1992~93年、「コーザ・ノストラ」連続重大事件 I:ジョヴァンニ・ファルコーネの場合

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受難のはじまり

「マフィアはあらゆる形態の不法搾取集大成である」「もちろんわれわれは、これからも長い間、マフィア型の組織犯罪と戦わなければならない。しかしそれは永遠に続くわけではない。なぜならマフィアは人間が生み出した現象であり、他のあらゆる人間現象と同様に、はじまり進化があり、そしていずれ終わりを迎えるからだ」

ファルコーネがそう言っていたように、確かにマキシ・プロチェッソが開かれた当初は、誰もが「マフィアに打ち勝つことは可能だ」、と楽観的な思いを抱いたことと思います。もはやマフィアは不可侵の領域に息を潜めて跋扈する悪魔的な組織ではなく、太陽の下で司法が正当に裁く、つまり犯罪を犯した一般市民と同じ境遇にある者たちなのだ、と。

しかしながら、マキシ・プロチェッソがはじまった1986年から「プール・アンチマフィア」は巧妙解体されはじめ、ジョヴァンニ・ファルコーネは窮地に立たされるのです。

子供から、わたしはマフィア、暴力、恐喝、殺人が醸す風を感じていた。大きな裁判が何度も行われたが、何の解決も見られないまま終わった」「わたしは25歳までパレルモに住んでいたから、街の隅々を熟知していた。(中略)13年の不在の後、パレルモに戻ったわたしは、すっかり様変わりした街を目にしたのだ。歴史的中心部はほとんど廃墟と化していた。アール・ヌーヴォー様式でデザインされた建物が建ち並ぶパレルモの壮麗な邸宅は取り壊され、みすぼらしいマンションが建てられていた。わたしは、醜悪で粗野な街と化し、そのアイデンティティの一部を失ったパレルモを目の当たりにした」

コーザ・ノストラの世界へ飛び込んだことは、刺激的で、強烈で、わたしにとっての大きな転機となった」(ジョヴァンニ・ファルコーネ)

1939年に生まれたジョヴァンニ・ファルコーネは、アラブ文化が色濃く残された、パレルモの下町カルサ地区(Kalsa)で生まれ育っています。カルサの中心街は現在、廃墟となった建物が建ち並ぶ、閑散とした地区になっていますが、ファルコーネの少年時代には、いまだ古き良き下町の風情が漂っていました。ただ、当時の地区の港側は、マフィアが跳梁する不穏な地域でもあったそうです。

のちに「プール・アンチマフィア」の同僚として強固な絆で結ばれ、ともに捜査に没頭したパオロ・ボルセリーノもこの地区の出身で、少年時代にサッカーを通じてファルコーネと知り合っています。しかしふたりが兄弟のような友情を築いたのは「プール」が形成されてからです。

フォルチェッラ・デ・セタ宮殿に組み込まれたギリシャ人の門と、その背後に位置するカルサ広場、サンタ・テレサ教会 – パレルモ、1900年代初頭。はるか昔、ギリシャ人(サラセン)たちが移住したことからギリシャ人の門という名がついたそうです。その後シチリアを席巻したアラブの文化もまたカルサ地区には多く残り、現代の中心街にも、いかにもシチリアらしい多文化の痕跡が残る古い街並みが続きます。カルサは18世紀、欧州を飛び回った錬金術師(詐欺師?)カリオストロ・バルサモが生まれた場所でもあります。carapalermo.comより引用。

ちなみに「ピッツァ・コネクション」として知られるシチリア・米国「コーザ・ノストラ」間でオーガナイズされた国際麻薬密輸事件で暗躍したボス、トンマーゾ・スパダーロもこの地区で生まれ育ち、卓球の選手権ではファルコーネと対戦したこともあります。カルサ地区はまた、スパダーロ以外の多くのマフィアたちの出身地でもあり、このように、パレルモのマフィアの家族と、ごく普通の家族が混在する地区に生まれ育ったファルコーネとボルセリーノは、ときおり吹き荒れる犯罪の風の中で成長したわけです。

