ボルセリーノの57日とダメリオ通り
7月1日、司法協力者となった「コーザ・ノストラ」の悔悛者ガスパレ・ムートロを、ボルセリーノがローマで尋問していた時のことです。ムートロが、国家警察総監およびSISDE(軍諜報局)のNo2でもあったブルーノ・コントラーダと「コーザ・ノストラ」との関係を、「コントラーダは最も危険な男」と表現しながらボルセリーノに供述していたその時、尋問室に突然外部電話がかかってきました。
その電話は、6月28日に就任したばかりのニコラ・マンチーニ内務大臣(ジュリアーノ・アマート政権)からの「ローマにいるボルセリーノに会いたい」との要請で、ボルセリーノは「2時間で戻ってくる」とムートロに言い残すと、大臣に会いに行っています。
ムートロのその後の供述によると、戻ってきたボルセリーノは明らかに動揺し、苛立ちを隠さない様子で、「マンチーニが、わたしにブルーノ・コントラーダを紹介した。君によろしく、だそうだ」と言ったそうです。つまり、コントラーダはムートロがボルセリーノに自分のことを供述しているのを盗聴していたわけです。
このコントラーダという国家警察総監は、1989年のアッダーウラで起こったファルコーネの暗殺未遂事件で、ファルコーネ自身が「コーザ・ノストラ」と共謀関係にある「非常に洗練された頭脳」だと疑っていた人物でもあります。前項で述べたように、事実、コントラーダはマフィアの悔悛者たち(ブシェッタ、ムートロ、カンチェーミなど)の司法協力を含めるさまざまな証拠、証言から、1992年にマフィア組織への外部協力罪で起訴、逮捕され、裁判で懲役刑を受けています(が、のち放免)。
「プール・アンチマフィア」の局長だったアントニーノ・カポンネットの記憶によると、オフィスを訪れたコントラーダと握手をしたあと、ファルコーネがその手を後ろに回し、ズボンで拭うような仕草をしたため、何故なのか尋ねたところ、「理由は聞かないでほしい」と言った、というエピソードもあります。もちろんファルコーネの親友であったボルセリーノが、コントラーダがいったい何者であったのか、知らなかったはずがありません。
しかしのちの裁判で、ボルセリーノに直々電話をしたはずのマンチーノは「会っていない、会ったかもしれないが、ボルセリーノの顔を覚えていなかったので、他の者たちと区別がつかなかった」と言い張りました。その時代、ボルセリーノはイタリアで最も有名な検察官のひとりであり、誰もがその顔を知っていた人物だったので、マンチーノの主張は明らかに不自然でした。が、20年が経ち、事実確認が明白になったのち、ようやく「あの時ボルセリーノに会った」と供述を翻しています。
一方この時期、「コーザ・ノストラ」の殺害リストの3番目に名前が上がっていた、カロジェロ・マンニーノ議員の暗殺を準備していたジョヴァンニ・ブルスカは、トト・リイナの運転手であるサルヴァトーレ・ビオンディーノから暗殺計画の延期が伝えられます。司法協力者サルヴァトーレ・カンチェーミの証言によると、リイナはボルセリーノの殺害を急がせ、それも出来るだけ派手な方法で実現するよう、しつこく言い続けていたそうです。92年4月22日にアンドレオッティの辞任により内閣は崩壊し、6月28日にジュリアーノ・アマート政権へと移行したため、「コーザ・ノストラ」から脅迫され続けていたマンニーノは、もはや南イタリア緊急措置大臣ではありませんでした。
「ジョヴァンニ・ファルコーネの友人として、彼が得た多くの情報を、わたしは共有していました。それらの情報とわたしが持つ情報の要素を重ねてまとめた考え、さらに確信について公に話す前に、まずそれらをすべて司法当局に報告しなければなりません。司法当局は、わたしが知っているそれらの情報 が、ジョヴァンニ・ファルコーネの人生を終わらせた事件を再構築するのに、どのように役立てるかを評価できる唯一の機関です。そして、この悲劇の直後、 わたしだけでなく、他の人々も人生の一部が終わった、と感じました」(パオロ・ボルセリノー6月25日 パレルモ私立図書館 講演)
