エンナの会議と「国家・マフィア間交渉」のはじまり
ところで「コーザ・ノストラ」のボスとソルジャーたち475人(公判中に450人に減少)が被告人となり、1986年から1992年にかけてマキシ・プロチェッソが行われている間、「コーザ・ノストラ」の「ボスの中のボス」、コルレオーネ・ファミリーのトト・リイナは、ただ手をこまねいていたわけではありません。
マキシ・プロチェッソの合法性判断の独占権を握る最高裁刑事部門長が、コラード・カルネヴァーレから、中立のアルナルド・ヴァレンテに変わることを知ったトト・リイナは、これまで「コーザ・ノストラ」と良好な協力関係を築いてきたはずの『キリスト教民主党』がまったく役に立たず、いよいよ不利な状況に追い込まれていくことに危機感を覚えていました。
カルネヴァーレはサルヴォ・リイナやイニャーツィオ・サルヴォと『鉛の時代』から親しい関係にあり、あらゆるテロ事件の裁判を妨害し続け、「判決破棄者」との異名で呼ばれた背徳の司法官です。
イタリアの最高裁にあたる破毀院における、マキシ・プロチェッソの最終判決が迫りつつある1991年の夏、リイナは、シチリア全土の主要ボスに召集をかけ、「シチリアの臍」と呼ばれるシチリア中央部の高地エンナで、自らが議長を務める会議を数ヶ月間にわたって開いています。この会議は当初、リイナ、ベルナルド・プロヴェンツァーノ、ジュゼッペ・マドーニア、ベネデット・サンタパオラという、4人の大ボスからはじまりましたが、のちに「コーザ・ノストラ」の重要ボスらが参加する大がかりな会議へと発展しました。
さらに12月には、サルヴァトーレ・カンチェーミの従兄弟であるジローラモ・グッドの自宅で会議が開催され、トト・リイナ、ジュゼッペ・グラヴィアーノ、カルロ・グレコ、 ピエトロ・アリエリ、ミケランジェロ・ラ・バルベーラ、サルヴァトーレ・カンチェーミ、ジョヴァンニ・ブルスカ、ラファエレ・ガンチ、ジュゼッペ・モンタルト、サルヴァトーレ・マドーニアなどが参加。
92年の初頭にはトラーパニのカステルヴェトラーノ近郊で別の会議が開催され、トト・リーナ、マテオ・メッシーナ・デナーロ、およびジュゼッペ・グラヴィアーノとその弟フィリッポ・グラヴィアーノなどが参加しています(Wikipedia)。ちなみにカステルヴェトラーノはメッシーナ・デナーロの地元であり、それらの重要な会議には「ンドゥランゲタ」幹部も参加したことが、司法協力者の証言から明らかになっています。
この長期間の会議で決定された結論を端的に述べれば、⚫︎「国家に戦争を仕掛けて」それまでのイタリアの政治体制を完全に破壊。新しい政治体制を構築する。具体的にはイタリアを北、中央、南の3つに分割し、そのうち南部に独立国家を創設。「コーザ・ノストラ」そのものが国家となる ⚫︎これまで協力関係にあったにも関わらず、裏切った政治家たちを殺害する(殺害リスト)、というものでした。
エンナの会議は、それまで政治そのものにはまったく介入せず、相互利益を得るためだけに政治と絆を結んでいた「コーザ・ノストラ」が、政治そのものへの参入をはじめて決定した会議でした。つまり「コーザ・ノストラ」が、(自分たちのためだけの)平和で安全な将来を約束する政治を構築するために、国家に戦争を仕掛ける計画を練った、ということです。
言い換えれば、「安定のための不安定化」を創出する、という決定ですが、このコンセプトが冷戦の文脈における「グラディオ」下、イタリアで構築された謀略「緊張作戦」のレプリカであった可能性も指摘されています。
具体的には、1992年3月4日、エリオ・チオリーニという男が、ボローニャ地方裁判所の調査判事レオナルド・グラッシ宛に「イタリアの不安定化計画」と題された短いメモを送りつけているのです。そのメモには、『キリスト教民主党』の重要な政治家の暗殺と爆弾テロの計画が記されており、「イタリアを不安定化することにより、政治情勢を支配するために、爆弾テロと暗殺回帰への決定が下された」と記されていました。
