ご承知の通り、イタリアも日本同様、第二次世界大戦の敗戦国です。しかし同じ敗戦国であっても、イタリアは世界でも10本の指に入る武器産出国であったり、NATOの一員であったりと諸々の状況は大きく異なります。もちろんイタリアは欧州連合を形成する1国ですから、地政学的な相違が大きいのですが、米伊の関係に関しては、1800年代後半からのイタリア移民に端を発する両国の愛憎が影響しているように思います。(タイトルの絵は Ben Shahn : Vanzetti e Sacco)
「イタリアの貢献がなければ、今のアメリカはなかっただろう。クリストフォロ・コロンボ(コロンブス)、ヴェスプッチ(アメリゴ・ヴェスプッチの名が『アメリカ』の由来ですし)、 ヴェラッツァーノ(現在の米国領に到達)がいなければアメリカは発見されることなく、ガリレオ、フェルミ(エンリコ・フェルミ)、ダヴィンチがいなければ今の科学とテクノロジーの発展はなく、ディ・カプリ、シナトラ、そして僕が大好きなソフィア・ローレンの魔法が音楽と映画の世界に渦巻いた。古代ローマ帝国建築、アートの影響を無視しては、今の都市は語れないし、ピッチリッリ兄弟がリンカーン・メモリアルを実現したんだ。それにマッキャベッリが存在しなかったとすれば、今の政治戦略がいったいどんなものになっていたか、僕にとっては非常に興味深い案件でもある。今のアメリカがあるのは、イタロアメリカンのユニークな貢献に支えられているからだ」
これはイタロアメリカーニ(イタリア系アメリカ人)のフェスタで、満場の喝采を浴びたオバマ大統領の演説です。
確かに、米国各界でのイタリア系アメリカ人の活躍は目覚ましいものがあります。映画界や音楽界のスターだけでなく、たとえば現在の(2015年当時)ニューヨーク市のビル・デ・ブラシオ市長も、1934年に同じく市長となったフィオレッロ・デ・グアルディア以来のイタリア系移民です。また、アル・カポネあたりから連綿と暗黒ドラマを紡ぐ、米国のゴッド・ファーザー関係のグループは世界に名を轟かせてもいます(しかしそれらの方々についてはここでは触れますまい)。
ところで話はちょっと逸れますが、コロンブスがアメリカ大陸に到達、この年を挟んで世界がドラスティックに変化を遂げた1492年の年号をそのままタイトルにした、ジャック・アタリの著書「1492」は、当時のヨーロッパ各地、世界の動き、たとえばイタリアのルネサンスの人々の様子、スペインの状況、ユダヤ人追放の経緯を淡々と綴って非常に興味深い『大航海時代』の幕開け研究となっています(当時の日本についても記述され、あれ? と首を傾げる部分もありましたが)。
またウォーラーステインは大陸発見後、16世紀にはじまるスペインの南米侵略から「ヨーロッパ普遍主義」がはじまったと見なしており、この『ヨーロッパ普遍主義』が、現在でもアングロアメリカン中心の『汎ヨーロッパ普遍主義』として、いまだに世界を席巻しているわけです。いずれにしてもコロンブスの大陸発見が(ご本人は遂にインドを見つけた!と大喜びしたとしても)、世界の歴史を大きく動かしたわけで、「始末に終えない未開の野蛮人を、武力を行使して矯正することこそ親切な行為」という、ジェノサイドをも厭わない、500年も昔に生まれた独善的な文化破壊、民族浄化のアイデアは、表面的にはまったく違う体裁に変化してはいても、今このときも世界を翻弄しています。
さて、オバマ大統領が褒めそやしたイタリア系アメリカ人の米国における功績の背景には、今から百数十年ほど前、正確には1880年前後、荒廃した政治状況の混乱のなか、立ちゆかない困窮と身に迫る危険から逃れ、シシリー、ナポリなどの南イタリアから『約束の地』アメリカに移住したイタリア人たちは、大統領の演説からは考えられない、ひどい仕打ちを受けることになりました。
