1992~93年、「コーザ・ノストラ」連続重大事件 Ⅱ:パオロ・ボルセリーノの場合

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アンドレオッティのそれから

ボルセリーノ・ケースの詳細に入る前に、『鉛の時代』のあらゆる事件の背後に名前が浮上し、今まで幾度となくその名に触れてきた「Divo(ディーヴォ)ー神」、ジュリオ・アンドレオッティについて、今後多くを語ることはない、と思われるため、その後のアンドレオッティについて、イタリア語版Wikipediaなどを参照しながら、少し整理しておこうと思います。

アンドレオッティは、フリーメイソン系秘密結社『ロッジャP2』のグランド・マスター、リーチォ・ジェッリとともに、NATO加盟諸国における共産主義勢力の侵攻を、水際で堰き止めるための米国主導準軍事作戦「グラディオ」のイタリアにおける謀略、「緊張作戦」の中心人物のひとりでした。その謀略の存在については「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦が終結した1990年、フランチェスコ・コッシーガとともに、アンドレオッティ自ら議会にしています。

ちなみに「ディーヴォ」という異名は、秘密結社『ロッジャP2』リストに名を連ねていたジャーナリスト、ミーノ・ペコレッリがはじめて使い、その後は映画(「IL DIVO」パオロ・ソレンティーノ監督/2008年)のタイトルになるほどポピュラーになりました。なお、誘拐されたアルド・モーロが『赤い旅団』の人民刑務所で書いた「メモリアル・モーロ」と呼ばれる国家機密書類(現在は公開)を、カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ大佐とともに読んだ、とされるペコレッリは1978年に、ダッラ・キエーザは1980年に、いずれもマフィア(?)に殺害されています。

*2008年制作、パオロ・ソレンティーノ監督の「Il Divo」は当時大反響が起こりました。試写会で映画を観たアンドレオッティは「でたらめだ」と不快感を示しましたが、訴訟を起こすこともなく、「政治に携わる者にとって、無視されることは批判されることより悪いことらしいので」とインタビューに答え、太っ腹な対応をしています。時代背景をあれこれ知りながら再度観ると、面白さが倍増します。

ジュリオ・アンドレオッティは、イタリア共和国の歴史上、最も多くの政府の重責ポストに就いた政治家であり、首相7回共和国大臣(暫定的な任務を含め)を34回務めています。期間的にはシルヴィオ・ベルルスコーニに次いで、史上2番目に長く首相の座に君臨した、アルド・モーロ亡き後の『キリスト教民主党』の顔でもありました。

その「ディーヴォ」を、パレルモ検事総長ジャンカルロ・カゼッリ、検察官グイド・ロ・フォルテ、ジョアッキーノ・ナトーリ、ロベルト・スカルピナート(現上院議員)が、⚫︎単純な犯罪結社への外部からの共謀 ⚫︎マフィア型結社への外部からの共謀との罪状で起訴するための議会手続きを行うよう、上院議会議長宛に送付したのは1993年3月27日のことです。

「コーザ・ノストラ」と『キリスト教民主党』アンドレオッティ派の仲介をしていたサルヴォ・リーマ欧州議会議員殺害された事件(1992年1月23日殺害)の捜査で、「コーザ・ノストラ」の悔悛者たちが、アンドレオッティ、およびサルヴォ・リーマと「コーザ・ノストラ」の緊密な関係を明らかにしたことが、パレルモ裁判所における捜査のきっかけでした。

そしてその起訴手続きに関しては、アンドレオッティ自身(!)が積極的に議長に要請し、1993年5月13日、議長は起訴に関する議会手続きを承認しています。アンドレオッティには、「自分は決して有罪にはならない」という自信があったのだろうと推測します。

その後、グイド・ロ・フォルテ、ジョアッキーノ・ナトリ、ロベルト・スカルピナートは⚫︎単純な犯罪結社、およびマフィア型結社に参加した、と罪状を「修正」し、公判要請。自らの権力と影響力を利用し、犯罪結社の維持、強化、拡大に参加したとしてアンドレオッティは起訴され、予審ののちの1995年3月2日、アゴスティーノ・クリスティーナ司法長官により公判送致が命じられました。

結果、1995年9月26日から開かれた一審が終わるまでに、「コーザ・ノストラ」メンバーの司法協力者34人が、その関係を供述する事態となります。その中には、ファルコーネと強い信頼関係を結び、総勢346件のマフィアメンバー有罪判決を勝ち取った、史上初のマキシ・プロチェッソ(大裁判)に貢献したトンマーゾ・ブシェッタ、ボルセリーノに「コーザ・ノストラ」の内情を供述したガスパーレ・ムートロ、「コーザ・ノストラ」とアンドレオッティ派の関係はじめて告白したレオナルド・メッシーナ、組織内の麻薬精製に従事していたフランチェスコ・マリーノ・マンノイアなどがいました。

