1992〜93年「コーザ・ノストラ」連続重大事件Ⅲ:フィレンツェ、ミラノ、ローマに拡大した攻撃

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拡大した連続爆破テロ

リイナが逮捕され、プロヴェンツァーノが「コーザ・ノストラ」のボスの中のボスとなったのち、大規模爆破テロは「コーザ・ノストラ」内で決定された通り、シチリア以外のイタリア国内で実行されることになりました。

まず1993年5月14日、当時、アンチマフィアを主張していたTV番組の人気司会者、マウリツィオ・コスタンツォが「コーザ・ノストラ」の標的となります。

その晩、コスタンツォのパートナーである同じく人気司会者のマリア・フィリッピを乗せたメルセデス、さらにふたりのボディガードを乗せたランチアの2台が、ローマのパリオリ地区ルッジェッリ・ファウロ通りを通過中、突然の轟音とともに道路が深くえぐられ、近隣の住宅の壁や窓が吹き飛ぶほどの大爆発が起こります。しかしリモコン操作遅延が原因で、爆発はコスタンツォたちが通り過ぎた数秒後に起こり、一行は奇跡的に難を逃れました。

検察官ジョヴァンニ・ファルコーネ友人でもあったコスタンツォは、個人的にも、またトークショーの司会者としても熱心にマフィア関連の事件に取り組み、生放送で「Mafia made in Italy」と書かれたTシャツを燃やすなど、当時、過激なアンチマフィアキャンペーンを繰り広げていました。ちなみにコスタンツォは、1981年に発見された秘密結社『ロッジャP2リストその名記載されていたジャーナリストでもあり、発見当初は「知らない間に記載されていた」と主張しながら、のちにメンバーであったことを認めています。

その後、この事件の実行犯ジュゼッペ・グラヴィアーノが率いるブランカッチョ・ファミリーメンバーだったことが明らかになりました。が、この事件が起こる少し前、『イタリア社会党』党首、ベッティーノ・クラクシーと企業家、シルヴィオ・ベルルスコーニの間で会合が開かれ、その場でベルルスコーニは新しい政党を立ち上げ、政界へ進出する意向を正式に決定したのだそうで、それを知ったコスタンツォは、新政党『フォルツァ・イタリア』の設立に強く反対していた、と言われます。このような理由から、2019年、コスタンツォ爆破暗殺未遂にベルルスコーニの関与があったのではないか、という疑いをトスカーナ検察庁が表明しています。

いずれにしても、この爆破未遂事件は「パペッロ(リスト)」の内容が、なかなか実現しないことへの「コーザ・ノストラ」の不満の表明であり、警告だ、と国家側に認識されることになりました。そこで事件が起こった翌日、コンソ法務大臣から要請を受けたニコロ・アマート刑務所行政局局長は、マフィア関係者ではない一般の受刑者121人41bis制度適用解除するよう指令を送るのですが、なぜか140人マフィアたち適用同時に解除され、イタリアの裁判所や市民が知らないまま、マフィアたちは通常の刑務所へと送られることになったのです(マルコ・トラヴァイオ)。

マフィアの攻撃はさらに続きます。コスタンツォ襲撃事件から約2週間後の5月26日の夜から27日にかけて、フィレンツェの至宝、ウフィツィ美術館周辺大爆発が起こりました。

ジォルゴーフィリ通りに面した建造物、トッレ・ディ・プルチ付近に停められた277キロ爆薬が詰め込まれた自動車爆弾が爆発し、世界最古の農業・環境・食糧機関であるジォルゴーフィリ・アカデミーの本部があるトッレ・ディ・プルチは完全崩壊。本部の管理のために滞在していた、幼い子供を含む4人家族と近隣に住む大学生亡くなり38人重軽傷を負う大惨事となったと同時に、ウフィツィ美術館ヴァザーリの回廊の一部が深刻被害を受ける状況となりました。

壊滅的な被害を受けた作品のひとつ、ゲラルド・デッラ・ノッティ作、「羊飼いたちの礼拝」。ウフィツィのサイトには、当時の被害を物語る多くの記録が残っています。

その大爆発により、ウフィツィ美術館の建物は損傷しただけでなく、一部絵画修復不可能になるまで破壊され、さらにはかつてメディチ家の秘密の空中回廊だったヴァザーリの回廊の約25%被害を受けて、200点を超えるメディチ家のコレクションが修復を要する事態となっています。子供、若者を含む犠牲者とともに、フィレンツェのアイデンティティでもある歴史的建造物美術品をも破壊する、この卑劣な不意打ちには、フィレンツェのみならず、イタリア中に衝撃と怒りが走りました。

のちにジョヴァンニ・ブルスカが明らかにしたところによると、この爆発は獄中のトト・リイナから命じられた作戦で、実際に犯行に及んだのは2008年から司法協力者となったガスパレ・スパトゥッツァ、フランチェスコ・ジュリアーノ、コージモ・ロ・ニグロを含むブランカッチョ、コルソ・ディ・ミッレ、ロッケッラなどのファミリーから構成されたメンバーたちでした。

