4世紀の忘却から甦り、瞬く間に称賛の的となった、女流画家アルテミジア・ジェンティレスキ

Cultura Deep Roma Eccetera Teatro

カラヴァッジョ、カラヴァッジョ派を生んだ、ローマのバロック初期

朽ち果て、もはや自然と一体化した古代ローマ遺跡群が醸す「退廃美」は、もちろん現代のローマの景色を形成する重要な要因です。しかし多少老朽化したとはいえ、建設当時とほぼ同じ姿のまま、旅人たちを魅了する(あるいはギョッとさせる)のは、ルネッサンスからバロック期にプロジェクトされ、100年単位の時間をかけて完成された建造物や広場、芸術作品、モニュメントでしょうか。

そして、その最たるものがサン・ピエトロ大聖堂と言えるのでしょう。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニがプロジェクトした、広場を抱く聖母(神?)の腕のように感じられる、音楽的な律動感のあるファサードの円柱をくぐり抜け、オベリスクがそびえたつ広大な広場から大聖堂を臨むなら、その壮大さに、いまだに圧倒される。

144体の聖人の彫刻が頭上に並ぶ広場を通り抜け、ミケランジェロがプロジェクトしたクーポラを見上げながら大聖堂の内部に入ると、隙間なく、ためらいなく、豪華絢爛装飾が施された巨大な聖域に一気に呑み込まれ、リアリティを失いそうになります。

すでに何度も行っているため、はじめて中に入った時に感じた、西洋の異界へ迷い込んだような衝撃と浮遊感は、もはやまったく感じなくなりましたが、それでも訪れるたびに「よく、こんな大聖堂を造ったものだ」とは思います。

世界から訪れた、敬虔なカトリックの信者である巡礼者たちが、「これこそが神の国だ!」と涙ぐみ、ありがたく思うであろう、神の偉大教会の威信を現世的に表現した、カトリック最高の舞台装置です。

そして、このサン・ピエトロ大聖堂内の緻密な装飾に彩られた空間こそが、わたしが今まで理解した、教会主導のローマのバロック芸術(建築)のコンセプトを、分かりやすく教えてくれるモデルでもあるのです。

贅沢の限りを尽くした過剰な装飾、数え切れないほどの彫刻と絵画、威圧的ですらある大天蓋。黄金、ブロンズ、大理石。美の洪水による、うむも言わせぬ権力の誇示。その空間に佇むだけで、天使たちがふわふわと舞い遊ぶバロック音楽が聞こえてくるような錯覚に陥りもする。

1回だけ、サン・ピエトロ大聖堂で行われるミサに参加した経験がありますが、陽光が制限された設計の、昼間でも薄暗い祭壇に、鮮やかな緑色の僧衣を纏った枢機卿がずらりと並び、ただよう乳香の甘い香りのなか、神秘的に、おごそかに繰り広げられる儀式は、絵画的であり、演劇的でもありました

大聖堂内は、自然光の効果も計算され尽くされた巨大な空間となっており、そびえるベルニーニデザインの大天蓋は、これでもか、これでもか、という威圧感で、カトリックの信者でないわたしでもひれ伏しそうになります。好き嫌いは別として、やはりとてつもなく力がある空間です。

仰々しい演劇性。そしてそれこそがローマのバロックの特徴とも言えましょう。さらに言えば、その仰々しさが、ローマという都市そのものの特徴でもある。

ローマの都市構造には一種の演劇性、たとえば狭く暗い路地をひたすら歩くと目の前に突然、音楽的な美しい曲線で装飾された純白の大理石の教会、あるいは目を見張るほどに広大な広場、見とれるほど均整の取れた肉体美を強調した彫刻がちりばめられた噴水が現れ、街ゆく者をハッと驚かせる演出があります。

サン・ピエトロ大聖堂にしても、今でこそ正面から大聖堂が見渡せるデッラ・コンチリアチオーネ通りが続いていますが、かつては曲がりくねった路地を抜けると、突如として眼前に、壮大な広場と大聖堂が現れるという演出になっていたそうで、巡礼者たちを感動させたそうです。

このような、綿密演出された劇的なローマの構築コンセプトが考案されたのは、ルネサンス後期の1500年中盤、カトリックの対抗宗教改革を背景にした教皇シスト5世の時代。「ローマの街が栄耀栄華を極めるカトリック世界の中核となる」という理想を実現する、継続的都市計画が基盤となっています。

カトリックの大本山であるローマという都市の劇場化は、「神聖不可侵」である「劇的な」神への礼拝儀式を通して、「世界中から礼讃される都市となるべきだ」という、そもそもは教会の権威主義から生まれたコンセプトであり、その劇場都市としての理想の実現のために、惜しむことなく贅を凝らし、教会や高位聖職者、貴族の豪邸が次々に建設されていったわけです。

また、1600年代には、まさに舞台に見立てられた巨大な広場に、次々に花火が打ち上げられ、音楽や演劇、見世物を街中の人々が楽しむ、大がかりで享楽的なフェスタも開かれてもいたそうです。

現在、中心街の路地を歩きながら、たまにふっと空を仰ぐと、かつては貴族の所有であったであろう建造物の外壁に施された見事なフレスコ画が目に飛び込んでくることがあります。それは現代に残された、当時、ローマで権勢を誇った裕福な貴族たちの余韻であり、時代の建築ラッシュの恩恵に預かるために続々と集まった、多くの有名無名の画家や建築家、職人たちの足跡でもある。その頃のローマは、欧州の芸術の中心でした。