日を追ううちに、ボルセリーノはいよいよ口数が少なくなり、表情は暗くなり、足取りも重く、周囲の人々は、まさに「歩く屍のようだった」と証言しています。このときのボルセリーノは、自分の死期が迫っていることを確実に悟っていたのでしょう。
それでも司法当局だけが事件の解決を導くことができる、と信じ続けたボルセリーノは、ファルコーネの死に関する独自の捜査を、事件を担当していたカルタニセッタ検察庁に提供したい、と何度も、いや何十回も要求しています。しかしCSM(司法高等評議会)からは「ボルセリーノはファルコーネの親密な友人である」という理由から却下され続け、カルタニセッタ検察局の捜査も遅々として進まず、「カパーチの虐殺」に関する捜査は崩壊寸前でした。
「マフィア組織が 5月23日の襲撃を準備し実行したのは、マフィアなのか、それともマフィアだけであったのかについて、ここで明らかにはしません。いずれにせよマフィア組織であったには違いありません。すべての条件が揃った、まさにその瞬間に準備され実行されたのです」(パオロ・ボルセリーノ)
*「パオロ・ボルセリーノ」は2004年にTVのミニシリーズとして放映されました。今ではYoutubeで全編を見ることができますが、このシーンの後(2:35あたりから)ボルセリーノ自らの言葉が流れる写真のモンタージュは胸に迫ります。「(略)ファルコーネの幸福を覚えています。短い熱狂の間、彼はわたしに『人々はわたしたちを応援している』と言いました。人々の道徳的な支持が、司法の仕事に与える道義的な支援だけを意味していたわけではない。それはもっと重要な意味を持っていた。それはとりわけ、わたしたちの仕事が、人々の良心を揺さぶっていたことを意味していたのです」 余談ですか、このシリーズには、今ではあらゆるイタリア国内外映画祭の常連受賞者である若き日のエリオ・ジェルマーノが、ボルセリーノの息子役として登場します。
「カパーチの虐殺」から57日後の7月19日の日曜日、ボルセリーノは家族で昼食をとったあと、6人の警護員とともに母親が住むダメリオ通りのアパートへと向かいました。
午後16時48分、ボルセリーノが母親のアパートの門前に停車した車を降り、チャイムを鳴らそうとした、まさにそのときです。門の脇に停められていたフィアット126が突如として大爆発し、ボルセリーノは5人の警護の若者たちとともに、6階の高さまで爆風に吹き飛ばされ即死しました。また、その時に亡くなったエマヌエラ・ロイは女性ではじめて警護の任務に就き、はじめて殉職した女性警察官でした。
ダメリオ通りのこの爆発は、カパーチで起こった大爆発同様、アパートの壁面が崩壊するほどの大爆発で、現場では誰が誰か分からないほどに遺体は寸断されていたそうです。現場に駆けつけた現地の機動隊員は、「炎に包まれて破壊された数十台の車、燃え続ける車、熱で自爆する爆薬、助けを求める人々の叫び声、そして恐ろしく引き裂かれた遺体」と青ざめながら描写し、道路沿いの建物や商業施設、近隣の住人にも深刻な被害が及びました。
このとき急行した、かつての「プール・アンチマフィア」の上司、アントニーノ・カポンネットが原型を留めないボルセリーノの遺体を見た途端、「終わりだ!すべての終わりだ」と現場にいた記者の手を握りしめ泣き崩れた光景が映像に残されており、事件の凄惨さを当時を生きた人々の記憶にざっくりと焼き付けています。