なお、このジォルゴーフィリ通り虐殺事件で犠牲となった人々の家族で構成された遺族会は、2013年、パレルモ裁判所で開かれた「国家・マフィア間交渉」に関する第1審裁判民事当事者として参加が認められ、弁護士ダニーロ・アンマナートが遺族会を代表して出廷しています。後述しますが、このアンマナート弁護士は、「国家・マフィア間交渉」裁判が不本意最終判決で終えた2023年ののちも、遺族会代表として真相の追及継続しています。また、フィレンツェ検察局は、「国家・マフィア間交渉」裁判で無罪判決を受けた国家側の交渉人、マリオ・モーリ再捜査するなど、今後の展開が期待される、精力的な捜査を続行中です。

2016年5月20日、フィレンツェ第2控訴裁判所が提出した「コーザ・ノストラ」のボスであるジォルゴーフィリの爆破事件の実行者のひとりの判決理由の一部として、「国家コーザ・ノストラ交渉開始し」、「交渉は間違いなく存在し、少なくとも当初は、コーザ・ノストラのテロ戦略を阻止するための見返りを伴う取引として設定されていた」「この取り組みは、マフィアの構成員ではなく、国家の代表者によって行われた」と明記され、ジェルゴーフィリの爆破事件が「国家・マフィア間交渉」の文脈で実行されたことを認めています(イタリア語版Wikipedia)。

このフィレンツェの爆破事件の直後、今度はローマ不発弾が放置されているのが見つかり、「ファランジェ・アルマータ」が犯行声明を出す、という事件が起こると、マフィアたちの41bis適用を完全に解除することができなかったニコロ・アマートは、刑務所行政局局長を解任されまることになりました。後任として、刑務所業務の経験がほとんどない、アダベルト・カプリオッティが任命されますが、受刑者の処遇が決定される7月20日から27日にかけて、41bisの厳戒態勢で収監されている、危険度が高いとみなされる複数のマフィア受刑者に対しては延長措置、つまり41bisは適用されたままとなり、見直されることありませんでした

すると、「コーザ・ノストラ」はその決定に即座反応します。

7月27日の夕方、ミラノパレストロ通りにある、ミラノ市立近代美術館パビリオンの前に駐車されたFiat Unoから白い煙が吹き出しているのを見つけた地元の警察官の連絡で、ただちに消防隊が駆けつけました。消防隊が車を調べ、爆破装置が仕掛けてあるのを確認したその瞬間、車が大爆発を起こし、警察官と3人の消防士、近くのベンチにいたモロッコ人男性が爆発に巻き込まれて死亡。周辺にいた13人の人々が負傷します。

爆発の衝撃波は現代美術パビリオンの外壁を崩壊させ、美術館のいくつかの展示室破壊して、近くの住宅の窓を粉々に吹き飛ばしました。しかもその夜、夕方の爆発によって破損したパイプに溜まったガスが2次爆発を起こし、パビリオンとその内部に展示されていた絵画に、甚大被害をもたらすことになったのです。つまりフィレンツェ同様、この事件でも無辜の市民とともに、ミラノの重要な建築物美術品攻撃対象となったということです。

PAC(ミラノ現代美術間パディリオーネ)2018年7月27日に「LA MAFIA UCCIDE SOLO D’ESTATE. 25 ANNI DALLA STRAGE DI VIA PALESTRO(マフィアは夏にしか殺らない。パレルトロ通りの虐殺から25年」というタイトルで展覧会を開催しました。pacmilano.itより。

のち、この事件は、フィレンツェの大規模爆破事件同様、ガスパレ・スパトゥッツァをはじめとするフランチェスコ・ジュリアーニ、コージモ・ロ・ニグロらブランカッチョ、ロッケーラなどのファミリーで構成された実行犯による犯行だということが明らかになりましたが、ミラノの爆破事件に関しては、目撃者証言から「女性」の関与が浮上し、その事実が重要視されています。というのも、マフィアの犯罪に女性が共犯する、ということはありえないからです。

捜査の結果、この女性はローザ・ベロッティという名の麻薬密売前科があった人物で、2022年に正式にパレストロ通り爆破事件の容疑者として登録されました。そしてこの女性の存在の背景には、軍諜報局関与(たとえばこの女性に現場を監視させる、あるいは政治テロリストを装わせて捜査を撹乱する、など)があったのではないか、と推測されています。事実、この事件のあと、元国連大使がイタリア情報機関から得た容疑者リストをカルロ・アゼリオ・チャンピ首相に提出した際、その中に軍諜報局のメンバーの複数名前が存在していたことが明らかになっているのです(Wikipedia)。

また同日の7月27日(正確にはミラノの事件の少し前)、ローマの「真実の口」の近くにある、中世に建造されたサンジョルジョ・アル・ヴェラブロ教会前、およびサンジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会前に停車されたFiat Unoが大爆発を起こし、22人負傷する事件が起こっています。

