1992〜93年「コーザ・ノストラ」連続重大事件Ⅲ:フィレンツェ、ミラノ、ローマに拡大した攻撃

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新しい政治の台頭

トト・リイナが逮捕された際、共に逮捕されたサルヴァトーレ・カンチェーミはカルタニセッタ裁判所で、このように述べています。

「明らかにしなければならないことがある。名前は知らないが(大規模連続爆破事件の真の首謀者は)『コーザ・ノストラ』ではない。なぜならその人物たちは、リイナよりプロヴェンツァーノより、さらに重要な人物たちで『コーザ・ノストラ』の内部にはいないからだ。リイナと実際に会って、虐殺を計画したのは外部人間だ」

ファルコーネが亡くなる2日前、ボルセリーノがフランスのTV局のインタビューで、「コーザ・ノストラ」のヴィットリオ・マンガノは、マルチェッロ・デル・ウトゥリを経由してミラノの企業家と「コーザ・ノストラ」を繋ぐ架け橋だ、と断言し、ベルルスコーニとマフィアの関係を暗示的に述べたことは、前の項で述べましたが、カンチェーミもまた、裁判所での2回目の聞き取りで、そっとベルルスコーニの名を囁いています。

カンチェーミは、ベルルスコーニが所有する投資会社フィニンヴェストが、デル・ウトゥリ、マンガノを仲介として、「コーザ・ノストラ」に年間20億リラ(約10万ユーロ)のみかじめ料を支払っていたことを明らかにし、80年代からベルルスコーニとデル・ウトゥリに接近したトト・リイナと両者の絆は、カパーチとダメリオ通りの虐殺事件の前後からより強くなった、とも語っているのです。

「国家・マフィア間交渉」裁判の核である検察官ニーノ・ディ・マッテーオは、ジャーナリスト、サヴェリオ・ロダータとの共著「Il Patto Sporco(汚い合意)」で次のように述べています。

「何十年もの間、イタリアのマフィア自立した犯罪モンスターだと人々に信じ込ませようとしてきた。国家は1世紀半を超える時間、浮き沈みを経ながらもマフィアと闘ってきたのだ。これが国家創出した壮大な寓話であり、現実を虚偽にすりかえるための描写だ。殺害された何百人もの人々を、自立する犯罪モンスターと、それと戦う清廉潔白な国家との正面衝突で倒れた『現代の英雄』として世論の目に映らせるための巧妙な手段だったのだ」

「1992年から1993年にかけての虐殺の季節に、Rosの幹部たちはヴィート・チャンチミーノとトト・リイナと交渉し続けた。当局に拘束されている「コーザ・ノストラ」幹部に課せられた過酷刑罰軽減するための交渉、そして「コーザ・ノストラ」と当時に、実業家であったシルヴィオ・ベルルスコーニとの過去からの関係を基盤として、新しい政党『フォルツァ・イタリア』と新しい政治協定締結するための交渉すべてはここからはじまった

収監中のトト・リイナが「ここから外に出たら、真っ先に殺してやる」と宣言していたニーノ・ディ・マッテーオは、現在も最高の警護体制に守られ、移動の際は、常に4、5人の警護官が取り巻く、自由のない日々を送っています。

余談ですが、2023年、マッテーオ・メッシーナ・デナーロの逮捕の際に開かれた講演会に出かけた時、(そこそこ大きな劇場に入りきれないほどの人々が集まり、多くの人が劇場の外でビデオで講演を聞かざるをえないほどの盛況でした)、背の高い黒いスーツ姿の群れに囲まれて劇場に現れたディ・マッテーオは、盛大な拍手で迎えられましたが、ディ・マッテーオが演壇に立つまで、どの人物がイタリアの悪しき慣習を覆そうとした著名検察官なのか、警護(Scorta)の群れに紛れてまったく見分けがつきませんでした。

このように、何処に行くにも厳重警護で動きが取れず、行動範囲が限定される検察官ジャーナリスト内部告発者が、2019年の時点でイタリアには596名も存在しており、2026年現在では、さらに増えていると推測します。

ニーノ・ディ・マッテーオはカルタニセッタ、パレルモ裁判所検察局の元副判事。現在は国家マフィア・テロ対策局に所属しています。CSM(司法高等評議会)の元独立顧問。「国家・マフィア間交渉」裁判起訴の中核を担った人物です。写真はilcorrieredelgiorno.itより引用。

