1992~93年、「コーザ・ノストラ」連続重大事件 I:ジョヴァンニ・ファルコーネの場合

Anni di piombo Deep Roma Società Storia

1992年5月23日17時58分

92年3月12日、つまりチオリーノのメモがボローニャの捜査判事に送られた6日後、まずパレルモ市長時代から長きに渡ってマフィアと政治の架け橋として奔走した『キリスト教民主党』欧州議員サルヴォ・リーマが、ホテルで開催される会議を主催するため、ふたりの知人と車で走行中、バイクで現れたコマンドに囲まれ、3発の銃弾を受け死亡します。

さらにジュリオ・アンドレオッティ、政治とマフィアの仲介者のひとりであった莫大な資産を持つシチリア高級マフィアのイニャツィオ・サルヴォ(1992年9月殺害)、クラウディオ・マルテッリ法務大臣カロジェロ・マンニーノ南イタリア緊急措置大臣、シチリア地方議員などが、マフィアの脅威にさらされることになりました。

もちろん、マフィアが最も殺害したがっていたのは、マキシ・プロチェッソでまったく役にたたなかった首相、ジュリオ・アンドレオッティであり、国家警察庁長官ヴィンチェンツォ・パリージ宛に「アンドレオッティを殺す」との脅迫状が送られてきたこともありましたが、アンドレオッティは可能な限りの厳重警護に囲まれ、ほとんど建物の中に引き篭もったまま、まったく隙を見せませんでした。

そのアンドレオッティの身代わり、ということなのか、悔悛者となったジョヴァンニ・ブルスカはのち、アンドレオッティの息子誘拐を実際に計画していた、と供述しています。さらに「コーザ・ノストラ」と緊密な関係にあったマンニーノ大臣には十字架菊の花をあしらった脅迫状が届き、大臣は「次はわたしだ」とひどく怯え、方々に助けを求め相談していたそうです。

なおサルヴォ・リーマが殺害されたのちの3月20日、上院・下院議員で構成された「アンチマフィア委員会」の聴聞会に出席した内務大臣ヴィンチェンツォ・スコッティ国家警察庁長官ヴィンチェンツォ・パリージは、「今後のイタリアの不安定化(クーデターを含む)の危機」についての発言をしています。スコッティ大臣は、諜報機関の独自の捜査と分析により想定される、当時の危機的状況を、「民主主義国であるならば、ただちに市民に公表すべき」とし、パリージ長官も警察庁の最高レベルでは、すでに感知しているリスクだと認め、スコッティ大臣に賛同しました。

「チオリーニの声明よりもはるかに前に届いた、SISDE(軍諜報局)の大臣官邸へのメモは、犯罪集団による犯罪行為を通じた選挙キャンペーンで、国内で新たな権力基盤が獲得される可能性について、周辺機関に警告しています」(スコッティ内務大臣発言抄訳)

この時はまだ、急激な政変の予兆はなかったため、「新たな権力基盤」という発言に脈絡があるようには思えませんが、時間が経つほどに「なるほど」、とその全貌が見える展開になるはずです。さらにスコッティ大臣は組織犯罪(コーザ・ノストラ、ンドゥランゲタ、カモッラ)だけでなく、マフィアと政治テロリズムとの連動における危険性についても、その聴聞会で言及していますが、アンドレオッティは翌日のコリエレ・デッラ・セーラ紙のインタビューで、スコッティ大臣とパリージ長官の発言は「虚偽、間違いだ」、と一蹴するのです。

一方、リーマの死を知ったファルコーネはただならぬ変化を感じ、「これからはあらゆることが起こりうる」と近しい友人たちに話していたそうです。

事実、のちの捜査によると、トト・リイナはローマジョヴァンニ・ブルスカマッテオ・メッシーナ・デナーロジュゼッペ・グラヴィアーノらで構成された暗殺チームを送り、ファルコーネを尾行し、周囲を探り、殺害する機会を狙っていた時期がありました。しかしある時点で、誰から提案されたのか、リイナは刺客たちをシチリアに帰還させています。シチリアでのファルコーネは、常に厳重警護で行動していましたが、ローマでは護衛をつけずに自由に動いていたため、容易にファルコーネを殺害するチャンスがあったにも関わらず、です。そしてその理由は、おいおい明らかになることと思います。