さいわいこの爆発で死者はでませんでしたが、ローマの歴史ある重要な教会重大被害が及びました。「コーザ・ノストラ」が、このふたつの教会を標的に選んだのは、マフィアを強く批判した当時の教皇ヨハネ・パオロ2世、そして政権内で影響力を持ちつつあった下院議長ジョルジョ・ナポリターノ(サンジョルジョ・アル・ヴィエブロ教会の名前にかけて)への警告だったのではないか、と推測されています。

なお、ローマのふたつの教会が爆破された日の首相官邸であるキージ宮の電信通信システム一挙に遮断される、という出来事があり、チャンピ首相は「遂にクーデターがはじまった」と身構えたそうです。

この、ミラノ、ローマという大都市で、連続大規模爆弾テロが起こっている最中には、ヴィンツェンツォ・パリージ国家警察長官宛に「ファランジェ・アルマータ」から脅迫電話がかかってきたことが確認されており、ローマの爆弾テロの後には、イル・メッサッジェーロ紙、コリエレ・デッラ・セーラ紙に「さらに深刻攻撃を準備している」との匿名の手紙が届いています。この一連の脅迫方法は、むしろ『鉛の時代』の政治テロリストの特徴であり、それまで常に沈黙の中で犯罪を続行した「コーザ・ノストラ」には見られなかった現象です。

司法協力者であるジョヴァンニ・ブルスカは、2025年(!)の最終判決で無期懲役となった「ボローニャ駅爆破事件」の実行犯ひとりで、MSIから極右テログループ「アヴァンギャルディア・ナチョナーレ」に移動したパオロ・ベリーニが、1991年、つまりファルコーネが犠牲となった「カパーチの虐殺」以前から、カパーチの実行犯のひとりであったアントニーノ・ジョエ頻繁会っていたことに言及しています。

『P2』のリーチオ・ジェッリが資金を出し、85人死者200人重軽傷者を出し、『鉛の時代』最悪の事件となった「ボローニャ駅爆破事件」(1980年)の実行犯であるベリーニは、「ンドゥランゲタ」との繋がりのみならず、軍諜報局との接触を指摘されている人物でもあります。

ブルスカによると、ベリーニはジョエに、「カパーチの虐殺」を「1969年(フォンターナ広場爆破事件)に『オーディネ・ヌオヴォ(極右テロリスト)』が実行したようにオーガナイズすることを勧める」とアドバイスしており、事実、92年から93年の爆弾テロは、70年代に極右テログループ+軍諜報局が実行した爆弾テロと同じプロトコル実行されたことが、証明されています。さらにベリーニは、イタリアのアイデンティティである、文化、芸術、宗教に関する象徴的建造物を攻撃することで、社会強烈衝撃を与える作戦をもジョエにアドバイスしていました。

以前の項で触れたように、アントニーノ・ジョエは、大規模爆破事件でファルコーネが犠牲となった「カパーチの虐殺」当日の現場にいた、「コーザ・ノストラ」以外のスーツ姿の見知らぬ男たちアテンドし、「彼らは自分たちよりもずっと大きな者たちで、とてつもないことをしようとしているんだ。時代を変えようとしている」と語っていた男で、1993年に逮捕され、司法協力を約束した日の翌日に独房自殺(?)しています。

また、多くの「コーザ・ノストラ」の司法協力者たち、たとえばガスパレ・ムートロや、1991年にエンナで行われた会議の詳細をボルセリーノに話したレオナルド・メッシーナは、カパーチもダメリオ通りも「コーザ・ノストラ」だけでオーガナイズされた事件ではなく、国内諜報局(ブルーノ・コントラーダを含む)をはじめとするさまざまな外部協力があったことを明かしています。

ただ、最も重要な情報を持つであろう、現在収監中であるグラヴィアーノやバガレッラが、検察への司法協力を仄めかすと、どこからかの人物がふらりと刑務所内に現れて「家族は元気なのか」などと、含みを持たせながら話しかけた途端、グラヴィアーノもバガレッラも口をつぐむのだそうです。

総選挙が5ヶ月後に迫った1993年11月3日、共和国大統領オスカー・ルイジ・スカルファロは、全国ネットワークで放送されたビデオメッセージで、「私はこの虐殺ゲームには参加しない。彼らはまず爆弾で試み、次は卑劣なスキャンダル(タンジェントーポリ)で試みようとしている」と発言し、旧来(『鉛の時代』)の諜報機関の人間たちが、爆弾を仕掛けて制度を不安定にし、将来誰かが埋めるであろう政治の空白を拡大しようとする者たちと結託して、クーデター紛いの戦略を練っていることを告発しています(マルコ・トラヴァイオ)。

11月5日には、ニコロ・アマートの後任であるカプリオッティ刑務所行政局局長が、「これ以上の殺戮が起こらないように」、と重要なボスを含む340人マフィア41bis適用の延長を却下。これで、1993年の夏から秋にかけて、480人(最初は140人、その後340人)ものマフィアが、完全に隔離された独房で、人間的な営みが一切許されない、「生き地獄」と表現される極刑の状態から解放されることになるわけです。

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