1992~93年、「コーザ・ノストラ」連続重大事件 I:ジョヴァンニ・ファルコーネの場合

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「わたしをひとりにしないでくれ」

CSMがメッリを選んだことから、いつのまにかファルコーネの周辺には「評判ほど尊敬すべき男ではなかった」というイメージが構築され、同僚たちの嫉妬がそれを増幅させました。こうしてファルコーネは次第に、「出過ぎた真似をする迷惑な存在」として、パレルモの司法関係者の間で孤立していくことになるのです。

1982年にパレルモ警察署の長官として派遣されたにも関わらず、捜査の情報は共有されず、当局からまったく保護されないまま100日後にマフィア(?)に暗殺されたカルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザの前例があるように、パレルモにおける「孤立」は敵の攻撃を誘発する、何より危険な状態です。なお、ダッラ・キエーザが殺害されたのは、アルド・モーロが『赤い旅団』に誘拐されていた55日間、「グラディオ」の沿革を書いた機密書類「メモリアル・モーロ」(現在は公開)の一部を、ジャーナリスト、ミーノ・ぺコレッリ(1979年、暗殺)と共に読み、国家の秘密を知ったからだとされます。

「マフィア犯罪の捜査に携わったこの数年、わたしは目立ちたがっている、とか、不正確である、という非難を黙って受け入れてきました。社会に有益な貢献をしていると信じ、任務に満足し、非難されることは、自分の任務に伴う困難であるとも認識していました…(カポンネットの後任に立候補したことで)自分の活動に対して何らかの賞表彰を求めるという考えまったくなかったことは確かです」

「残念ながら、わたしが恐れていたことが現実になりました。マフィア裁判の捜査は行き詰まり、パレルモの『プール・アンチマフィア』で構築された、非常に繊細なメカニズムはーここで分析はしませんがー膠着状態に陥っています。わたしが友人であることを光栄に思うパオロ・ボルセリーノが、アンチマフィア捜査が進まないことを公然と非難したことは、再び、彼の国家に対する思いと勇気を示した、と思います」(ジョヴァンニ・ファルコーネ)

この時期、ボルセリーノのマルサラ判事への栄転について、レオナルド・シャーシャがコリエレ・デッラ・セーラ紙に投稿した「Professionista dell’Antimafiaーアンチマフィア・プロフェッショナル」と題された記事に、多くの左派知識人が賛同しています。

これはムッソリーニがシチリアにおいても権力の独占を誇示するために、徹底的にマフィアを弾圧した歴史から導き出された論考で、「シチリアでは、司法キャリアを築く上で、マフィア関連裁判に参加すること以上に価値のあるものは何もないことを認識すべきだ」という一文で終わる、ボルセリーノのマルサラ判事栄転についての強烈な批判です。なお、シャーシャがこの記事を書いた背景には、ボルセリーノが君主制を支持する強固な右派支持者であったことも影響しているかもしれません。

残念ながら、「プール」の周辺に蠢く解体へ向けた動きや背景を知らなかったとはいえ、生涯に渡ってアンチマフィアを貫いたシャーシャが書いたこの記事が、時代の英雄としてもてはやされた「プール」のイメージ毀損したには違いなく、ファルコーネやボルセリーノへの人々の熱狂を冷めさせるには十分でした。のちにテレビのインタビュー番組に出演したカポンネットも、シャーシャの記事を巡る人々の反応に「非常に深刻な出来事だった」と述べた経緯があります。

パオロ・ボルセリーノ(左)とレオナルド・シャーシャ(右)。撮影された日付は1988年1月25日となっており、シャーシャの「アンチマフィア・プロフェッショナル」が掲載されたのは1987年1月10日なので、両者は1年後には和解したようです。撮影者も分からないため、写真は現在パブリック・ドメインとなっています(Wikipedia)。

一方、ファルコーネは社会主義、共産主義を支持する左派であり、その思想傾向をことあるごとに上司やメディアから揶揄されていましたが、ボルセリーノとは政治的には正反対の思想を持っていたにも関わらず、それが原因でふたりが対立したことは皆無でした。むしろ互いの思想を認めながら信頼し、尊敬し合う友情を築いていたことは、左派、右派が激しく対立し合うイタリアでは稀有なことです。

