現在のローマの文化の有り様を語るとき、レナート・ニコリーニは絶対に無視してはならない存在であり、今でもさまざまな場所で、その名が語られます。その後のローマのアンダーグラウンド文化のみならず、メインカルチャーの有り様をも決定づけることとなったEstate Romana(ローマの夏)の発案者、そして総指揮をとったレナート・ニコリーニ氏と、晩年仕事をしていたG・ラバンダ氏に、その人柄の魅力、当時のローマを語っていただきました。ラバンダ氏のインタビューの前にWikipedia、その他イタリアのメディアを参考に、ニコリーニ氏についての概要のみ、ざっとまとめてみることにします。
レナート・ニコリーニ(1942ー2012)は、建築家、政治家、劇作家、レッジョ・カラブリア大学教授。特にEstate Romanaの発案者として、国内はもとより国際的な評価を受ける人物。ローマの一般家屋を手がける自治ファシスト・インスティチュートにおいて、マリオ・デ・レンツィとともにローマ新興地の建設のプロジェクトを手がけた建築家、ロベルト・ニコリーニの息子でもある。レナートは建築科を修了後、建築プロジェクトに関わり、建築評論家としても活動した。長くローマ市の文化評議委員をつとめ、その名を不動のものとする。2012年、70歳で亡くなった際には、多くのローマの人々が、その喪失を悲しんだ(Wikipedia イタリア参考)。
また、イタリアの通信社、ANSA通信はレナート・ニコリーニの訃報に、次のような記事を配信しました(抄訳)。
ローマ市の文化評議委員であった際に発案したEstate Romanaで、レナート・ニコリーニは、いわゆるインテリゲンチャ文化と大衆文化をミックスするという方法で、再びローマの広場を人々にあふれさせることに成功した人物だ。長い『鉛の時代』、灰色の空気に締め付けられた不幸な時代にー人々は、緊縮に反対するデモ集会の時にだけ、街に出かけるという閉ざされた時代であったがーニコリーニは異端者として現れた。彼の文化発信の方法は、当時議論を巻き起こし、知識人たちの反感も買ったが(いい意味でも、悪い意味でも)、ニコリーニはそれらをやすやすと乗り越えることになる。
彼はイタリアの68年までの発展の影にあらわれたインテリ、知識人である。しかし考えるだけではない、アイデアをそのまま行動に移す、行動的な知識人でもあった。彼はちいさい規模ではあるが、街に革命を起こし、深淵であると同時に、人々に「軽妙さ」をも、もたらした。そしてその「軽妙さ」はそののちの時代の先駆けとなった。
彼がローマ文化評議委員であった10年間、街は映画に満ちあふれ、遺跡の一角のマッセンツィオ教会(4000人が集まった)や広場は群衆に沸き返り、オースティアの海岸、ヴィッラ・ボルゲーゼの庭が戸外演劇の舞台となった。さらに街角は、大道のダンスや音楽、演劇でにぎわった。また、歴史の重みを持つ重要な建造物の壁で映画を上映することは、その建造物のイメージを一新することとなった。
カステルポルツィアーノ、マッセンツィオのバジリカ、プラーティ地域(ヴァチカンを有する地区)の道路で、Peter Brook(ピーター・ブルック)、 Meme’ Perlini(メメ・ペルリーニ)とともに企画したイベント、1981年に上映したAbel Gance(アベル・ガンス)の「ナポレオン」の上映が、まずイベントの第一段階だった。ニコリーニの名を不動のものとした最も重要なイベントは、世界の有名な詩人、Allen Gingberg(アレン・ギンズバーグ)、 William Bourroghs(ウィリアム・バロウズ)、Gregory Corso(グレゴリー・コース)、Serghej Evtuschenko(エフゲニー・エフトゥシェンコ)、そしてローマの詩人たちが集まった、オースティアのカステル・ポルツィアーノで開かれたイベントである。オースティアの海岸は3万人の人々で埋め尽くされた。
その他、La Repubblica紙、Corriere della sera紙、Il sole 24ore紙などイタリア各主要紙は彼の死を巡る追悼特集を組み、彼の功績を讃え、その早すぎる死を惜しみました。
さて、インタビューに答えていただいたラバンダ氏は、レナート・ニコリーニよりも8歳ほど年下、建築科を卒業したのち、アジアを含む各都市の都市計画に関わるエコノミストです。青年時代、ニコリーニ氏が企画したEstate Romanaに、おおいに共感、アジアにそのアイデアを生かすことができないものか、と模索し、晩年は氏とともに中国、その他のアジアの国を訪れた経緯を持ちます。一党独裁の国の大学で、ニコリーニ氏は「民主主義の重要さ」を学生に講義したというエピソードを、楽しそうに語りました。
先日、テアトロ・ヴァッレの占拠者たちによる、今後の公開会議に参加したのだが、『ニコリーニ氏の意志を継ぐ』と、盛んにその名前が出ていた。ニコリーニ氏は、当時のEstate Romana(ローマの夏)を知らない若者たちにまで、なぜこれほど重要に思われているのでしょうか。
彼はローマの街に、今までにないまったく新しい生命を吹き込んだ人物だからだろうね。彼はローマという永遠の都市にいながら新しい生き方ができる、ということを人々にはっきりと、明確な計画と行動のもとに見せることができた人物だよ。自分で考えつくアイデアはもちろん、人々が隠し持っていた、「面白い」と思われるアイデアを見つけだす能力にも優れていた。しかもそのアイデアをアイデアで終わらせず、実際に、ローマじゅうの人々を大きく動かしたんだ。彼は人々に出会いの場、成長の場を提供するキャパシティを持つ人物だったよ。彼が生み出した、そのTeatro Sociale (社会的な劇場)が当時を生きたわれわれのGioia(幸福)の基盤となった、と言ってもいいかもしれない。
Teatro Sociale(社会的な劇場)とは?
