赤い手帳
さて、ここでいったん1992年7月19日、ボルセリーノが建物の6Fの高さまで吹き飛ばされて即死した、大規模爆発直後の「ダメリオ通り」へと遡ります。
ダメリオ通りのこの爆発は、カパーチで起こった大爆発同様、アパートの壁一面が崩壊するほどの大爆発で、現場では誰が誰か分からないほどに遺体は寸断されていたそうです。現場に駆けつけた現地の機動隊員は、「炎に包まれて破壊された数十台の車、燃え続ける車、熱で自爆する爆薬、助けを求める人々の叫び声、そして恐ろしく引き裂かれた遺体」と青ざめながら描写し、道路沿いの建物や商業施設、近隣の住人にも深刻な被害が及びました。
そして現在に至るまで、「ダメリオ通りの虐殺」のエニグマとして語り続けられるのが、現場に残された焼け焦げたボルセリーノの皮革の鞄から、忽然と消えた赤い手帳の行方です。
そもそも「その日ボルセリーノは赤い手帳を鞄に入れていなかったのではないか」という疑問を繰り返す者たちには、娘ルチア・ボルセリーノが「父がダメリオ通りに行った日の朝、確かに父が赤い手帳を鞄に入れるのをこの目で見ました」と、はっきりと証言しています。
ボルセリーノが日々のスケジュールを記すためだけの灰色の手帳と、重要な捜査メモを書き記す赤い手帳ふたつを必ず鞄に入れ、肌身離さず持ち歩いていたことは、多くの同僚たち、家族、また取り調べを受けた「コーザ・ノストラ」の悔悛者である司法協力者たちの記憶に刻まれていましたが、ダメリオ通りの現場に残された鞄からは、赤い手帳だけが消えていたのです。
なおこの現象は、1978年、アルド・モーロが『赤い旅団』に誘拐された朝、機密書類が入っていた鞄ふたつが、事件の現場から何者かに持ち去られた事実と酷似しています。このときもモーロ夫人が「夫は常に、車に5つの鞄を積んで出かけた」と消えたふたつの鞄の詳細を証言しました。また同様に、カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ大佐が暗殺されたあと、金庫から重要書類一式が消え去り、検察官ジョヴァンニ・ファルコーネのコンピューター、および電子手帳が、その死後、何者かにすべて初期化されていた、という経緯もあります。
前の項で述べたように、この手帳は右派思想を持つボルセリーノが「聖なる存在」として尊敬していたカラビニエリが毎年配布するスケジュール帳で、ファルコーネが生前日記をつけていたことを知ったボルセリーノがその習慣を模して、ファルコーネと共有していた捜査情報、人物の名前、「カパーチの虐殺」を巡る捜査のあらゆる情報を書き込んでいた、とされます。
おそらくボルセリーノは、自身の死の直前にはファルコーネが暗殺された「カパーチの虐殺」の全容を把握していた、と多くの人々が推察していますが、司法の下で働く忠実な検察官として、その内容を無闇に公にすることなく、何十回にもわたって、「カパーチの虐殺」を担当するカルタニセッタ検察局に「わたしの捜査内容を話したい。そのための許可が欲しい」と、パレルモ裁判所検察局局長ピエトロ・ジャンマンコに要請していました。
当時のカルタニセッタ検察局における「カパーチの虐殺」捜査は、遅々として進まず、ほぼ崩壊状態でもあり、独自の捜査を進め、「国家・マフィア間交渉」の存在を含める詳細を知るボルセリーノのこの時期の苛立ちは、頂点に達していた、と推察します。しかし「ボルセリーノはファルコーネの親しい友人である」という理由で、CSM(Il Consiglio Superiore della Magistraturaー司法高等評議会)からも、ジャンマンコからも、終始一貫して捜査への参入を拒絶され続けました。
このジャンマンコという人物は、生前のファルコーネ、そしてボルセリーノと常に対立し、捜査を妨害し続け、盗聴を通じて動向を監視。ふたりを完全に孤立させた経緯があるにも関わらず、事件後は「両者とは良好な関係を築いていた」と繰り返し主張しています。
「5月23日の襲撃(カパーチの虐殺)を準備し実行したのは、マフィアなのか、それともマフィアだけであったのかについて、ここで明らかにはしません。いずれにせよマフィア組織であったには違いありません。すべての条件が揃った、まさにその瞬間に準備され実行されたのです」