前項に記したように、この頃のファルコーネは窮地に陥りながらも、「マフィアによる暗殺」と見なされていたセルジォ・マッタレッラ現イタリア共和国大統領の年長の兄弟であるシチリア州知事ピエールサンティ・マッタレッラ殺害を極右テロリストグループによる政治殺人として捜査を進めており、さらにはシチリアで起こった同じく「マフィアによる暗殺」、と見なされたままの『イタリア共産党』議員ピオ・ラ・トーレの殺害事件も含めて『グラディオ』との関連を疑って、捜査を開始しています。

そうこうするうちに妨害はいよいよ苛烈になり、89年にはファルコーネが休暇のために借りていた、アッダーウラ海辺別荘の岸壁に置かれたスポーツバッグに爆弾が仕掛けられるという暗殺未遂事件まで起こっています。さいわいこの時は起爆装置が作動せず、爆弾が爆発することはありませんでしたが、その爆弾が爆発していたなら、別荘ごと吹き飛ぶような強力な爆弾でした。

当時のファルコーネが、車で動く際は何台もの警護車が連なり、「まるでパレードだった」と喩えられる厳重警護生活を送っていたにも関わらず、別荘の岸壁(それも海側から)に、誰にも気づかれることなく爆弾を仕掛けられるのは、諜報訓練を受けた何者かではないか、とも言われます。あるいは爆発しない爆弾による脅し、警告だったとも考えられる。

そのアッダーウラ爆発未遂事件の19日後、当時L’Unita紙の記者であったサベリオ・ロダータのインタビューで、ファルコーネは進行中のマネーロンダリング捜査の妨害、および自らの死を望む犯罪組織と、その背後に隠された「非常に洗練された頭脳」との癒着について分析的に話しました。

「われわれは、マフィアの特定の行動を操ろうとする『非常に洗練された頭脳』と対峙しています。コーザ・ノストラの首脳部と利害関係を持つ、隠された権力中枢とのつながりがあるかもしれません。これが、誰かがわたしを殺害しようとした真の理由を理解するための最も信頼できるシナリオだと感じています。(中略)わたしは、ダッラ・キエーザ(パレルモ警察庁長官)が排除された時のメカニズムを目の当たりにしています。シナリオ同じです。目を開けば見えてきます」

ロダータによると、ファルコーネは、その「非常に洗練された頭脳」として、SISDE(軍諜報局)のキャリアから国家警察総監となったブルーノ・コントラーダを疑ってもいたそうです(Wikipedia)。また、そのコントラーダから、あらゆる捜査を監視されていたボルセリーノはのちに、ファルコーネの死への道は、「(この暗殺未遂事件が起こった)89年からはじまっていた」と述べました。

実際、このコントラーダはマフィアの悔悛者たちの自白(ブシェッタ、ムートロ、カンチェーミなど)を含めるさまざまな証拠証言から、1992年にマフィア組織への外部協力罪起訴、逮捕され、裁判で懲役刑を受けました(のち、無罪放免)。カポンネットの記憶によると、オフィスに訪れたコントラーダと握手をしたあと、ファルコーネがその手を後ろに回し、ズボンで拭うような仕草をしたため、何故なのか尋ねたところ、「理由は聞かないでほしい」と言った、というエピソードもあるのです。

アッダーウラの岸壁に仕掛けられた爆弾の捜査をする警察官たち。写真は元検察官でのちに下院議長となったピエトロ・グラッソの、2021年、6月21日のSNSへの投稿の一部を引用させていただきました。

悔悛者たちの件で、わたしは激しく非難されました。わたしが彼らと『親密な』、緊張のない気楽関係にある、と非難されたのです。非難する者たちは、わたしがどのような方法で多くの者(マフィアのボス、メンバー)たちを説得して協力させたのか不思議がり、自白を強要しながら、何らかの約束をしている、ブシェッタの自白の政治的な部分を隠している、あるいはマフィアの一派と共謀して、他の一派を排除しようとしている、とさえ仄めかしました。その頂点に達したのが『カラスの手紙』でした」(ジョヴァンニ・ファルコーネ)

この「カラスの手紙」とは、アッダーウラ爆発未遂事件の数ヶ月後、最高アンチマフィア委員会など複数当局に送られた匿名の手紙で、ファルコーネが同僚であるパレルモ裁判所のジュゼッペ・アヤーラ、上司ピエトロ・ジャンマンコ、さらには国家警察庁長官ヴィンチェンツォ・パリージ、のちに内閣総理大臣付官房長官を務めるジャンニ・ディ・ジェンナーロを巧みに操縦し、アメリカに移住したマキシ・プロチェッソのもうひとりの証言者、悔悛者トゥトゥッチョ・コントルノをシチリアに呼び寄せ、「コーザ・ノストラ」の中核をなすコルレオーネ・ファミリー殲滅させるために武器まで渡した、と非難する誹謗中傷の手紙でした。