簡単に言えば、人と人とのリレーションシップの場、ということだ。人々が未知の人々と出会い、なんらかの問題を提起しあい、解決に向けて新たな関係をつくり、何か新しいものを生み出す。その舞台になる「場」のこと。老いも若きも男も女も誰もかも、その劇場ではみな、それぞれがProtagonista(主人公)でもあるんだ。
Estate Romanaに関しては、われわれの年代はみんな、幸せな時代として想い出を共有しているんだよ。もちろん、その後の年代には、伝説となって語り継がれもしているけれどね。今思い返せば、どれも素晴らしいアイデアだった。ローマの街じゅうに信じられないくらいのたくさんの人々が群れ集まって、複雑で、巨大なTeatro Socialeを構成し、われわれもそのなかで自分を見失いそうだったよ。そのスペースにはいろんなものが分別されることなく、いっしょくたに放り込まれた。そのカオスから次から次に新しい動きが生まれて、みなが我を忘れて楽しんだんだ。
パスタやワインをバスケットに入れて呑気にやってくる典型的なローマの家族、子供たち、Fricchettoni(ヒッピー風の子たち)、批評家、学者、学生、労働者、みんなが同じ場所で、映画や演劇や音楽を楽しんだ。Estate Romanaは、全ローマ市民に贈られたニコリーニのプレゼントだったんだ。しかも彼は、ほとんど文化予算を使うことなくそれをやり遂げた。われわれの参加費はたったの1000リラだったが、参加する市民の数が膨大だったからね。
たとえばオースティアの海岸線、カステル・ポルツィアーノで開かれた詩人フェスティバルは、圧巻だった。今もアバンギャルド演劇界を仕切る舞台監督のシモーネ・カレッラ(2016年逝去ー2023年追記)が、ニコリーニとともに発案し、オーガナイズした3日3晩ぶっ通し、型破りな「詩」のフェスティバルだった。この3日間というもの、若者たちは、今までの人生とはまったく次元の違う人生を過ごすことになった。無数の若者たちが集まった海岸線で、知らない若者たちと出会い、一緒に食べて、寝て、話し合い、そしてハッシシュ。とてつもない熱気が砂浜を覆っていたよ。
一方、ステージではいつも何かすごいことが起こっている。ビートジェネレーションの詩人たち、ギンズバーグ、バロウズ、当時世界中に名が知れ渡っていた詩人たちが、詩を朗読したり、演説をしたり、そこにローマの無名の詩人たちが突然なだれこんで、マイクを奪って、自分の詩を朗読したりもした。混乱して収拾がつかない、可能性に満ち満ちた空気。詩人たちとわれわれの熱気が砂浜を占拠、ローマの海岸線に異次元が構築され、30000人の若者たちがそのエネルギーを共有して興奮状態の3日間を過ごしたんだ。
その最後の夜にハプニングが起こってね。ギンズバーグと30000人の若者たちが「OM」、オームを吟じているときに、海の上に建てられた舞台が大音響とともに壊れて、詩人たちはみな、あっという間に海のなかに放り込まれてしまった。われわれ観衆はみな大喜びだよ。そのあと詩人たちはみな、砂まみれになってわれわれのいる砂浜にたどりついたけれどね。考えてみれば、それはわれわれが生きている人生の一瞬の破壊、断層の存在をシンボライズする出来事でもあったね。
この詩のフェスティバルのことを、知識人たちは(左翼知識人も含めて)「イタリアのちっぽけなウッドストック」と批判したが、このイベントがニコリーニの名を知れ渡らせたことは間違いない。彼は挑発者であり、彼の批判者たちを壊滅させるほどのポジティブなエネルギーを持った男だった。彼の登場で、ローマの空気、美のコンセプトの潮流が完全に変わったんだ。
われわれが過ごした『鉛の時代』、爆弾、銃撃戦、誘拐、強盗、暗殺、ローマの市内では、いつも悲惨なことが起こり、暴力的で、悲しみに満ちてもいた。僕はローマ郊外に住んでいたんだが、市内から家に帰るときには、必ず、2、3の検問所を通って、ポリスの尋問を受けなければならなくてね。そんな時代だよ。学生たちはみな、調べ上げられた。検問所には、銃を持ったポリス数人が立っていて、車の中に誰がいるのか、何か武器は隠していないか、徹底的にね。その厳しい検問が、若者たちに恐怖と嫌悪を与えていたから、ローマの若者たちは家に閉じこもって、なかなか外出しようとはしなかったんだ。
その状況に、二コリーニは「NO! もうたくさんだ。みんな外に出ようぜ! フェスタだ!」と声高に叫ぶ勇気を持っていた。この彼の行動が、左翼運動を窮地に追いつめた「Brigate Rosse (赤い旅団)」の暴力文化を、街の隅に追いやったんだよ。暴力的な若者たちは次第にマイノリティになって仲間はずれになっていく。ニコリーニが開催する街のフェスタに参加しないんだから、しかたないね。シンプルな話だ。
▶︎ニコリーニはパソリーニに共感していた?