1943年:日本での壮絶な2年間を描いたダーチャ・マライーニの新刊「Vita mia(わが人生)」

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爆弾、地震、敗戦、自由

ちょうどその頃から、名古屋上空を飛ぶ米軍のB29による空襲が激しさを増し、サイレンのあとに続く、眩い光とともに起こる爆撃に、やがて子供たちは慣れてしまったと言います。

自分たちが過ごす状況を「Limbo bianco(辺獄ーダンテ地獄編)」と呼んでいたフォスコは、「(空襲の)威力を見たかい。彼らが僕らを解放してくれる」と言っていましたが、ダーチャにとっては空襲より、毎日のように起こる地震の方が恐ろしかったそうです。後に分かったことですが、米軍は名古屋の南側に欧州人の収容所があることを事前に知っていて、その場所を避けて空爆していました。

捕虜収容所生活の2年めにあたる1944、45年にまたがる冬は特別に寒く、45年2月零下の日が続いていました。そしてそんな真冬の最中に起こったのが昭和東南海地震でした。Wikipediaによると、マグニチュード7.9震度7のその地震では1223人の人々が亡くなっています。

「雪が降りしきる極寒最も酷い地震が起こった。何日も続いている地震でわれわれは眠れず、緊張寒さ空腹疲労困憊していた。地面が再び揺れはじめ、振動しながら、地面が大きく裂けたのだ

近くの家が燃えているのが見え、さらに空襲を知らせるサイレンが鳴り響く「世界の終わり」に直面して、どこに逃げるかも分からないまま、小さいバッグを手にしたトパツィアとフォスコは顔を見合わせると、思わず笑いが込み上げてきて、その笑いを止めることができなかったそうです。

2歳だった妹トーニは地震が起こった瞬間、階段から滑り落ちそうになり、やはりこの時も本能的にトパツイアがトーニのくるぶしを捕まえて間一髪で助かっています。ダーチャは大きな揺れの中、あらゆるすべてのものが揺れ動くため、どこにも掴まれることができず、右、左に揺られながら、座って階段を降りました。すると降り立った裸足のすぐそばで、みるみる地面が裂け、危うくその穴に引き摺り込まれそうになったそうです。ダーチャにとってはその穴に呑み込まれる恐怖の方が空襲よりもはるかに強く、現在でも、どんなに小さい地震でも、すぐに外に飛び出す用意ができている、と言います。そしてこの地震の夜から、名古屋の空襲ますます酷くなりました。

裁縫が得意だったトパツィアは、フォスコの衣服だけでなく、他のイタリア人たちのつぎはぎだらけ衣服、もはや使い物にならない、酷く汚れて匂う靴下をも気の毒に思って、なんとか工夫して繕っていたそうです。また少量の米や大根と交換に、看守たちの縫い物もしていましたが、その頃のトパツィアは、もはや歩くことができないほどに脚気が酷く、髪が抜け、歯茎から出血し、足は膨れ上がって2階から階下に降りることはできなくなっていました。

また、収容所に来たばかりの頃の人々は、あらゆることを民主的に投票で決定し、食物も皆で分けていましたが、やがて次々に襲いかかる空襲、地震、病気の悪化で、神経がすり減っていくにしたがって、食物を分け合うのをやめ、誰もがこっそりひとりで食べるようになっていったそうです。極限の状況に置かれた、一流の知識人たちの「(極限の状況に置かれても)一致団結して、すべてを分け合おう、という人間的な感情は、エゴイズムに凌駕された」ということです。このように、究極の飢餓が人間から共同体の理念や、人間的な憐れみを奪うということは、今のような時代、しっかり覚えておきたいと思います。

とはいえ、そのエゴイズムは、日本の敗戦が決定的となり、すべての看守が逃げ出して、米国からの物資が届き、飢えが終わると同時に消え去り、再び民主的な団結、誇りが、皆に戻ってきたそうです。

天白の捕虜収容所からイタリア人が移転させられることになった、廣済寺の本堂のスケッチ。sotozen-net.or.jpより。

こうして度重なる地震、空襲で、収容所の大部分が破壊されたため、イタリア人19人は、同じく名古屋の廣済寺へと移転することになりました。

この寺は1300年代に建立され、1600年代に改築された、曹洞宗の由緒ある寺で、境内を囲む森に覆われた丘、茅葺きの集落、田園風景にフォスコは魅了され、大喜びしています。マライーニ一家はその寺の仏壇の裏の一角、鳥と花が描かれた襖に仕切られた部屋で生活しはじめ、ダーチャはすぐに、寺の僧侶の家族である自分と同年代の少女Keiko友達になりました。そしてこのKeikoが、祭壇の供物であるご飯や漬物を、皆で分けて食べられるようにこっそりと置いてくれるようになったのです。

田園風景に囲まれた廣済寺に移されたイタリア人たちの生活は、以前の天白寮に比べて、ずっと穏やかになりました。看守からヤギの散歩を命じられたフォスコは、寺の周囲を歩くうちに、近所の農民たち友達になり、彼らが戦争に飽き飽きしていることを知ります。農民たちは横柄な看守たちを嫌っており、むしろ「可哀想な外国人たち」に同情して、たびたびを持たせてくれたそうです。