検察官として、レンティーニ(シラクーサ)、およびトラーパニ裁判所に13年間勤務したのち、ファルコーネがパレルモ裁判所に配属された頃は、「サッコ・ディ・パレルモ(パレルモ略奪)」と呼ばれる無軌道な地方総合都市計画が進んだ後で、世界でも有数の美しい都市、と言われたパレルモの景色がガラリと変わった時代でもありました。ちなみにカルサ地区に住んでいたファルコーネの家族は、「サッコ・ディ・パレルモ」による都市開発のため、別の地区への移転を余儀なくされています。

この悪名高い都市計画は、貴族が所有する文化財と定められていた庭園兼狩猟場が何者かに放火され、更地にせざるをえない状況となり、結果、その更地に住宅建設の認可が下りた1952年からはじまっています。戦後のパレルモで新しい住宅の需要が増大し、建設圧力が強まった時期でした。またその頃、ブルボン・オルレアン家が所有していた広大な庭園3分の1を、当時のマフィアの有名ボスふたりが住宅建設のために買い取った、という経緯もあります。

この都市計画が最も盛んに進められたのは、「コーザ・ノストラ」と『キリスト教民主党』の国家要人(アミントーレ・ファンファーニからジュリオ・アンドレオッティへ)との協力関係を長きに渡って仲介し、のちに『キリスト民主党』欧州議員となったサルヴォ・リーマパレルモ副市長を務め、高級マフィアと定義される、ヴィート・チャンチミーノパレルモ市議会を運営していた1956年からです。なおチャンチミーノは、今後追っていく「国家・マフィア間交渉」のとなる人物でもあります。

リーマ、およびチャンチミーノが、親交のあるマフィアのボスたちの運営による、あるいはその傘下にある建設業者に住宅建設を委託した結果、パレルモの中心街の美観を損なう「みすぼらしいマンション」が次々に建設され、パレルモの景観は無惨に破壊されました。そしてもちろん、条例を無視した醜悪な建造物の乱立の影では巨額の公金横領が横行し、マネーロンダリングが行われ、政治家たちもまた私腹を肥やし続けていたわけです。

パレルモのヴィラ・デリエッラ。サッコ・ディ・パレルモの標的となり、保護対象資産に指定される直前、一夜にして解体されました。その後、このスキャンダルが問題となり、結局何も建設されることなく、現在でも駐車場となったままです。Wikimafia.itより引用。

こうしてパレルモの景観が大きく変化する間、トラーパニ裁判所で過ごしたファルコーネは、パレルモ裁判所に配属されるや否や、マフィア捜査に邁進し、その卓越した捜査力と冷静な分析力で着実にキャリアを積んでいきます。検察官ガエターノ・コスタ(1980年にマフィアにより殺害)とともに国際麻薬密輸事件を担当し、銀行を行き交う巨額為替手形流れを追うことから、その取引きの中心人物であるサルヴァトーレ・インゼリッロ米国ガンビーノ・ファミリーロザリオ・スパートラを特定することにも、ファルコーネは成功を収めました。

この事件でファルコーネは、マフィア組織の捜査を成功させるためには銀行に流れる資金経路を再構築して、組織全体像を俯瞰することが重要だとの気づきを得、綿密な金融機関捜査で麻薬を巡る巨大組織を突き止めています。まずパレルモ、および近郊の銀行に1975年以降の為替手形をすべて提出するよう要請し、その為替手形をGuardia di Finanza(財務警察)の協力を得て精査。金の流れからインゼリッロ、スパートラ、ガンビーノの繋がりを明確にしたのです。

この金の流れを綿密に追う捜査法は、当時「ファルコーネ方式」と呼ばれ、パレルモ裁判所に構築された「プール・アンチマフィア」のひとつの捜査モデルとなりました。さらにファルコーネは、マフィアの金融投資を一手に引き受け、時代の寵児と謳われたミケーレ・シンドーナが、不正金融取引を暴かれ、切羽詰まって起こした狂言誘拐事件に、インゼリッロ、スパートラが関わっていたことをも突き止めています。

