただけでなく、SNSのタイムラインでも、残念がる声多く見かけました。

このように一般市民から多くの寄付を集め、大勢のスペシャリストを巻き込んだ、きわめて人道的な救援活動であっても違法には違いなく、「占拠」という政治アクションには常に突発的な「強制退去」の不安がつきまといます。むしろ発展的で影響力のある活動ほど、当局にとっては政治的な脅威となる。これから紹介する、巨大な現代美術館Metropoliz ーMAAM(Museo dell’Altro e dell’Altrove di Metropoliz)も、その、常につきまとう「強制退去」の緊張のなか、今まで多くのアーティスト学者有志の市民たちのサポートで維持されてきた占拠スペースです。また、イタリアだけでなく、各国から訪れた多くの著名アーティストたちが、この場所を占拠する人々を守るために作品を無償で残しています。

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閑散としたプレネスティーナ通りに突然現れる、MAAMを囲むウォールペイントされた高い塀。Fotografia Erranteより

こんなところにこんなアートスペースがあったとは・・・・」

ローマの街のはずれにある、その場所にようやくたどり着いたそのとき、入り口の巨大な壁に描かれた絵を前に、思わず上を見あげて立ちすくみました。わたしが行った土曜日は、その巨大な建物を囲む、延々と終わりなく続く側壁に、男女2人のアーティストが、ちょうどグラフィティを描いているところで、周囲をカメラビデオを手にした、数人の若者たちが囲んでいました。

ポルタ・マッジョーレ辺りからはじまるプレネスティーナ通りを、今やアンダーグラウンドミュージックの中心地となったピニェートを超え、ローマの南東にひたすらまっすぐ進むと、今まで両脇に並んでいた賑やかな商店が疎らになりはじめます。道路の真ん中を走っていたトラムの車線もいつの間にか脇に逸れ、突然道が狭くなり、と同時に風景ガラリと変わります。工場や大きな中古車屋、ゴミが積み上げられた空き地、量販を目的とした広大なスーパーマーケット、倉庫・・・そこに広がるのは色彩のない殺風景なローマ郊外の光景。そしてそんな郊外の風景のなか、忽然と現れるそのスペースは、外観は荒れ果てているとはいえ、ぐるりと囲む塀に隙間なくグラフィティが描かれ、他の建物とはまったく異質です。壁に描かれたそれぞれの絵がそれぞれの主張を語り、無秩序ではありながらも有機的なエネルギーを放っています。

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延々と続く側壁に描かれるのは、人々の生命を蝕む市場至上主義を糾弾するグラフィティ。

郵便受けがいくつか並んだ玄関の、いかめしい鉄門を開け、なかを覗くとアフリカ人の婦人がにこやかに立っていました。「美術館を見るなら、カンパをしてね」と箱を指差すので、財布を取り出して5ユーロを入れると、彼女は大きく頷きました。そこでようやく顔を上げ、辺りを見回したときの、その何ともいえない不思議な感覚は、行ってみないことには味わえない、と言っておきましょう。

荒涼とはしながらも、建物の壁という壁、半分割れたガラス窓、コンクリートの地面、その巨大な空間の、ありとあらゆる隙間に多彩なグラフィティが描かれ、あるいは彫刻インスタレーションが適当な間隔で置かれています。遠くには、多少斜めに歪んだ、張りぼてのロケットのようなものが、空に向かってすっくと聳えるのが見え、入り口からは、その広大なスペースがどこまで続いているのか、まったく終わりがないように感じられるほど、果てしなく広がっていました。

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入り口から奥へとすすむと、こんなロケットが現れる。

イタリアの近代美術Arte Poveraアルテ・ポーヴェラーそのままシンプルに訳すと「貧しいアート」という意味でも、実際はそれまでの伝統的な美術の既成概念を打ち破るコンセプチャルなアート表現です)という、今でもイタリアの美術界に大きな影響を及ぼすアートムーブメントがあるのですが、このスペースに入った途端に、スペースそのものが巨大なひとつの作品、いや、アルテ・ポーヴェラ・ワールド、という印象を持ちました。

アルテ・ポーヴェラは1960年代後半、イタリアの工業都市トリノから起こったアヴァンギャルドなムーブメントで、今では巨匠と崇拝されるBoettiKounellisFabroPaoliniなどが先駆となり一世を風靡、海外のアーティストにも大きな影響を与えた近代イタリアの重要なアートの潮流です。伝統的な絵画、彫刻の有り様を逸脱し、土、鉄、プラスティック、雑巾、木片、産業廃棄物などのポーヴェラーそれまで美術に使用されたことのない素材を使って、主にインスタレーションで作品が作られます。コンセプチュアルでも詩的な作品が多く、それぞれにひとつの世界観が提示され、Paoliniの作品などには、繊細な暗示が鏤められてもいます。

さて、Metropoliz(メトロポリツ)の内部、子供たちが群れをなして走り回る広場を通り過ぎ、辺りを歩いてみると、敷地内にはいくつかのPiazzaー広場がありました。それぞれの広場にはアフリカ広場、ペルー広場と名前がついていて、まるでローマ市内のような標識が掲げてあります。どうやらこの敷地内には、あらゆる国の人々が住んでいるようです。

その広場の一角では、アーティストがバーナーを使って針金でレリーフを作っている最中、かと思えばどこからか、オブジェらしい「白熊」を運んでくるスタッフもいます。建物の階段や道端に置かれたソファや椅子では、このスペースの住人らしき人々がくつろいで談笑していました。すでに多くの人々が入場して、あちらこちらを散策したり、写真を撮ったり、グラフィティを見ながら「このアーティスト、有名な人だよ」「知ってる、知ってる、このタッチ、見たことがある」などと話しています。観客のなかにはプロのカメラマンもいて、レフ版を持ったアシスタントを連れて、細部を撮影しているのを見かけました。

