1992~93年、「コーザ・ノストラ」連続重大事件 Ⅱ:パオロ・ボルセリーノの場合

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パオロ・ボルセリーノ

「ファルコーネの死に直面して、当然ながら、わたしは深刻心理的状態に陥りました。その痛みは、単に同僚や仕事仲間としての関係を超え、おそらく私にとって最も古い友人である存在が、わたしの人生から失われたからです。そのあとわたしに対する警護が極端に強化されたことで、生活が大きく変化しました。(中略)ファルコーネの死の直後、わたしは仕事に対する熱意の急激な喪失を恐れました。わたしがそれを完全に取り戻したとは言えませんが、幸いなことに、少なくともその情熱を取り戻しつつあります」

「ジョヴァンニ・ファルコーネは、悪の権力であるマフィアにいつか殺されることを、完璧に認識しながら働いていました。(その妻)フランチェスカ・モルヴィッロは彼と運命をともにすることを完璧に自覚しながら、彼の傍にいました。警護の青年たちは、ファルコーネと運命をともにすることを完璧に意識してファルコーネを守りました。なぜ彼は逃げなかったのか。なぜこの恐ろしい状況を受け入れたのか。なぜ彼は動揺しなかったのか。なぜ彼は常に自らの希望について、誰にでも答える準備ができていたのか。愛があったからです彼の人生は、この街(パレルモ)に対する、彼を産んだこの土地に対する愛の行為だったのです』

「わたしはニンニ・カッサーラが言ったことを覚えています。1985年7月末頃だったと思いますが、(パレルモ特別機動隊隊長ベッペ・)モンターナが殺害された現場へ向かっていた時、『わたしたちは、歩く屍だと自分に言い聞かせなければならない』と話し合いました。(中略)それを受け入れるのは、人生のある時点でそうあることを決めたからで、最初からその危険を冒さなければならない、と知っていたと言えます。生存者としての感覚、そして極限状態にある危険にさらされているという感覚は、わたしがまだ深く信じている仕事の内容から切り離せないものです。そして、わたしたち全員がこの仕事を続ける道徳的義務があることも知っています。わたしたちは、この状況が私たちに高価な代償を強いるかもしれないことを、むしろ確信しています」(パオロ・ボルセリーノ)

ジョヴァンニ・ファルコーネが亡くなったあと、これらの言葉を遺したパオロ・ボルセリーノは、前項でも触れたように、ファルコーネと同じく、ごく普通の家族とマフィアの家族が混在しながら暮らす、歴史的建造物が多く残るパレルモの下町、カルサ地区1940年に生まれています。

ファルコーネとは少年時代からサッカーに興じる幼馴染みではあっても、ふたりが強い絆で結ばれるようになったのは、「プール・アンチマフィア(パレルモ裁判所特別捜査本部)」のメンバーとして、ともにマフィア捜査に死力を尽くした80年代からです。その親密さは、ボルセリーノの年少の兄弟、サルヴァトーレ・ボルセリーノが「兄の兄弟は、わたしではなく、ジョヴァンニだった」と言うほどでした。

そもそも右派思想に傾倒する家族に生まれ育ったボルセリーノは大学時代、「全国大学行動戦線(Fronte Universitario d’Azione Nazionale)」に参加し、州の執行委員を務めるなど、活発な政治活動に従事していました。ボルセリーノの、この王政主義を支持する右派の立ち位置は成長しても変わらず、1990年にはシラクーサで極右政党MSI(イタリア社会運動)の地方議会議員、同じく当時MSIに属す若者で、「青年前線(Fronte della Gioventu)」のリーダーだったジャンニ・アレマンノ(元ローマ市長)とともに「青年前線」のイベントで演説を行なっています。

卒論で最高点(110 Lode)を獲得し大学を卒業すると、ボルセリーノは家族が経営する薬局の維持に奔走しながらも、1963年の司法試験では171人中25位の得点で通過イタリア最年少の司法官となりました。研修期間を経てエンナ裁判所に配属されたのちは、1969年にはモンレアーレの法務官として、当時カラビニエリ隊長だったエマヌエーレ・バジーレ大尉とともに勤務しています。