この「プール・アンチマフィア」は、マフィアの大量逮捕からマキシ・プロチェッソまでのプロセスを徹底的な秘密主義で貫き、情報を共有するのは「プール」のメンバーのみとされ、あらゆる書類はファルコーネとボルセリーノの金庫で管理されていたそうです。というのも、裁判所、警察、あるいはカラビニエリには、トップレベルから一般職員まで、アンドレオッティ派の政治家、および諜報機関に通じるスパイ蔓延していることをメンバーたちは熟知しており、裁判所の周囲には、スクープを狙うメディアが常に「プール」の動向を見張っていたからです。

さらに「プール」は、1979年から1980年前半にかけて、シチリア、米国、両「コーザ・ノストラ」が世界各地(たとえばマルセイユ)で精製されたヘロインを北米、欧州に密輸入して莫大な利益を上げていた、俗に「ピッツァ・コネクション」と呼ばれるFBIの国際麻薬密輸捜査に協力しています。ファルコーネ、ボルセリーノをはじめとする「プール」のメンバーたちは麻薬が売買されていた米国、英国、ドイツをはじめ、経済取引が行われていたスイスなど、欧州の主要都市へ飛んで、裏どりに奔走。そのため「プール」はFBIからも絶大な信頼を得ることになりました。

ちなみに、なぜ「ピッツァ・コネクション」と呼ばれたかと言うと、シチリア・米国「コーザ・ノストラ」が麻薬の密売をピッツェリアバールを隠れ蓑に行っていたという経緯があったからです。「プール」とFBIの協力から、米国ーシチリアを核とする国際麻薬密輸グループは壊滅状態に陥り、ファルコーネは米国マスコミからも好意的に紹介されました。

こうして米国でも、その捜査の的確さが賞賛されたファルコーネですが、1982年には「プール」のリーダー、ロッコ・キンニーチを検事総長が訪れ、「ファルコーネの銀行捜査は『悪い意味』で、パレルモの経済台無しにしているので、些細裁判だけで起訴を行うように」と言い残して去ったそうです(キンニーチの日記より)

FBIもまた、ファルコーネが亡くなった20年後のメモリアル・デーにはファルコーネの功績を偲ぶ式典を開いています。元FBI長官だったルイス・フリーは「ファルコーネは、私が今まで出会った中で最も勇敢な人物のひとりでした」と述べています。フリーによると、ファルコーネは非常に優れたユーモアのセンスと、素晴らしく、大きな笑い声を持つ人物だったそうです。sintony.itに掲載されたFBIのサイトに載せられた写真の一部を引用。

ところで前述したように、結果的にはマフィアから大量の有罪判決者を出し、マキシ・プロチェッソは成功に終わっています。しかし長年に渡り『キリスト教民主党』アンドレオッティ派と強い利害関係で結ばれていた「コーザ・ノストラ」と外部協力者たちは、イタリアを熱狂に包み、アンチマフィア運動を激化させたマキシ・プロチェッソを何とか無効化しようと、さまざまな妨害を試みています。

たとえば1987年国政選挙では、マフィアが支配していた地域の『キリスト教民主党』の票が、まるで長年の友人である政治家たちへの当てつけのように、すべて『イタリア社会党』と『急進党(Partito Radicale)』に流れました。

「これは、パレルモの検察官たちのアンチマフィア捜査を阻止できなかった『キリスト教民主党』に警告を発するために『コーザ・ノストラ』が仕掛けたものだ」(「コーザ・ノストラ」悔悛者フランチェスコ・マリーノ・マンノイア)

さらに言語道断なのは、マキシ・プロチェッソにおいて、司法合法性判断独占権を握っていた、当時の最高裁刑事部門長であったコラード・カルネヴァーレの執拗な妨害でした。

カルネヴァーレはマフィアたちに下された有罪判決を、本質的には問題がないにも関わらず、書類の些細な不備や形式上の誤りなどを理由にことごとく無効化。その数は500件に上ります(この数には『鉛の時代』にテロ事件を起こした極右勢力の犯罪者に対する有罪判決の無効も含んでいます)。しかもカルネヴァーレは、マフィアとの癒着を疑われながらも、1991年には大ボスのひとり、ミケーレ・グレコを含む42人釈放しているのです(!)。その暴挙には、主要メディアもカルネヴァーレを「判決破棄者」と書き立て、マキシ・プロチェッソの最高裁刑事部門長を辞職せざるをえない状況となりました。

