1992〜93年「コーザ・ノストラ」連続重大事件Ⅲ:フィレンツェ、ミラノ、ローマに拡大した攻撃

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交渉の行方とリイナの逮捕

さて、「カパーチの虐殺」と「ダメリオ通りの虐殺」の間にはじまった「国家・マフィア間交渉」は、アンドレオッティ政権が崩壊し、ジュリアーノ・アマート政権が樹立した後も粛々と継続します。やがてトト・リイナから「国家に仕掛けた戦争」の停戦を実現するために、ヴィート・チャンチミーノを通じてRosに届けられた要望リスト(Papello)は次のようなものでした。

⚫︎(重要ボスを含め346名の有罪者を出した)マキシ・プロチェッソの最終判決の見直し

⚫︎マフィア関連犯罪で有罪判決を受けた受刑者に対する刑罰を強化する41bis(孤立させられ、過酷な条件で人間的な営みをすべて奪われるイタリアの極刑)の廃止

⚫︎マフィア型組織(第416条の2 第3項:団体がマフィア的であるとは、その構成員が、団体の結束力による威嚇力、従属状態、およびそれに伴う沈黙の義務を、直接的または間接的に経済活動、許可、認可、 公共の契約やサービス、自身または他者への不正な利益、利益の獲得を目的として利用する場合、または選挙における投票の自由な行使を妨害または阻害し、自身または他者への投票を誘導する目的で、これらの行為を行う場合と定義する)の定義見直し

⚫︎証人保護法改革(悔悛者として証言したものは減刑され、当局からの保護を受けるという理由から悔悛者が後を絶たないため、その措置を改革すること)

⚫︎テロ組織(『赤い旅団』など)と同様に、組織からの脱退(dissosiazione)を認めること

⚫︎超大型刑務所の閉鎖(ピアノーサ島・アシナーラ島など生き地獄とされる41bis厳重刑務所)

⚫︎70歳以上の受刑者を自宅軟禁にすること

⚫︎家族からの手紙の当局による閲覧禁止

⚫︎犯罪の現場での現行犯逮捕のみを実行すること

⚫︎受刑者の家族が住む地域に近い刑務所への収監

⚫︎先入観なしに家族との関係を認めること(家族の訪問を、組織からの何らかの伝達だと見なさないこと)など

つまり、これらの条件を国家が呑むなら、国家に仕掛けた大規模爆弾テロ、つまり戦争を中止する、という要求をトト・リイナは突きつけてきたわけです。

この「パペッロ(リスト)」について最初に語ったのは、「150人以上を殺害した」と豪語して悪魔と恐れられた「カパーチの虐殺」の実行者のひとりで、のちに司法協力者となったジョヴァンニ・ブルスカでした。またその後、ポルタ・ヌオヴァ・ファミリーから司法協力者となったサルヴァトーレ・カンチェーミの証言も、ブルスカと一致しています。そしてその存在が物理的明らかになった、つまり現物が検察官たちの手元に現れたのは2009年のことでした。

このリストをざっと見ただけでも、明らかにマフィアに有利な条件が並んでいますが、仲介者であるヴィート・チャンチミーノに「コーザ・ノストラ」から届いた最初のリストには、さらに虫のいい要求が並んでいたため、チャンチミーノ自身が訂正せざるをえなかったそうです。

また、このリスト以外にも、現在被告人として収監されているボスたちや部下に関しての国へ要求もあり、交渉に使われた書類40部に上っています。これらの書類は「存在する」と言われながら、トト・リイナの自宅でも、ヴォート・チャンチミーノの自宅でも見つかりませんでしたが、チャンチミーノの息子であるマッシモ・チャンチミーノがパレルモ裁判所検察局の検察官に突然持ち込みました。

リイナからチャンチミーノの経て国家側交渉人に渡った「パペッロ(リスト)」。写真はcolfore.itより引用。

国家側の交渉人となったRos(カラビニエリ特殊部隊)のマリオ・モーリ隊長は、「国家・マフィア間交渉」の裁判中、そんなリストなど見たことがない、と一貫して言い張りましたが、マッシモ・チャンチミーノは、それらの書類には「マリオ・モーリに直接手渡した」と父親の手書きのポスト・イットが貼られていた、と主張しました。のち科学捜査局は、マッシモ・チャンチミーノから提出されたリストを含む55枚の書類鑑定し、最終的にすべて真正だとの判断を下しています。

