1943年:日本での壮絶な2年間を描いたダーチャ・マライーニの新刊「Vita mia(わが人生)」

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こいつらは敵だ

フォスコ・マライーニは1938年、「アイヌ研究」をテーマに日本政府の奨学金を得、北海道帝国大学への留学のため、妻のトパツィア、当時1歳半だったダーチャとともに札幌へ渡ります。その札幌でYuki(雪)が生まれ、1941年、フォスコが京都帝国大学でイタリア語教授の職を得て、移動で滞在した東京でトーニが生まれました。そのため当時京都弁まで覚えていた子供たちには、むしろイタリア語が異国語であり、戦後イタリアに戻った際、言葉を覚えるのが大変だった、とのエピソードを、ダーチャ・マライーニは語っています。

京都では、マライーニ夫妻が「姉さん」と呼んでいた乳母のUriu Mikiを、子供たちは「お母ちゃん」と呼び、家族同然に可愛がられたようで、今でも「春が来た」を歌うと、ダーチャはこの女性の微笑みを思い出すそうです。子供たちは、童謡や少し恐ろしく、幻想的な昔話など、日本の庶民の文化を、この「お母ちゃん」から学びながら育っています。

また「お母ちゃん」には端正な顔立ちの夫がいましたが、広島に転勤していた際に原爆に遭い、その後帰郷はできたものの、「黒い雨」を浴びたせいで数年後には亡くなりました。このUriu Mikiは60年代に、有り金をはたいて、マライーニ一家に会いにイタリアを訪ねたそうです。

ダーチャ・マライーニはOkachanであるUriu Mikiを2番目の母親、と捉えていました。zoomgiappone.infoより。

一家の緩やかな生活に異変が訪れたのは、1943年の9月のことでした。 突然フォスコ・マライーニ、妻トパツィア・アリアータは警察に呼ばれ、それぞれ別の部屋に連行されると、「ムッソリーニサロ共和国(イタリア社会主義共和国)に忠誠を誓う書面」にただちにサインするよう促されます。日本、ナチスドイツ、そして当時、クーデターにより政権を追われたムッソリーニが、北イタリアに再建したファシスト政権「サロ共和国」との間に、日独伊三国同盟が締結したばかりの頃でした。

別室で尋問を受けたマライーニ夫妻は、事前に申し合わせをしたわけでもないのに、それぞれ個別に、書面に署名することを、きっぱり拒絶しています。それはアンチファシズムというイデオロギー的行動というよりも、夫婦ともにファシズムの差別主義を強く非難していたからだ、とダーチャは言います。そもそもフォスコ・マライーニは、ファシスト党の文化政策に大きな影響を与えた彫刻家、美術評論家であった父親(アントニオ・マライーニ)に、1938年に成立した「人種法」を理由に、ファシスト党には所属しないことを宣言。党員証を父親の目の前で破って大喧嘩となり、フィレンツェの生家を飛び出した、という経緯がありました。

また警察は、母親であるトパツィアが泣き崩れて許しを乞うことを期待していましたが、誇り高く、決断力のある、この女性の毅然とした拒絶には驚いたようです。シチリアの有名な公爵家を継ぐ、リベラルな父親に育てられたトパツィアのこの行動は、政治と社会の傲慢、市民の理想や権利への軽視に決然と立ち向かうレジスタンス精神の証だ、とダーチャは断じています。

この署名拒絶の際、「祖国の裏切り者」として捕虜収容所行きを告げられたトパツィアは「しかし娘たちだけでもイタリアの祖父母のもとに帰したい」「あるいは友人たちのいるスイス大使館で保護してほしい」と頼んでいますが、警察は「奥さん、戦争中なんだよ。最高の計らいでも、孤児院だ」と冷淡に突っぱねました。

と、トパツィアは「それならわたしと一緒に捕虜収容所に連れて行きます」と、再び決然と言い放つわけですが、その時の母親の決断が、当時6歳、4歳、2歳だった娘たちを救ったことが、戦後、明らかになったのです。というのも、警察が提案した孤児院の子供たちは、のちの空襲で全員亡くなったのだそうです。このように、いつも沈着冷静で機転のきくトパツィアの決断は、その後も子供たちの危機を救うことになります。