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建物に入って、すぐ正面のペインティング。Fotografia Erranteより

建物のなかに入って、わたしは再び嘆息することになります。薄暗く、じめじめと湿気のある、場所によっては下水の臭いがする巨大なラビリントに、行けども行けども、Mulares(グラフィティ)、インスタレーション、彫刻、写真が展示され、見終わることがないのです。普通の現代美術館では考えられないライトがほとんどない薄闇、あるいは自然光のなか、ポタリ、ポタリと水の雫が落ちる音が響く空間に、雑然と、無秩序に、管理されることなく作品が並んでいる。さらには建物の内部に残る、打ち捨てられ、赤く錆びた怪物のように大きな機械もインスタレーションの一部として作品化され、まるで異次元世界です。

しかも建物内のスペースには、グラフィティで有名な若いアーティストたちだけではなく、世界でも重要な画家や彫刻家たちの作品が、テーマもアーティスト名も提示されないまま同等に並んでいる。そしてその作品群の間に、この美術館で暮らしている住民の持ち物らしい布団や毛布洗濯物が干され、それがさらなる異景となって、一種独特の奇妙な空間を形成しています。壁画に覆われた中庭のひとつには(中庭はいくつもあるのですが)、作品と思われる木製のシーソーもあり、子供たちが歓声を上げて遊んでいました。建物の奥深くにある食堂にもアート作品で溢れていて、こんなユニークな美術館、アートスペースに出会ったのは、はじめてのことでした。

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いくつもある展示場の一室。

ローマにこんな場所があることを、わたしはつい最近まで知らなかったのですが、美術関係者やアーティスト、建築家学者の間では有名なアートスペースで、ネット上にはコリエレ・デッラ・セーラ紙をはじめとするさまざまなメディア、あるいはブログ、美術サイトに、この美術館に関する多くの記事、写真があふれています。現在までに、このスペースに関わったアーティスト約450人、そしていまでも多くのアーティストが次々と訪れ、作品はさらに膨大に増えつつあるそうです。

そこで「この建物は一体何なのか。なぜこんな場所に、こんなスペースが出来たのか。その経緯を知りたい」と、メトロポリツ=MAAMのある地区、Tor Sapienza (トル・サピエンツァ)の文化センターの代表者であり、MAAMの運営スタッフのひとりでもある、Carlo Gori(カルロ・ゴーリ)にいろいろ話を聞いてみました。カルロ・ゴーリはMAAM以外にもさまざまなアートプロジェクトに関わる人物で、彼の活動については、先でインタビューをさせていただきたいと思っています。

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コンクリートと鉄骨という硬質な素材でできた中庭のインスタレーション。

MAAMが誕生した、そもそもの経緯は、2009年、20年近く廃墟となった「フィオルッチ」のサラミ工場跡を、家を失った、あるいは家賃が払えなくなり、追い出されてしまったイタリア人たち、及びアフリカウクライナモロッコペルーコスタリカから来た移民の人々が占拠したことにはじまるのだそうです。わたしの年代であれば「フィオルッチ」というと、先ごろ亡くなったファッションデザイナーを思い出しますが、イタリアでは、スーパーマーケットでよく見かける、一般に名前の通ったサラミメーカーで、そういえば、展示スペースの中央あたりに、古めかしく錆びついた機械をそのまま生かして、殺戮をイメージするインスタレーションにした作品や、豚が蘇るウォールアートがありましたが、オートメーション豚を大量に屠殺した工場の由来を、シニカルに表現したものだったというわけです。

時が経ち、そのその工場が閉鎖されてからは、ローマ、そしてコペンハーゲンの地下鉄を建造、スエズ運河の建設にも関わったローマ屈指の建設会社、「サリーニ」の所有となり、使用されることなく廃墟として置き去りとなっていましたが、占拠グループリサーチによると、そもそもフィオルッチのサラミ工場の建物はローマ市の公共予算の援助によって建造されたものだそうで、そのスペースが閉鎖されたあとは、投入された莫大な予算もそのままとなり消え去り、その無駄もすっかり忘れ去られていた、ということでした。

なお、工場跡が多くあるプレネスティーナ通り沿いは、戦後、ローマ郊外の産業地区として発展、工場で働く工員のための市営住宅、いわゆる公団が多く建造された地域ですが、周辺の工場が次々に閉鎖された後も、いまだたくさんの人々が住んでいるにも関わらず、それらの市営住宅は、ほとんど修復されず、古びるままの佇まいとなっています。

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工場跡のなか、どこを通っても、作品にあふれています。

占拠者たちははじめから、水も電気もない、この巨大なサラミ工場に住み着くために「占拠」に乗り出したわけではなく、「住居の権利」を主張するためのデモンストレーションの一環として、Comunità meticcia (まぜこぜコミュニティ)、つまり「メトロポリターニ」たちによる実験的抗議のつもりだったそうです。しかし長期間、その抗議は当局に聞き入れられることはなく、と同時に抗議者たちは自分たちの住居の問題を解決することもできず、結局そのまま居座らざるをえなくなりました。しかし工場はやはり工場、住居としてはまったく用を足さず、天井はきわめて高く、巨大な壁に仕切られたひとつひとつの部屋はだだっ広く、住めるように修復するために大変な労力を要することになります。占拠者たちは工場に残っていた巨大な機械群を少しづつ分解鉄資源として売り、広大な建造物を再生するための経済的なリソースとして利用したそうです。

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