このパレルモ図書館での講演という公の場での発言は、ボルセリーノがすでに「カパーチの虐殺」の実行者である「コーザ・ノストラ」の背後に、マフィア以外の勢力が存在していた可能性を突き止めていたことを示唆しています。
以前の項の繰り返しになりますが、その後の捜査と「コーザ・ノストラ」の悔悛者である司法協力者の証言から、「カパーチの虐殺」に極右テロリストグループのリーダー、および国内諜報局が関与していた事実が次々と浮き彫りになりました。ところが、現在に至るまで、司法は頑なに「カパーチの虐殺」への外部勢力、とりわけ極右テロリストグループの関与を認める判決を下していないのです。
パレルモ検察局局長のジャンマンコという人物については、暗殺された『キリスト教民主党』欧州議員、サルヴォ・リーマと近しい関係にあった、と囁く検察官もいます。ちなみにジャンマンコがボルセリーノに「カパーチの虐殺」捜査に加わることを、ようやく許可する電話をかけたのは「ダメリオ通りの虐殺」が起こった日の朝7時だったそうで、この行動がボルセリーノの熱意を汲んだものなのか、それとも別の意図があったのかは不明のままです。
結局ジャンマンコは、ふたつの大規模爆破事件のあと、「ファルコーネとボルセリーノを孤立させた」として、ロベルト・スカルピナート(現上院議員)を含む8人の検察官から激しい抗議を受け、パレルモ裁判所からは異動になりましたが、何らかの罪に問われることはありませんでした。
このような経緯から、消えた赤い手帳は事件当初から「カパーチの虐殺」「ダメリオ通りの虐殺」事件の真の背景を暗示するシンボルとなり、事件以降のプロセスを熟知する多くの検察官たち、ジャーナリスト、歴代の「上院下院議員アンチマフィア委員会」に探し続けられることになりました。また、ボルセリーノの2歳年下の実弟、サルヴァトーレ・ボルセリーノは「赤い手帳」という名のアソシエーションを30年前に設立し、現在に至るまで、その行方を追うとともに事件の真相究明に全力で取り組んでいらっしゃいます。
では、赤い手帳が入っていたはずの焼け焦げた鞄に関する事件当日の証言は、というと多種多様で掴みどころがなく、収拾がつかない状況です。たとえば自宅がダメリオ通りにある、マキシ・プロチェッソにおける第1審の裁判官を務めたジュゼッペ・アヤーラは「現場に急行したところ、原型を留めない車から、カラビニエリがボルセリーノの鞄を取り出し、自分に渡そうとしたが、自分にはその権限はないと断った」と言ったかと思うと、「それがカラビニエリだったかどうかは確信が持てなくなった」とすぐに前言を翻しています。
また、2005年には、現場に駆けつけたカメラマンが撮った写真の1枚に、カラビニエリであるジョヴァンニ・アルカンジョリがボルセリーノの鞄を持って歩いているシーンが偶然映り込んでおり、大きな議論を巻き起こしました。「アルカンジェリは事件当日、誰に命令され鞄を運んだか、それが誰の手を渡ったのか知っているはずだ」、と第4次ボルセリーノ裁判で、尋問されることになりましたが、そのバッグを誰に渡したか「記憶がない」と主張し続けたことで、結局アルカンジェリは不起訴となります。
すると今度は前述のアヤーラが再び証言を変更し、「自分が鞄を車の後部座席から取り出して、カラビニエリに渡した」、と言いはじめ、2009年になると「制服を着ていない人物が車から鞄を出したので、それを受け取って警官に渡した」と証言を二転三転させました。アヤーラのこの言動は、単なる自己顕示なのか、故意の捜査撹乱なのか、すでに法曹界を離れていたとはいえ、証言の重要さを熟知した元司法官にしては、あまりにも稚拙で不可解な行動です。しかもアヤーラは、ファルコーネ、ボルセリーノとともにマフィア捜査に奔走した「プール・アンチマフィア」の同僚だった人物です。
ただし、アヤーラの発言で注目すべき点があるとすれば「制服を着ていない人物」という描写でしょうか。というのも、当局者以外「立ち入り禁止」のはずの爆煙が立ち込める現場には、多数のスーツ姿の人物たちが我が物顔で行き来しており、警察官に制止されると諜報局のIDを見せた、という複数の証言があるからです。しかも何を目的として多くの諜報局員が現場を行き来していたかが明確になっていません。
