ベアトリーチェ・チェンチ、カラヴァッジョとアルテミジア
これから処刑に向かう、幼さを残した可憐な22歳の女性、ベアトリーチェの悲しみと恐怖に青ざめた、しかしきわめて美しい肖像を描いたグイド・レーニの作品は、いまだに見る者の心を強く打ちます。
この女性の悲劇は後世、いくつもの戯曲、映画、小説になっていますし、その後多くの画家たちが、グイド・レーニの作品からインスパイアされ、それぞれのベアトリーチェ・チェンチを描いてもいますから、ご存知の方が多くいらっしゃるかもしれません。
1500年代後半の出来事です。ローマ近郊に多くの領地を持っていた伯爵家の領主、ベアトリーチェの父親であるフランチェスコ・チェンチは、家族のみならず、家臣にも暴力を振るう、残酷な暴君として恐れられる嫌われ者でした。
母親を早くに亡くしたベアトリーチェは、幼い頃から姉とともに、フランチェスコ派の修道院に預けられ、平和に暮らしていましたが、15歳となって家に連れ戻された途端に、ナポリ近郊にある、オリンピオ・カルヴェッティが所有する城に幽閉されることになった。その城で、父親から繰り返し酷い暴力を受け、やがてそれは近親相姦というレイプにまで及ぶことになります。
その頃のフランチェスコは、積み上がった借金の未払いのため、2度にわたって起訴されるという状況で、持参金を払わずに済むよう娘を結婚させないと決め、陵辱の限りを尽くしました。さらに2度目の妻であるルクレツィア、ベアトリーチェの若い兄弟ふたりも、ともに幽閉し、自らの逃亡に巻き込んだのでした。
絶え間なく繰り返されるフランチェスコの酷い暴力に、家族全員が、心理的にも肉体的にも疲弊していきました。切羽詰まったベアトリーチェは、そこで「こうなったらフランチェスコを亡き者にするしか他に生きるすべはない」と思いつめ、城主であるカルヴェッティをも巻き込んで、家族全員で共謀。父親を殺害する決心を固めたのです。
さっそく家族が団結し、毒を盛ったり、野盗に依頼したりと、2回の殺害を企てました。しかしいずれも、フランチェスコに途中で気づかれて失敗してしまいます(イタリア語版ウィキペディア参照)。
フランチェスコは自分が家族から激しく憎悪され、いつ殺されてもおかしくないことを知っており、眠る時も甲冑を纏うほどの気の使いようだったそうです。しかしベアトリーチェは諦めることなく、継母、兄弟、ふたりの召使い(そのひとりはベアトリーチェの恋人でした)と綿密に計画を練り直し、父親を部屋に閉じ込めることに成功。そして遂に、その喉を切り裂き、バルコニーから庭に突き落とした。不慮の事故と見せかけるためでした。
そもそも持病を抱え「身動きが不自由だったフランチェスコが、誤ってバルコニーから転落した」と口裏を合わせた家族の証言から、当初は事件性がないと判断され、ここで物語は終わるはずでした。
しかしフランチェスコの死に様の不自然さ、悪辣の評判や家族との不和の噂、さらにチェンチ家の領土が、教会にとって、きわめて魅力的であったことから(おそらくこれこそが真の理由と思われます)、しばらく時が経ったのちに大々的な捜査がはじまることになります。結果、城主であるカルヴェッティが裏切って自白したことから、家族、召使いたちはすべて牢獄に囚われ、全員が死刑の宣告を受けることになるのです。
獄中のベアトリーチェは、自分が父親から受けた暴行と陵辱の数々を切々と手紙にしたため教皇に送り、許しを乞いますが、結局その願いは聞き入れられることはありませんでした。
やがて、この事件の経緯はローマの市井に広がります。フランチェスコの悪い評判を知っていた誰もがベアトリーチェに同情し、たちまちに情状酌量を求める世論が形成されています。ですからチェンチ一家の処刑の日には、いまだかつてないほどのローマ市民がサンタンジェロ城に集まり、彼女の無罪を囃したてたのだそうです。
しかし街中に轟く市民の抗議の声にも関わらず、無情にもベアトリーチェとルクレツィアは「斬首」、年長の兄は「四つ裂き」(!)にされ、幼い弟のみが処刑を免れることになった。その後は予想に違わず、後継を失ったチェンチ家の領地は一切、教会に召し上げられました。