トパツィアには、ミシンが与えられ、看守たちのシャツを縫う報酬として幾らかの米をもらうようにもなりました。それでもまだまだ空腹は癒えず、フォスコの友人であるふたりのイタリア人は、寺の裏の茂みにが隠れているのを見つけ、その蛇を捕まえると皮を剥ぎ、かまど調理して、食べていたと言います。

以前より監視が緩やかになったと同時に、あの憎々しい看守、Kasuyaがいつの間にか奇跡的に消え去り、その代わりに来た怖い顔の看守は、寝てばっかりでほとんど仕事をしない人物だったので、食物は相変わらず少量でも、やがて子供たちにも少しずつ幸福が戻ってきたのです。

空襲で瓦礫の山となった名古屋を背景に、トパツィア、ダーチャ、Yuki、トーニ。ラ・レプッブリカ紙より引用、加工。

1945年8月6日、廣済寺とその周辺は異様な静けさに包まれたそうです。看守たちは黙りこくり、農民も家に閉じこもり、あらゆる動きは一斉に停止。死を思わせるその静けさに、「何か酷いことが起こった」と誰もが悟ったそうですが、その理由が分かったのは夕方のことでした。イタリア人たちは、ひとりの若い農民から、広島に強烈な爆弾が投下され、何十万人もの人々が亡くなり、市街地そのものが消えてしまったことを知ります。

広島、長崎の原爆に続く8月15日、敗戦を告げる玉音放送がラジオから流れてきても、看守たちにはその放送の内容がまったく理解できず、日本文化にきわめて詳しいユダヤ人の教授が、「日本は敗戦したのだ」と説明しなければなりませんでした。すると看守たちは、一言も言葉を発する事なく、そのまま寺からいなくなってしまったのです。その日、蚤だらけで痩せ細り、脚気や壊血病で苦しんでいた19人のイタリア人たちは、遂に解放され、甘美な自由に存分に浸って、笑い踊って喜び合ったそうです。

「遂に手に入れた自由に浸り、畑のそばで日向ぼっこをしていると、ヒューという柔らかい音が聞こえてきた。 2年もの間、寝そべるのを禁じられていた草の上木の枝が風に吹かれて軽やかに舞うのを、気持ちよく眺めた。わたしたちが地面に横たわると、米の量を減らすぞ、と脅したKasuyaを思い出し、幸福な時間に浸っていた」

その後、近隣の農民たちは進駐軍に皆殺しにされることを心配し、自害を考えて続々と寺を訪れ、フォスコが彼らを安心させるようにいくら説得しても、その不安は消え去ることはなさそうでした。しかし日本人は皆、天皇陛下の「尊厳ある振る舞い、復讐せず、暴力を振るわず、勝利者を尊重するよう」との命に実務的に、従順に従い、誰ひとり進駐軍に反抗することはなく、マッカーサーは護衛がなくとも外出できるどころか、拍手で迎えられた、というエピソードから、市井の日本人にとって、天皇は絶対であり、聖なる君主なのだ、とフォスコ・マライーニは捉えています。

厳格な自由の制限、終わることがないと思っていた空腹が癒え、ネズミ、蛇や蛙や蟻を食べる必要もなくなると、空腹の時には貪り食うための食料と見ていた動物たちにも、人間たちと同じように生きる権利がある、とダーチャは考えるようになりました。その後シチリアで遭遇したヤギの屠殺に衝撃を受けてからは、ベジタリアンともなっています。

そのうち米軍が、トパツィアがシーツを使って作ったイタリアの三色旗を目印に飛行機でやってきて、空から廣済寺目がけて大量の食料、たとえば桃のシロップ漬け肉の缶詰チョコレートや、さらには軍のシャツジャケット煙草をパラシュートで投下します。ダーチャはその食料をKeikoと分け合い、農民たちは米と引き換えに缶詰などを分けてもらおうと、続々と寺を訪れました。さらにはイタリア人たちが廣済寺を離れる日、どこかへ消えたはずの看守、AotoとFugijtaが、のうのうと食料や服の無心現れたため、「もう2度と顔を見せるな」と言いながらも、フォスコは靴2足、軍服、煙草を手渡しています。

自由を得たばかりのマライーニ一家。背景はおそらく廣済寺と思われます。

やがてマライーニ一家は米軍の通訳の職を得たフォスコとともに帝国ホテルに滞在(ここでダーチャは米兵によってレイプされそうになる、恐ろしい体験をしています)したのち、イタリアへと帰国するわけですが、それまでの人生を日本で暮らした子供たちには帰国する、という感覚が分からなかったそうです。また、一家は米国に助けられても、イタリアにおける占領下のシチリアで、米軍がレジスタンスを繰り広げたパルチザンより、マフィアを深めたことは、きわめて愚かだということをも、ダーチャははっきりと認めています。

ファシズム、ナショナリズム、全体主義に染まった人間がどれほど愚かな思考停止に陥るか、そして、その不条理で、残酷な仕打ちに直面した人間がどう振る舞うかを見ながら、強烈な飢えを生き抜いた少女を支えたのは、両親がそれぞれに持つ豊かな文化と日本の庶民の人々でした。

読み終わったあと、これはわれわれが生きる現代に警鐘を鳴らす、ひとつの寓話でもある、と思った次第です。世界では、激しい戦禍が続いています。

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