11月25日の由来、ミラヴァル3姉妹の果たされなかった願い。
ところで国連が、11月25日を「女性への暴力に反対するメモリアルデー」と定めたのは、どのような由来なのか、今年11月25日を迎えるにあたり、イタリアでは新聞、テレビをはじめ、さまざまなメディアでその詳細が報道されました。ミモザの花を女性に贈る習慣がある3月8日の「女性の日」については、誰もが馴染み深くとも、11月25日に関して、今までのイタリアでは、これほど多くの人々が関心を持つことはなかったように思います。
そもそもこのメモリアルデーは1981年、南米のフェミニストグループにより国連に提案されたものです。1960年にドミニカ共和国で起こった残虐非道な女性殺害を、歴史の記憶から消さないため、また、「女性に対する暴力」に世界がもっと繊細な注意を払い、目を向けるように、との思いを込めて制定されました。
事件発生当時、ドミニカ共和国の独裁者として君臨していたのは、悪名高いラファエル・レオニダス・トゥルヒーヨ・モリナ。その専制下、反政府政治グループ「6月14日運動」に参加するパートナーたちを持ち、本人たちも活動家だった、パトリア、ミネルヴァ、マリアテレーサ (Patria Mercedes, María Argentina Minerva, Antonia María Teresa Mirabal )という『ミラヴァル3姉妹』が車に乗って、刑務所に拘留されていた彼らのパートナーたちを訪ねようとしていたところを、突然当局 (軍情報局)に停められ、車から引きずり出された。連れ去られた極秘の場所で、棍棒で拷問を受けたのち、首を絞められ殺害され、崖から捨てられる、という凄惨な事件が起こっています。
近年、イタリアでも女性へのレイプ、パートナーを死に致しめるドメスティック・バイオレンス、別れを切り出されて逆恨みした元恋人が、待ち伏せして、女性に青酸を浴びせ顔に酷い火傷を負わせる、あるいは女性を車ごと燃やしてしまう、という、あまりに残忍な事件が毎週のように報道されていました。前述したように、このような「女性への極限の暴力」が、逼迫した社会問題となっていることが、ミラヴァル3姉妹の記憶をもう一度呼び起こし、人びとの団結を促したことは疑いようがありません。
また、件の米国の映画プロデューサー、Weinsteinの自らの地位を利用した、女優たちへの性暴力、セクシャルハラスメントの告白も盛んに報道されていましたし、Sky news 24は、元テレビ局ディレクターによるレイプ事件の告発者、ジャーナリスト、伊藤詩織さんのインタビューも報道しました。外国人記者クラブでの記者会見で、イタリアSky news 24の特派員、ピオ・デミリアが「このような事件が起こった場合、イタリアには事件の解決のために共に闘う団体が多くあるが、日本では誰も助けてくれなかったのか」という質問をして、非常に複雑な、やりきれない気持ちになったことを告白したいと思います。
さらに今年のエポックメーキングな出来事、といえば、政府、下院議会で史上初めて、11月25日のメモリアルデーに寄せて、「女性への暴力に反対する」大きなイベントが開かれたことでしょう。下院のあるパラッツォ・モンテチトーリオには、ストーキング被害やドメスティック・バイオレンスの被害にあった女性、ボーイフレンドに殺された娘を持つ母親らを含む1300人の女性が招かれて議会が開かれました。
イタリア政府が市民とともに、こうして女性たちへの共感、そして応援の姿勢を全面的に示したことは、現状を変化させるために重要な意義を持つ出来事となった。この日の下院議会では、それぞれの女性が自らの体験を語り、皆がひとつになり、勇気を持って状況を打破、『女性への暴力』と闘っていく、という連帯を確認する、貴重な機会となりました。その日出席した女性たちはひとりひとり、イタリア大統領セルジォ・マッタレッラから迎えられたのだそうです。
「性暴力は女性だけの問題ではなく、私たち皆の問題だ。ひとつひとつのエピソードが非常に深刻な人権侵害であり、すべての人々を同等に巻き込む問題である」
大統領はそう語っています。また、下院議長のラウラ・ボルドゥリーニの力強い言葉には、強く共感しました。
「Istat(イタリア統計イスティチュート)によると、イタリアでは2日半にひとりの女性が殺害されていることになります。これは身の毛がよだつ恐ろしいデータです。その女性を愛するべき男性に殺害されなければならないなんて」「これは女性たちだけで解決する問題ではない。国やわれわれ皆が、力を合わせて解決する問題です。女性への暴力は、明らかに国の問題、コミュニティ全ての問題と考えます。個人の問題ではなく、人権の問題です」
「女性を愛する男性がたくさんいるのに、彼らは女性の窮地を眺めているだけなのでしょうか」「暴力は決して受け入れられない、と主張する男性たちが大勢いるのに、なぜ、彼らは何の行動も起こさないのか。男性たちも私たちとともに行動すべきではないのか」「何千年もの間に培ってきた、女性は所有されるもの、という文化から抜け出さなければならない。少年や少女たちに、彼らは平等だということを教育しなければならない」「女性は、もうたくさんだ、と明確に言わなければならない」
「すでに女性への暴力への反対は、イスタンブール(国連議会)協定から、Feminicidio-女性殺害の法律の制定、孤児の対策まで、はっきり答えが出ている。ストーカーというテーマに関しては、まだ明確に制定されていないが、やがてこの問題も答えが出るだろうと考えている。しかし法律を制定するだけじゃ足りないんです。問題は文化にあるんです。女性たちは告発しなければならなりません。沈黙は孤立を生み、死を招くだけです。言葉が助けてくれます。沈黙を破って、言葉を発した人々に、わたしは、わたしたち51%のイタリアの人口を占める女性は、弱々しいマイノリティじゃない、という言葉を贈りたいと思います。わたしたちは話すことを知っているし、また話さなければならないのです。国はもはやわたしたちを無視することはできない」