悔悛者たちは、シチリアの「高級マフィア」、アントニーノ(1986年病死)とイニャーツィオ・サルヴォ(1992年9月17日殺害)の従兄弟たち、『キリスト教民主党』欧州議員サルヴォ・リーマが仲介し、当時「コーザ・ノストラ」の統率者であったステファノ・ボンターテ(1981年にトト・リーナにより殺害)、ロザリオ・ニコレッティなどのボスたちが参加した会合(1979~1980年)に、アンドレオッティ直々複数回参加していたことを供述。アンドレオッティおよび秘密結社『ロッジャP2』が、強く保護した金融界の錬金術師、ミケーレ・シンドーナ(1986年獄中にて謎の死)と「コーザ・ノストラ」のマネーロンダリングについても詳細な証言をしています。

ブシェッタは、シチリアのサルヴォの従兄弟たちが、いかにもマフィアらしく、アンドレオッティのことを「おじさん」と呼んでいたことを明かしました。

1987年国政選挙で、マフィアが支配していた地域の『キリスト教民主党』のが、すべて『イタリア社会党』と『急進党(Partito Radicale)』に流れた背景には「パレルモ裁判所の検察官たちのアンチマフィア捜査阻止できなかった『キリスト教民主党』に警告を発するために、『コーザ・ノストラ』が仕掛けたものだ」、とマンノイアが暴露した際は、主要メディアが一斉に報じ、大反響を巻き起こしています。その際『イタリア社会党』と『急進党』のスポークスマンは即座に否定し、火消しに走ったそうです。

またマンノイアは、アンドレオッティの趣味である絵画収集のために、ボンターテや「コーザ・ノストラ」の金庫番でマキシ・プロチェッソで有罪判決を受けたピッポ・カロなどが、その調達全力を尽くしていたことなどをも供述しており、つまりプライベートな趣味に関することまで、アンドレオッティは「コーザ・ノストラ」を頼りにしていた、というわけです。

*2013年制作、Pif(ピエルフランチェスコ・ディリベルト)が監督し、主人公アルトゥーロを演じた「La mafia uccide solo d ‘estate(マフィアは夏にしか殺らない)」はコメディなんですが、70年、80年代のシチリアがよく描かれていて、封切り当時は映画館が毎日ソールドアウトになりました。日本ではTSUTAYA DISCASで配信。

なお、ファルコーネが精力的に捜査していた、シチリア州知事で現イタリア共和国大統領の実兄、ピエールサンティ・マッタレッラ殺害事件に関して、アンドレオッティは「その殺害計画をそもそも知っていたが反対していた」とされ、マッタレッラ殺害後、サルヴァトーレ・インゼリッロ(1981年にトト・リイナにより殺害)の別荘で開かれた「コーザ・ノストラ」の大がかりな会合に参加し、アンドレオッティ自ら直接ボンターテに説明を求めたと言います。

その時ボンターテは、「シチリアではわれわれが命令する。(略)さもなくば、シチリアだけでなく、レッジョ・カラブリア南イタリア全体票を失うことになる。共産主義者に投票しない北部の票を当てにするしかなくなるのだから、これを受け入れろ」とアンドレオッティをあしらった、とマイノイアは証言しました。

この1980年に起きたピエールサンティ・マッタレッラ殺害事件は現在でも捜査が続いている未解決事件で、1984年、司法協力者となったトンマーゾ・ブシェッタは「シチリアで起こった事件に関して「コーザ・ノストラ」のメンバーであれば、誰がコマンドとなったかを知っているはずなのに、誰に聞いてもわからなかった」とファルコーネに供述していた経緯があります。

その後、複数の証言、証拠を得て捜査を進めたファルコーネは、「コーザ・ノストラ」の(支配圏での暗殺)了解のもと、極右テログループN .A.Rに属するヴァレリオ・フィオラヴァンティ、ジルヴェルト・カヴァリーニが実行犯となった事件だと確信し、起訴に至りましたが、結局裁判ではふたりとも「無罪」となっています。このふたりは秘密結社『ロッジャP2』リーチォ・ジェッリと「アヴァングァルディア・ナチョナーレ」のリーダー、ステファノ・デッレ・キアイエらが主犯となり1980年に起こした「ボローニャ駅爆破事件」の実行犯グループに参加したテロリストで、収監中でした。

このマッタレッラ殺害事件に関しては、45年が経った現在でも次々に新たな謎が浮かび上がり、つい最近では「犯人が現場に残した手袋を、その時捜査にあたった警官が消失させた」として、カルタニセッタ裁判所が当時の警官を逮捕したことが大きなニュースになりました。もちろん、その警官は上司の命令に従っただけで、現場が混乱していたため、誰に手渡したかも覚えていませんでした。

ともかく、マフィアたちの一連の証言から推測できるのは、アンドレッティが「コーザ・ノストラ」と対等に渡り合い、あらゆる事件に関する絶対的決定権を握っていたわけでなく、「コーザ・ノストラ」+国内諜報局幹部、司法関係者の一部(幹部クラス)が属する秘密結社『ロッジャP2』と、いわばその傭兵的な位置にいた極右テログループの流れが、少なくとも1980年時点ではアンドレオッティよりも支配的な力を持っていた、あるいは『鉛の時代』を築いた準軍事作戦における謀略コネクションは、協力関係にはあっても、実は一枚岩ではなかったのではないか、ということです。