ところで、「マフィア・国家間交渉」に強くコミットし、ベルルスコーニを政界に導いた元首相の生涯の盟友、マルチェッロ・デル・ウトゥリとはいったい何者なのか、といえば、調べれば調べるほど、その怪しさが浮き彫りになる人物、と言わざるをえないでしょう。マフィアとの共謀による麻薬密輸の仲介から破産詐欺資金洗浄恐喝未遂横領脱税と、人生のほとんどを犯罪と裁判で過ごしながら、長年にわたりベルルスコーニの傍で、上院議員欧州議員として政治に携わりました。

たとえばロベルト・スカルピナート上院議員が、デル・ウトゥリを「高級マフィア」と表現するように、明らかにマフィアと深い繋がりがあるにも関わらず、何度も有罪判決を受けながら、最終的にはすべて無罪判決、あるいは時効となった事実は、現代イタリアの謎のひとつです。

そのデル・ウトゥリは、「コーザ・ノストラ」に明らかに不利な形勢となったマキシ・プロチェッソの最中、91年にシチリア全土から10人余りボスを召集してトト・リイナが開いたエンナでの会議にも出席していたとされ、パレルモ控訴裁判所も「デル・ウトゥリは ファルコーネとボルセリーノの暗殺事件の時期まで、ステファノ・ボンターテ、トト・リイナ、ベルナルド・プロヴェンツァーノがトップであった旧マフィア組織密接関係を維持し、マフィア組織とベルルスコーニの仲介役を務めていた」と認定しています。

1993年当時のシチリアでは、エンナの会議で決定された「独立国家として、ローマのイタリア政府の代替政府となる」べく、「コーザ・ノストラ」が核となり、諜報機関、極右グループ、フリーメイソンが共謀して設立した政党『南部同盟(Lega Meridionale)』が選挙での大敗失敗した後、その流れを汲んで『シチリア・リベラ(Sicilia Libera)』党が設立されますが、この動きにデル・ウトゥリが合流し、その計画がやがてイタリア北部の著名実業家の政治進出へと収斂していった、と考えられるのです。1993年には、デル・ウトゥリが中核となって、ベルルスコーニが党首を務める新政党『フォルツァ・イタリア』が形成され、1994年の総選挙の準備をはじめることになります。

「アルコレの企業家(ベルルスコーニ)とデル・ウトゥリの誠実さと信頼性を、『コーザ・ノストラ』はすでに知っていた。デル・ウトゥリの助言を受け、ベルルスコーニが遂に政界入りを決意したとき、『コーザ・ノストラ』はもはや何の疑いも抱かなかった。彼らはリーナが(『キリスト民主党』とマフィアの架け橋であった)サルヴォ・リーマの暗殺を決意して以来、探し求めていた人脈だった。そのため、1994年の選挙運動中、『コーザ・ノストラ』の(リイナの)虐殺路線を支持する過激派と(政治的な解決を求める)穏健派は、デル・ウトゥリから得た確約と保証を頼りに、『フォルツァ・イタリア』を一体となって支持したのだ」(ニーノ・ディ・マッテーオ)

ダメリオ通りの大爆発から93年のフィレンツェミラノローマと続く爆弾テロの実行犯で、のちに司法協力者となったガスパレ・スパトゥッツァは、ブランカッチョのボス、グラヴィアーノがベルルスコーニと親しい間柄であったことを供述しています。そしてこのスパトゥッツァのいくつかの証言から、1994年1月21日から28日までの動きが、ベルルスコーニにとっても、デル・ウトゥリにとっても、そしてグラヴィアーノにとっても肝となる1週間であることが明らかになりました。

ここからはジャーナリスト、アッティリオ・ボルツォーニの記事(Domani紙)を参考に、2023年に投稿した記事の内容と重複しますが、流れを把握するために重要と思われるため、詳細を付け加えながら、その内容を変えないまま進めていくことにします。

94年の初頭、グラヴィアーノとスパトゥッツァは、サッカーの試合が行われるストゥディオ・オリンピコの警備にあたる、100人以上(!)のカラビニエリ警官を標的にした大規模爆弾テロを起こすため、その下準備のためにローマに滞在していました。この大規模爆弾テロ事件計画は、Ros(カラビニエリ特殊部隊)との交渉がなかなか進まないと同時に、新しく政権につくはずの著名実業家に約束の遵守を警告するため、あるいは衝撃的な爆発事件で社会をさらなる混乱へと導き、世論を新しい政治へと促すため、と考えられています。

