『鉛の時代』と「死刑台のメロディ」:米国最悪のサッコとヴァンゼッティ冤罪事件

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イタリア語版Wikipediaによると、ヴァンゼッティは裁判の途中、移民当時の状況をこんな風に供述しています。

「移民センターの状況に驚愕した。移民はまるで動物にように選別され、アメリカに着いたばかりの痛み、その重圧をやわらげるような、やさしく元気づける言葉をひとこともかけられることはなかった」「何処に行けばいいんだ。何をすればいいんだ。これが『約束の地』。ガチャガチャ音をたてながら高架を走る汽車は僕に答えることなく、トラムもまた僕に注目することはなかった」

この供述を読みながら、現在、国境を越える移民、また戦禍を逃れて難民としてやってくる人々は、おそらくアメリカに渡ったヴァンゼッティと同じような気持ちで「約束の地」を踏んでいるのかもしれないとも、考えた次第です。

確固とした証拠がないにも関わらず、サッコとヴァンゼッティが逮捕された最も大きな理由は、彼らが当時アメリカ当局から「危険分子」としてマークされていたルイジ・ガレアーニが中心となった過激アナーキスト・グループに属していたからでした。つまり権力側の言うことをまるで聞かない、アナーキストたちへの見せしめスケープゴートだった、ということです。

2人とも賃金改正、労働条件改正の労働者のデモ集会には積極的参加。靴工房で週6日1日10時間も働いていたサッコは、集会でも盛んに発言していたそうです。またヴァンゼッティはあらゆる職を経て、最後の職場でストライキを敢行して解雇され、魚の行商をはじめています。

ヴァンゼッティは日頃からマルクスダーウィンユーゴーゴーリキーダンテトルストイゾラなどの書物に親しむ、勤勉な青年で、父親はそんな彼を将来は弁護士にしたい、とも望んでいたそうです。2人は第1次世界大戦徴兵から逃れるため、一時メキシコに越境していたこともあり、その行動も当局のマークの対象となりました。しかしアナーキストにとっては「国」のために武器を手に、殺すか殺されるかの戦争に出かけるなど、考えられないことです(イタリア語版Wikipedia)。

裁判では、事件当日の2人のアリバイを証言した証人がイタリア人であることで無効とされ、2人が護身用に所持していた銃を決定的証拠として(再捜査の結果、犯行に使われた銃ではなかったにも関わらず)結局、第1級殺人で「死刑」の判決を受けます。「真犯人を知っている」、と告白した囚人もいましたが、その証言も無視されました。

この裁判の信憑性を深く憂慮した、時の有力者や知識人たち、例えばアナトール・フランス、アルバート・アインシュタイン、ジョージ・バーナードショー、H.G.ウェールズらが、「サッコとヴァンゼッティ再審」の嘆願書に署名し、アメリカだけではなく、ロンドン、パリ、ドイツのいくつかの都市で大規模抗議デモ集会が巻き起こります。さらにベニート・ムッソリーニまでが、解放のための書簡をアメリカに送っている。このときムッソリーニは、サッコとヴァンゼッティのために使えるだけの外交ツールを使って「死刑」執行を阻止しようとしています。

この証拠書類はのちにNY私立クイーンズ・カレッジが  ”Journal of Modern History” に発表しますが、ムッソリーニは若い頃にアナーキストグループに接触していた時期があり、2人のアナーキストの無実を信じて、深い共感を覚えていたようだ、と分析されているそうです(コリエレ・デッラ・セーラ紙)。

そして7年間の収監、長い歳月を経て、多くの人々の嘆願、市民運動も虚しく、1927年8月23日、サッコとヴァンゼッティの電気椅子による「死刑」が執行されることになります。

「そうだ。わたしが言わなければならないのは、わたしは無実だということだ。ブレインツリーの殺人だけでなく、ブリッジウォーターの殺人(1919年の靴工房襲撃未遂事件)についても無実だ。またこれらの殺人事件だけではない。全人生において、わたしは今まで一度も盗みを働いたことはなく、人を殺したこともない。一滴の血もしたたらせたことはないのだ。これがわたしの言いたいことだ」とはじまるヴァンゼッティの死刑執行直前の演説は、いまだに語り継がれる名演説です。さらにサッコが息子ダンテに宛てて書いた手紙もまた、心うたれます。

「ダンテ、遊んでいるときの幸福を独り占めしたらいけないんだ。その幸福は少しだけ自分のためにとっておけばいい、ということを常に覚えておきなさい。助けを求めている弱い人たちを助けなさい。迫害された人々、犠牲者を助けなさい。なぜなら彼らこそが君の良き友達であるからだ。彼らはおまえのパパやバルトロメオのように闘う人々の仲間だからだ。昨日の闘いは全ての人々、全ての貧しき労働者たちの幸福と自由を手に入れるためのものなのだ」「そうだ。ダンテ、僕の息子よ。彼らは7年間もの間すでにそうしたように僕らを十字架にかけるだろう。しかし彼らはわれわれの理想を打ち砕くことはできない。その理想はこれから訪れる世代のために、さらに美しいものとして残り続けるだろう」

この『サッコとヴァンゼッティ』の冤罪事件を知ることは、権力の『暴力』のひとつのあり方、また現在もなお解決されることのない人種差別、移民の問題を考えるために、現在でも非常に重要なケースであるとわたしは考えます。しかし、この史実をリアライズしたジュリアーノ・モンタルドの映画には、さらなるメッセージメタフォライズされてもいることをも強調しておきたいのです。