というか、これはあくまでも推測ですが、あれこれ調べるうちに、これらの謀略コネクションの高次に、さらなる司令塔(?)が存在したのかもしれない、とも思えてくる事例が多く浮上し、それを具体的に語る関係者もいます。「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦終結後、共産主義の脅威が消えた89年以降、アンドレオッティの存在意義は薄れ、「カパーチの虐殺」を背景に、大統領選挙にあっけなく敗北。イタリアの政治が劇的な変化へと向かう近代史は、出来すぎたシナリオのようでもあり、しかし歴史というものは、常にこのような謎を含むものなのかもしれません。

その後のアンドレオッティに関しては、検察官(当時)ロベルト・スカルピナートがアンドレオッティの刑事責任を肯定し、禁固刑15年を求刑した一審判決が1999年1月に終結し、悔悛者たちの証言の矛盾、一貫性のなさ、信頼性のなさ、不完全さ、捜査官によって提供された客観的証拠の欠如を理由に、案の定「無罪」判決となりました。

しかし「無罪判決」を下しながらも法廷は、⚫︎アンドレオッティが「コーザ・ノストラ」に深く関与するアントニーノ、イニャーツィオ・サルヴォの従兄弟たちと直接的に個人的な関係を持ち、アンドレオッティ派の選挙に支援を受けていたこと ⚫︎アンドレオッティがサルヴォ・リーマと緊密な関係にあり、リーマを仲介として「コーザ・ノストラ」と安定した協力関係を結んでいたこと ⚫︎マフィア組織と連帯し、マネーロンダリング活動を行っていたミケーレ・シンドーナが引き起こした金融危機に、アンドレオッティが介入したことなどは認めている(!)のです。

また、2001年4月に開かれた控訴審は2003年まで続き、結果、ジュリオ・アンドレオッティが1980年春までに犯した犯罪共謀罪については(裁判官はアンドレオッティが1980年まで「コーザ・ノストラ」と共謀していたことは事実だと認め)、同罪が時効により消滅(!)したため、訴追の必要はない、と宣言されました。

一方、1980年前後からの罪状については、(たとえばぺコレッリ殺害事件、アルベルト・ダッラ・キエーザ大佐殺害事件、ミケーレ・シンドーナの金融危機への介入、トト・リーナとの直接面会、マキシ・プロチェッソで「コーザ・ノストラ」優位に動くよう、司法の合法性判断の独占権を握っていた、「背徳者」である最高裁刑事部門長コラード・カルネヴァーレに介入させるなど)はいずれも証拠不十分のため「無罪」判決となっています。

最終的には、2004年10月に開かれた日本の最高裁にあたる破毀院での審理を経て、控訴審の判決が有効となりました。その最高裁判事によると、ジュリオ・アンドレオッティは、1980年春まで「コーザ・ノストラ」と結託し、それ以降はその関係を断つことを意図して、自らの内閣で、マフィア犯罪と戦うための規制措置推進するまでに至った、という結論でした。

これは前述したように、クラウディオ・マルテッリ法務大臣の下、法務省刑事局長となったジョヴァンニ・ファルコーネが、念願だった米国のFBIをモデルとした国家アンチマフィア検察局(スーパー検察局)の設立に邁進し、結果、全国アンチマフィア総局(DNA)、アンチマフィア捜査総局(DIA)が、1991年11月、アンドレオッティ内閣により承認されたからです。

いずれにしても、サルヴォ・リーマ、サルヴォの従兄弟たちを通じて、「コーザ・ノストラ」に、マキシ・プロチェッソを反故にすると約束していたアンドレオッティは、結局自分の力ではどうにもできなかったため、本当にマフィアとの絆を断ち切ろうとして、ファルコーネと「イタリア社会党」の法務大臣クラウディオ・マルテッリが提案した「スーパー検察局」の設立を許したのか、それとも市民に対するポーズだったのか、あるいは、のちにその機関を利用することができる、と考えたのか、今となっては何もかもが不明です。

アンドレオッティは1991年、当時共和国大統領であったフランチェスコ・コッシーガにより、すでに終身上院議員に任命されていたため、その後も上院議会にひっそりと、しかし必ず参加し、時々は重要な発言もして、94歳で亡くなる寸前まで議員席に座り続けました。こうしてアンドレオッティは政治への凄まじい執着と、どこか人間離れした倫理観を持つ、謎に満ちた悪名高い人物のまま、2013年、神の国(?)へと旅立つことになったのです。

ところでベルルスコーニ政権以降、イタリア政府は方向性を大きく変化させましたが、アンドレオッティ政権、ベッティーノ・クラクシー政権の時代は、アルド・モーロがパレスティーナ側と交わした密約「ロード・モーロ」の流れを継承し、ヤーセル・アラファットがローマを訪れるなど、パレスティーナと緊密な友好関係を結んでいたことは、特筆しておきたいと思います。

▶︎パオロ・ボルセリーノ

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