なおジョヴァンニ・ブルスカ、マッテーオ・メッシーナ・デナーロ、ジュゼッペ・グラヴォアーノは一連の重大爆破事件で重要な役割を担う若手のボスたちであり、特にトラーパニを支配していたメッシーナ・デナーロは、トト・リイナ、プロヴェンツァーノの流れを継承した、事件の全容を知る最後の人物とされます。その大物は30年間逃亡していましたが、2023年、不治の病で通う地元の病院の玄関先で逮捕され、その後間もなく病死しました。もちろん、自身が大きく関わった92~93年の連続重大爆破事件について、何ひとつ語ることはありませんでした。このマッテオ・メッシーナ・デナーロの逃亡生活は、すでに2024年、豪華俳優陣による映画「IdduーUltimo padrone」として、公開されています。

ファルコーネの妻、フランチェスコ・モルヴィッロも検察官でした。Wikipediaより引用。

悲劇は5月23日に起こります。

ファルコーネとその妻で、同じく検察官であるフランチェスカ・モルヴィッロはその日、必要最小限の友人にしか告げないまま、重要な約束があるパレルモへと向かいました。なお、この時ファルコーネは通常の旅客機ではなく、諜報局員が利用する小型旅客機で到着したそうで、裁判所付きの運転手、ジュゼッペ・コスタンツォには裁判所を通さず、当日の朝に直接電話をかけ、パレルモ到着時間を知らせています。

ローマにいる時とは異なり、パレルモでのファルコーネの移動は、マキシ・プロチェッソ時の厳重警戒時よりは多少規模が小さくなったとはいえ、警察官による警護隊(Scorta)にガードされており、彼らにもファルコーネから直接連絡が入っています。警護を担当する若い警察官たちにとって、ファルコーネを警護することは誇らしい任務であり、誰もが喜んで引き受けたそうです。

ファルコーネとモルヴィッロは空港に降り立つと、いつものように前後に2台の警護車に挟まれた防弾仕様フィアット・クロマに乗り込みました。ただしこの時はいつもと違って、ファルコーネ運転し、隣の座席にモルヴィッロ、コスタンツォ後部座席に乗っています(モルヴィッロが後部座席では車酔いするため)。その後プンタ・ライシ空港(現ファルコーネ・ボルセリーノ空港)からパレルモまで、高速道路A29を走行。土曜日だったこともあり、高速はかなり混雑し、大勢の子供たちを乗せたバスなども走っていたようです。

もちろんこの時、A29と並行して続く田舎道を、空港に待機していた「コーザ・ノストラ」のジョアッキーノ・ラ・バルベーラが一行を尾行していたことには、誰も気づきませんでした。ラ・バルベーラは極秘にされていたはずの「ファルコーネのパレルモ行き」の通知を何者かから受け、その数時間前からカパーチの丘に集合していた仲間たち、ジョヴァンニ・ブルスカ、アントニーノ・ジョエサンティーノ・ディ・マッテーオサルヴァトーレ・ビオンディーノらと連絡を取り合っていたのです。

ファルコーネのフィアット・クロマを真ん中に3台の車がイゾラ・デッレ・フェミネ地区を走行していた時のことでした。ジョヴァンニ・ブルスカが手に握りしめていたリモコンのスイッチを入れた途端、この世のものとは思えない凄まじい爆発音が周囲に響き渡り、高速道路のアスファルトのように盛り上がりました。15m火柱が舞い上がると、2台の車はみるみるうちに地面にめり込み、1台の警護車は60m先のオリーブ畑まで吹き飛ばされたのです。

大爆発を起こした高速道路の雨水の排水用トンネルに仕掛けられた爆弾は、高性能爆弾に使われるトリット、RDX、アンモニア硝酸塩から構成された、実際にはトリット500kg相当の破壊力を持つ爆弾でした。この大爆発で、2人の警察官とファルコーネの運転手であったコスタンツォは重傷を負いながら奇跡的に助かりましたが、亡くなった3人の警察官たちは、すべて30歳以下の前途ある若者たちでした。

「現場はまるで戦場のようだった」とカパーチの丘に急行した人々が述べているように、もはや高速道路の形状を留めない、瓦礫の山と化したカパーチの丘の惨状は、日常をかき乱すには十分すぎるスペクタクルなシーンとしてイタリア全国に衝撃を与え、テレビを通じて次から次に放映されました。つまり「カパーチの虐殺」は、「緊張作戦」の皮切りとなった「フォンターナ広場爆破事件」(1969年)が起こった際、テレビ映像が人々に喚起した不安と同様の心理的効果を与えた、ということです。