いずれにしても、現在進行中の第5次(!)となる「ダメリオ通りの虐殺」に関する捜査では、アヤーラの証言は無視され、鞄を持ったカラビニエリが、ダメリオ通りが奥まった場所で、警察の捜査官ふたりと遭遇した場面を問題視しています。警察官たちが、「現場には警察の方が先に到着したため、捜査の管轄はカラビニエリではない」と主張し、鞄を渡すように促すと、カラビニエリは反論せず、その捜査官に鞄を渡した、と言います。その警察官たちが、傍に停めたパトカーに鞄を積み込んだ、というのが、現在有効とされる34年前の事件現場の再構成です。
この再構成を元にカルタニセッタ検察局は、その鞄が当時、「ファルコーネ・ボルセリーノ」捜査チームを率いた警察特別部隊隊長アルナルド・ラ・バルベーラの手に渡ったと考えると同時に、そもそもアルカンジョリの手にあった鞄が、その後どのような経路を辿ったのか、現在も捜査を継続しています。ただ、当時任務についていた警察官やカラビニエリには、あまりにも衝撃的な現場での感情の昂りと34年もの時間の経過のせいで、確実な記憶が残っているわけではなく、その経緯は曖昧なままです。

「コーザ・ノストラ」メンバーから司法協力者となったガスパレ・ムートロは、現在画家としても活動していて、マフィア界のピカソ、などとも呼ばれています。赤い手帳をモチーフにした絵も多く書いていて、この絵はそのうちの一枚です。ムートロは、素朴ですが味のあるおもしろい絵を多く描いています。写真はilsuperuovo.itより引用。
「コーザ・ノストラ」の悔悛者であるヴィート・ガラートロが「腐敗した人物」と断言したラ・バルベーラは、地元の不良たちだったヴィンチェンツォ・スカランティーノ、サルヴァトーレ・カンデュラを拷問による虚偽の自白強要で、「ダメリオ通りの虐殺」の実行犯に仕立て上げた捜査妨害の首謀者で、そもそもは軍諜報局に属していた人物です。
しかも事件から33年が経過した2025年6月25日、そのラ・バルベーラが「ボルセリーノの所有物である革の鞄と手帳が入った段ボール箱を、事件当時、捜査を担当していたカルタニセッタ検察局局長ジョヴァンニ・ティネーブラに渡した」という記述を残した当時の文書が見つかり、その鞄の中に赤い手帳が含まれていた可能性が指摘されました。そこで、すでに鬼籍に入ったティネーブラの、未亡人と娘の自宅が家宅捜査されましたが、当然のように手掛かりになるようなものは、何ひとつ見つかっていません。
この捜査については、ボルセリーノの実弟であるサルヴァトーレ・ボルセリーノが「33年も経って、死人の家で手帳を探すことに意味があるのか」と強く反発し、「もし本当に赤い手帳を見つけたいのなら、『国家・マフィア間交渉』の国家側の交渉人であった、Ros(特別機動隊)マリオ・モーリの家を家宅捜査すればいい」と攻撃的な発言をしています。捜査に携わった多くの検察官、ジャーナリストたちはカラビニエリ→警察→諜報局員ら何人かの手を経て、現場から持ち去られた、と考えているのです。
いずれにしても『右派連合』による現政府下におけるボルセリーノ関連捜査、および「上院下院議員アンチマフィア委員会」の姿勢に関しては、多くの検察官、ジャーナリスト、政治家たちが「まったく的外れ」「信頼が置けない」と疑問を呈しており、たびたび議論の俎上に上ります。その内容については、本稿の最後にざっくりとまとめたいと思います。
ところでなぜ、事件から34年を経た現在に至るまで、多くの検察官、ジャーナリスト、政治家たちが、消えた赤い手帳には「イタリアの歴史を塗り替えるほどの真実」が記されている、とことあるごとに重要視するのか。
92~93年の事件の捜査、そして裁判に深く関わった人物たちのインタビューや議論、講演のプログラムをYoutube上で頻繁に配信し続ける、シチリアの若い世代を含めるジャーナリストグループANTIMAFIADuemila TVは、2025年7月、1992年に自ら悔悛者として出頭したレオナルド・メッシーナに関する配信をしました。メッシーナは、ボルセリーノが亡くなる直前の6月30日から7月にかけて、犯罪組織のネットワークの詳細を直接ボルセリーノに供述した、カルタニセッタのボスのひとりです。
