Tags:

集積から空へ:大きく変容するローマの画家 サルヴァトーレ・プルヴィレンティ

Cultura Deep Roma Eccetera Intervista

記憶に根ざした『革命』

70年代のことだけれどね。わたしのシチリア時代の美術アカデミーの恩師にジュゼッペ・ジェフリーダという人物がいる。彼は共産主義者、ほぼアナーキストと言える人物だったんだが、シチリアに帰るたびにわたしは彼を訪ね、意見を交換し合っていた。ある晩、ピッツエリアに行く途中、海のほとりに建つ城の前で彼はわたしにこう言ったんだ。「サルヴァトーレ、教会に風が吹き込むのは構わない。しかし蝋燭の火を消してはいけない」つまり、彼はこう言いたかったんだ。「革命は起こさなければならない。それは義務であり、また我々の権利だ。しかし、社会の基盤である過去や伝統を壊すことは、我々の記憶を破壊することだ。記憶がなければ、革命そのものが成立しないじゃないか。我々は、自分たちのルーツを決して忘れてはいけないんだ」

スクリーンショット 2016-06-07 12.18.26

La terrazza di polifemo, 1997 olio su tela 30×35 cm collezione privata(1997年 ポリュペモス(食人種の一つ目の巨人)のテラス 個人蔵)

恩師がその夜言ったことを、結局わたしは、作品創りにおいて、今も踏襲しているということだよ。必要に応じて革命は起こすべきだが、そのルーツは決して忘れてはいけない。一般的にアーティスト、というと、いつも雲の中をふらふらとぼんやり生きていると思われがちだが、そうではないよ。むしろアーティストは大地にしっかりと足をつけ、自分の表現のすべてを認識していなければならない。自分の足元を確認していないとだめだ。そうでなければ、アーティストは手が入ることがない手袋のようなものになってしまうからね。

例えば60年代のアンディ・ウォーホール、ジャクソン・ポロックなどから始まったアヴァンギャルド・ムーブメントが素晴らしかったのは、彼らは自分たちのルーツを確実に認識していたからだ。わたしはポロックがイタリアに来た際に描いたデッサンを見たことがあるが、彼はイタリア中の美術館を巡って、ルネサンス、バロックの巨匠たちの絵を模写して、そこから学びを得ている。つまりわたしが言いたいのは、巨匠たちの作品も、ポロックの作品もルーツは同じところにある、ということでね。そしてそこを掴めば、どこへ行こうと構わないんだ。

ところで、わたしの精神を形成したシチリアの恩師が、もうひとりいる。それはわたしがカターニャの美術アカデミーに通い始めたばかりの時に出会った教師、フランチェスコ・ランノという人物で、今でも深く印象に残っている。彼は自分が受け持つ生徒たちの作品を評価するのに、3段階の方法を取っていた。あまり出来の良くない作品にはF・Lと彼のイニシャル、まあまあの出来には、F・Lanno、非常に良い作品にはFrancesco Lannoとフルネームでサインをするという方法だ。その出来事が起こった日、わたしが提出した作品には、すべてフルネームが書き込まれ、そのうちのひとつの作品には、2回もフルネームが書き込まれた。わたしが仕上げたすべての作品は素晴らしい出来だ、と褒めてくれたわけだね。その評価が終わったのち、彼は「さあ、校長のところへ君を連れて行こう」と言った。つまり、わたしの描いた作品が素晴らしいので、校長に報告しに行こうということだ。

スクリーンショット 2016-06-08 13.46.07

Ieri, 1990-2007 olio su tela 120×100 cm collezione privata(昨日 1990ー2007 個人蔵)