しかもベアトリーチェは死してなお、酷い仕打ちを受けることになりました。処刑後、ベアトリーチェはサン・ピエトロ・モントイオ教会に埋葬されましたが、フランス軍がローマになだれ込んだ1798年、フランス人彫刻家が率いた兵士の一団による墓荒らしに遭遇したのです。
その際、修復作業のために居合わせたイタリア人画家の証言によると、兵士たちはベアトリーチェの首が載せてあった銀製の盆を盗んだうえに棺を粉砕。イタリア人画家が非難すると、フランス人彫刻家と兵士たちは後ろを振り向きつつ、ベアトリーチェの頭蓋骨を弄ぶように蹴り上げながら、逃げていったそうです。
その後ローマでは、処刑が執行された9月11日になると、「ベアトリーチェ・チェンチが、首を探してサンタンジェロ橋を彷徨う」という噂が広がり、前述したように、ローマで「幽霊」というと、必ずベアトリーチェ・チェンチの名前が語られるようになったのです。
余談ではありますが、かつて1度だけ、9月11日の深夜にサンタンジェロ橋を訪れたことがあります。いまだ夏の空気が漂うテベレ川の堤防にはオープンナイトクラブがひしめいて、テクノが大音量で流されていましたし、橋の上は恋する若者たちでいっぱいでしたから、これじゃベアトリーチェが彷徨っても誰も気づかない、とがっかりした次第です。
さて、本題のカラヴァッジョとアルテミジアへと話を戻します。
ベアトリーチェ・チェンチが処刑台に立った1599年の9月11日、オラツィオ・ジェンティレスキは幼いアルテミジアを連れ、友人のカラヴァッジョとともに、処刑に抗議する群衆の中にいました。
そして、そのうら若き、非業の女性の処刑を目にした際のインパクトが、カラヴァッジョの、あの有名な『ホロフェルネスの首を斬るユーディット』(1602)を完成させたと言われているのです。さらに、ベアトリーチェの処刑がほとんど記憶に残っていないであろうアルテミジアは、それから15年後、明らかにカラヴァッジョに影響を受けたと思われる、非常によく似た構図で、『ユーディット』を描いている。
その絵が描かれたのは、アルテミジアがタッシからレイプされ、屈辱的な裁判を闘った2年後となりますが、カラヴァッジョのそれよりはるかにおどろおどろしく、思い切った、冷徹な女性の残酷性が表現されています。『ユーディット』に関して、個人的にはアルテミジアに軍配を上げたい所存です。
さらにアルテミジアはもう一度、1620年代に、以前に描いたものと色彩以外はほぼ同じ構図で『ユーディット』を描いていますが(1ページのアルテミジアの自画像の背景の絵)、1612-13年の『首を斬られるホロフェルネス』から滴る血が控えめなのに対し、1620年代に描かれたホロフェルネスは、血飛沫が吹き上がり、よりいっそうリアルに、精密に表現されているのは興味深いことです。他にもさまざまなヴァリエーションで、アルテミジアはいくつもの『ユーディット』を描いていますから、彼女にとっては表現しやすいテーマだったのでしょう。
なお、カラヴァッジョの『ユーディット』のモデルは、当時の恋人だった娼婦と言う説もありますし、ベアトリーチェ・チェンチだ、とも言われます。そう言われると、カラヴァッジョの『ユーディット』は、グイド・レーニが描いたベアトリーチェに、どこか面影が似ているかもしれません。
ともあれ、カラヴァッジョが訪れ、アルテミジアが生まれた、1500年代末期のローマには、都市計画、建築をはじめ、教会の礼拝から処刑まで、何もかもが演劇的に演出された日常があり、街にはとてつもない贅沢と対極する貧困、そしておぞましい残酷が渦巻く、収拾がつかないカオスであったことは前述したとおりです。
『近代絵画の原点』と言われる、闇と光を巧みに操るカラヴァッジョの強調され、ほとばしる悲劇性と、まさしく人間的な生々しいリアリティは、この時代のローマから生まれ、やがてアルテミジアを含む、カラヴァッジョ派と呼ばれる画家たちに受け継がれていくことになるわけです。
▶︎19世紀、ようやくその『天才』が認識されたカラヴァッジョとカラヴァッジョ派