この『死刑台のメロディ(Sacco e Vanzetti)』を最初にわたしが観たのは『鉛の時代』を調べはじめたころなのですが、この映画の構成があまりに『フォンターナ広場爆破事件』の状況に似ている、歴史が繰り返されていることに衝撃に近い印象を受けました。しかも制作は71年、イタリアの『鉛の時代』の幕開け、1969年『フォンターナ広場爆破事件』の2年後です。

『フォンターナ広場爆破事件』の直後、ミラノ警察署の取り調べ室の窓から落ちて、謎の死を遂げたアナーキストジョゼッペ・ピネッリのケースときわめて類似した事件が、「サッコとヴァンゼッティ」逮捕の背景にも存在しています。すなわち米国の秘密警察に足取りを追われ、ついには逮捕されたイタリア人アナーキスト、アンドレア・サルセードールイジ・ガレアーニ(サッコとヴァンゼッティがそのグループに属していた)の盟友ーが取り調べでひどい拷問を受けたのち、FBIビルの14階から墜落死しています。

その事件が起こったのは、サッコとヴァンゼッティが逮捕された同1920年のことです。ジュリアーノ・モンタルドは映画のなか、高層ビルから人が堕ちるシーンを反復し、そのたびに観客をハッとさせるのですが、71年にこの映画を観た人々も、わたしと同じようにサルセードをピネッリに重ね合わせたに違いありません。

また、『フォンターナ広場爆破事件』でもサッコ・ヴァンゼッティ事件と同じように、ピネッリの死に関する真相究明を求めて、700人の知識人、アーティスト、政治家、ジャーナリストなどがレスプレッソ紙に「ピネッリの死に関するカラブレージの責任」「国の組織、検察(特にシークレットサービスの不透明性)」を糾弾する署名を発表するという事態となってもいます。さらに『フォーンターナ広場爆発事件』の『実行犯』として逮捕されたのもまた、アナーキストピエトロ・ヴァルプレーダでした。ヴァルプレーダは72年に釈放されますが、公開された1971年の時点では、この映画は『フォンターナ爆破事件』のアナーキストたちの冤罪訴えていると考えられます。

映画の制作者たちの、2つの事件の関連性におけるオフィシャルな発言は見つからないのですが、実際、当時の多くの批評家たちは、この映画が明らかにピネッリに捧げられたものだと捉えています(ピエールルイジ・ザヴァローニ)。そして2つの事件には奇妙な符号の一致が、もうひとつ存在しています。ミラノ警察署の4階から転落死したピネッリは1965年、「サッコとヴァンゼッティ」という名を冠したアナーキストのチルコロ(クラブ)の創立者のひとりに名を連ねているのです。これはある種予言的というか、運命的ともいえる不吉な偶然です。

もちろん1920年代にアメリカで起こったアナーキスト転落死・冤罪事件と、それをなぞり、繰り返すように1969年にイタリアで再現されたアナーキスト転落死・冤罪事件に意識的なプロジェクトが存在していたかどうかは何の証拠もありませんし、それを安易に語ることはあまりにも短絡的、くだらない陰謀論に陥る可能性があります。

が、1902年にはあらゆる事件の前兆のように「全てのアナーキストは万死に値する」とワシントンポスト紙が書いているぐらいですから、米国はもちろんイタリア当局も、アナーキストたちこそ秩序を乱す「宿敵」と捉えていた、と考えるのは自然かもしれません。また、余談ではありますが、60年代から70年代にかけて、民主主義下、正当な『選挙』によりイタリア共産党が政府における議席を獲得していく過程で、米政府は国内のイタリア系アメリカ人にイタリア国内にいる親戚縁者に『共産党』には投票しないよう膨大な量の手紙を書かせたという、姑息な史実も残っています(RAI) 。なお、サッコとヴァンゼッティ事件に関しては、2人が死刑になってちょうど50年めの1977年、8月23日、イタリア『鉛の時代』騒乱の真っ最中にマサチューセッツ州知事がその冤罪を認め、メモリアルデーを設置しています。

畢竟、いまだ事件が進行中の71年、米国諜報が絡んだ国家ぐるみの謀略がオフィシャルには明らかになっていない時期に、過去に起こった米国での有名な冤罪事件をベースに、当時イタリアが置かれていた状況を映画という形世に問うた制作者の姿勢は大胆不敵だと唸ります。この映画はカンヌ映画祭のコンペに出品され、サッコ役のリカルド・クッチォッラが主演男優賞を獲得しています。ローマで封切られた際は、映画館が放火されボヤ騒ぎも起こったそうです。

イタリアの精神性には、忍耐に忍耐を重ねて沈黙する、という要素はありえません。どんな形であれ、その思いを表現しなければ気がすまない。したがって巨大なパワーの言いなりにはならず、理不尽な要求にはあの手この手で対抗し、決して屈しません。武器輸出では世界屈指でありながら、民主主義をフルに生かして「国民投票」を実施、「市民が望むのであればしかたない」とケロッとした顔で「反原発」を決定する慎重さを、イタリアは持ち合わせている。

サッコとヴァンゼッティの物語『死刑台のメロディ』は今年の夏、Cinema Americaの若者達が開催したトラステヴェレのピアッツァでのオープンチネマでも上映されました。過去の悲しい出来事を「考えられない。まったくひどい話だ」とイタリアは忘れ去らず、しかしことさらに憎悪することもなく、市民レベルでも繰り返し、淡々と次の世代に語り継いでいく。正直なところ、ときどきは鬱陶しく感じることもありますが、わたしは基本的に、イタリアの人々の、この反骨精神を好ましく思っています。

※有名なヴァンゼッティの演説のシーン。全編は、有料ですが、Youtubeで観ることができるようです。

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