このカルネヴァーレという最高裁刑事部門長は、かつて『ロッジャP2』のグランドマスター、リーチォ・ジェッリを反逆罪と武装集団結成の罪から無罪放免にした経緯もあり、のちガスパレ・ムートロジョヴァンニ・ブルスカサルヴァトーレ・カンチェミなど、マフィアの重要な悔悛者の証言から、カルネヴァーレが、政治とマフィアの架け橋であったサルヴォ・リーマイニャーツィオ・サルヴォアントニーノ・サルヴォ従兄弟たち(純然たるマフィアのメンバーでありながら、シチリアの税収を管理し、それを元に起業。観光業などで一大財産を築いた従兄弟たち)とも親しい関係であったことが明らかになっています。

マキシ・プロチェッソが開かれている間、サルヴォ・リーマ、サルヴォの従兄弟たちは、「プール」に憤る「コーザ・ノストラ」の残虐な「ボスの中のボス」トト・リイナに、「必ず全員無罪放免にする」と約束していたようです。

一方、マキシ・プロチェッソの一審マフィア不利に導き、メディアに注目されて一躍表舞台に躍り出たファルコーネは「勝利至上主義に溺れてはいけない。500人近くを裁くことがマフィアへの決定的な打撃とはならない」と自制的な姿勢を崩さず、捜査を継続していました。しかしながら、裁判がはじまってまもなく、ボルセリーノ栄転のためマルサラ判事に任命され、メンバーを外れた頃から「プール」は静かな解体へと向かいはじめるのです。

4年を超える年月、「プール」を率いたアントニーノ・カポンネットが年齢と健康状態を理由に退任準備をはじめたことも大きなきっかけとなりました。マフィア組織の詳細を知り尽くすファルコーネは、当然自身がカポンネットの後任として、さらなる捜査を続けることが最も適切だと思っており、ボルセリーノをはじめ、パレルモ裁判所内では、その卓越した能力、職務への献身、国家への忠誠心を鑑みて、カポンネットの後任には「ファルコーネ以外の選択肢はありえない」、というのが全員の一致した意見でもありました。

「プール・アンチマフィア」左からジョヴァンニ・ファルコーネ、パオロ・ボルセリーノ、アントニーノ・カポンネット。secoloditalia.itより引用。

ところがパレルモ裁判所「プール・アンチマフィア」のリーダーとなる捜査判事を決定するCSM司法高等評議会)の評決は、ファルコーネではなく、マフィア捜査にまったく経験がないにも関わらず、ファルコーネより年長でキャリアが長い、というだけの理由でアントニーノ・メッリが広範な票を得て選出されることになります。

これが評決の日の朝までファルコーネに票を入れる、と約束した親しい評議委員たちが、あからさまにファルコーネを裏切った結果でした。この結果が、同僚たちの嫉妬によるものなのか、何らかの裏工作があったのかは不明ですが、この評決の後、ファルコーネは「わたしは死んだも同然だ」と友人たちに打ち明けたそうです。

このCSMの裏切りを知った、マルサラ判事となったボルセリーノは、L’Unità紙、ラ・レプッブリカ紙で「CSMはプールを廃止したのだ」アンチマフィア機動部隊はもう存在しない」「われわれは10年、20年前の状態に逆行している」と痛烈に批判しています。また、ファルコーネが亡くなったあとに開かれた、ボルセリーノにとっても最後となった講演では「何人かのユダが、ファルコーネを裏切った」と怒りを露わに言い放ちました。

CSMの評決を受けてカポンネットが退職する日、普段は決して感情を露わにしないファルコーネの目にはが光ったそうです。

一部の政治家を含め、マフィアと協力関係にある当局者たちの目的は、刑務所のボスたちを釈放し、今まで通りのマフィア⇔外部協力者の相互利益確保するために、まず「プール」を破壊することでした。実際、メッリは就任すると、「プール」の最大のメリットであった捜査の協力体制による情報の統一化を主張するファルコーネとことごとく対立し、実質的に「プール」は機能不全に陥ります。ファルコーネとメンバーたちの捜査は困難に直面することになり、メンバーの何人かはメッリとの意見の相違から起こる論争の激化から「プール」を去っていきました。

▶︎「わたしをひとりにしないでくれ」

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