なおフォルコーネ、ボルセリーノが次々と暗殺された1992年という年は、マフィアによる大規模テロ攻撃でイタリア全土が震え上がった年であるとともに、もうひとつ、戦後の政治体制を揺るがす大事件が勃発したことを忘れるわけにはいかないでしょう。

それが俗に「マニ・プリーテ(清廉な手)」「タンジェントーポリ(収賄都市)」と呼ばれる大収賄事件で、1992年から1994年の間に政治家、企業家4500人以上捜査され、3200人検察に送られ、そのうち1200人以上起訴されています。捜査中35人自殺者まで出した、その「タンジェントーポリ」は、イタリア史上最大、そして最悪疑獄事件となりました。

イタリアの政界に大激震を起こしたこの事件は、92年の2月、ミラノ検察局の検察官アントニオ・デ・ピエトロが、賄賂を受け取ろうとしていたマリオ・キエーザ現行犯逮捕したことからはじまりました。その時代、賄賂の巣窟となっていたピオ・アルベルゴ・トリヴルツィオ(老人介護施設)の会長であるとともに、『イタリア社会党』の主要メンバーだったキエーザが、逮捕されるや否や、抵抗することもなく、賄賂システムの全貌をペラペラと検察に明かしたことから、大事件へと発展します。ちなみにピオ・アルベルゴ・トリヴルツィオは、2020~2021年、コロナ禍における杜撰な対応で社会問題ともなった公共老人介護施設です。

キエーザは、当時の政治家への賄賂は、ほとんどの公共の契約の際に要求される一種の「税金」であり、このシステムから利益を得ていたのは、主に与党の『キリスト教民主党』と『イタリア社会党』の議員たちだと明かし、同時に、賄賂に関与した人物たちの名前を包み隠すことなく、すべて暴露しています。当然のように、このニュースにイタリア中が大騒動になり、ミラノ裁判所には検察官デ・ピエトロ、ゲラルド・コロンボらにより「プール(特別捜査本部)」が形成され、捜査は時を追うごとに拡大していきました。

こうして逮捕者は日に日に増えていき、遂には『イタリア社会党』党首ベッティーノ・クラクシーにまで起訴状が届く頃になると、戦後長きにわたり、連立を組んで与党を担っていた『キリスト教民主党』、そして『イタリア社会党』は、92年の国政選挙と地方選挙のいずれにも大敗を期すことになります。また、前項に記したアンドレオッティのあっけない失脚は、「カパーチの虐殺」のみならず、この大収賄事件も原因のひとつと考えられています。

前項の繰り返しにはなりますが、1992年はこのような経緯から事実上のイタリア戦後政治終焉を告げる年となり、マフィアテロ攻撃と政界を一新する大型収賄発覚事件の衝撃で、イタリアは不安定な混沌状態へと陥りました。そこで時期が時期なだけに、マフィア組織と「タンジェントーポリ」の関係性を調べてみましたが、両者の直接的な繋がりは、具体的には確認できませんでした。

ただし、「マニ・プリーテ」で浮上した人物たちは、常に秘密結社『ロッジャP2』の周辺に見え隠れしていた人物たちとしてマークされ、その一部は、不透明権力ネットワーク(元諜報機関の人物たち、あるいは『P2』の流れを汲む秘密結社的に変質したフリーメイソンで構成された)によって保護されていた、と目されています。ここで詳しくは触れませんが、「タンジェントーポリ」の収賄構造は、『P2』が構築した権力の二重構造にきわめて類似している、と評価されているのです。

1992年にミラノの「ガッレリア・ヴィットリオ・エマニュエーレ2世」で撮影されたタンジェントーポリの象徴的な写真。中心に写るダークスーツを着た3人の検察官が左から捜査の顔となったアントニオ・デ・ピエトロ、ゲラルド・コロンボ、そしてフランチェスコ・サヴェリオ・ボレッリ。写真はレスプレッソ誌より引用。lespresso.it