クラスメートから喝采を浴びながら意気揚々と校長に会いに行き、絶賛されて教室へ戻った時だった。教室へ戻った途端、その教師は僕を振り向き、こう言ったんだ。「校長への報告も終わったことだし、ここでこの絵を破りなさい」「え?」 そんなことを命じられることなど、まったく予期していなかったわたしは、彼の言った言葉の意味が理解できなかったよ。(破る? まさか・・・先生は冗談を言っているんだ)それでも教師は顔色を変えず、「さあ、破るんだ」とさらに強く迫る。たった今絶賛された絵を破れ、と言われるなんてとんでもないことじゃないか。わたしが躊躇していると彼はいよいよ語調を強め、「さあ、破りなさい。冗談ではないよ。君にはその勇気があるのか」と繰り返す。クラスメートが「先生、許してあげてください」「そんなこと言わないでください」とざわめくなか、わたしが「嫌です」と何度言っても彼は許してくれなかった。まだ少年だったわたしは、その理不尽な要求にどうしようもない憤りを覚えて、顔を真っ赤にしながら絵をビリビリと破くと、そのまま泣きながら教室を飛び出した。

結局、わたしは彼の授業には戻らなかった。終業の鐘が鳴ったので、もうそろそろいいだろう、とそっと教室へ戻ったときだった。タイミングが悪いことに、その教師に鉢合わせしてしまったんだ。わたしは思わず身体をすくませたよ。さらに暴力的なことを要求されるかもしれない。あるいは教室から出て行ったことを叱責されるかもしれない。しかし彼は「ブラボーだ。よくやった」と静かに一言だけ言うと、大きな掌を僕の背中へそっと当て、そのまま廊下を歩いて立ち去った。

この出来事を理解するのに30年、いや、もっとかかったかもしれない。あるいは今でも実際のところ、よく理解できていないのかもしれない。ただひとつ言えることは、彼があの日、僕を救ってくれたということだ。もしあの日、彼が僕にあんな無茶なことを要求しなければ、僕はどうすれば他の人から絶賛される絵が描けるか理解し、すっかり慢心していただろう。しかし彼はわたしのその慢心を見破って、さらに自分の世界を深めていくよう、前に向かって進んでいくよう、手助けしてくれたんだ。あの時彼がそれを教えてくれなければ、わたしはあの時点で自分をブロックし、前に進むという努力を怠ったことだろうと思う。

つまり、彼が教えてくれたことを、暗喩として、わたし自身が今も行っているということでもあるんだ。自分で自分の表現を破り捨てては、次へ進んでいく。3年前まで育んできたスタイルを粉々に破壊して、ゼロから始める。こうして継続的にスタイルを破壊していくことがわたしには必要なんだ。だからそれを教えてくれた彼に、わたしは深く感謝しているよ。

危険な街、ローマ

ローマという街は、ここを訪れるすべての人々を抱擁する街だからね。誰もがすぐに街に馴染んで、他でもない、あの「ローマ」にいる、ということをひしひしと感じる。さらにローマで生まれたわけでもないのに、昔からこの街を知っているような気分にもなる。しかし数千年の歴史を生きたこの街は、disincantata、つまりもはや何の魔法も通用しない街でもあるんだよ。ここに住んでいることは、今現在、数千年の時間を同時に生きることと同様だから、時間に関して、あまり大きな感動、そして関心もなくなるんだ。ありきたりのことを言えば、例えば友達と「じゃあ、どこかで会おうよ」「いいね。いつでもいいよ」「では、明日」「そうだね、明日にしよう」と約束しても、あっという間に時間が過ぎて、何ヶ月も、あるいは何年も経ってしまうということになる。ローマの時間に酔うと、たちまちに迷ってしまうということは、しっかり自覚しておかなければならないね。

確かにローマの街の隅々を読む術を心得ていたなら、こんなにファンタスティックな街はない。太陽の光、影の歪み、街角の風景の物語、もちろんそこに積み重ねられた時間、それらすべてを読むことができれば、ローマは夢のように楽しい街だ。しかし自分自身の足元を常に確認していないと、あっという間に街に飲み込まれて、自分自信が何者なのか忘れてしまう。わたしも「絵を描く」という情熱がなければ、自分を見失っていたと思うね。そしてそうなることは、意外に簡単なことなんだ。

