1992~93年、「コーザ・ノストラ」連続重大事件 I:ジョヴァンニ・ファルコーネの場合

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いま一度、マフィアの変遷

さて、今までの投稿の繰り返しにはなりますが、ファルコーネのケースを追って行く前に、主に戦後から90年代までのマフィアの変遷をいま一度、ざっくりと整理しておきたいと思います。

そもそもマフィアは、封建制下にあったシチリアの領主と農民の仲介を引き受けたガベロッティ、その私設軍隊カンピエーリが起源とされます。まだ犯罪組織として明確な体裁を持たない1800年代から、地域の政治権力と協力関係を結び、脅迫、強盗、誘拐などの犯罪行為で地域の人々から搾取し続けたガベロッティたちは、富を蓄え、裕福になるにつれ組織化。地域を確実に支配するシステムを構築していきました。

ギリシャ時代からはじまり、常に外国からの侵略を受け続けた歴史を持つシチリアに、確固とした独自の政府が存在しなかったことが、各地域でのマフィアの支配を許した、との説があります。地域の人々を脅迫して得る「みかじめ料」の見返りに、農民たちのいざこざや喧嘩の仲裁、復讐、権力者の仇敵の殺害などを引き受け、明確な司法構造を持たない疑似裁判所のような役割をも当時のマフィアは担っており、つまり、狭い地域の人々の調和にとっては必要悪とも言える時代があったということです。

現在でも、たとえば大ボスが逮捕された際、「なんてことをしてくれたんだ。彼のおかげでわれわれは生きているのだ」と地元の住民が主張するケースが、ながら見られることがあります。⚫︎参照→ マフィアの起源を探して19世紀、ガリバルディのイタリア統一前後、映画『山猫』のシチリアへ

馬に乗るカンピエーレ。Agrigent IeriEOggi di Elio Di Bella, agrigentoierieoggi.itの写真の一部を引用。

ファシスト政権が樹立すると、「マフィア撲滅」を掲げたムッソリーニがシチリアに送った、チェーザレ・モーリ率いる軍隊の武装作戦により、マフィアは徹底的に弾圧されました。にも関わらず、シチリアの裕福な封建領主の一部、あるいはガベロッティから大土地所有者に成り上がった者たちで形成された高級マフィア(Borghesia Mafiosa)、それぞれの地域を支配する大小のファミリーのボスたちと王政主義を掲げる極右勢力の政治家たち、およびフリーメイソンが密かに結託して、「シチリア独立運動」を第二次世界大戦中に発足しています。

これはシチリアをイタリアから独立させ、米国の州のひとつに参入することを目的とした奇抜なアイデアの運動でしたが、こうしてマフィアはムッソリーニの弾圧を地下で生き抜き、たとえば現上院議員ロベルト・スカルピナートは、この「シチリア独立運動」を形成した要素の協力体制が、戦後のイタリアの『鉛の時代』創出の基盤となっている、と分析しています。

第2次世界大戦の終焉が近づくと、米国で収監中の米国マフィア、ラッキー・ルチアーノからの要請で、シチリア・マフィアのボスたちは英米海軍シチリア侵攻「ハスキー作戦」に協力。その見返りとして当時の大ボスたちが、連合軍政府(AMGOT)から市長重要な公職(!)に任命されたことで、それまでローカル政府レベルにとどまっていた人脈から、国政レベルの人脈とマフィアが繋がることが可能になりました。⚫︎参照→ッキー・ルチアーノ PartⅡ: 第2次世界大戦における「アンダーワールド作戦」とそれからのイタリア

そしてイタリアのその後時代暗示する事件は、1947年5月1日に起こることになるのです。パレルモ郊外の丘、ポルテッラ・デッラ・ジネストラで開かれた労働者たちのメーデーの集会は、「シチリア独立運動」の傭兵である山賊たちに襲撃され、子供を含む11人犠牲者27人重軽傷者を出す大事件となりました。山賊の首領サルヴァトーレ・ジュリアーノは、儀式(プンチュータ)を受けた正式なマフィアのメンバーでした。

この事件は、のちに米国が中心となり、NATO加盟国における共産主義勢力の侵攻を阻止するために構成された準軍事作戦「グラディオ」に直結する、イタリアでの最初の共産主義制裁と見なされます。独占を旨とする高級マフィア、および地域のボスたち、極右政治家が加わる「シチリア独立運動」にとって、分配を主張する共産主義者たちは許し難い存在だったのです。

1944年に封建領主の領土の未耕作地占拠許可する法律が可決され、農民を優遇する収穫分配が約束されたにも関わらず、伝統的な封建領主たちと密につながるマフィアの支配下にあったシチリアでは、現状維持を切望する支配者と、労働者たちのせめぎ合いが社会動乱の原因となっていました。

1940~50年代、戦後急激に、その規模と権力を膨張させたマフィアは殺人、強盗、誘拐、恐喝、みかじめ料などで利益を得る、シチリアの各地域に根づく犯罪集団として、その存在を知られながらも、組織の「オメルタ(沈黙の掟)」と、それぞれが暗に支配する地域における恐怖政治のために、数多の犯罪の証拠、証言はいつのまにか闇に葬り去られました。

