パレルモからローマへ
アッダーウラの爆発未遂事件が起こった1989年、パレルモ裁判所は内部の派閥争いで大きく分裂しはじめ、検察官同士が対立するカオス状態となり、ジュゼッペ・アヤーラをはじめとする、ファルコーネに近しい検察官の転任が相次ぎました。アヤーラはマキシ・プロチェッソの1審で裁判官を務め、ファルコーネとともに米国、スイス、ドイツ、英国を飛び回って、FBIの「ピッツァ・コネクション」捜査にも従事した「プール・アンチマフィア」のメンバーでもあります。
にも関わらず、のち下院議員となったアヤーラは、1992年、ボルセリーノが犠牲となった「ダメリオ通りの虐殺」の状況について、元司法官とは思えない軽薄さで供述を二転三転させており、その理由も明らかにはなっていません。単純に注目を浴びたかったのか、それとも何らかの思惑、あるいは指示があったのか、アヤーラに疑惑の目を向ける人々は少なくありません。
一方、逃亡中のトト・リイナが率いる「コーザ・ノストラ」の威力は、マキシ・プロチェッソのあとも少しも衰えを見せず、パレルモは依然として、「コルレオーネ」の傘下にあるファミリーに隅々まで管理されていました。仇敵であった「プール・アンチマフィア」はもはや存在せず、マフィアたちは自由な犯罪生活を謳歌し、巨万の富は膨張し続けていたのです。
無法地帯に陥ったそんなパレルモで、捜査ができなくなるほど孤立した状況に陥ったファルコーネは、1990年、同僚たちに促され、あまり気乗りしないままにCSM(司法高等評議会)の上級評議員選挙に立候補しますが、やはりこの評決でも落選することになります。この頃のファルコーネには、捜査を継続するための権限も仲間も与えられず、「コーザ・ノストラ」根絶へのすべての道が閉ざされたかのようでした。
しかし、そんな困難な状況下、ファルコーネの窮地を救う人物が現れます。当時のアンドレオッティ政権下の法務大臣だった『イタリア社会党』のクラウディオ・マルテッリが、ファルコーネに法務省の刑事部門長の席を提案してきたのです。マルテッリはファルコーネの長年の友人でもあり、ファルコーネがたったひとりで、パレルモでのマフィア捜査を継続することは不可能だということを、なにより案じていました。
ファルコーネは悩んだあげく、その提案を受け入れ、パレルモからローマへ移動することを決意します。そしてその時もまた、裁判所の同僚たちやメディアから「ファルコーネは政治に身を売った」と矢のような攻撃に晒されることになりました。
パレルモからローマへの移動の際、ファルコーネを取材し続け、信頼関係を築いていた、前述のL’unità紙の記者、サヴェリオ・ロダータは次のような短い会話を交わしたそうです。
「出発なんですか?」「そう、マルテッリと仕事をするためにローマに行くんだ」「パレルモを離れるんですか?」「その通り。パレルモを離れるんだ」そのあと彼はぎこちない笑顔で「君は反対かい?」と聞いてきた。そのとき何故か、誠実であるとともに失礼な言葉がわたし(ロダータ)の口をつく。「ジョヴァンニ、わたしたちは長年の友人です。あなたが何か愚かしいこと(minchiata)をしているように思うのですが」(中略)「わたしが何か馬鹿なことをしようと思っているのかい? その通りだ。わたしは馬鹿なことをしている」彼はわたしの言葉を無視し、「何を言いたいんだ? ここで働くのは不可能だって? パレルモにはもう空きがないって? もう終わりだって?」彼の顔は真っ赤になっていた(サヴェリオ・ロダータ、2002年 L’unità紙)。
ファルコーネはロダータに話を続けます。「同僚に被告人であるマフィアについての情報を電話で尋ねた数分後、その同僚から折り返し電話がかかってきて、『ファルコーネの電話の後、すぐに上司からも電話があり、ファルコーネがどんな情報を要求したか、誰にそれを頼んだかまで、その上司はすでに知っていた』と言うんだ」つまり、上司はファルコーネの動向を常に監視し、会話を盗聴し、「行動すべてを見張っている」と警告してきたわけです。
話を聞いたロダータが「この件をL’Unità紙に詳しく書きます。同僚の名など詳しく教えてください」と詰め寄ると、「わたしとの友情を大切に思っているなら、この件については一言も口にしないでくれ。わたしに害を及ぼすだけだから」と、ファルコーネは答えたそうです。
