2018年 3月 どうなる イタリアの春 : 雪と選挙と『五つ星運動』 

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新しいユートピア・ヴィジョンを語り続けた5つ星の勝因

わたし個人は、初期の『5つ星』が掲げた、『移民排斥傾向』、リアリティのない『ユーロ離脱』政策にはまったく賛成していません。しかし、すでにイタリアの政府議会で経験を積んだ若い議員たちを多く有する、この市民運動の今回の選挙キャンペーンでは、それらの政策については、ほとんど語られませんでした。そういえば、ローマ市長選(『5つ星』概要)あたりから、『5つ星』は過激な主張を抑えるようになりましたが、いまにして思えば、それがグリッロの支持層集客ストラテジーだったのかもしれません。炎上発言とともに、既成の政治右、左、関係なく』に回し、市民による『革命』を鼓舞しながら、『5つ星運動』の知名度をあげ、フラストのある層の支持を、まず集めていった。

群衆が共有する『』に、日常のあらゆるフラストを憎悪として集約させながら強い連帯感を構築するのが、古今東西、ポピュリズムの基本です。自分の『敵』は自分だ!などと言う精神論は通用しません。さすが演劇人、ベッペ・グリッロの扇動は見事に成功し、それに『5つ星』のベースとなった初期の彼のブログは、かなり魅力的な内容でした。

5つ星運動の集会は、政治集会というよりも、ひとつのショーとしても充分楽しめる演出です。ポピュリズムの名に恥じない、モダンな革命の空気と、正義の達成感、群衆が肩を寄せ合う場の一体感が味わえます。

そういえば、インターネットから巻き起こった『5つ星』の初期のスローガンは、『Vaffanculo(くそくらえ)』というものでした。このスローガンは、今では俗にVaffa(ヴァッファ)と呼ばれ、既存の政治システムに、何でも過激にノーを突きつける、『5つ星』独自のカウンター精神です。運動が誕生してほぼ10年、ついに国政に最も近い距離にたどり着いたベッペ・グリッロと『5つ星運動』は、その『ヴァッファ』の精神をポケットにしまい込み、以前よりは幾分エレガントになったかもしれません。加えて今回、グリッロが選挙キャンペーン、表舞台から退いて、完全に若者たちに活動をまかせたことは、『5つ星運動』にある種の自由と軽やかさを与えたかもしれません。

この運動のメンターと言われ、初期のデジタル・ストラテジーを構築した、ネット・マーケティングの鬼才ジャンロベルト・カッサレッジョが早逝し、運動の初期から、強く支持し続けた「ノーベル賞」受賞者のダリオ・フォーも亡くなり、唯一『5つ星』を率いてきたベッペ・グリッロは、「もうここまで彼らが育てば大丈夫」と思ったのか、単に政治に飽きてしまったのか、それとも選挙結果をある程度見越して、カリスマが存在することで他勢力との連帯が難しくなる、と戦況を読んだのか、ある時、ふっと『5つ星運動』のブログから去り、別のブログへ移行してしまいました。そしてそれは選挙戦略として、非常に賢明な選択でもあったと思います。

『5つ星』に焼きついていたグリッロカラーがぐっと薄くなり、候補者それぞれの魅力と個性が前面に押し出され、そのひたむきさと真面目さが(融通が利かない感じは否めませんが)、有権者たちに「この子たちにまかせてみてもいいんじゃないか」という人間的な信頼、そして未来への希望に繋がったように思います。彼らがまったくロビー活動をせずに、活動資金を支援者の寄付とファンドレイジングで集めていることも、好感を持たれている理由のひとつです。そしてとにかく裏方のマーケティングが上手い。

『鉛の時代』以来、蓋を開ければ、経済界、銀行、マフィア、教会、秘密結社、国際諜報が組んず解れつ、理解不能な緻密な闇システムのドロドロ談合があり、それこそが政治、とでも言わんばかりの馴れ合いに、市民はとっくに愛想をつかしていました。しかもやっと終わった、と思ったら、今度はモンティ暫定政権で、厳しい緊縮財政政治が繰り広げられ、生活は苦しくなるばかりだったのです。

そういえば、『Suburra(暗黒街)』(多分日本のNetflixでも観れるのではないかと思うのですが)という、2000年の歴史に彩られたローマの街の暗闇に蠢く、政治とマフィアの世界を描いた映画は、もちろん映画なので、エンターテインメントとして面白おかしく脚色されているとはいえ、かなりリアリティのある、「あった、あった、そういえばこんな事件」という内容です。政治といえばマフィア、談合、収賄、というイメージが市民の脳裏に焼きついています。

そんなイタリアで、2013年の総選挙では、ベッペ・グリッロが『5つ星運動』を率いて、『Vaffanculo(くそくらえ)』のスローガンを掲げ、イタリア全国Tsunamiツアーを敢行、目を見張るような躍進を遂げました。その頃の彼らは、自分たちのことを『戦士』と表現していましたが、その選挙で上院、下院ともに大量議席を獲得して国政に躍り出て5年、前回の選挙で38%の議席を獲得したPDが今回は18%と壊滅、ほぼ半分になったのに対し、5つ星は25%から32%へと大躍進しています。