Corvo(カラス)」はその黒い翼が司法官のトーガ(官服)をイメージさせるため、マフィアが「判事/検察官」を表現する時に使う隠語で、複数の当局へ送られたその手紙には「プール=ファルコーネ」が法律を破って活動している、という印象を与える意図があった、と思われます。当時、当局の保護下に置かれ米国に移住していたトゥトゥッチョ・コントルノがシチリアに密かに帰還し、逮捕された、という経緯があり、「カラス」はその事実を巧みに利用して、虚偽のストーリーをでっち上げ、ファルコーネの評判をいよいよ毀損しようとしたわけです。

2013年からはじまった「国家・マフィア交渉」裁判の重要被告人となった、SISDE(軍諜報局)の幹部を経て、当時Ros(Il  raggruppamento operativo specialeーカラビニエリ特殊部隊)指揮官であったマリオ・モーリは、「カラスの手紙」は「組織犯罪との闘いで特に露出度の高い機関の要人を非難する行為」であり、「マフィアの慣行では、孤立非難作戦が、組織に反対する者を『抹殺』するための最初のステップであることがよく知られている」と述べました。

モーリがなぜ、マフィアの慣行を詳しく知っていたかは、さもありなん(後述)、ではありますが、この手紙が本当にマフィアから送られてきたものなのか、それとも他の何者かから送られてきたのか、現在も不明のままとなっています。

またこの時期、悔悛者たちの自白をもとに集中捜査を続けていたファルコーネは、パレルモ市長と市長を信望する論客から厳しい批判を浴び続け、アッダーウラの別荘で起きた事件は「パレルモの検事補への立候補を強化し、世論を得るためにファルコーネ自身計画したものだ」とまで糾弾されました。こうして、ファルコーネを巡る悪意に満ちた誹謗中傷はとどまることなく、ファルコーネはいよいよ孤立していったのです。

「ここはなんて幸せな国なんだろう。家のすぐそばに爆弾が仕掛けられて、それが運よく爆発しなかったとしても、それを爆発させなかったのはおまえだろう、とは・・・」(ジョヴァンニ・ファルコーネ)

多くの同僚、メディア、上司から常に疑惑の目を向けられ、その緊張状態の中、しかしファルコーネはマフィア捜査と同時に継続していたミケーレ・レイナ、ピエールサンティ・マッタレッラ、ピオ・ラ・トッレの暗殺事件における極右勢力の関与に関する調査に全力を注ぎ、1991年3月、ヴァレリオ・フィオラヴァンティジルベルト・カヴァリーニ実行者とする起訴状署名しています。このふたりは1980年、85人の死者、200人の重軽傷者を出した『鉛の時代』最悪の無差別テロ『ボローニャ駅爆発事件』に参加したとして服役していました(のち、フィオラヴァンティは釈放)。

しかしながら、マッタレッラ暗殺事件に関する裁判では、「犯人は兄だ」とのフィオラヴァンティの弟の証言を得ながら(のち、ヴァレリオの脅迫で撤回)、両者ともに証拠不十分とされ「無罪」となっています。

同時にファルコーネは、一連暗殺事件と『グラディオ』との関連の捜査を継続しようと、裁判所の上司ピエトロ・ジャンマンコから許可を得るために幾度となく働きかけましたが、常に阻止され、邪魔され続けました。

のちに悔悛者となった『コーザ・ノストラ』のボスのひとり、フランチェスコ・ディ・カルロは、1989年の時点(つまり別荘爆破未遂時の頃)から、すでにファルコーネが、諜報局SISDE、SISMIの高官たちの標的であった、と証言しています。この一連の証言からは、マフィアたちが通常コードネームで活動する諜報員のみならず、『ロッジャP2』に似た(軍諜報局幹部、政府関係者、銀行関係者、司法関係者などが属していた『P2』はすでに解体されていましたから)特殊なフリーメイソンに属する要人たちと非常に親しく付き合っていたことが窺われます。

というか、「コーザ・ノストラ」のボスレベルの者たちは諜報局幹部やフリーメイソンのメンバーたちと(あるいは自身がフリーメイソンメンバーというケースもあり)密な交流があり、『鉛の時代』の真相をも知り尽くしている、という印象です。

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