このエリオ・チオリーニという人物についてはフィレンツェ出身であること以外、明確な出自や帰属する組織は不明ですが、1980年に起こった「ボローニャ駅爆破事件」では、偽証によって捜査を妨害した経緯があります。
事実、重要な悔悛者たちである司法協力者(レオナルド・メッシーナ、サルヴァトーレ・カンチェーミを含む)は、これらの会議に、『鉛の時代』を創出した、マフィアと深い協力関係にある国内諜報局メンバーのみならず、秘密結社『ロッジャP2』の流れを汲むシチリアのフリーメイソンのメンバー、『鉛の時代』に大規模テロ事件を起こした極右テログループの主なメンバーたち(「アヴァングァルディア・ナチョナーレ」のステファノ・デッレ・キアイエら)が参加していた、と供述しています。
また、その時計画された爆破事件は政治テロの復活を暗示する作戦とするため「ファランジェ・アルマータ(武装ファランジェ)」名義で実行するとし、実際、その後のいくつかの爆破事件の後に「ファランジェ・アルマータ」が声明を出す事態となりました。
このエンナの会議の内容については、ブランカッチョ地区を仕切るジュゼッペおよびフィリッポのグラヴィアーノ兄弟、トラーパニを仕切るマテオ・メッシーナ・デナーロなど、少数のマフィアの主要ボスにしか知らされず、その他のメンバーたちには「コーザ・ノストラ」のコミットのみで実行される計画だとしか伝わっていなかったそうです。
また、イタリアを分割した後、南部に独立国家を設立するというアイデアは、第二次世界大戦中にはじまった「シチリア独立運動」が推進した「シチリア独立国家」のように、1943年当時の「米国の一州に組み込まれる」という奇抜なものではありませんでしたが、「コーザ・ノストラ」が中心となったシチリアの政治組織が、イタリア政府の代替権力(!)として、「タックスヘイブン」となる、という野心的なものでした。
悔悛者の供述によると、その政治計画にはリーチォ・ジェッリ、ヴィート・チャンチミーノも加わり、フリーメイソン関係者の下で勧められ、外国勢力の援助まで受けていたとされます。しかしいったん立ち上がった政党「南部同盟(Lega Meridionale)」は、1992年の選挙で当選者を出すことができず、早晩頓挫することになりました。その計画はしかしのち、その時代「コーザ・ノストラ」のお墨付きのイタリア北部の著名企業家へと焦点が絞られていくことになった、とみられます。

エンナにあるカステッロ・ディ・ロンバルディア。シチリアの風景を一望できるこのような美しい街で会議は行われました。Il castello di Lombardia 30 ottobre 2019/Arangio Giuseppe https://it.m.wikipedia.org/wiki/File:Enna_-_Il_Castello_di_Lombardia.jpg
一方、親友を失ったボルセリーノは、謎に満ちたままの「カパーチの虐殺」の背後を徹底的に調べ上げる決意をしていました。丹念に調べ上げた捜査の内容は、カラビニエリが毎年制作する赤い手帳に書き留め、それを肌身離さず持ち歩いていたそうです。
先に述べたように、ボルセリーノは君主制を支持する右派思想の持ち主であり、国家に忠誠を尽くすカラビニエリには並々ならぬ尊敬の念を抱いていたため、「その手帳に最も重要な事項を書き記そうと思ったのだろう」とボルセリーノを知る人々は語ります。
マルサラの判事からパレルモの副検事へと転任した2ヶ月後に、親友ファルコーネを失ったボルセリーノは、「次は自分だ。時間は残されていない」という自覚のもと、今まで以上に熱狂的に捜査を進めています。しかし当時、正当なマフィア捜査を行わない「毒の館」と化していたパレルモ裁判所でのボルセリーノは、ファルコーネ同様、上司ピエトロ・ジャンマンコにことごとく否定、妨害され、カラビニエリ(Ros)から届いた「ボルセリーノの危険度が増している」という警告も、ボルセリーニ自身には知らされなかったそうです。