したがって、「コーザ・ノストラ」と共謀する「タンジェートーポリ」の内情に通じる『P2』系のフリーメイソン(諜報局幹部を含め)は、2月からはじまった「タンジェントーポリ」による政治の混乱を利用し、連続大規模爆破事件で社会のさらなる不安定化を狙った、とは考えられます。つまり「安定のための不安定化」という当初のコンセプト通り、「タンジェントーポリ」の混乱は新しい政治体制を築く土台となる、と目論んだ、ということです。

このように、日々新たな不正が明らかになり、収拾がつかない混乱に揺れるイタリアで、「コーザ・ノストラ」とRosの「交渉」は決裂。一時中断となり、国に要求した41bisは廃止されるどころか、施行され続け、リイナは苛立っていたと言います。この時期のリイナは、社会にさらなる衝撃を与え、国家を脅すことで交渉を再開させようと、フィレンツェボーボリ庭園(メディチ家の庭)の破壊工作を練り、それをジョヴァンニ・ブルスカとアントニーノ・ジョエに準備させています。しかし砲弾はいったん仕掛けられながらも、さいわい不発のまま発見されました。

一方この頃には、あまりに暴力的で要求が大きすぎるリイナに、国家の交渉人たちであるRosの幹部、そして仲介を引き受けたヴィート・チャンチミーノも辟易しており、水面下では、冷静な政治的交渉ができる、同じくコルレオーネ・ファミリーのベルナルド・プロヴェンツァーノに「コーザ・ノストラ」のボスの中のボスを交代させる動きがはじまっていた、とされます。またこの動きは、コルレオーネ出身のチャンチミーノ自身が、リイナよりもプロヴェンツァーノと、より親密な関係だったことも影響していたかもしれません。

その水面下の動きを証言するように、92年の年末にかけて、カラビニエリのフランチェスコ・デルフィーノ司令官内務大臣ニコラ・マンチーノに「リイナ間もなく逮捕される」と伝え、マンチーノは、パレルモで開かれた会議で「リイナの逮捕が間近に迫っている」と公言しています。

デルフィーノ司令官という人物は『鉛の時代』、イタリアに仕掛けられた謀略、『緊張作戦』のとなったと言われる、元軍諜報局幹部であり、マンチーノにより「リイナの逮捕」が公言された時期は、Rosのマリオ・モーリがヴィート・チャンチミーノに地図を渡し、リイナの隠れ家特定することを求めていた頃でした。

1993年1月15日、23年間逃亡中だったリイナは、デルフィーノ司令官、モーリの部下であるセルジォ・デ・カルロが率いるRos逮捕されますが、具体的にリイナの隠れ家がチャンチミーノに特定され、「いざ家宅捜索!」と検察(アントニオ・イングロイアら)が動きはじめると、モーリからストップがかかり、数日間足止めされることになります。そののちようやく家宅捜査された、パレルモのベルニーニ通りにあるリイナの隠れ家だった邸宅には、リイナの家族はおろか、家具や日用品をはじめとする、生活の痕跡が残るようなものは何ひとつ残されておらず、ご丁寧に壁まで塗り替えられていたそうです。

もちろんリイナの手書きの「パペッロ(リスト)」をはじめ、「国家・マフィア間交渉」の鍵となる書類の数々、そしてリイナが所有しているはずの莫大な財産の手がかりとなるようなものも見つからず、隠れ家は文字通り「もぬけの殻」でした。というのも、逮捕までの数日間の足止めという空白期間に、「コーザ・ノストラ」のメンバーたちがリイナの家族をコルレオーネ地区へと移動させると同時に、諜報局員たちがリイナの隠れ家だった瀟洒な邸宅の内部にそのままになった家具、あるいは金庫をごっそり持ち出し、処分、あるいは移動させたからだ、というのが通説です。

いずれにしても、リイナは逮捕される前から、23年にもわたる指名手配中の逃亡者であるにも関わらず、わりと自由にパレルモの街を動き回っていた事実も明らかになっており、証明はできずとも、有力な当局者保護下にあったことは確実視されています。