「何の音も、不審も感じませんでした。しかし突然、地獄のような光景が広がったのです。大きな炎が見え、装甲車が揺れるのを感じました。どうやって車から降りたのか、まったく覚えていません」と、ボルセリーノが降りた車を駐車しようと、現場から離れた場所にいて助かった警護員は語りました。
のちに判明したことですが、ボルセリーノがかなり前から、母親が住むアパートの前に、「車を駐車できないように規制して欲しい」と頼んでいたにも関わらず、当局が動く気配はなかったのです。これは1978年、アルド・モーロが『赤い旅団』に誘拐される何ヶ月も前から、モーロとその家族が、特殊訓練を受けた警護員と防弾装備のある警護車を当局に要請していたにも関わらず、一向に届く気配がなかった、というエピソードと似ています。
また、似ているのはこのエピソードだけではなく、モーロの家族も、ボルセリーノの家族も、国葬には出席しませんでした。ボルセリーノの妻アニェーゼ・ピライーノ・ボルセリーノは、「国は夫を助けてくれなかった」と国が提案した国葬を断固として拒み、家族とボルセリーノの親しい友人だけを招いて、質素な葬儀を行なっています。しかしその葬儀には、どこで聞きつけたのか、パレルモの市民たちが続々と訪れ、最終的には10000人以上もの人々がボルセリーノの死を悼んだそうです。
かたや家族が不在のまま7月24日に開かれたボルセリーノの国葬は、市民による激しい抗議集会と化し、4000人の警護員が人の壁を作らねばならない事態となりました。怒り狂った群衆は、その警護員の壁を押し倒し、参列したオスカー・ルイジ・スカルファロ共和国大統領、元共和国大統領フランチェスコ・コッシーガ、MSI(イタリア社会運動)書記長ジャンフランコ・フィーニ、元法務大臣クラウディオ・マルテッリを取り囲むと、「国家からマフィアを追い出せ!」と口々に叫び、政治家たちを次々と殴り、蹴り、押しのけ、退去させています。このとき参列した国家警察長官ヴィンチェンツォ・パリージも殴打され、頬をひっぱたかれ、突き飛ばされました。もはや葬儀と言うよりは、市民の反乱でした。
のち、「カパーチの虐殺」についてのファルコーネ裁判で証言するため、米国から戻ったマキシ・プロチェッソの最重要司法協力者、トンマーゾ・ブシェッタは、法廷でファルコーネの殺害とボルセリーノの殺害はまったく異なる動機から発生している、と考察しています。
ファルコーネが殺害された原因は、確かにマキシ・プロチェッソの最終有罪判決に由来すると思われるが、ボルセリーノの殺害は、「コーザ・ノストラ」以外の要素を色濃く感じる、と断言したのです。「コーザ・ノストラ」と政治の癒着は恒常的なものである、と明言するブシェッタはしかし、「個人的には、こうではないか、という考えはあるが、それを公衆の面前で発言することは控える」として、「コーザ・ノストラ」以外の要素については具体的な内容に触れていません。
そしてボルセリーノのケースにおいても、ダッラ・キエザ大佐およびファルコーネの、死後に起こった現象と、まったく同じことが起こります。すなわち重要書類が入っていたダッラ・キエーザ大佐の金庫が空になり、ファルコーネのコンピューターから「グラディオ」関係のファイルが消去され、電子手帳が初期化されていたように、捜査の詳細、分析が書かれていたと考えられる、ボルセリーノが肌身離さず持っていた、あのカラビニエリの赤い手帳だけが、ダメリオ通りの現場に焼け焦げながらそのままの形で残ったバッグから忽然と消えました。
その赤い手帳には「時代の総体的な核心に迫る内容が記されているはずだ」と考える多くの検察官、ジャーナリストたちは、現代に至るまで捜査、調査を続け、ボルセリーノの弟であるサルヴァトーレ・ボルセリーノは、30年以上前から「赤い手帳」という名のアソシエーションを立ち上げ、手帳の行方とともに事件の真相を追っています。ときどき「あの手帳は〇〇が所持し、いくつかのコピーがある。自分はそれを読んだ」などと言うマフィアのスポークスマンが現れたりしますが、意味深にそう語るだけで、読んだ内容については明らかにしていません。
