1992~93年、「コーザ・ノストラ」連続重大事件 Ⅱ:パオロ・ボルセリーノの場合

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ひとりの人間を標的とした暗殺に、前例のない大規模爆弾が使われた「カパーチの虐殺」の衝撃は、イタリア全土を震撼させ、悲しみと恐怖に突き落としました。事件の実行犯となった「コーザ・ノストラ」、犠牲となった検察官ジョヴァンニ・ファルコーネとその妻、警護隊であった3人の若者たちを適切に保護することができなかった政治家たち、そして警察軍部当局への人々の怒りは爆発し、大雨が降りしきる1992年5月25日、パレルモのサン・ドミニコ教会で執り行われた葬儀には、シチリア全域から多くの市民が集まっています。ローマから駆けつけ参列した当時の政界の大物たち、法務大臣クラウディオ・マルテッリ、内務大臣ヴィンチェンツォ・スコッティ、警察庁長官ヴィンチェンツォ・パリージには、集まった市民から非難と怒号が浴びせられ、硬貨が次々と投げつけられました。当時の映像を観ると、犠牲となった警護隊のひとり、ヴィート・スキファーノの妻、ロザリア・コスタが泣きじゃくりながら、マフィアに悔悛を促す祈りの言葉を参列者として聞く、パオロ・ボルセリーノの深い悲しみに呆然とした表情が心に刻まれます。

イタリア戦後政治の終焉

その日、全国のメディアは「ジョヴァンニ・ファルコーネ、市民の英雄」とのタイトルでカパーチで起こった事件を報じ、パレルモのバルコニーというバルコニーには、ファルコーネと警護隊の若者たちの死を悼む人々で溢れました。学校には「マフィアは人を殺す。沈黙も人を殺す」と書かれた垂れ幕が掲げられ、イタリア中がファルコーネへの賞賛で満ちたのです。

しかし「カパーチの虐殺」以前、1986年にはじまったマキシ・プロチェッソ(大裁判ーマフィアのボスたちを含み346件有罪)を率いた「プール・アンチマフィア(パレルモ裁判所アンチマフィア特別捜査本部)」への人々の熱狂が、マフィア、そしてマフィアと強い絆を持つ、しかも重要な地位にある一部の当局者の捜査妨害、メディアによる世論誘導を経て、いつの間にか嫌悪すり替わったことも事実です。シチリアをはじめとする南イタリア、ローマにはマフィア支配が構築した、古い慣習に縛られたままの人々が多くいました。

その結果、ファルコーネは裁判所内で孤立。パレルモから離れざるをえない状況となり、『イタリア社会党』のクラウディオ・マルテッリ法務大臣から法務省刑事局長の座を提案されると、それを受諾しローマへと向かいます。「カパーチの虐殺」は、ファルコーネが妻フランチェスカ・モルヴィッロとともに短期滞在のため、パレルモに戻った際に起こった爆弾テロでした(→1992~93年、「コーザ・ノストラ」連続重大事件 I:ジョヴァンニ・ファルコーネの場合)。

「プール・アンチマフィア」の同僚であり、ファルコーネの無二の親友だった検察官、パオロ・ボルセリーノは、6月20日、パレルモのサン・エルネスト教会で開かれたファルコーネの追悼式でこのように述べています。

「『わたしたち(プール・アンチマフィア)を応援する』という季節は、長くは続かなかったようです。それはマフィアとの闘い、悪との闘いにおいて、市民がその代償を払わなければならない、という苛立ち不快感へとあっという間に変わっていきました。警護隊への不快感、サイレンへの不快感、捜査への不快感。それはもちろん(最終的に)ファルコーネの痛ましい犠牲を望んでいた、という意味ではなく、それぞれの人々にもたらされた多くの些細な、あるいは莫大な利益、多くの些細な、あるいは非常に快適な習慣や、無関心や沈黙の掟(omertà)、共犯関係に基づく些細な、あるいは重要な状況を放棄しなければならなかったからです」

「彼は亡くなりました。妻と警護の警官たちとともに亡くなった。そして、その損失の大きさを誰もが認識しています。彼を中傷し、妨害し、時には憎み、迫害した者たちでさえ、もはや発言する権利を失ったのです!しかし、われわれはこの闘いを続ける権利、いや、神聖な義務を失ったわけではない。信仰が教えるように、彼の肉体は死んでも精神は生きているのです。ファルコーネと妻、警護隊の死とそれに続く市民の反応は、人々の良心が目覚めることができる、いや、目覚めなければならないことを示しています。彼の犠牲によって希望は蘇りました。多くの市民がーこれははじめてのことですがー司法協力しているのです」

「彼らはわたしたちのために命を落としました。わたしたちは彼らに大きな恩義があり、その恩義には喜びを持って報いなければなりません。彼らが進めてきた仕事を継続し、義務を果たし、犠牲を強いられるものであっても法律順守しなければなりません。マフィア組織から得られる利益(援助、紹介、仕事など)を拒否し、司法に協力し、わたしたちが信じる価値観を、法廷でも証言し、この重くも美しい真実を完全に受け入れることで、ファルコーネが生きていることを、わたしたち自身と世界に示す必要があります」