つまりボルセリーノもまた、ファルコーネのように、パレルモ裁判所の中で次第に孤立していったのです。周辺にいた人々によると、そもそも陽気で気さくな性格だった検察官は、捜査を進めるとともに次第に多くを話さなくなり、暗鬱な表情を見せるようになったと言います。
またこの時期、ファルコーネが提案し、実現した「国家アンチマフィア検察局(スーパー検察局)」の責任者に立候補する意思はあるか、と問われたボルセリーノの表情には、えもいえない憤りが溢れたそうです。即座に「ファルコーネの死という悲しむべき出来事に、何らかの形で起因する受益者となることはできない」という主旨の文書を、当時ボルセリーノに打診した大臣に送っています。
6月15日には、「コーザ・ノストラ」から悔悛者となったアルベルト・ロ・チチェロに、パレルモ裁判所の検察官たちが「カパーチの虐殺」に関する聞き取りを行っており、その議事録をボルセリーノも読み、自ら聞き取りに参加したがっていた、という事実が明らかになっています。つまりボルセリーノは「カパーチの虐殺」の準備段階で、先に述べた極右テロリストグループのリーダー、ステファノ・デッレ・キアイエが何度かシチリアを訪れ、爆弾設置の準備をしていた、というロ・チチェロの証言を知っていたわけです。
過去のマフィア捜査から、そもそもロ・チチェロに面識があったボルセリーノは、ロ・チチェロが司法協力者になると、さらに単独で(おそらく検察官の公式な職務としてではなく)何度か聞き取りを行ったことをも、ロ・チチェロのパートナーであったマリア・ロメーオ(兄ドメニコ・ロメーオはデッレ・キアイエの友人)が証言しました。ロ・チチェロはカパーチの実行犯(アントニーノ・トゥリオ・トロイア)の兄弟であるボス、マリアーノ・トゥリオ・トロイアの片腕だった男です。ただしこのあたりの事実関係は曖昧で、ボルセリーノが実際にロ・チチェロに会ったという確実な証拠はありません。
なお、6月15日のロ・チチェロの証言を記したパレルモ裁判所の検察官たちの議事録は、ボルセリーノが亡くなったのち、パレルモ警察隊隊長アルナルド・ラ・バルベーラ(後述)が、ごっそりアーカイブしています。これは一部の当局者たちが、「カパーチの虐殺」への極右勢力関与の証拠をことごとく消そうとした、とも解釈できる出来事です。
また、2007年の裁判でもロ・チチェロは同様の証言をしていますが、この時もまた、司法がステファノ・デッレ・キアイエの関与に切り込むことはありませんでした。さらに何人かの検察官が「カパーチの虐殺」への極右勢力関与の捜査を継続する要請をしたにも関わらず、2025年5月、司法は「カパーチの虐殺」は、あくまでも「コーザ・ノストラ」のみの犯行とし、極右テロリスト関与の可能性を最終的に退けました(Report Rai3ーしかし、7月には極右勢力関与捜査が再開)。その後マリア・ロメーオは、カルタニセッタ裁判所から偽証、捜査妨害を問われ(ロ・チチェロは2019年に亡くなっているため)、2025年5月に裁判に発展しています。
いずれにしても、このように、ボルセリーノを含める検察官たちがマフィアの司法協力者の供述を集め、当局のあらゆる機関の妨害に遭いながらも全力の捜査を継続している間、国家に属する一部の者たちが「コーザ・ノストラ」に秘密裏に、交渉を持ちかけることになるわけです。
それがその後30年以上の捜査、裁判が続いた「Trattativa Stato Mafia ー国家・マフィア間交渉」であり、2023年、破毀院で最終判決が下りた現在も、その交渉の周辺で起こったさまざまな事象について、多方向からの調査が継続する、イタリア近代史における重要な事項となっています。