当時の様子を語る古いドキュメンタリーを見ると、「ここに来れば夢と希望がある。パラダイスが待っていると思っていたが、それはまったくの間違いだったんだ」「お腹が空いたと泣く子供たちにご飯を食べさせることもできなかった。イタリアでもそんなひどい貧しさはなかったのに」「われわれは自分たちが働いて得た給料より高い食べ物を食堂で食べなければなかったんだよ」「鉄道で働いていた仲間がある晩から帰ってこなくなった。それきり彼は行方不明だ。殺されたのかもしれない」などとという生々しい証言がモノクロのフィルムに焼きついています。字幕がないと分からないほどの強い訛りのある方言で、その顔に生き抜いた時間がくっきりと刻まれた移民第1世代の老人たちの言葉は、胸にせまります。
1900 年代。フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」の背景ともなった、夜のないアメリカの都会には華々しいサクセス・ストーリーの予感が満ち溢れていました。ちょうどそのころ、より豊かな、安全な生活を願って移民してきた約60万人のイタリア人たちに与えられた職業はといえば、Muratore(ムラトーレ:左官)、鉄道建設、ビル建設など、危険が伴う過酷な重労働でした。
しかもクー・クラックス・クランという、白人至上主義の秘密結社KKKが幅を利かせていた、当時のアメリカの(当局も含め)人種差別は熾烈をきわめ、イタリア人、黒人、ヒスパニック系、アジア系、ヘブライ、カトリック教徒などの「野蛮人」は有無をいわせず差別対象となり、アメリカ人と同等の権利は認められず、些細な出来事から、警官に射殺された人々もいます。また、イタリア人に関しては思想犯として収監されたのち刑務所での拷問が極限に達し、死に追いやられた人々の記録も多く残っているそうです。(RAI)
しかしながら、このような過酷な状況下に置かれたイタリア移民たちは、決して泣き寝入りしていません。沈黙して耐え続ける、という姿勢はイタリア人にとっては美徳ではないのです。わたしがいままでのイタリア暮らしで観察したところ、イタリアの人々は、どのような状況下に置かれても、周囲に順応することなく、きわめて明確に自己の権利を主張、しかもあっという間に家族的なグループを形成する傾向にあります(グループ内ではてんでばらばらの意見の相違があったとしても)。
事実、当時のイタリア移民たちは一丸となり、過酷な労働条件の改善、賃金への不満をめぐり、各地で抗議行動を敢行。アナーキスト、社会主義者たちが中心となり、地下政治活動のためにイタリア人政治コミュニティを形成し、さらにエスカレートして資本家、政府要人を狙った殺害計画、爆弾騒ぎをも起こしています。したがってイタリア人アナーキスト、社会主義者と見なされた人々は当局から危険視され、シークレット・サービスから常にマークされていました。これらの暴力的な反発はともかく、現在のアメリカのLabor Union(労働組合)はこの時代のイタリア人労働者の活発な抗議、政治活動のコンセプトが基盤となっているそうです(RAI)。
一方、1969年以降の冷戦下のイタリア国内、一般の学生が武装するという、激しい市民戦争にまで発展したイタリアの『鉛の時代』には、たとえば『フォンターナ広場爆破事件』で謎の死を遂げたジョゼッペ・ピレッリをはじめ、国内極右勢力、CIAなどの国際諜報入り乱れた謀略に、多くのアナーキストたちが翻弄されています。
「アナルキア」(ギリシャ語で指導者不在、国家不在)という、トーマス・モアの「ユートピア」を、先人である思想家たちがさらに深化させた思想は、文脈によっては、無政府主義、無秩序主義、ただ過激で暴力的、ネガティブな政治思想、単なる『カオス』主義と捉えられる場合が多いのですが、その思想は時間を経て多種多様に発展、平和主義派から蜂起派まで存在し、一概には説明のつかない複雑な思想体系をもっています。確かに権力側にとっては『無政府』『主人を持たない個人主義』を謳う、あやうく、悩ましい思想には違いなくとも、市民の側から考えれば、そう簡単にはジャッジできない側面も多いのです。