「これはドメスティック・バイオレンスだけに関わる問題ではない。人生のすべての局面における女性への暴力について、わたしたちは沈黙を破らなければならない。Weinsteinのケースのように、仕事上での性暴力の現実を暴かなければならない。イタリアでは、『このようなケースは、信じてもらえないのではないか、仕事を失うのではないか』と恐れて告発する女性が少ない。それは強い偏見を持たれることを恐れているからだ。しかし、これ以上こんなことは起こるべきではない」(ラ・レプッブリカ紙、そのほかTV、ネット上の映像を参考にした以上の抄訳には割愛した部分もあります)
下院議長がきっぱりと、これほど強く主張するなんて、頼もしいことでした。
※イタリア下院議長、ラウラ・ボルドゥリーニの演説の一部。
女性への肉体的、心理的暴力の根源にある文化
大学のリサーチャーであるシモーナ・フェチ、ラウラ・スケッティーニというふたりの若い女性が編集、女性への暴力の実態をリサーチ、その背景を多方向に分析したLa violenza contro le donne nella storia「歴史における女性への暴力」という本が、今年出版されました ( 2017/Arti Grafiche CDC s.r.l) 。歴史における女性の立ち位置、その困難と不条理の歴史が緻密にリサーチされた論文を集めた力作で、読み応えのある良書です。その本のプロローグをも参考にして、女性差別と、性暴力の社会背景、下院議長が演説で使った『文化の問題』という言葉の意味を考えてみたいと思います。
「女性への暴力は、歴史的な男女不平等の背景にもとずく力関係の顕示である。その暴力が、男性側の女性支配、差別へと結びついたのだ。女性の発展を拒む女性への暴力は、残酷な社会システムのひとつであり、その暴力によって、女性は男性の命令に従わなくてはなくてはならない、というポジションに置かれた」
これは1993年の国連議会で確認された声明文です。
2011年、イスタンブールで行われた、ドメスティック・バイオレンスに関する会議でも、「女性への暴力は、歴史的な男女間の不平等を顕示するためのもの」という同様の文脈で、議論が行われています。もちろん、先進国と言われる国々においては、長い時間をかけて、女性たちは自分たちの社会における男女平等の権利を求めて闘い続け、少しづつ、現在の立ち位置を獲得してきたわけですが、それにも関わらず『女性への暴力、侮辱』は、決してなくなることなく、むしろここ数年、経済状況の悪化や社会環境の大きな変化と呼応するように、より悪質な事件が、世界各国で多く起こっています。男性の「女性への暴力」には国境なく、地政学的違いがなく、文化の違いもなく、宗教にも関係がありません。
多くの女性たちが自立して、広い分野で目覚ましい活躍しているにも関わらず、女性への暴力に終わりがないのは、男性のリビドーの暴走に加え、長い歴史を持つ父権社会システムにおいて『女性』は『所有物』で『支配』されるべきものだ、という深層心理に起因することは明白です。
その欲動に、本来ブレーキをかけるべき理性を欠落させるトリガーとなるシチュエーションを推測するなら、世界の経済構造が大きく変化を遂げ、経済的に抑圧されるストレスや人間関係によるフラストレーション、社会からの排斥で歯止めが効かなくなった抑制不能の心理が浮き上がってくる。さらにストレスによるアルコール、ドラッグの摂取が原因になることも考えられます。つまり、最も近くにいる女性が、肉体的にも、心理的にも男性のフラストレーションによる暴力の犠牲にならなければならない、という不条理なリアリティが浮き上がります。
また、「戦争」を考えると、女性支配の構造がよく見えてくるのですが、歴史的に見て、侵略した敵地の、(もちろん無辜の市民である)女性たちを兵士たちがレイプすることは、侵略者の優位を見せつける政治的意味合いをも持っていました。現在でも、敵地の女性たちへの性暴力は、紛争地では必ず起こる野蛮きわまりない現象ですが、これは『レイプ』という手段で、敵地の女性を支配すると同時に政治利用する。つまり敵地の女性を辱めることは、敵であるその女性の支配者である男たちを辱めること、というロジックです。
まったく受け入れがたい、前時代的なこのロジックは、女性を社会を形成する男たちの『所有物』とみなし、その女性たちを陵辱することで、武力と同様、敵の社会を跪かせる政治的『道具』に使うという、『人権』どころの話ではない非人道的なもの。しかし「戦争」そのものが、このような非人道的ロジックに支えられ、人権も多様性をも認めない非常事態であることは、紛れもない事実です。女性が兵士として戦争に赴くようになった現代でも、その女性兵士が男性兵士のレイプ被害 に遭うという事件もあとを絶たず、イタリアでも、カラビニエリ内の女性隊員への暴行が問題になっています。このように、女性は男性に支配されるべき、という『マチズモ(マッチョ思想)』なステレオタイプが、いまもなお、社会のあらゆる場面に蔓延し、残念ながら人々の心理に根深く残っているようです。
女性に暴行を加えることで優位性を誇示、支配しようとするマチズモの心理は、ホモセクシャルやトランスジェンダー、移民の人々にも同様に向けられ、自らの優位性を顕示する『差別』ともなります。したがって下院議長が言った「女性への暴力は、女性個人の問題ではなく、国、社会全体の人権侵害の問題だ」という意図の言葉は、まさに男女間の健全な権利の平等が保証されてはじめて、民主主義の基盤である、社会全体の平等と多様性、自由が得られる、ということだ、と解釈しました。
▶︎主張し、新しい文化を提案する女たちのメガデモンストレーション