さて、『5つ星運動』の2018年の主な公約は、簡単に書くと以下のようなものです。
●失業者に支給、あるいは低所得者に段階的に支給される780ユーロのベーシックインカム。●年金受給者の年金の最低額を780ユーロに上げる。(このふたつの公約の財源は、計算上では可能な数字となっています)●細かい法律でがんじがらめになった法のジャングルから400の法律を削除する。●減税と生活の質の向上。●国会議員のサラリーを半額に。また議員年金を削減。●市民の安全を守るために10000人の軍、警察を増員。●移民ビジネスを禁止する。10000人の監査官を動員し、欧州の他国のように移民の人々の滞在に許可を下ろすかどうか精査する。● マネーロンダリングなどを含める、銀行預金の管理。保護。投機行為の監視。●100%のクリーンエネルギー。● 新しいテクノロジーへの投資。●メイドイン・イタリー製品の保護。

ところで『5つ星運動』のイタリア国政への足がかりとして、いち早く首都ローマを制したヴィルジニア・ラッジ市長は、市役所官僚の談合スキャンダルをはじめ、ことあるごとに糾弾され、『民主党』支持者からは『資格』なし、との烙印を押されます。わたしはまったく彼女を庇うつもりはありませんし、政治家として高い評価もしませんが、こんな談合都市でインフラ企業やマフィアの嫌がらせ、メディア総攻撃を受けながらもよく耐え抜いた、とは思います。はっきり言ってローマ市は、ゴミ問題ひとつを取っても、そもそも談合なしには動かない複雑なシステムが出来上がっていて、しかも問題が起こっても、誰も責任を取らない、間違えを認めない、本当のことを言わない、言うことは聞かない。したがって誰が市長になっても手にも負えない都市ではあるのです。また、その事実を、市民はよく理解しています。

実は今回、選挙キャンペーンのファイナルとなったポポロ広場の『5つ星』の政治集会にはじめて参加してみました。ルイジ・ディ・マイオ、アレッサンドロ・ディ・バッティスタなど、『5つ星』のいまや『』である面々の話を、実際にライブで聞いてみたわけですが、上から目線の他の政党の政治家たちと違って、市民の目線で捉えた、誰でも感じているだろう身近な問題を、平易な言葉で一生懸命に訴える姿と群衆との一体感は、不覚にも胸に迫るものがあり、なるほど、これがポピュリズムというものか、と改めて感心した次第です。レトリックなく手練れなく、数年の間、必死で勉強してきたことが手に取るように分かる、真剣でまっすぐな言葉は人の心を打ちます。

もちろん「政治は無垢で一生懸命な正義感だけじゃだめなんだよ。清濁併せ呑む老獪な手腕が必要」、ということは百も承知ではありますが、経済界にもマフィア界にも、また国際的にもまったく『しがらみ』を持たない、ネットから生まれたデジタル世代の『市民運動』に、実験的に政治をまかせてみたとしても『世界の終わり』じゃないのではないか、と思ったのが正直な感想でした。それに、「もうたくさん、お腹いっぱい」と食傷する『バロックなしがらみ』だらけのスキャンダル、有象無象の魑魅魍魎が蠢くイタリアで、彼らがどう立ち回るのか、どう成長するのか、やはり彼らも時とともに政治の垢にまみれていくのか、経緯を見てみたい、とも無責任に思いました。

初期の炎上狙いの過激発言もすっかり影を潜め、モデラート(ほどほど)な立ち居振る舞いの候補者たちの真摯な発言を聞いて、わたしのような気持ちになった有権者も多くいたのではないか、と想像しています。大失敗に終わるかもしれませんが、管理されない民主主義というものは本来そういうもので、わたしを含める市民というものは、たいてい愚かで、日和見です。

また、「彼らの新しい政治スタイルを受け入れてもいいんじゃないかな。こんなに大勢の市民が望んでいるんだから」という傾向が見え隠れする現在のイタリアを見ていると、1960年から70年代にかけて『イタリア共産党』が市民に受け入れられて大躍進した時代も、こんな熱気だったのかもしれない、という感想をも持ちました。ポポロ広場の集会で、『僕たちの訴えていることは、左翼と言われる人々より、もっと左翼だと言いたい』というディ・バッティスタの言葉が、非常に印象的でしたが、もちろんそうでなければ、極左のダリオ・フォーが彼らを支持するわけはないのです。

『5つ星』は、既存のイデオロギーに由来しない、つまり右でも左でもない。さらに突き詰めると極左の要素も極右の要素もあわせ持つ、デジタル世代の倫理と価値観で理想の政治を目指す『モダン革命分子』です。とそんなことを書いた後、ルネッサンス、再生の国イタリアは『革命』の空気なしでは、時間が進まない国なのかもしれない、とも考えました。

しかしそんな盛り上がりのなか、イタリアらしい、複雑で怖い言葉もそっと放たれるのです。ガットパルディズムという、ヴィスコンティが映画化したトマーゾ・ディ・ランペデゥーサ『山猫』ーgattopardoを由来とする言葉ですが、「見えるスタイルは全て変わったように思えても、実は何も変わっていなかった、変わるものは実は何もない」という意味で、この数日ガットパルディズムという言葉が、まるで風に舞う羽のように、あちらこちらの闇で囁かれ、ゆらゆらと不気味に揺れることがあります。

※ポポロ広場で行われた、『5つ星』のスターたちが集合した政治集会。26:58辺りから首相候補ディ・マイオの演説。この集会でベッペ・グリッロは最後にほんの少し顔を出すだけです。

▶︎『民主党』の敗因とこれからのシナリオ

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