1月21日には、ローマのヴェネト通りにあるカフェで、「俺たちが今までに得たすべては、ベルルスコーニと、俺たちの同郷の友人、デル・ウトゥリの仲介のおかげだ。俺たちは手に入れたんだ」そう、グラヴィアーノはスパトゥッツァに言ったそうです。

「その時のグラヴィアーノは宝くじに当たったように有頂天だった。それまで探していた物をすべて手に入れた、と言っていた。それからグラヴィアーノは、『ベルルスコーニとデル・ウトゥリという信頼できる人物たちのおかげで、いい結果に終わった』と語り、そして最後に『あの一撃、一連の爆破事件は、政界に(華々しく)新人を迎えるための、イタリア国内不安定化のためだった』と明かした」

これは、今まで辿ってきた経緯を裏付ける重大発言です。つまり『鉛の時代』に、イタリアに密かに張り巡らされ、市民戦争に発展するまでにテロと衝突を激化させ、「安定のための不安定化」を創出した『緊張作戦』と、いまだ捜査が続く92~93年の大規模連続爆破テロ事件の背景には、やはりほぼ同じ構造、コンセプトがあるのだ、『鉛の時代』のレプリカなのだ、とマフィアのボスであるグラヴィアーノが、スパトゥッツァに告白した、ということです。

こうして、スパトゥッツァを含むグラヴィアーノ傘下の十数人のマフィアたちは、1994年1月24日、ローマのストゥディオ・オリンピコのカラビニエリ本部周辺で、100人以上の犠牲者を目標とした大規模テロを起こす予定でしたが、周到に計画されたにも関わらず、リモコンが機能せず爆弾は不発に終わっています。あらゆる大規模爆破事件の中で、最も多くの犠牲者を出す大惨事になったであろうこの計画が未遂に終わったことは、不幸中の幸いだったとしか言いようがありません。

*2014年、サヴィーナ・グッザンティ監督(コメディアンであるご本人がストーリーテラー、およびベルルスコーニ役で登場)の「La trattativa (交渉)」の一場面。「コーザ・ノストラ」の司法協力者たちにもインタビューした演劇仕立てのドキュフィルムで、マリオ・モーリの役割、デル・ウトゥリ、ベルルスコーニとマフィアの関係がリアルに(そして少しコミカルに)描かれています。制作から10年以上経ってもまったく色褪せない傑作です。イタリア語ですが全編はこちらから。

2日後の1月26日、「マニ・プリーテ」(「タンジェントーポリ」)の捜査の発展から、『イタリア社会党』のベッティーノ・クラクシーが遂に失脚。それまでアンドレオッティ(92年に失脚)とクラクシー二大巨頭として君臨していた政界に大きな空白が生じ、マフィアによる大規模連続爆破事件と混乱が続くなか、いよいよ実業家ベルルスコーニが「新しい政治」を掲げ、自らの所有する民放局Canale5に登場し、政界進出を発表することになったわけです。

そのタイミングで、逃走中の凶悪犯ジュゼッペ・グラヴィアーノとその弟フィリッポは、同郷の友人とミラノのレストランにいたところ、突然カラビニエリが押し寄せて逮捕されました。友人は、サッカーに並ならぬ才能を持つ息子を、ベルルスコーニ所有のACミランに入れたいと、ベルルスコーニと親しいふたりを訪ねてきたところだったそうです。1月27日のことでした。

その後、グラヴィアーノは41bisの適用で収監され、それから一度も出所したことはありません。とはいえグラヴィアーノは、収監中のはずなのに妻との間に子供(!)を授かっていますから、41bisの適用とはいえ、妻は刑務所に自由に出入りできたのかもしれず、実はかなり緩やかに収監されているのかもしれません。そういえばグラヴィアーノのスポークスマン、と呼ばれるサルヴァトーレ・バイアルドも何らかの方法でグラヴィアーノと連絡をとっていたはずです。

「(検察は)ベルルスコーニを捜査したがっていた…ベルスカ(ベルルスコーニ)が、俺に約束したんだ。緊急事態だった」「やつは下りたがっていた。でもあの時期は古株ばかりで、やつは俺に『Una bella cosa(派手な出来事)』が必要だって言いやがったんだ」