マフィアに懐柔された一部の政治家、警察幹部、司法従事者に至るまでが「マフィアなど存在しない。創作された伝説だ」と、その存在を認めることはなく、マフィアの犯罪を知りながら、仕返しを恐れる人々は口を開くことはありませんでした。マフィアに反抗して犠牲となった人々の亡骸は、酸で溶かされるか、セメントに埋め込まれるか、いつの間にか消え失せてしまうからです。

シチリア・マフィアが米国マフィアからの要請で国際麻薬密輸を一手に引き受けることになったのは40年代の終わりからですが、その違法ビジネスで得た巨万の富は、政治と手を組んだ公金横領金融投資でさらに膨れ上がり、60年代あたりからは国政に関わる要人との絆をがっつりと深めていきます。政治家(特に一部の『キリスト教民主党』議員)にとって、マフィアが管理する票田は抗いがたい魅力でした。⚫︎参照→ ラッキー・ルチアーノ以降、戦後イタリア「コーザ・ノストラ」の激変と巨万の富

『鉛の時代』に突入した70年代に入ると、冷戦の文脈で共産勢力を一掃するために欧州全域に張り巡らされた準軍事作戦「グラディオ」下、『キリスト教民主党』のジュリオ・アンドレオッティ派の政治家、フリーメイソン系秘密結社『ロッジャP2』、極右勢力グループ、SID(Servizio informazioni difesa)、SISDE(Servizio per le informazioni e la sicurezza democratica)、SISMI(Servizio informazioni e sicurezza militare)など国内諜報局、CIAなどNATO加盟国の海外諜報局が構築した「イタリア国内の安定のための不安定化」を旨とした謀略「Strategia della Tensione(緊張作戦)」が「フォンターナ広場爆破事件」を皮切りに実行されます。イタリアには欧州で最も大きく、影響力のあるイタリア共産党』が存在し、極左運動も盛んでした。

そしてこの「緊張作戦」が、マフィアの協力をも得て進められたことを、「プール・アンチマフィア」の協力者となったトンマーゾ・ブシェッタが80年代中盤に暴露しています。たとえばあと一歩のところで中止命令が下り、結果的には未遂に終わった「黒い君主、ユニオ・ボルゲーゼによるクーデター未遂」には「コーザ・ノストラ」から5000人(!)もの傭兵が送られています。

この事実については、1972年に起こった「ペテアーノの虐殺」の実行犯として終身刑の判決を受けた極右テロリストグループ「アヴァングァルディア・ナチョナーレ」のネオファシスト、ヴィンチェンツォ・ヴィンチグェッラも同様の供述をしています。ヴィンチグェッラは、『鉛の時代』に起こったネオファシストによる多数の無差別爆弾テロ事件(「フォンターナ広場爆破事件」「ボローニャ駅爆破事件」など)の背景に、国家機関に深く関与している人々、および軍諜報局援助があったことをも1984年の裁判で明言しました⚫︎参照→ 『鉛の時代』年表

『鉛の時代』には、綿密に計算された「緊張作戦」に組み込まれた極右テログループの無差別爆弾テロ、応酬する極左テログループの銃弾が飛び交い、要人の誘拐・殺害、司法関係者、ジャーナリストの暗殺が相次ぎました。ごく普通の若者たちがピストルを手にデモに参加して、流血市民戦争にまで発展したその時代、実体が明らかにならない犯罪組織であるマフィアに真っ向から挑み、その存在を糾弾する者たちがシチリアに現れます。

たとえばイタリアの主要エネルギー会社ENIの総帥エンリコ・マッテーイの飛行機事故への「コーザ・ノストラ」の関与を追っていたジャーナリスト、マウロ・ディ・マウロ、検察官ピエトロ・スカリオーネ、検察官チェーザレ・テッラノーヴァ、パレルモ警察特別機動隊隊長ボリス・ジュリアーノほか、マフィアと闘うジャーナリスト、検察官、カラビニエリ、警察官たちが果敢に捜査を進め、多くの逮捕者を出すことに成功しました。が、マフィアの実体は一向に明らかにならないまま、マフィアに挑んだ人々は、次々に殺害されることになります。

70年代後半からは、貧しい丘陵地域で次第に成長した新興マフィアコルレオーネ・ファミリートト・リイナが「コーザ・ノストラ」内で急激に頭角を現し、それまで強い勢力を保っていたパレルモの伝統的マフィアのボスたちを殺害。やがて「ボスの中のボス」として君臨します。また80年代初頭にかけては、パレルモ市民をも巻き込んで、リイナが敵とみなす旧マフィア勢力との間で、1000人を超す犠牲者を出した残虐な抗争ー第2次マフィア戦争が繰り広げられました。シチリアではイタリア本土のような政治テロは起こりませんでしたが、マフィアというテロ日常化していたのです。