ファルコーネが運転するフィアット・クロマは爆発で突然盛り上がったアスファルトの壁に激突し、シートベルトを着用していなかった検察官とその妻をフロントガラスに激しく叩きつけています。救助に駆けつけた近隣の住人たちに、その時はまだ息があったファルコーネ、その妻モルヴィッロ、運転手コスタンツォは引きずり出され病院に運ばれましたが、ファルコーネ、そしてモルヴィッロは間もなく息を引き取ることになります。ファルコーネは、ただちに駆けつけたパオロ・ボルセリーノの腕の中で息を引き取りました。

その時、ウッチャルドーネ刑務所に収監されていた「コーザ・ノストラ」のボスたちは、事件の第一報を聞いた途端大歓声を上げ、シャンパンで祝ったそうです。

クロマの後部座席に座ったことで生き残ったコスタンツォは、「自分が運転しておけばこんなことにはならなかった」と悔やみ、「事件が起こる1週間前、ファルコーネは自分が全国アンチマフィア総局(DNA)の局長になる、と喜んでいました。ファルコーネは89年から継続していた一連の政治殺人と『グラディオ』の関連を捜査したかったのでしょう。あんな大規模な爆発をマフィアだけで実現できるはずはないのです。ファルコーネにこれ以上捜査されたくない者たちがいたのです」と主張し続けています。

*以前の項にも引用した1993年、社会派ジュゼッペ・フェッラーラ監督による映画「ジョヴァンニ・ファルコーネ」は、裁判記録を忠実に再現した作品で、「プール」の背後に見え隠れする権力の圧力が暗示的に描かれリアルです。イタリア語ですが、全編はこちらから。

なお、この大爆発が起こる少し前、極右テロリストグループ「アヴァングァルディア・ナチョナーレ」のリーダー、ステファノ・デッレ・キアイエがシチリアを訪れ、「コーザ・ノストラ」の悔悛者で司法協力者のアルベルト・ロ・チチェロと共にカパーチ近辺実地調査をしていたことに、ロ・チチェロの元婚約者マリア・ロメオが言及しました(2023年5月に放送されたRai3の報道番組「Report」のインタビュー)。デッレ・キアイエは、『P2』のリーチョ・ジェッリとともに「フォンターナ広場爆破事件」「ボローニャ駅爆破事件」の主犯とされる人物で、2019年に病死しています。

さらに、極右テロリストグループでただひとり終身刑で収監されているヴィンツェンツォ・ヴィンチグェッラ(デッレ・キアイエの友人)が、同番組のインタビューで「われわれ極右グループは諜報局マフィア強い繋がりを持っている。われわれが国家の敵であったことはないのだ。われわれは国家が直接実行できないことをやってきただけだ」と発言しているのです。

「Report」のこの回の放送時期は、「国家・マフィア間交渉」裁判で、1審が国家要人、当局者たちをいったん有罪にしたにも関わらず、2023年4月、破毀院が最終的に「無罪」判決を下した1ヶ月後です。「Report」は、ファルコーネが亡くなった「カパーチの虐殺」のメモリアル・デーに合わせて、改めてマフィアと極右グループの関係を提議したわけですが、この回の放送前、警察はカルタニセッタ検察庁の署名がある捜査令状を持って、番組のレポーターであるパオロ・モンダーニ宅と番組編集局を訪れ、書類、コンピュータ、携帯電話を押収しようとしたそうです。

その後、マリア・ロメオ、アルベルト・ロ・チチェロの発言に関する文書が、主に検察庁が保持する30年前のものだった(つまり過去、捜査から排除された情報)ため、捜査令状は放送後に取り消されています。番組を進行するシクフリード・ラヌッチは「秘密の情報は何もない。強いていえば忘れられた情報だった」と述べました。モンダーニは、この件で検察庁から召喚されたことで、「カパーチの虐殺事件」の調査中に尾行され、盗聴され、撮影されていたことをはじめて知ったそうです。しかしモンダーニは情報源については一言も漏らしていません。

ところで1992年という年はまた、イタリアにとって大きな転換期でもありました。というのもその年の2月、「Mani Pulite(マーニ・プリーテ)清廉な手)」「タンジェントーポリ(贈収賄が蔓延る都市)」と呼ばれるイタリア最大の大汚職事件が勃発し、イタリアは長い政治混乱期に突入しはじめたからです。

to be continued…….

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