ボルセリーノが犠牲となった「ダメリオ通りの虐殺」事件だけでなく、92~93年の「コーザ・ノストラ」が実行犯となった連続大規模爆発事件の背景を語る、ある種のシンボルと見なされる、この「赤い手帳」消滅のミステリーについては、いずれにしても次の項で追う予定です。
このように「カパーチの虐殺」、「ダメリオ通りの虐殺」でファルコーネ、ボルセリーノと、イタリアで最も有名な検察官たちが次々とマフィアの犠牲になった事実を受け、ジュリアーノ・アマート内閣政府はマフィア撲滅を掲げ、大きく動きはじめました。たとえば7月24日のボルセリーノの葬儀の夜には、シチリアに約7000人の軍を政府が派遣しています。これは治安維持、地域の監視、組織犯罪の阻止のために、軍に警察官の職権を一部拡大したものでした。
また、ファルコーネが亡くなったあとに上院下院議会で通過した、受刑者を完全に孤立させる厳罰刑「スコッティ・マルテッリ法(41bis) 」令はボルセリーノの死後、ただちに法律となり、特に危険とされた「コーザ・ノストラ」の受刑者100人が、当時最も過酷な刑務所と言われたアシナーラ島、ピアーノサ島の刑務所に一括で移送されました。そのほか別の刑務所に収監された400人余りの「コーザ・ノストラ」受刑者にも、41bisの極刑が同様に適用されています。
さらにこのとき、パレルモ検察庁のロベルト・スカルピナート、アントニオ・イングロイアなど、8人の副検事はパレルモ検事総長ピエトロ・ジャンマンコに対し、ファルコーネとボルセリーノを孤立させたとし、抗議のために集団辞職の声明を出して脅しています。ボルセリーノが、「カパーチの虐殺」の独自捜査で得た証拠、証言について、事件を担当するカルタニセッタ裁判所で詳細を話したい、と何度も要求したにも関わらず、ジャンマンコが常に阻止した、という経緯があったからです。
この集団辞職の声明のせいで、そもそも「毒の館」と化していたパレルモ裁判所内では、さらに深刻な分裂が起こり紛糾し、CSM (司法高等評議会)が介入せざるをえない状況となりました。結局、ジャンマンコは転任を余儀なくされています。
1992年9月には、ロ・チチェロの証言アーカイブを消失させた、と疑われるパレルモ警察隊隊長アルナルド・ラ・バルベーラが率いる「ファルコーネ・ボルセリーノ」捜査チームが、ダメリオ通りの爆弾テロの犯人として、ヴィンチェンツォ・スカランティーノ、サルヴァトーレ・カンデュラらを特定し、逮捕しました。彼らは地元の不良少年で、強盗、麻薬取引、性暴力の前科があり、地元のマフィアと繋がってはいても、ボルセリーノに対して爆弾テロを企てる動機が明らかではなかったにも関わらず、です。ましてや大規模な爆弾テロを起こすような裁量はまったくないと思われる少年たちでした。
実際、「ボルセリーノ裁判」の途中から、スカランティーノらは「ラ・バルベーラらに拷問を受け続け、実行犯に仕立て上げられた」旨を主張しましたが、受け入れられることはありませんでした。
ところが2008年、ダメリオ通りの真の実行犯のひとりである「コーザ・ノストラ」のガスパレ・スパトゥッツァが悔悛者として司法協力者となり、ダメリオ通りの犯行を、ジュゼッペ・グラヴィアーノ、サルヴァトーレ・カンチェーミらとともに実行した経緯を供述したことから、ようやくスカランティーノらの供述が認められることになったのです。ラ・バルベーラに偽証させられたスカランティーノらは、真相が明らかになるまで、なんと20年近くも刑務所に収監されたままだったことになります。