ちなみにフランチェスコ・デルフィーノという人物は、2023年、グラヴィアーノのスポークスマンである、サルヴァトーレ・バイアルドが盛んにTV出演していた際に、「自分はデルフィーノと(ブランカッチョのボス)ジュゼッペ・グラヴィアーノ、そしてシルヴィオ・ベルルスコーニ」の3人が映った写真を持っていると主張し、改めて注目されました。

その後、バイアルドが出演した番組の司会者が「写真に写ったベルルスコーニとデルフィーノ司令官を認識した」と発言したことで「やはり元首相はマフィアと緊密な関係にあったのか!」と大騒ぎとなり、番組そのものが打ち切りになる、という事態になっています。ただちにフィレンツェ裁判所に呼び出されたバイアルドは、しかし「写真など存在しない」と主張し、前述したように偽証罪で自宅軟禁となり、写真の存在はうやむやのままです。

こうして突然のリイナ逮捕に直面した「コーザ・ノストラ」内は大きく分裂し、国家への大規模爆弾テロという、これまで同様の攻撃を継続するリイナ路線を支持するレオルーカ・バガレッラ(リイナの妹の夫)、ジョヴァンニ・ブルスカ、ジュゼッペ、およびフィリッポ・グラヴィアーノ兄弟、マテオ・メッシーナ・デナーロに対し、ミケランジェロ・ラ・バルベーラ、ラファエッロ・ガンチなどは過激な攻撃路線反対し、組織内の統制に乱れが生じはじめます。

しかし、新しく「ボスの中のボス」となったプロヴェンツァーノは、持ち前の政治力を発揮して組織内の仲裁に成功し、今後の破壊攻撃シチリアではなく、イタリア本土行うことを決定。メンバーたちを納得させました。

一方93年2月、かつてファルコーネを法務省に招き、極刑である41bis(スコッティ・マルテッリ法)の施行に尽力したマフィアの天敵、『イタリア社会党』のクラウディオ・マルテッリ法務大臣は「タンジェントーポリ」に巻き込まれ、辞任を余儀なくされます。

1980年代リーチォ・ジェッリ(『P2』グランデ・マエストロ)の調整により、アンブロジアーノ銀行頭取のロベルト・カルヴィ(のち、ヴァチカンが絡んだマフィアのマネーロンダリング疑惑で銀行は破綻、カルヴィはロンドンで変死)が、ベッティーノ・クラクシーが書記長を務める『イタリア社会党』に巨額賄賂を渡していた、というスキャンダルがマルテッリ辞任の直接の原因となりました。

後任として元憲法評議会会長ジョヴァンニ・コンソが法務大臣が任命されると、このあたりから「交渉」は、マフィアに有利な方向へと少しづつ流れていくことになります。

3月にはイタリアの刑務所全体を管理するニコロ・アマート刑務所行政局局長が、国家警察庁長官ヴィンチェンツォ・パリージ内務省から「41bis適用ピアノーサ島アシナーラ島に収容されているマフィアへの過度の厳格さへの懸念表明された」と主張し、「これ以上、マフィアによる大量虐殺を起こさないために、41bis放棄して他の措置(極刑の緩和)に切り替えたい」との意向をコンソ法務大臣に長文の手紙で提案しています。しかし実際には、パリージ警察庁長官がニコロ・アマートに、41bisの緩和を要請した証拠は残っていません(Il Fatto quotidiano紙主幹、マルコ・トラヴァイオ)。

そしてこのときから、リイナの「リスト」にあった「41bisの廃止」は、完全な廃止にはいまだ遠くとも、少なくとも政治の議題となりはじめたわけです。

そうこうするうちに、アンドレオッティ政権の崩壊後に樹立したジュリアーノ・アマート政権は「タンジェントーポリ」の混乱の中、不信任決議を受け、わずか1年足らずで崩壊。共和国大統領が内閣を任命するGoverno Tecnico(直訳すると技術的政府)が樹立し、カルロ・アゼリオ・チャンピが首相に任命されます。

▶︎拡大した連続爆破テロ

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