日本では、もはやマニア、あるいは研究者以外には、あまり語られることのないピエール・パオロ・パソリーニですが、イタリアにおけるここ数年の、特に若い人々の間でのパソリーニ人気の高まりには目を見張るものがあります。今年2015年、彼がオースティアの沿岸、水上機停泊地で惨殺されて40年を迎えた11月2日の命日、ローマはもちろんイタリア各地でパソリーニ関連のイベントが開かれ、新聞、TVのマスメディアも大きく特集を組みました。
ローマに来る以前のわたしは、パソリーニの最後の映画、「Salò o 120 giornate di Sodoma (サロ、あるいはソドムの120日間)」のあまりに暴力的でスキャンダラスな表現が受け入れられず、結局最後まで映画を観ることができなかったというトラウマもあり、この詩人に今ひとつ興味を抱くことができませんでした。
「ベルリンの壁」崩壊以降、世界の緊張対立が徐々に解消しつつあるかのような楽観的な空気が漂い、バブルがはじけたあとも、表面的にはいまだ豊かでポストモダンな価値観があたりまえに覆う日本から来たわたしには、パソリーニの作品から押し寄せる、哀しく絶望的な活力、あるいは過酷なリアリティ、人間の「はらわた」が、実感としては果てしなく遠い場所、遠い時代にあるような気もした。当時のわたしの感受性には、映像にクリプト化された、彼の霊感に共振する波長が欠けていました。
ところがローマに来て、ほどなく友人になったパソリーニ心酔者のひとりに「ローマにいるのに、パソリーニを全然知らないなんて、目を瞑って生きていることと同じだよ。ローマのあちこちに彼の痕跡が残っているんだからね。いや、パソリーニは生きていると言ってもいい。ローマに100年いるのにカラヴァッジョの作品をまったく観なかったことに等しい」と助言され、その日のうちに英語と対訳になった「Roman Poem」をフェルトリネッリ書店に買いに行ったという経緯があります。それでもその詩集を読んだ当初は、パソリーニが生きた時代をおぼろげにしか知らないうえ、イタリア語の音律の美しさ、特殊な言葉遣いも理解できず、何とか意味を追うのが精一杯、やはりあまりピンと来ないまま本棚の片隅にしまいこみ、長い間、そんな詩集を持っていたことすら忘れてしまいました。
パソリーニの凄さが少しづつ分かってきたのは、それから数年後のことでしょうか。友人に勧められるままにパソリーニ映画を観たり、エッセイを読んだり、詩を読んだりするうちに、やがて霧が晴れるように、その超人的な「天才」、彼が描く人間の生命力と性、美醜、善悪を超える包容力が次第に理解できるかのように思えてきたのです。さらに時を経て、ある種「預言的」ともいえる、時代を的確に見通すヴィジョン、洞察力を実感するにつれ、「まるで神業だ」と戦慄に近い感情を持つに至ることになります。パソリーニの魔力は、こうしてじわじわと、罪深い性を持つわれわれの感性にしのびこみ、逃れられないよう鎖につなぐのです。
しかしながら、わたしがこの天才に深い興味を持ちはじめたころのローマにおけるパソリーニの評価は、知識人、一部の政治家、反議会主義の占拠者たち、芸術家、映画関係者、ファナティックなパソリーニファンの間では揺るぎないものであっても、現在ほどの熱狂や、若者たちの強い支持はなかったように思います。
それがここ数年、ローマのPalazzo delle Esposizioni (ローマ市立美術館)で、肉筆原稿、手紙、彼自身が描いた絵画を含める大展覧会が開かれたり、Willem Dafo(ウイレム・ダフォー)がパソリーニの最後の日を演じた、アメリカ人映画監督Abel Ferrara(アベル・フェラッラ)による『Pasolini』がヴェネチア映画祭に出品されたり(イタリア人からは酷評されましたが)、チネクラブ、チェントロ・ソチャーレも含めて、頻繁にパソリーニ関連のイベントが開かれるようにもなりました。また最近はローマでも盛んなMurales(ムラレス:グラフィティ)のテーマになっているのを、ここそこで見かけるようになり、いまやレストランのシェフまでが、パソリーニの言論を引用して、自らの人生を語るほど、ポピュラーな存在となっています。