13173390_1166253893408735_5989478515000429013_o

立ち寄ったホテルで、飾ってある自分の作品に出会って。

特にアーティストにとっては非常に危険な街だ。ローマははじまりはしたが、終わることのない都市なのだから。つまり永遠の中、求めても求めても、目的地へたどり着くことは不可能だ。確実な結論はどこにも存在せず、決して満足することがない。だからAutodisciplinatoー自分でディシップリン=規則、ルールを作って、そのルールに沿って生きるより他ないんだ。わたしの場合は、自分に課したルールは、ローマとの関係をきっぱり断ち切って、毎日スタジオで仕事をすること。もし、そのルールを守っていなければ、なにひとつ作品を制作することはできなかっただろうと思うよ。ローマでは何もしないで生きることは、そう難しいことではないからね。なぜならあまりに美しく、街を歩きまわり、あちらこちらで踊り続けることは全く苦にならないし、疲れもしない。例えば、今日もこの場所に来るのに、通常なら15分で歩いてこれるはずなのに、1時間近くかかってしまった。歩く途中、時々立ち止まっては風景を眺め、観察し、魅了される、その繰り返しだ。いいかい? わたしはこの道を何百回も歩いているのに、だよ。

そういうわけでこの3年間、わたしはローマの街を歩きまわることをしなかった。スタジオには毎日通ったが、ギャラリーを覗きに行くこともなかったよ。そうしなければ、たちまちローマに飲み込まれることは目に見えていたからね。

スクリーンショット 2016-06-07 12.21.35

La porta sul mare, 2000 olio su tela 190×170 cm collezione privata(海への扉 2000年 個人蔵)

アートと社会、そして政治

アート社会政治というものは常に結びついているが、同時にまったく関係がないとも言えるね。アーティストとして日常を生きる時、社会、政治を含める自分の周囲に漂う匂いを吸いながら生活しているわけだから、社会、環境の影響を、嫌でも受けるものだ。したがってアーティストは自分の周囲にある環境を吸い取るフィルターだとも思う。もちろん、これは絵に限らず、文学、建築、デザイン、すべての分野のクリエイターに言えることだと思うがね。知らず知らずにクリエイターに環境が入り込んで、それが作品に投影される。アーティストというものは、他の人々が見えないこと感じないことをも知覚していることが多いから。しかし、注意が必要なのは、作品に意図的に社会を反映しようとしているのではないということだ。あくまで自然に反映されるようになる、ということ。

作品はもちろん、アーティストの人生呼吸する空気読むもの巻き込まれた出来事社会コミュニティのありように影響を受ける。しかし同時にアーティストは、作品を創る過程、自分を取り巻くすべての要素を忘れ去るべきなんだ。それらが自ずと作品に投影されたとしても、作品となって初めて見えてくるものでなければならない。

例えばポロックやフォンターナを考えた場合、彼らは社会を思いながら作品を創ったわけではないからね。また、のちに社会に影響を与えたとしても、アーティスト本人は、社会のために、などという野心を抱いていたわけでもない。アーティスト自身の必然として、作品は生まれてくるものだ。このような意味においては、アーティストというのはエゴイストだね。作品を創る際に、社会問題を解決するなんて大義は決して持っていない。しかし同時に作品の持つセンシビリティ=繊細な感性がヴァイブレーションとなって、社会から共感を得るということが起こる。

完成された作品には、その作品が作られたプロセスというものは見えないものだよ。建築も同じだ。その建物に入って、どのように図面が引かれて、どのようなコンセプトがこのデザインを生んだか、などということは考えないだろう? そしてそのプロセスを匂わせないことが重要なんだ。絵描きであっても、詩人であっても、またクラシックのバレリーナであっても同じことだよ。軽々と舞うバレリーナの動きに、強靭な筋肉は見えない。肉体の重さも感じさせない。その「軽さ」が大切だと、わたしは思う。軽くなければ天には届かないじゃないか。

ジャーナリストがル・コルビジュエにこんなことを尋ねたそうだ。「マエストロ、一流の建築家普通の建築家の違いはなんだと思いますか」ル・コルビジュエはこう答えた。「一流の建築とひどい建築の差とは、数ミリの違いでしかない」わかるかい? この数ミリの違いで、その建築が偉大なものになるか、凡庸なものに終わるか決まるんだ。数ミリが人々を感動させる調和は、その違いの中に隠されているというわけだ。

アートとは、したがってその数ミリ、いや、もっとちいさい「差異」、かもしれないよ。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

RSSの登録はこちらから