このように、ファルコーネが亡くなって約1ヶ月が経って開かれた追悼会での、ボルセリーノの感動的なスピーチに人々が心を震わせた頃には、いったんは下火になりかけたイタリアのアンチマフィア運動の炎が、再び燃え盛るようになっていました。

と同時に、それまで緩慢として淀み、腐敗しきっていたイタリア戦後政治が、新しい局面へと大きく動きはじめたことをも認識しておかなくてはなりません。

まず、パレルモでファルコーネの葬儀が行われた5月25日同日、イタリア上院下院議会では、フランチェスコ・コッシーガ(アルド・モーロ誘拐・殺害事件時の内務大臣)の退任に伴う共和国大統領を決定する、15回目議員投票が開かれていました。5月23日に「カパーチの虐殺」が起こる前は、ジュリオ・アンドレオッティが次期大統領に選ばれるだろう、というのがおおかたの予想であり、本人もまた、喉から手が出るほど欲しい、イタリア最高権威の座だったはずです。

5月13日にはじまり、5月25日まで15回の投票が続いたその大統領選で、しかしアンドレオッティが選ばれることはありませんでした。ファルコーネの死と、その年に勃発したイタリア最大の収賄事件「マーニ・プリーテタンジェントポリ)」の影響で議会は収拾がつかず、中道と見なされたオスカー・ルイジ・スカルファロが選ばれることになったのです。

余談ではありますが、混乱を極めたこの大統領選6日目の5月19日、第11回目の投票で、当時極右政党であるMSI(イタリア社会運動)書記長であったジャンフランコ・フィーニが、なんと、パオロ・ボルセリーノ大統領候補(!)として推薦したため、議員投票数4番目となる47票をボルセリーノが獲得する事態となっています。

ボルセリーノはかつてMSI青年部で活動していた時期もあり、成人してからも君主制を支持する右派でしたが、共和国大統領選挙でMSIの候補として推薦されたことを知ると、怒りを露わに強く抗議したそうです。なおフィーニは、現イタリア首相であるジョルジャ・メローニを見出し、育てた人物でもあります。

ところでアンドレオッティは、なぜ大統領に選出されなかったのか。

その理由として、自らの政権下、全国アンチマフィア総局(DNA)、アンチマフィア捜査総局(DIA)が設立の運びとなり、「マフィアとの闘い」という国家の非常事態を強調した矢先、その機関の総局長に就任するはずだったファルコーネ虐殺されたことは、「国民に示しがつかない出来事だ」と議会で判断された、というのが一部の政治学者の見解です。

畢竟、この選挙結果が事実上のジュリオ・アンドレオッティの失脚であり、アンドレオッティ派の崩壊、そしてイタリア戦後政治の主人公『キリスト教民主党』の実質的終焉(1994年に解党)でもありました。

「『(アルド)モーロ誘拐された朝のようなものだ』と、最も経験豊富な者たちは言う。当時、満場一致の要求を受けて挙国一致政府冷戦下、外部参画とはいえ、『イタリア共産党』が西側諸国ではじめて政府参画)が誕生した。今回も同じだ。誰もが、時間を無駄にはできないという切迫感を感じている。ファルコーネの生命を守ることができなかった国家は、『赤い旅団』の時代と同じように脆弱であることが明らかになった。国際的な信用失墜は甚大である。これがDer Spiegel(ドイツの雑誌)がスパゲッティの皿の上に拳銃を置いた画像で表現した、いつものイタリアだ」(ラ・レプッブリカ紙 2022年5月22日)

左がドイツの雑誌DER SPIEGELの1977年の表紙「休暇のためのイタリア」。右がその表紙に対するイタリアの雑誌EPOCAの返事「イタリアに対する侮辱的なドイツの雑誌が起こした議論に(微笑みながら)答えようードイツの方が過ごしやすいってことですか?」 いずれの国も、多少の時差はあっても、国中が荒れた時代でした。写真はspazio70.com より加工して引用。Spazio70は、動画(Youtube)を含め、重要な記録が多く残るサイトです。

「カパーチの虐殺」はまた、「コーザ・ノストラ」+αがあらかじめ計画したシナリオだった、とのちに悔悛者となった司法協力者たちは供述しています。高速道路が飴のようにぐにゃりと盛り上がり、15m火柱が立ち、辺り一面瓦礫の山となるほどの強力な爆弾を仕掛けて、ファルコーネ夫妻と3人の警護隊を殺害し、一瞬にして世論を誘導するインパクトのある作戦を選んだ理由は、裏切り者、すなわちアンドレオッティを生きながら殺すことでもあった。

なお「コーザ・ノストラ」の悔悛者たち司法協力から、「カパーチの虐殺」には、マフィアのみならず、外部の「繊細で精緻な頭脳」が関わっていたことが示唆されています。爆発物をリモコンに繋げ機能するよう構成したのは、マフィアであると同時に極右テログループ「オルディネ・ヌオヴォ(『鉛の時代』の多くのテロ事件に参加)」のメンバーでもあったピエトロ・ランペッリ、リモコンをオンにしたのは「コーザ・ノストラ」のジョヴァンニ・ブルスカでした。しかしながら、トリット500kg相当の強烈な爆発を起こしたその爆発物が、どこから運ばれてきたかは特定できていません。