没後40年という節目のせいも、もちろんあるのでしょうが、パソリーニがこのように、にわかに再脚光を浴びた背景を考察するにあたり、長年の心酔者に尋ねてみると「まあ、現政府が左派であるということも理由のひとつだが、なんといっても時代がついにパソリーニの言論に追いついたからだろうと思うよ。それに現在の移民や難民が多く住むローマ郊外の状況は、パソリーニ作品の視点の重要さを再確認させる。いや、パソリーニが遺したものは、時間には関係なく『普遍』とも呼べるから。人々がやっとそれに気づいたというところかな。そうだよ、『貧しきものは幸いなり』ということだ。それに惨殺された彼の死のあり方は『殉教』をも想起させるからね。自分を護ることなく常に既成の巨大な権力と闘い、決してその生き方を変えなかった男の『受難』は、僕たちカトリック教徒にとってはキリスト、あるいは聖人をイメージさせるんだ」と、意外に理性的な答が返ってきました。わたしも「なるほど」と頷いた次第です。
実は、小説「パッショーネ」の中程に、パソリーニの言論、主張、また殺害の謎についてはいくらか書いているので、ここではなるべく重複を避けようと思いますが、彼が「預言者」、ヴィジョナリーとして、現代人を驚かす数多くの洞察を遺していることは、もはや周知の事実です。そこで、その実例を挙げてみようと、いくつかの詩をこの数日何気なく読み返して、改めて慄然としました。「Profezia:預言」と名付けられたーAli dagli occhi Azzuri(青い目をしたアリ:『アリ』はアラブ、イスラム教徒に多い名前)を物語ったジャン・ポール・サルトルに捧げるーという有名な献辞からはじまる詩です。
Profeziaは62年、パソリーニが地中海をはさむ南北の葛藤、キリスト教、マルキシズムの連関を熟考している時期に書かれた、そもそもは少し長めなのですが、強い印象を放つ後半のみが引用されることが多い詩です。また前半は、聖書的とも言えるトーンで、無味乾燥に荒れたカラブリアの地の描写からはじまり、詩人がイメージするキリスト(un figlioー子)と、南イタリアの貧しい人々、北イタリアの工場で働く貧しき労働者の闘争ーマルキシズムの連関をメタフォライズしつつ綴られているので(Peter Kammerer)、詩が書かれた時代、背景を知らなければ分かりづらくもあります。したがってここではわたしも後半のみを引用することにします。
「ひたすら続く多くの息子の、その息子であるひとり、青い目をしたアリが、アルジェリアからたくさんの仲間とともに船に乗って、地中海を渡ってやってくる」と、淡々としたトーンから動的に勢いを変えるその詩の後半は、現在の「エクソダス」、アフリカ、中東からの移民、そして難民の方々をイメージさせ、SNSなどネット上でも「パソリーニはこんなことも預言している」と話題になることも多い部分です。
「アジアのサロンを纏い、アメリカ製のシャツを着た何百万もの人々が、クロトーネ、パルミ(いずれもカラブリアの海辺の地域)に到着するだろう」と、詩人はその様子をリアルに描いている。その移民たちを見た、荒廃した地、カラブリアの貧しき人々は、「ほら、ごらん。古い兄弟たちだ。彼らは息子たちとパンとチーズと共にやってきた」と言い、地中海を渡って来た者たちは「クロトーネ、パルミに上陸し、ナポリへ、バルセロナへ(スペイン)、サロニッコへ(ギリシャ)、マルシリアへ(フランス)、悪の渦巻く都市へと向かう」
「常に控えめで、常に弱々しく、常に内気で、常に最悪の状況にあり、常に罪人で、常に服従者で、常に力ない」その者たちは、「法律の外に法律を作り、世界の下に世界を作り、ひとつの神の下、神の僕となり、王たちの殺戮に歌い、ブルジョアの戦争に踊り、労働者の闘いを懇願する」。
「青い目をしたアリ」に率いられた者たちを「生気と天使、ネズミと蚤、古代の源とともに、Williya(オスマントルコ)の眼前を(彼らは)飛んでいくだろう」と、パソリーニは貧しく、初源的な、つまり無垢な天使と捉えている。ちなみに、多くの人々が当時のパソリーニがこの詩に描いた「青い目をしたアリ」を、彼が愛し、初期の作品で多く描いたローマの貧しい地域に住むルンペンプロレタリアート、生き抜くためには犯罪も厭わない、手に負えない少年たちに重ね合わせたことは明白です。実際、現代の「アッカトーネ」は、仕事がなく、社会に顧みられることなく郊外に置き去りにされた移民の青年たちでもあります。しかしながら50年以上経った今、この光景が暗喩としてのみならず、現実の「エクソダス」として、彼の詩が語るままに実現するとは誰も予想しなかった。
「青い目のアリの背後で(彼らは)ー強奪を実行するために地面のなかから這い上がりー殺戮を実行するために海の底から浮き上がり、剥奪を実行するために高い天から舞い降りるー労働者の仲間たちに生きる歓びを教えるためにーブルジョアに自由の歓びを教えるためにーキリスト教徒に死の歓びを教えるためにーローマを破壊し、その廃墟に古代の源を植えつけるだろう。そして教皇とあらゆる秘蹟は、風になびくトロツキーの赤い旗とともに、西へ、北へとまるでジプシーのように彷徨うのだ」