1980年からは、前年にマフィアにより殺害されたボリス・ジュリアーノのマフィア捜査をバジーレ大尉と引き継ぎ、常に行動をともにしていたそうです。また、のちに「プール・アンチマフィア」を発案し、83年にマフィアに殺害されたパレルモ裁判所教育局局長ロッコ・キンニーチとは家族ぐるみの親密な付き合いで、「プール」設立の際は、キンニーチはまずボルセリーノに相談し、メンバーとして招き入れています。なお1980年5月、長年、常に一緒に捜査にあたっていたバジーレ大尉マフィアに殺害されてからは、ボルセリーノのみならず家族全員に警護隊(Scorta)がつく厳重警護となりました。

「プール・アンチマフィア」にファルコーネや他のメンバーが加わってはじまったマキシ・プロチェッソまでの道のりは、以前の項(「→コーザ・ノストラ」とジョヴァンニ・ファルコーネ、史上初のマキシ・プロチェッソ<大裁判>)に記した通りですが、ボルセリーノは、ボリス・ジョンソン、エマニュエーレ・バジーレ、ロッコ・キンニーチ、ベッぺ・モンターナ、ニンニ・カッサーラ、そしてジョヴァンニ・ファルコーネまで、マフィアとの闘いの過程で、昨日までともに捜査に邁進した同僚、親友たちを次々と失い続けました。

それでもなお、闘いを諦めなかったボルセリーノの遺した言葉や文章には、司法官らしい知的で真面目な正義感、イタリア国家とシチリアへの愛情が溢れます。弟のサルヴァトーレ氏が心配して「シチリアは危険だ。兄さんはシチリアを出たほうがいい」と助言した途端、烈火のごとく怒り、「わたしは絶対に逃げない。決してシチリアを離れない」と声を荒げたというエピソードもあります。

事実、サルヴァトーレ氏が案じていた懸念はきわめて現実的であり、1991年の段階から、「コーザ・ノストラ」にはボルセリーノ暗殺計画があったことが、のち、悔悛者の供述で明らかになりました。その決定にふたりのボスが反対したことで、実行されることはありませんでしたが、反対したボスふたりは、のちに「ボスの中のボス」トト・リイナにより殺害されています。

マキシ・プロチェッソがはじまった1986年を境に「プール・アンチマフィア」は巧みに、そして黙々と解体され、それまでの熱烈な賞賛から誹謗中傷、捜査妨害、暗殺未遂へと状況がエスカレートするなか、パレルモでは、もはや捜査ができないほど孤立したファルコーネはローマの法務省に移動。かたやボルセリーノは、当時レオナルド・シャーシャが辛辣に批判した1986年マルサラ裁判所の判事就任を経て、1991年にファルコーネが去った後のパレルモ裁判所への移動を要請し、副検事としてパレルモに戻っています。

この頃のボルセリーノは、検察官の孤立と、マフィア犯罪との闘いに納得のいく答えを出そうとしない政治を糾弾するために、精力的に多くのメディアのインタビューに応じ、会議に参加していたそうです。

ジョヴァンニ・ファルコーネ(左)、パオロ・ボルセリーノ(右)student.itより引用。

ジョヴァンニ・ファルコーネ(左)、パオロ・ボルセリーノ(右)student.itより引用。

1992年5月21日、すなわちファルコーネが犠牲となった「カパーチの虐殺」の2日前のことです。ボルセリーノは自らの死を招く原因となったかもしれない重要なインタビューを残すことになります。

それはボルセリーノ家を訪れたフランスのTV局canal+のジャーナリスト、ファブリツィオ・カルヴィ、ジャンピエール・モスカルドが行ったインタビューで、のち、「国家・マフィア間交渉」裁判で、マフィアとの共謀でいったん有罪とされながら、2023年最終的に「無罪」となったマルチェッロ・デル・ウトゥリ、「コーザ・ノストラ」のヴィットリオ・マンガノについて、ボルセリーノが私見を語る内容のものです。