1991年、こうしてファルコーネが法務省に移動すると、今度はマルテッリ法務大臣に敵対する政治家たちから執拗な攻撃を受けることになります。さらには当時、パレルモで殺害(1991年)された企業家を追悼するTV番組に出演したファルコーネは、友人でもある「コーザ・ノストラ」裁判民事弁護士のアルフレド・ガラッソから「ファルコーネは、法務省から立ち去ったほうがいい」と非難され、ファルコーネは「それは主観的な意見だ。(「コーザ・ノストラ」との闘いを諦め)法務省での仕事を拒絶することは国家、という感覚の欠如だ」と答えました。その答えを聞いたガラッソは「違う、司法の独立性と自立性を損なう行為だ」と応酬し、議論となっています。
*このTVトークショーの議論のシーンは今でも繰り返し放映される、重要な映像です。法務省に移動したファルコーネは、ローマでも攻撃され続け、理解されることはありませんでした。この番組の他の議論で、ファルコーネは『キリスト教民主党』欧州議員サルヴォ・リーマと高級マフィア、イニャツィオ・サルヴォの繋がりを確定する発言をしています。
ローマの友人たちはファルコーネが置かれたパレルモでの孤立状態と困難について、まったく理解しておらず、政治家たちにとっては、ファルコーネのローマへの移動が政治闘争に利用できる、格好のトピックともなっていたのです。しかしその四面楚歌でも、ファルコーネは「コーザ・ノストラ」との闘いを決して諦めることなく、それこそが検察官としての国家への忠誠だと認識し、その闘いの勝利を確信していました。
法務省に移っても、変わらず攻撃を受け続けるファルコーネはしかし、法務大臣マルテッリに熱心に働きかけ、マキシ・プロチェッソが破毀院での最終判決を待つ間、裁判の進行を徹底的に妨害し続ける最高裁判所第1課から、中立であるアルナルド・ヴァレンテが裁判長を務める最高裁判所第6課の担当へと変更することに成功しています。
また、ファルコーネは法務省刑事局長として、念願だった米国のFBIをモデルとした国家アンチマフィア検察局(スーパー検察局)の設立に邁進し、1991年11月にはアンドレオッティ内閣が、全国アンチマフィア総局(DNA)、アンチマフィア捜査総局(DIA)の設立を承認しました。しかし、これらの機関を統率することを心待ちにしていたファルコーネに、もはや時間は残されていなかったのです。
このような経緯を経て、1992年1月30日、1986年2月からはじまったマキシ・プロチェッソは、破毀院から差し戻されることなく、346件の有罪判決をもって終結。数々の困難にも関わらず、ファルコーネの計画は着々と進行しているように見えました。
1992年3月4日のことです。エリオ・チオリーニという男が、ボローニャ地方裁判所の調査判事レオナルド・グラッシ宛に「イタリアの不安定化計画」と題された短いメモを送りつけています。そのメモには、『キリスト教民主党』の重要な政治家の暗殺と爆弾テロの計画が記されており、「イタリアを不安定化することにより、政治情勢を支配するために、爆弾テロと暗殺回帰への決定が下された」と記されていました。
なお、「イタリアの不安定化」「政治情勢を支配」という文言は、1969年から実行された「グラディオ」下における、イタリアの『鉛の時代』を創出した「Strategia dell’tensione(緊張作戦)」のコンセプトである「イタリア政治の安定のための不安定化」と同義です。「ベルリンの壁」はすでに崩壊し、共産主義勢力とのせめぎ合いは終了したにも関わらず、再び、しかもマフィアがメインシナリオの「緊張作戦」がはじまる、とチオリーニのメモは示唆していたわけです。
ところで、このエリオ・チオリーニという人物についてはフィレンツェ出身であること以外、明確な出自や帰属する組織は不明です。1980年に起こった「ボローニャ駅爆破事件」の捜査を偽証によって妨害した経緯のある男でもあり、91年に逮捕されたにも関わらず逃亡。その逃亡中にローマの新聞にインタビューされた際は「NATO傘下の共産主義対策機関に所属していた」と答えています。
いずれにしても、チリオーニはそれまでもいい加減な陰謀論を口にしており、そのほとんどが虚偽だったため、送りつけられたメモは「信頼のおける情報ではない」との見方もありましたが、その後すべてが現実になりました。現代では、チオリーニが、当時マフィア勢力+αによって決定された計画を実行に移すため、世論を操作することを目的に、ボローニャ地方裁判所に送ったと考えられています。
▶︎1992年5月23日17時58分