司法協力者となったメッシーナは、トト・リイナが召集したエンナからはじまった会議で、「コーザ・ノストラ」が核となり、イタリア南部に構築した独立国家がローマの政府の代替権力となる、という壮大な野心を話しあったことを含め、マフィア組織と傍系フリーメイソンは一心同体ともいえる70年代から続く共同体であること、また国に戦争を仕掛けるために、サルヴォ・リーマ、ファルコーネ、ボルセリーノを次々暗殺する計画を話し合ったことを語っています。
また、傍系フリーメイソンが、企業家、国家、NATOの権力を掌握する人物など、「コーザ・ノストラ」のマフィアビジネスにおいて、適切な人脈を持っていることを説明し、軍事分野での取引、たとえばスイスから輸入されたカラシニコフなど、信じられないようなものが手に入る過程をも詳述しました。
さらに「コーザ・ノストラ」、「カモッラ」、「ンドゥランゲタ」は活動地域は分かれているが、実はひとつのオーガニゼーションであり、頭脳もひとつである、と断言しています。しかもそれらは地方レベルの「コミッション(委員会)」で機能する組織ではなく、国レベルから世界レベルの「コミッション」が存在する組織(!)だ、と主張しているのです。つまり少なくともイタリアにおいてマフィアと呼ばれる犯罪組織は、「コーザ・ノストラ」、「カモッラ」、「ンドゥランゲタ」が個別の国際マフィアビジネスで利益を上げているわけでなく、一種の企業共同体=いわばジョイント・ベンチャーだということです
なおメッシーナは、92年に結成された上院下院議員「アンチマフィア委員会」のみならず、「国家・マフィア間交渉」裁判の第1審(2013年)の際、検察官ニーノ・ディ・マッテオの尋問においても、同様の内容を供述しています。
その際、ディ・マッテーオが、「その内容をボルセリーノにも話したのか」と問うと、「国家側の交渉人であるRosのマリオ・モーリ隊長らと『コーザ・ノストラ』トト・リイナとの直接交渉に、ヴィート・チャンチミーノが仲介人となった経緯も含め、調書には残す必要のないボルセリーノの勤務時間外ではあったが、すべて話した」とメッシーナは答えました。
つまり、あらゆる権力と繋がる傍系フリーメイソンがマフィアと一身同体の共同体である事実を含め、生前のファルコーネが捜査していたマフィアと「グラディオ」の深い関係の証拠となる情報を共有し、マフィアを巡るすべての要素を知っていたボルセリーノの赤い手帳には「イタリアの歴史を書き変える」証拠、証言が記されているはずだ、と誰もが考えているのです。
2022年11月には、ボルセリーノが暗殺された「ダメリオ通りの虐殺」の真の実行犯のひとりである、ジュゼッペ・グラヴィアーノのスポークスマンと見なされるサルヴァトーレ・バイアルドが、突然TV番組に現れ、「(92~93年の重大事件の全容を知る最後の大ボスと言われる)マッテーオ・メッシーナ・デナーロは病気で、現在41bisによる極刑の終身刑で収監されているマフィアのボスたちとの交換、という条件でまもなく逮捕される」と公言し、事実数ヶ月のうちに、重病のメッシーナ・デナーロが逮捕されるという出来事がありました(しかし極刑で収監されているグラヴィアーノら、「コーザ・ノストラ」のボスたちが免罪になることはありませんでしたが)。
そのバイアルドは「赤い手帳には複数のコピーが存在する」と、複数の報道番組で語った経緯がありますが、93年に起こった連続重大爆破事件のひとつ、「ジェルゴーフィリの虐殺」(後述)を捜査中のフィレンツェ検察局にベルルスコーニ関連発言のために呼び出され、自宅軟禁となり、いつの間にか表舞台からは姿を消してしまいます。また収監中のトト・リイナが(誰もが必死に赤い手帳の行方を追うのは)「恐ろしいことが書いてあるからだろう」と不適な笑いを浮かべながら別の受刑者と話している場面が、隠しカメラで撮影された事実もあります。
したがって、赤い手帳に書かれているのは、ファルコーネが調べてあげた「グラディオ」下における『鉛の時代』の複数の政治殺人の詳細なのか、ボルセリーノが突き止めたマフィアと通じる政治家および諜報局の人物、あるいは当局者の名前なのか、傍系フリーメイソンの詳細、あるいは現在明らかになりつつある極右テログループの関与の事実なのか、それとも94年に鳴物入りで現れた、イタリアの政治と文化、そして価値観を一変させたイタリアの代表的企業家でもある政治家とマフィアの関係なのか、あるいはそのすべてなのか、やはりそれが見つからない限りは断定できない状況です。
▶︎交渉の行方とリイナの逮捕