デル・ウトゥリは、「高級マフィア」と定義されることもある、70年代からベルルスコーニ元首相が運営する企業で働いていた盟友で、ベルルスコーニとともに政党『フォルツァ・イタリア』を立ち上げたのち、ベルルスコーニの傍で、長らく上院議員として国政に関わっています。そしてシチリア出身のこのデル・ウトゥリが、70年代、いまだ北イタリアの新興企業家であったシルヴィオ・ベルルスコーニにヴィットリオ・マンガノ紹介した人物であり、マンガノはといえば、「コーザ・ノストラ」に属す、殺人誘拐恐喝前科を持つ男でした。

マンガノは、1973年からベルルスコーニのアルコレの屋敷で「馬丁」として、庭の管理、およびベルルスコーニの家族のボディガードとして2年半ほど働き、その後シチリアへと舞い戻っていますが、マキシ・プロチェッソの過程で、トンマーゾ・ブシェッタ、およびトゥトゥッチョ・コントルノマンガノが「コーザ・ノストラ」の金庫番だったピッポ・カロのファミリー、「ポルタ・ヌオヴォ」のメンバーであることを明らかにしました。またデル・ウトゥリの2009年の控訴審の際、証人として聴取されたガスパレ・スパトゥッツァは、1992年1993年重大爆破事件が起こった時期、マンガノが、実は「ポルタ・ヌオヴォ」の真のボスであったことを証言しています。

スパトゥッツァは、多くの爆破事件に実行犯として参加したジュゼッペ・グラヴィアーノ率いる「ブランカッチョ・ファミリー」のメンバーであり、つまりマンガノも、重大爆破事件の背景で、間接的であっても重要な役割を負っていた可能性がある、ということです。

なお、アルコレのベルルスコーニの屋敷にいる間、マンガノは、ミラノーパレルモ間ドラッグビジネスを仕切っていた、とされ、1980年にはデル・ウトゥリとマンガーノが、電話でヘロインビジネスの話(隠語を使用して)をしていたところを盗聴されています。しかしこの時は証拠不十分で、両者ともに逮捕されることはありませんでした。

このマンガノについては、ファルコーネが「重要人物」とするメモを残していたことが、のちに明らかになっており、ボルセリーノもまた、フランスTV局のインタビューで、マンガノを(1970年から20年が経過した92年の時点においても)「パレルモとミラノの架け橋となる人物のひとり」と定義しているのです。

「司法官としてではなく、人間として、ベルルスコーニやデル・ウトゥリといった人物と『コーザ・ノストラ』の『Uomo d’onore(名誉ある男たちーマフィアのメンバー)』との協力をどう思いますか? マフィアは企業に興味があるのでしょうか」と問われると、ボルセリーノは次のように答えました。

「個人への言及はさておきー繰り返しますが、あなたが挙げた名前についてはわたし自身は見識がありませんーこの問題を一般的な文脈で考えるならば、1970 年代初頭までは主に農業、あるいはせいぜい建築用地の搾取を特徴としていたマフィア組織は、組織自体ビジネス=企業へと変貌を遂げはじめたのです。麻薬密売への関与がますます大きくなり、一時は独占的でもあった企業ということです」

「すると当然のことながら、その巨額に膨れ上がった資本の流用先を探します。これらの資本は、部分的には海外預金されていたため、これらの資本を扱う特定の金融業者と「コーザ・ノストラ」の間に親交(ミケーレ・シンドーナによるマネーロンダリングなど)が存在することが説明できます。「コーザ・ノストラ」は、北部(イタリア)で活動する企業と似たようなルートをたどり、自分たちが所有する資本を最大限に活用するために、企業家としての能力、つまりスキルを身につけたのです」

「『コーザ・ノストラ』がベルルスコーニに興味を持つのは普通のことだということですか? 多額の資産を持つ人々にとって、それは普通のことでしょうか?」との質問には、「資本は、資金洗浄のためにしても、あるいは収益化のためにも、投資先を求めます。犯罪組織が歴史のある時点で直面した必要性は、資金の出口を見つけるための産業的、商業的投資を求めるという、自然な流れへとつながりました。したがって、『コーザ・ノストラ』が、歴史のある時点で、こうした産業環境と接触したことは驚くべきことではありません」と答えています。