そして現在「無罪」となった、この交渉に関わった人物たちは、「交渉などなかった、交渉は検察官やジャーナリストの創作」と主張し、ボルセリーノが犠牲となった「ダメリオ通りの虐殺」における「コーザ・ノストラ」の動機については、「公共事業に関する助成金の、マフィアの不正受給と政治との癒着に関するボルセリーノの捜査を阻止するため」だ、と主張しています。しかし「交渉」裁判に携わった検察官たちは「不正受給捜査は、当時すでにアーカイブされた捜査であり、事実ではない」と、繰り返し述べ続けているのです。
まず、一審ではいったん「有罪」となった被告人であるRos(Il Raggruppamento Operativo Specialeーカラビニエリ特殊部隊 )の隊長マリオ・モーリは法廷で、「なぜ『コーザ・ノストラ』は交渉に何重もの壁を作るのか」と発言し、「交渉」という言葉を使って、それが確かに存在したことを本人自ら証明しています。そして2023年の最終判決もまた、「交渉」は存在した、と認めることになりました。
この「国家・マフィア間交渉」は、具体的には「カパーチの虐殺」のすぐ後、1992年6月の初旬からはじまったことが、悔悛者である司法協力者たちの証言で明らかになっています。失脚したアンドレオッティをはじめ、サルヴォ・リーマが殺害されたように自らの生命も狙われていることを知った政治家たちが、大規模爆弾テロというカパーチのスペクタクルな爆発事件に肝を冷やし、「コーザ・ノストラ」と直接交渉をはじめた、というのが一般的な理解です。
つまりそれまで「コーザ・ノストラ」との協力関係により、利益を享受していた政治家たちが、市民を守るためではなく、自らの生命を守るためにマフィアに交渉を持ちかけた、ということです。
その交渉の仲介者として選ばれたのが、マキシプロチェッソの後、自宅軟禁となっていた「高級マフィア」、ヴィート・チャンチミーノでした。チャンチミーノは前項で触れた「サッコ・ディ・パレルモ」と呼ばれる醜悪な大建築ブームの際に暴利を貪った、トト・リイナ、ベルナルド・プロヴェンツァーノらと幼馴染みのコルレオーネ出身の政治家で、長きにわたって『キリスト教民主党』アンドレオッティ派と「コーザ・ノストラ」の架け橋となった人物のひとりです。
しかも、この「政治家の中で最もマフィア的な人物、マフィアの中で最も政治的な人物」への「交渉」の仲介の依頼は、そもそもチャンチミーノと親密な関係(!)にあったRosーカラビニエリ特殊部隊のジュゼッペ・デ・ドンノ大尉の存在で可能になっているのです。
デ・ドンノはその後、アントニオ・スブランニ司令官に「交渉」の段取りを報告したのち、Rosのモーリ隊長とともに国家側の交渉人となりました。なお、交渉に関わったRosのカラビニエリ幹部たちは、70年代にはSID(のちに解体された軍諜報局)の幹部であった経緯があるとともに、秘密結社『ロッジャP2』のリーチォ・ジェッリと親密な関係にあったという情報が多くあります。
他方、仲介人として選ばれたヴィート・チャンチミーノは息子マッシモ・チャンチミーノを使者に、『コーザ・ノストラ』の「ボスの中のボス」トト・リイナは、リイナの専属の医者でもあるマフィア、アンティーノ・チーナを使者としてデ・ドンノ、モーリと「交渉」をはじめることを約束しました。
このマフィアとの交渉開始が決定すると、デ・ドンノは法務省に出向き、ファルコーネの後任として法務省刑事局局長に就任したリリアナ・フェラーロに会ってチャンチミーノとの協力関係への政治支援を要請しますが、その時デ・ドンノは、フェラーロにボルセリーノは「交渉の邪魔になる」と伝えた、と言います。
そこで、フェラーロはデ・ドンノとモーリに、とにかくボルセリーノに会って話すよう促し、6月25日にモーリとデ・ドンノは秘密裏に、直接ボルセリーノに会ったそうです。また同月28日、今度はフェラーロがボルセリーノに会っていますが、このときボルセリーノは、法務省刑事局局長から、モーリとチャンチミーノの接触について、具体的に聞かされることになりました。