ざっとした流れしか理解していないのですが、イタリアのアナーキズムはナポレオン的支配の失敗から1850年あたりに思想家たちに語られはじめ、1864年にはその思想の産みの親のひとり、ロシアの革命家、バクーニンがイタリアに滞在、イタリア統一を果たしたガリバルディと親交を持つなど、多くの若い急進派、社会主義者に影響を与えています。
バクーニンは「国家という形式は常にブルジョアの道具である。またいずれにしても、共産主義はプロレタリアートによる一党独裁でしかない」と、マルクスと激しく議論した経緯があることで有名です。やがてフィレンツェをはじめとする中央イタリアを中心にアナーキズムが根づき、その後もカリフィエロ、コスタ、マラテスタなどの思想家が現れ、イタリア独自のアナーキズムが発展していきました。
「アナーキーの理想は、誰からも命令されない、政府の存在を認めない、というものだ。あらゆる権力から自由であり、自分自身の方針を決めるのは自分自身しか存在せず、誰ひとり、他の誰かのために何かを決定することはできない。そのためにはある意味、成熟した大人の認識がなければならない」(アスカーニオ・チェレスティーニ:ドラマツルギー、映画監督)もちろん、混沌とした時代のアナーキーレジスタンスは、政府の要人を狙って爆弾を仕掛けたり、権力者、資本家を殺害したりと、アナーキストたちは当局と激しい攻防戦を繰り広げ、各国の政府から無条件で危険視されていたのも事実です。「権力側の暴力が、ほぼメカニックにアナーキストたちの爆弾による攻防を生んでいたんだと思うよ」(ダリオ・フォー)イタリアにアナーキズムが吹き荒れた時代は、ナショナリストたちも武装し、政府が武力で市民を抑圧する不安定な時代でした。
つまり、貧困から逃れようと次から次にイタリア人がアメリカに移民を決意し後にしたイタリアは、暴力的に市民を抑圧する「権力」には武装で対抗、「革命」を目指す、社会主義、共産主義、アナーキズムが次第に存在感を増していく時代でもあった。またこの時代、多くのイタリア人アナーキストたちも移民としてアメリカへ渡っています。
そんな背景を持つ時代。米国の裁判史上最悪の冤罪事件と言われる『サッコとヴァンゼッティ事件』が起こることになりました。この事件の経緯はジュリアーノ・モンタルド監督がイタリア・フランス合同プロデュースで『死刑台のメロディ』(イタリア語題: Sacco e Vanzetti ) として映画化し、1971年に公開されています。この事件を描いた映画は、エンリコ・モリコーニが作曲、ジョーン・バエズが歌った映画の主題歌『Here’s to you』をはじめ、その後も各国で多くのミュージシャンのテーマとなり、また作家たちの戯曲、エッセイに描かれることになりました。
さらには多くの詩、たとえばアレン・ギンズバーグもその詩『アメリカ』のモチーフとして事件に言及しています。今までに世界で多くの人々が語ってきた重要な冤罪事件であるし、日本語版Wikipediaにも概要が記述されているので、ここでは簡単なストーリーを述べるのみに留めることにします。
事件は1920年、4月15日にマサチューセッツ州南ブレインツリーの靴工房で起こった強盗、殺人事件からはじまりました。その日車に乗ってやってきた5人の男たちは靴工場の会計係とガードマンを殺害、18000ドルの現金を奪って逃走したのです。
そしてその犯人として当局に逮捕されたのが、魚の行商人をしていたバルトロメオ・ヴァンゼッティ(Bert)と靴職人のニコラ・サッコ(Nicola)でした。両者ともに1908年、ヴァンゼッティは20歳、サッコは18歳の時にイタリアからアメリカに移民、英語も完全には喋ることができないイタリア系アメリカ人でした。2人は無実を主張し続けましたが、当局側はトリックをも含める証拠の数々を提示。裁判は2人に不利な方向へと一気に進行します。