ボルセリーノ自身は、このインタビューで、ベルルスコーニの名を「繊細な事案だから」と積極的に口にすることはありませんでしたが、マンガノをパレルモとミラノの架け橋のひとり、と言いながら、『コーザ・ノストラ』の大企業への接触は自然、と肯定したわけですから、暗にその名を認めた、とも取れるインタビューです。

もちろんこの頃のベルルスコーニは、1981年に偶然発見された秘密結社『ロッジャP2リストに名を連ねるミラノの著名企業家ではあっても、いまだ政界進出の兆しすらありませんでした(少なくとも公には)。1974年、ミラノ郊外にMilano2と名付けられた3km平米の高級住宅街の建設の成功から、ローカル放送局(のち全国放送局へ)、新聞、出版社を次々と買収して、ベルルスコーニが一気にイタリアの「メディア王」へと駆け上った時代です。

とは言っても、そもそもベルルスコーニの、この急激な成功の影には、Milano2の建設時に必要だった巨額の資金の出所が不明なことから、マフィアの援助が囁かれており、事実、のちに開かれたデル・ウトゥリに関する裁判で、「コーザ・ノストラ」側の主人公のひとりであったヴィート・チャンチミーノの息子、マッシモ・チャンチミーノが、ベルナルド・プロヴェンツァーノと他のボスたちが共同でベルルスコーニに資金を提供した、と証言しています。

さらに2021年の「国家・マフィア間交渉」裁判の控訴審の際、収監中のブランカッチョのボス、ジュゼッペ・グラヴィアーノは、裕福な青果商でマフィアのボスだった祖父が、「ベルルスコーニに投資しており、具体的なビジネス・パートナーだった経緯」を、レッジョ・カラブリアの法廷で発言した経緯もありました。

しかし1992年の時点で、ボルセリーノのような著名検察官が、具体的にヴィットリオ・マンガノの名を口にし、デル・ウトゥリに関しては、見識がないと言いつつ、北イタリアの企業家と「コーザ・ノストラ」の関係について具体的に言明したのは、はじめてのことでした。今となっては検証不可能ではありますが、この時、実は単独で、ボルセリーノは密かにベルルスコーニを捜査しはじめていたのではないか、と推測されてもいるのです。

ただ、VHSに保存されていたこのインタビュー映像は、ボルセリーノの家族が偶然見つけるまで、その存在すら知られていませんでした。インタビューが発見された後も、どの局も放送したがらないため、なかなか公開されず、結局2000年に国営放送RaiのRai News 24が、午後11時という視聴率が最も低い時間、しかも内容に誤解を生むような編集(!)を加え、たった1回だけ放映しただけです。最近になって、ようやくそのインタビュー映像がチラホラ観ることができるようになり、現在では編集のない全編をYoutubeで観ることができます。

*2014年制作、フランコ・マレスコ監督のドキュメンタリー映画「Belluscone-Una storia siciliana(ベルスコーネーシチリアの物語)」にはデル・ウトゥリ本人が出演しています。膨大な書籍蒐集家としても有名で、ピエールパオロ・パソリーニの遺作となった「石油」から消えたとされる章を手に入れた、と騒いだ時期もありましたが、のちにうやむやになりました。このドキュメンタリーでは「ベルルスコーニの政治、個人的な問題、イタリアはどうなると思いますか」と聞かれ、エウジェニオ・モンターレの詩を引用し「文字通り、予期せぬ出来事はわれわれの希望である。だが、彼は括弧を付けて、『しかし彼らはわたしに、それは良いことだとは言えない』と言っている」と答えています。

なお当時、このインタビューの存在がどこからか漏れ伝わり、内容を知った「コーザ・ノストラ」+αはできるだけ早くボルセリーノを殺害することで一致した、とされます。そしてその理由は、おいおい後述することになりましょう。

▶︎エンナの会議と「国家・マフィア間交渉」のはじまり

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