つまり、彼らは欧州の貧しき者たちと連帯して「革命」を起こすだろうというのです。そのガイドとなるのがカトリックの教皇で、具体的には、その親しみやすさと微笑みからPapa Buono(善き教皇)と呼ばれたジョヴァンニ23世を指しています。また「トロツキー」の旗は、もちろんパソリーニが深く傾倒したマルキシズムにおける「自由」をシンボライズしていますが、と同時にキリスト教における「異端」をもメタフォライズしていると考えられています。
戦後の欧州を席巻する合理主義、消費主義、いまだ根深い階級主義と植民地主義に極限の貧しさを強いられるアフリカのルサンチマン(ルンペンプロレタリアート、労働者たちの闘いと連帯して)が、欧州を変革させる希望として押し寄せるという夢を、詩人が抱いていたことは間違いありません。常にインド、アフリカなどの第3世界に魅せられ、深い愛情を抱いていたパソリーニは、インド、アフリカを旅して撮ったドキュメンタリー、エッセイをも多く残しています。
もちろん実際には、パソリーニが考えたように地中海の向こうから訪れた者たちと労働者たちの連帯による革命は実現していませんし、世界はもはや彼が表現する武闘による革命を欲していませんが(違う形の平和的変革があったとしても)、教皇が変革のガイドとなるというアイデアは、多少希望的観測を交えると、フランチェスコ教皇が現れて、あながち詩人の見果てぬ夢には終わらないかもしれない、と暗示的にも思えます。また、海を渡ってきた者たちを愛情と喜びで迎えるというパソリーニのProfezia:預言は、現在の欧州にとって重要な姿勢だとも考えるのです。
以下のリンクは、オスカー外国人映画賞を受賞した『la Grande Bellezzaーグレート・ビューティー:追憶のローマ』の主人公を演じたトニ・セルヴィッロがこの詩を朗読した映像です。
なおかつ、パソリーニのヴィジョナリーたる所以の、さらなる裏付けとして例に挙げられるのは、最近のヴァチカンの価値観の大変換でしょうか。2014年、7月、ヴァチカンが発行する新聞「オッサルヴァトーレ・ロマーナ」が、パソリーニが「マテオによる福音書」を64年に映像化した「Vangero secondo Mateoー奇跡の丘」の映画制作50年を記念して、「キリストを題材にした映画では、おそらく最もすぐれた映画である」という記事を載せました。
これには誰もが「ヴァチカンがパソリーニの映画を最もすぐれていると言っている?」と驚き、「教皇がフランチェスコになってから、ヴァチカンは思い切ったことをする。快挙だ。しかしパソリーニが神の国へ招かれるとは!」と各種メディアでも、SNSでも感動の声が上がりました。 『マテオによる福音書ー奇跡の丘』はキリストを、反フランコ政権の労働組合に属するスペイン人青年が、「パッショーネ(キリスト受難)」のシーンでは、パソリーニの実の母親であるスザンナ・コルッソ・パソリーニがマドンナ役を演じたという映画です。オッサルヴァトーレ・ロマーナが記事を書くということは、つまり教皇庁の発表ということでもあります。
「サローSalò o 120giornate di Sodoma」「Teorema(テオレマ」の監督でもあるパソリーニ映画の50年を、教皇庁がパブリックに祝福するということは、ヴァチカンにおいては革命的とも言えることです。パソリーニは同性愛者であり、倫理を逸脱した反逆の詩人であり、攻撃的でスキャンダラスな発言や行動で絶えず訴訟が起こり、右翼グループに恫喝され、教会から糾弾され続けた人物でもあります。
「マテオによる福音書」の前年、ロベルト・ロッセリーニ、ジャン・リュック・ゴダールらとともにオムニバスで製作した映画「Ro.Go.Pa.G」の、オーソン・ウェールズを配したパソリーニのエピソード『ラ・リコッタ』は、その表現がカトリックを著しく冒涜していると教会に訴えられ、封切りと同時に検察から差し押さえられたという謂れもあります。その裁判ではパソリーニに禁固4ヶ月が求刑され、最終的には「無罪」となりましたが、その後の素行、言論、映画表現も含め、教会との確執は並々ならないものがありました。そのかつての敵、ヴァチカンがパソリーニの映画を「最もすぐれたもの」と評価する日が来ることを、当時の人々はもちろん、ヴィジョナリーであるパソリーニ本人すら、まったく想像できなかったはずです。