警察から自宅に戻されたマライーニ一家は、その日から外出も、友人、家族との連絡も、手紙も含めて一切禁止される自宅軟禁となり、買い物のために外出できるのは、Uriu  Mikiだけでした。それでも自宅での軟禁生活の間は、ダーチャが、そのしなやかな背中と小さい手の感触をいまだに覚えている「お母ちゃん」が作る、衣がカリッとして中が柔らかな魚のフライや、漬物で、家族が飢えることはなかったのです。また「お母ちゃん」は、軟禁中の子供たちが不安に陥ることがないよう、いつも笑顔で明るく接しています。

不安に満ちた50日余りの軟禁生活を経た10月の終わり、遂に京都府外国人局の副局長Iwamiが7人の部下を引き連れ、マライーニ家に現れることになります。その外国人局の一行は、「ブラームスはお好きですか? ベートーヴェンもご存知でしょう」などと最初はいたって親切に、慇懃無礼に振る舞っていましたが、「お母ちゃん」が台所から運んできたお茶と餅をすべて平らげると、突然「立て、売国奴!」と声を荒げ、「たった今から、君たちは大日本帝国属する。われわれの命令にのみ従わなければならない。最小限の荷物だけを持って、子供たちと一緒に出発だ」と言うや否や、副局長は部下に向かって「見張るためにここに残れ。こいつらは敵だ」と命じたそうです。

その瞬間、フォスコは、研究のためにそれまでに集めた貴重な本アイヌに関する書類や写真の数々を木箱に詰め込み、フランス大使館に勤める友人に電光石火で送っています。そして一家が暮らした京都の家で、それだけが戦後、唯一残ったものとなりました。また、どのような時にもパニックに陥ることがないトパツィアが、洋服の代わりに、バッグに本能的に詰め込んだシーツが、のちに収容所の看守のシャツを仕立てる際に役にたち、その引き換えとして、わずかな食料、玉ねぎ、じゃがいもや大根を得ることができたそうです。しかし、そのときトパツィアが別送した子供たちの玩具や本、冬物の衣類は、収容所に届くことはありませんでした。

子供たちと「お母ちゃん」は無理やり引き離され、こうしてマライーニ一家は追い立てられるように、捕虜収容所へと向かうトラックに乗せられることになり、ダーチャはトラックの上で頬に感じたそのときの風の感触を、いまだに覚えているそうです。

マライーニ一家が連行された、名古屋、天白の捕虜収容所。zoomgiappone.infoより。

住み慣れた京都の家から一家が連行された捕虜収容所は、名古屋天白にあるテニスコートの側の長い間使われていないクラブハウス(ダーチャ・マライーニは更衣室と表現しています。しかし本当は百貨店松坂屋の社員保養寮だったそうです)で、到着した際に、米袋野菜牛乳を運ぶトラックを見かけて、とりあえず空腹に苛まれることはなさそうだ、と一家は安心しています。大日本帝国政府もまた、国際法に則って、捕虜には苦痛を与えない、と約束していましたが、マライーニ一家が見かけたその大量の食糧の、その大部分はイタリア人たちの口に入ることはなかったのです。収容所の看守たちは、政府から送られてくるイタリア人たちの食糧を自宅に持ち帰るか、あるいは闇市で売るために、盗み続けていました。

有刺鉄線で囲まれた、2階建てのその建物に収容されたのは、「裏切り者」である19人のイタリア人で、トパツィアの日記によると、到着当初は、それほど汚くもなく、なんとかなりそうな様子だと楽観的でも、実際は汚れた床に直接布団を敷かなければならず、まず、ゆっくりと眠ることは不可能でした。風呂は週に1回。看守たちが入った後に男たち、そしてトパツィア、子供たちの順で、子供たちが入る頃には、湯はぬるく、汚れてしまっていたそうです。

夏はひたすら暑く、冬は零下の寒さが続き、不衛生のために大量の蚤シラミが湧いて、やがてイタリア人たちは極度の疲労と空腹のため、脚気壊血病を患い、足の痙攣、関節痛、腸疾患、下半身浮腫、心臓病、抜け毛に悩ませられることになります。

収容所では、イタリアの家族からの手紙は当然届かず、もちろんイタリア人たちは手紙を書くことすらできず、新聞も本も読めず、あらゆるすべての人間的行動禁じられ、外部からの差し入れは届くことはありませんでした。「お母ちゃん」はマライーニ一家に差し入れる風呂敷包を持って、何度も収容所を訪れていますが、その度に追い返され、お正月の「ごちそう」の差し入れはといえば、中味が腐ってしまってから家族に手渡されたそうです。

▶︎飢えとサディズム

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