しかしボルセリーノはフェラーロから聞かされるまでもなく、すでにその事実を把握していたそうです。「カパーチの虐殺」にはマフィア以外の外部協力者が存在すること、「コーザ・ノストラ」との間に何らかの「交渉」が存在することを、多くの司法協力者の証言、独自の捜査網から、ボルセリーノはすでに理解していました。
ところで、この「国家・マフィア間交渉」の経緯で理解できないのが、法務省刑事局局長のリリアナ・フェラーロの立ち位置です。フェラーロはマキシ・プロチェッソの時代から、そもそもファルコーネの忠実な協力者であり、ファルコーネが法務省刑事局局長だった際には副局長を担い、ファルコーネの名声に貢献した、と評価される人物です。しかし同時に、フェラーロが「ボルセリーノが邪魔だ」と訴えるデ・ドンノに「わたしが何とかするから大丈夫だ」と言った、という説もあり、それがボルセリーノを守るという意味なのか、説得するという意味なのか、この人物の大局的な役割は不明です。
この、Rosの交渉人ふたりと、フェラーロに会う少し前のボルセリーノの様子についてはアニェーゼ(ピライーノ・ボルセリーノ)夫人の証言があります。6月の中旬あたりのことだそうです。
「わたしには時間が残されていないんだ。わたしはマフィアを間接的に見ている。マフィアと国家の裏切り者が、このところ交渉を続けている。(Ros)のスブランニ司令官は『コーザ・ノストラ』のプンチュータ(マフィアのイニシエーション)を受けている。わたしはマフィアに殺されるのではない。国家に忠誠を誓った者たちに殺されるのだ」
カラビニエリを深く尊敬し、「神聖」だと見なしていたボルセリーノは、妻にそう告白したとき、苦悩と動揺で嘔吐しています。
また同じ時期、ふたりの若い検察官アレッサンドラ・カマッサとマッシモ・ルッソといつものように仕事の話をしていたボルセリーノは、疲れ果てた様子を見せ、ソファに座り込むと突然、「友人から裏切られた、友人から裏切られた」と繰り返して涙を流したそうです。ふたりの検察官はそのようなボルセリーノを見たことがなかったので、ひどく驚いたことを、のちに法廷で証言しました。
この裏切った友人に関しては、今までもさまざまな人物の名前が上がっていましたが、直近の捜査では、ボルセリーノが大学時代に通っていた極右政党MSI(イタリア社会運動)の青年部の仲間で、デッレ・キアイアとも、マフィアとも交流がある、のちに下院議員になった人物が指摘されています。ボルセリーノは、国に忠誠を誓ったかつての仲間であるこの人物が「カパーチの虐殺」に関与した、あるいはマフィアと密に繋がっていた可能性を知って絶望した、と見なされるわけですが、ボルセリーノが「裏切り者」と呼んだ人物については、確定された情報がありません。
なお、「カパーチの虐殺」から2週間後の6月8日には、上院下院議会で41bisと呼ばれる刑務所法案が通過しています(「スコッティ・マルテッリ法」または「ファルコーネ法」)。
これはマフィア犯罪や無差別テロなど凶悪な重大事件を起こした受刑者を、最高レベルの厳格さで監視する厳罰で、たとえば当時アシナーラ島、ピアーノサ島などに、(かつて)存在した刑務所です。受刑者はいったんその刑務所に入れられると、外部との接触は最小限に遮断され、2度と出られないように部屋の鍵は海に捨てられた、と言われます。身体を動かすことは1日2時間と、一切の人間的な営み(音楽やTVの視聴のみならず、新聞を読むことなど)が禁じられ、「生きたたまま埋葬される」とも表現される極刑です。
「コーザ・ノストラ」のマフィアたちにとって、41bisは死よりも辛い極刑であり、それを逃れるために、逮捕されるとこぞって司法協力者となりました。
つまり、このときのイタリアには、マフィアに極刑を突きつける厳格な正義と、影でこそこそとマフィアとの交渉に暗躍する不正が、同時に存在していた、ということです。
▶︎ボルセリーノの57日とダメリオ通り