なお、このシスト5世という教皇は、サンタマリア・マッジョーレ教会やサン・ジョヴァンニ・ラテラーノ教会など重要な建造物を大改装して教会の威信を誇示するだけなく、古代ローマ時代から続く、老朽化した水路を整備して各所に噴水を設置したり、道路を整備したりと、ローマの中心街のインフラの基礎をも作っています。

シスト5世の、この「華々しく、劇的な近代都市ローマ」の理想は、その後長きに渡って続きますが、フォロ・ロマーノを分断する大通りを整備し、ファシズム様式の建造物が作られるなど、新たに大きな都市計画が行われ、ローマの景色が幾分変わるのは、ムッソリーニ時代のことになります。

画家、アントニオ・テンペスタによって1593年に描かれたコロッセオを巡る風景。この絵を見ると、コロッセオの周りはほとんど畑が森林で、現在わたしが住んでいるあたりもどうやら畑だったようです。他の資料によると、現在わたしが住む地区は墓地だった、との記述も見つけました。コロッセオから右上に描かれたサンジョヴァンニ・ラテラーノ教会に続く道はシスト5世によって建造されたのだそうです。The-Colosseum.netより。

こうして、街中に次々と豪華絢爛な建造物がプロジェクトされた1500年代後半のローマといえば、しかしいまだに街の方々を野生の森林が鬱蒼と覆い、あちらこちらに沼地が広がる上に、あのコロッセオ、という牧歌的な自然が街の随所に残ってもいました。ですからルネッサンスからバロック初期のソフィスティケートされた建造物と、管理されることのない野生が同時に存在する、まさにカオスとも呼べる状況だったわけです。

しかも、それは風景だけにとどまらず、社会そのものもまた、カオスと呼べる状況にありました。街なかには野盗がはびこり、巡礼者たちに紛れて「バガボンド」と呼ばれる風来坊たちがうろつき、ジプシーたちが通りを占領し、芸術家たちも通うオステリアには、大勢の娼婦が群れていた。通りには巡礼者目当ての物乞いが溢れていたそうですから、豪勢な教会、裕福な貴族の暮らしとは対照的な貧困が、街に存在していたということです。

また、食いつめた農民や流れ者が徒党を組んで、街を襲撃したり、追いはぎをしたりと犯罪も絶えず、襲撃が起こるたびに教会の軍隊が出動。罪人たちを情け容赦なく打ち首にし、それを「さらし首」として見せしめにしていた。

シスト5世の時代には、たったの2年間7000人もの野盗が教会警察から処刑され、大量の首がサンタンジェロ橋に並べられた時期もありました。当時の街の人々は「市場で積み重なったメロンより、頭の方がずっと多い」と囁きあったそうです(イタリア語版ウイキペディア)。

つまり、500年前のローマにおける教会権力は、豪奢を極める都市計画を誇示すると同時に、想像を絶するグロテスクで残酷な武力で市民を支配していたということです。「ゲイのカップルの結婚」を祝福し、その権利を守る立法を後押しするフランシスコ教皇を頂点に、死刑廃止を世界に訴え、貧しき者たちの『人権擁護』にきわめて積極的な現在の教会からは考えられない倫理観ではあります。

ところで、「すべてが演劇的」に演出されたこの時代、教皇死刑執行人による処刑もまた、一種の見世物として市民に公開され、その公開処刑は1800年の中盤まで続いています。

ローマ市民に人気のある罪人の処刑には、刑場であるサンタンジェロ城前広場から、サンタンジェロ橋のたもとに、見渡す限りに市民が集まって、時には罵声を浴びせ、時には罪人の許しを乞いながら、大人も子供も一緒になって、処刑を見物した時代です。そういえば、『無限:宇宙と世界』を出版して教会の逆鱗に触れ、カンポ・ディ・フィオリで「火あぶり」となったジョルダーノ・ブルーノの処刑も1600年のことでした。

このような公開処刑はもちろん、教会の権威を絶対化する「見せしめ」ではありましょうが、市民たちの日常の鬱憤を晴らすカタルシスとしても機能していたのでしょう。

考えてみれば、ローマにおいては古代から「死の演劇化」とでも呼べる、コロッセオでのグラディエイターの殺し合いや、罪人とライオンの血みどろの闘いを、市民が見物することがエンターテインメントリアリティショーだったわけですし、ローマにバロックの時代が訪れても、恐ろしい公開処刑が続いていたわけですから、時代とともにコロコロ変わる人間の感性や倫理観の変化に、「はたして人間の本性は、どこにあるのか」と不信すら抱く次第です。

閑話休題。

この公開処刑に関しては、カラヴァッジョオラツィオ・ジェンティレスキ、アルテミジアにまつわるエピソードがあります。ローマで幽霊の話となると、まず1番に語られるベアトリーチェ・チェンチの、サンタンジェロ城における悲劇的な処刑が、意外なことにカラヴァッジョ、さらにはアルテミジアの創作に影響を与えたと言われているのです。

▶︎ベアトリーチェ・チェンチ、カラヴァッジョとアルテミジア

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