これは、2016年~2017年にかけて、収監中のジュゼッペ・グラヴィアーノとカモッラのボスの盗聴された会話ですが、その音声を分析した検察のアンチマフィア捜査本部は「ベルルスコーニは94年以前から政界進出を狙っており、『Una bella cosa』とは、スパトゥッツァが語った『新人出現歓迎されるような国内の不安定化を狙った虐殺事件』のことだ」と解釈しています。つまりストゥディオ・オリンピコを警備する100人以上のカラビニエリを狙った大規模爆破事件未遂のことです。

そしてその一撃(Colpo di grazia)と交換にベルルスコーニ、マフィア間に約束されたのが、ベルルスコーニが首相になってすぐに立案された、俗に「ビオンディ法」と呼ばれる政令だと考えられています。

この「ビオンディ法」は、「泥棒救済令」とも呼ばれる、金融犯罪と行政に関する犯罪に対して、公判前勾留廃止するという法律で、実際には「タンジェントーポリ」の大規模収賄事件で逮捕された人物たちに自由を与えましたが、「タンジェントーポリ」を暴いた検察官たち、そして世論、議会多数派の猛烈な反対で、7日間の施行ののちに廃止されることになりました。犯罪者たちに公判前の自由を与えるということは、その間にどこにでも逃亡できるということであり、さもありなん、秘密結社『ロッジャP2』のグランドマスター、リーチォ・ジェッリはこの法令を強く支持していたそうです。

なお、当初はこの政令の対象としてマフィアも含まれていましたが、与党内からも大反発があり、政令に盛り込むことはできなかったそうで、いずれにしてもこの時点でも、「コーザ・ノストラ」との約束は果たされなかったことになります。ベルルスコーニの在任中、この政令が再び議論の俎上には上がることなく、やがて時とともに、うやむやのうちに消滅してしまいました。

それでもこのビオンディ法のコンセプトに似た法案は、ドラギ政権時代、および現政府で通過しています。それが、特定のケースや緊急の理由がない限り、予防的尋問への出頭要請は少なくとも5日前までに通知されなければならない、つまり当事者に「5日後に逮捕されるかもしれませんよ」と当局が通知するという親切な法律です。

この改定では、通知には事実関係や被疑者の権利に関する詳細な情報が記載され、予防措置の要請を裏付ける書類が利用可能であることも規定されていますが、5日間の猶予がある予防的尋問予定者は、証拠隠滅も、場合によっては高飛びも可能になる、と言えるかもしれません。

ところでグラヴィアーノは、逮捕される前にベルルスコーニには3回会った、と証言しており、最後に会ったのは1993年の12月、自身が逮捕される1ヶ月前のことだったそうです。その晩、ベルルスコーニに巨額の投資をしていたグラヴィアーノは「(投資のおかげで)母方の祖父の金は底をついた」と話した、と法廷で証言しましたが、ベルルスコーニの弁護士に「グラヴィアーノの発言は誹謗中傷!」と一蹴されたのち、即座に告訴されています。

ベルルスコーニ自身はといえば、政界で大きな影響を持ち続けた30年の間、何度もその名が囁かれ、捜査が行われながら、法廷でも「コーザ・ノストラ」が実行した92~93年の大規模連続爆破・テロ事件にひと言も言及することはありませんでした。結局、実刑(のち無罪)となったのは、(政界入り以前に払ったみかじめ料に関して)ベルルスコーニとマフィアの仲介をした上院議員マルチェッロ・デル・ウトゥリのみで、その友情の証としてか、ベルルスコーニはデル・ウトゥリに3000万ユーロの遺産を残しています。

ベルルスコーニは1994年の選挙に大勝したのち、時々政権が交代しながらも約20年という長期間にわたり、首相として君臨することになるわけですが、血塗れの事件が相次いだ、重い戦後政治の時代が終わりを告げ、ベルルスコーニが築いたメディア王国が流布する、享楽的でセクシズムが強調された情報の洪水が主流となった社会は、大衆文化の質、価値観、倫理観に劇的な変化をもたらし、それが第2共和国の特徴となりました。

そしてその第2共和国のイタリアのイメージは、やがて一種のステレオタイプとして国際的にも定着したかもしれません。しかしもちろん、表面的なそのイメージとは裏腹に、知識人、映画人、芸術家が形成する重厚な文化、そして若者たちによるアンダーグラウンドカルチャーこそが、常にイタリアの文化の基盤にあることを、その時代のイタリアを生きたわたし個人は、痛切に感じています。

▶︎「国家・マフィア間交渉」裁判

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