コルレオーネ 1958年 L’EUROPEO LE RADICI DI GOMORRA/Luglio 2010より一部を引用。

さらにその時代、「コーザ・ノストラ」を追っていたカラビニエリ隊長のエマヌエーレ・バジーレ、検察官ガエターノ・コスタ、あるいは共産党議員ピオ・ラ・トーレ、現イタリア共和国大統領の年長の兄弟である、シチリア州知事のピエールサンティ・マッタレッラ 、『鉛の時代』の主人公のひとりで、パレルモ警察庁長官に任命されたばかりのカルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ大佐らが殺害されるという事件が頻発しています。

これらの、当時のイタリアで重要な地位にいた政治家を含む殺害事件の数々は、「すべてマフィアによる犯行である」と長期にわたり認識されていましたが、現在ではマフィア以外要素、すなわち『キリスト教民主党』アンドレオッティ派の議員、秘密結社『ロッジャP2』、極右勢力グループ、軍諜報局のなんらかの介入が存在した、という推論(いずれのケースにおいても、マフィア外部勢力の介入について、司法が『無罪』判決を出しているため)が一般的な共通理解となっています。なおマッタレッラ州知事殺害事件の捜査は、45年を経た現在継続中です。

そのような「決して存在が明らかにならないマフィアには勝つことはできない」「マフィアは伝説」、という空気が遂に崩壊したのが、パレルモ裁判所の司法教育局調査裁判官ロッコ・キンニーチのアイデアから生まれ、そのキンニーチがマフィアに殺害されたあとは、アントニーノ・カポンネットが正式に再創立して率いた「プール・アンチマフィア」の決死のチームワークからでした。

やがてブラジル当局に拘束されていたマフィアの大ボス、トンマーゾ・ブシェッタが、イタリアに送還されたのち、「プール」を牽引する検察官、ジョヴァンニ・ファルコーネを信頼するようになり、組織の「オメルタ(沈黙の掟)」を破ります。シチリア・マフィア全容とそのシステム、ボスたちの力関係、およびそ政治家や諜報機関など、マフィアを外部からサポートする公権力に属する者たちとのを、史上はじめて、白日の下に晒すことになりました(ただしブシェッタがマフィアと『キリスト教民主党』アンドレオッティ派との強固な協力関係を公言したのは、ファルコーネが亡くなったのち開かれた、93年以降の裁判からです)。

供述をはじめる前、ブシェッタが「ファルコーネ検察官、あなただけを信頼します。だが気をつけてください。彼らは寝返ったことを知るや否や、わたしを潰しにかかるでしょう。まず精神的に痛めつけ、そして殺害する。わたしの次はあなたの番です。最初にキャリアを崩壊させ、そして殺害する。それでも供述を続けますか?」と問いかけると、「もちろん」とファルコーネは即答しています。

歴史的な告白をはじめるブシェッタのこの言葉を聞いたとき、ファルコーネは「何か、えもいえない感動を覚えた」、とのちに書き残しています。ちなみに「コーザ・ノストラ」という米国マフィアと同様のシチリア・マフィアの名称は、ブシェッタの告白により、はじめて明らかになりました。

カポンネットの指揮下、「プール」のメンバーは、あらゆる妨害を鉄壁で守り、供述の裏を取り尽くし、命を狙われていたファルコーネとボルセリーノは離島に渡って条文起草。マフィア、およびマフィア関係者475人を被告とする、前代未聞のマキシ・プロチェッソ(大裁判)に臨みました。

しかしその捜査の最中の1985年の夏には、「プール」に属していた機動隊隊長ベッペ・モンターナニンニ・カッサーラ機動隊副隊長、そしてカッサーラを護衛するために休暇から早めに戻ったロベルト・アンティキオラが、マフィアに銃撃され亡くなる事件も起こっています。「プール」の捜査は、まさに死と背中合わせだったのです。

脅迫と嘘、緊張と怒号で騒然としたそのマキシ・プロチェッソは、ミサイル攻撃にも耐えられるほどの防御システムと、コンピューター化されたファイリングシステムを装備した「バンカー(地下壕)」と呼ばれる、数百人を収容できる鉄壁の大法廷で開かれました。

結果、1986年からはじまった一審から1990年の控訴審を経て、1992年の破毀院の最終判決まで続き、346件の有罪判決(当時、逃亡中であった大ボスであるリイナ、プロヴェンツァーノを含む欠席74件)、無罪判決114件、終身刑19件、全有罪者の懲役合計2665年、罰金115億ドルという最終判決となりました。⚫︎参照→「コーザ・ノストラ」とジョヴァンニ・ファルコーネ、史上初のマキシ・プロチェッソ(大裁判)

このマキシ・プロチェッソきっかけにはじまった連続重大爆破事件の前後から、イタリアという国の戦後政治そのものが、大きな変革を迎えることになりますが、その動きはおいおい明らかになるはずです。そしてそれこそが第2次世界大戦直後に端を発したイタリアの『鉛の時代』の総括であり、2013年から開かれた「国家・マフィア間交渉」裁判の背景となるイタリア近代歴史観であると捉えたい、と考えています。

▶︎受難のはじまり

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