前項に記したように、「カパーチの虐殺」が起こる数週間前、極右テログループ「オルディネ・ヌオヴォ」のメンバーで、「アヴァングァルディア・ナチョナーレ」の創設者でリーダー、ステファノ・デッレ・キアイエが何回かシチリアを訪れ、「コーザ・ノストラ」のアルベルト・ロ・チチェロを伴って爆弾を仕掛けるドラム缶を調べるなどカパーチの丘視察に来た、という証言が複数存在しています(今のところ、司法はこれらの証言を却下していますが)。

デッレ・キアイエは1969年の「フォンターナ広場爆破事件」からはじまり、1970年の黒い君主「ユニオ・ボルゲーゼのクーデター未遂」から1980年の「ボローニャ駅爆破事件」まで続いた、『鉛の時代』の無差別爆破事件に多く関わったテロリストです。また「カパーチの爆弾設置の準備段階で、現場には見たことがない、スーツ姿の男たちがいた」、と語る悔悛者もいます。つまり、そのスーツ姿の人物は、当局者→諜報局の者たちだった可能性がある、ということです。

それらの見知らぬ男たちをアテンドしていたのは「カパーチの虐殺」の実行犯のひとり、「コーザ・ノストラ」のアントニーノ・ジョエで、「彼らは自分たちよりもずっと大きな者たちで、とてつもないことをしようとしているんだ。時代変えようとしている」と語っていたそうです。なお、ジョエは1993年に逮捕され、悔悛して司法協力をはじめる決意を表明した日の翌日、突然自殺(?)しています。

「ステファノも他の極右勢力のすべての者たちと同様であることは明白だ。なぜなら、組織犯罪との関わりはデッレ・キアイエ個人の問題ではないからだ。われわれ極右勢力常に一貫してマフィアとの関わり維持してきた。(略)極右勢力は国家に対する反対勢力として機能したことはない。われわれ極右勢力は、国家の公式機関ができなかったことをやったのだ」(「アヴァングァルディア・ナチョナーレ」メンバーで、デッレ・キアイエの友人、ヴィンチェンツォ・ヴィンツィグェッラ談)

「カパーチの虐殺」事件の状況について、1993年にはじめて供述したのは「コーザ・ノストラ」悔悛者、サンティーノ・ディ・マッテーオですが、その裏切りに激怒したブルスカ、トラーパニ周辺を支配するボス、マッテーオ・メッシーナ・デナーロは、ディ・マッテーオの11歳の息子を誘拐、監禁して筆舌に尽くしがたい残虐な方法で殺害しています。あまりに残酷なため、ここでは触れませんが、「コーザ・ノストラ」の犯罪史の中で最も悪魔的とされる事件であり、供述を続けようとするディ・マッテーオに、妻は「わたしたちにはもう一人息子がいる」、と司法協力を止めるよう懇願したそうです。

なお、「カパーチの虐殺」後の出来事で、最も不可解なのは、当時「ピエールサンティ・マッタレッラ殺害事件」「ピオ・ラ・トッレ殺害事件」を巡り、「グラディオ」との関連を調べていたファルコーネコンピューターから「グラディオ」関係のファイル、さらに電子手帳データがすべて消去されていたことです。

これは、パレルモ警察署長に任命され、100日後に「コーザ・ノストラ」に殺害されたカルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザの死後にも起こった現象で、事件後、ダッラ・キエーザの自宅の金庫に保管されていた重要書類は、何者かにすべて持ち去られていました。

この記事は、「ファルコーネとボルセリーノの最後の言葉(Le ultime parole di Falcone e Borsellino : Chiarelettere 2012)」、L’EUROPEO( Le Radici di Gomorra : 2010)、「イタリア・マフィア(シルヴィオ・ピエルサンティ/朝田今日子訳:ちくま新書)、Il Patto Sporco/Nino di Matteo Saverio Lodato Chiarelettere 2018)、Il colpo di spugna – Trattativa Stato Mafia: il processo che non si doveva fare(Nino di Matteo/Saverio Lodato RCS Media Group S.p.A.,2024)、MAFIA fare memoria per combatterla (Antonio Balsamo/PICCOLO BIBLIOTECA PER UN PAESE NORMALE 2022)、裁判記録、イタリア語版Wikipedia、Mafia Dossir 、Wikimafia、各種特集番組(Raiplay)、La7 Atlantide, Rai3 Report, 各種新聞記事、YoutubeにアップされているRoberto Scarpinato、Nino di Matteo、Saverio Rodata、Marco Travaglioの講演(Youtubeチャンネル : ANTIMAFIADuemilaTV, Rai, Malgradotutto, il fatto quotidiano, Fanpage, La7, MoVimento 5 sfelle ecc.)などを参考にしました。

❷アンドレオッティのそれから ❸パオロ・ボルセリーノ ❹エンナの会議と「国家・マフィア間交渉」の始まり ❺ボルセリーノの57日、ダメリオ通り

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