その際のスパトゥッツァの供述によると、「ダメリオ通りの虐殺」は、トト・リイナ、サルヴァトーレ・ビオンディーノらがボルセリーノ殺害を決定した会議からはじまり、ガスパレ・スパトゥッツァ、ジュゼッペ・グラヴィアーノが爆薬を詰め込む自動車を盗み、中心的実行犯として犯行に及んだということでした。
2019年(!)に、カルタニセッタで開かれた第4次「ボルセリーノ裁判」の法廷では、悔悛者で司法協力者であるヴィート・ガラートロが、警察隊隊長ラ・バルベーラを「腐敗した人物」と表現し、特定のマフィアと深い繋がりを持ち、リイナとベルナルド・プロヴェンツァーノが会議で使っていた建物に入っていくのを何度も見かけたことを証言しています。さらにその建物には、件の国家警察総監ブルーノ・コントラーダが出入りしたことをも明らかにしました。
また2014年の「国家・マフィア間交渉」裁判の一審で、「コーザ・ノストラ」のボスのひとり、フランチェスコ・ディ・カルロが「自分が1988年にイギリス刑務所に収監されていた際、イタリアの諜報機関のエージェントが『コーザ・ノストラ』に助けを求めるために訪れ、ジョヴァンニ・ファルコーネの捜査を阻止してほしい、と依頼した人物のひとりに、爆破事件当時、パレルモの機動隊長だったラ・バルベーラもいた」と証言しています。
「最後の大ボス」と表現されることが多い、当時逃亡中だったマテオ・メッシーナ・デナーロ(現在は死亡)は、2016年の裁判で、ダメリオ通りのボルセリーノ殺害の詳細と段取りを計画した主犯のひとり(実行犯ではなく)として、不在のまま終身刑の判決を受けました。かつてボルセリーノは、同僚とともに、それまで検察の手が入ったことがなかったトラーパニのメッシーナ・デナーロのファミリーを捜査し、多くのメンバーを検挙するために動いた検察官でもあり、メッシーナ・デナーロはその時の恨みを忘れてはいなかったということです。
ちなみにメッシーナ・デナーロに関しては、獄中での会話が盗聴されたトト・リイナが「あいつを育てたのはわたしだ。あいつには実力と能力があった。父親から託されたのだ。しかし今、あいつの頭の中にあるのは経済的な利益と風力発電事業だけだ」と愚痴をこぼしています。リイナが好んだ爆弾テロや大物政治家殺人などから一切手を引き、その存在がまったく表面に現れないよう暴力事件も起こさず、風力発電事業など新しい産業を取り込んで、粛々とブラックマネーを循環させるシステムを構築したメッシーナ・デナーロは、「コーザ・ノストラ」のイノヴェーターと捉えられる人物です。
30年間逃亡し続けた、そのメッシーナ・デナーロは、2023年、パレルモの病院であっけなく逮捕されました。しかもその隠れ家は、何百回も捜索されたはずの地元、カステルヴェトラーノに存在していました。しかし逮捕された時のメッシーナ・デナーロは、余命わずかな重病であり、何も話すことなく数ヶ月後に亡くなっています。30年もの間、地元にいながら見つからないことが可能なのか、という疑問については、数人のジャーナリストが問題を提起しましたが、多くのメディアは、その詳細に触れることはありませんでした。
「さて、よくある誤解はこうです。『あの政治家はマフィアと親しかった。マフィア組織と利害が一致していると非難されたのに、検察は彼を起訴しなかった。だからあの政治家は正直者だ』と。しかし、違います!この論理は成立しません。なぜなら検察は司法的な立証しかできないからです。だから『確かに疑惑はある。それもかなり深刻な疑惑だ。しかしわたしは、その政治家がマフィアであると断言できる法的・司法的な確証を持っていない』と言うことはできるでしょう」(パオロ・ボルセリーノ)
to be continued…..











