既存の共産主義の弱点を補うカトリックのDNA
「70年代、80年代をまったく知らないイタリアのティーンエイジャーは、『鉛の時代』に起こった、たとえば『フォンターナ広場爆破事件』や、『デッラ・ロッジャ広場爆破事件』などの凄惨なテロ事件はすべて『赤い旅団』が起こした、と考えているようだ。この事実に衝撃を受け、『フォンターナ広場爆破事件・イタリアの陰謀』を撮ることに決めたのだ」とマルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督は語っています。イタリアの新しい世代の子供たちも、やはり自国の近代史をほとんど理解せず、遠い時代に起こった、自分とは関係のない事件の数々だとしか捉えていないようです。
実際はその時代、イタリア国内外の諜報エージェントの合意の元に構築された『緊張作戦』下、大規模に張り巡らされたオペレーションで社会不安を煽られ続けていたわけで、むしろ極左グループ『赤い旅団』という武装極左グループが結成される決め手となったのが、国家中枢にいる人物、軍部、極右グループの共謀による計画的殺戮事件と位置付けられる『フォンターナ広場爆破事件』と捉えられています。しかしながら、その時代を知らない子供たちが、どのようなテログループかは曖昧にしか知らなくても、『赤い旅団』だけは知っているほど、そのテログループの名は社会に刻み込まれた存在ではあるわけです。
そして『赤い旅団』という名に条件づけられた、その「危険極まりない狂気の殺人集団」というイメージは、調べていくうちに、どうもしっくりこなくなってきます。初期のころの彼らは、『革命』こそが正義と信じ、戦後イタリアを支配した「多国籍企業による、米国型帝国資本主義経済の占領」の奴隷と化した市民を解放、「集合的」で「平等」な自治で、よりよい社会を築くという、強い信念と野心を真剣に抱いていた。
また、「自由」を求めて闘ったこの時代の若者たちには、マルクス・レーニン主義のもと、「プロレタリアートによる専制主義」を実現したソ連や中国が、実際は「自由」も「多様性」を認めない、石を投げればスパイに当たる、密告だらけの粛清と抑圧に満ちた『全体主義』だという認識はなかったのだと思います。その時代、東側の内政情報は、ほとんど西側には入ってきませんでした。
さらに『赤い旅団』に関して何より特筆すべきことは、アルベルト・フランチェスキーニが「赤い旅団にはカトリックのDNAがある」、と語っていることです。事実、カトリックの流れから政治活動に加わった初期のリーダー、レナート・クルチョは、「歴史におけるはじめての共産主義者はイエス・キリストだった」とも発言しています。彼らは過度のイデオロギー主義で政治プロパガンダに焦点を定める、既存の共産主義のあり方そのものに弱点を見出し、『革命』とは、政治とイデオロギーのペテンに騙される現代の市民の生活を根底から変えることだと考え、社会的弱者たちへと注意を向けることになります。
このヴィジョンは、おそらく『マタイによる福音書ー奇跡の丘』を撮影した、パソリーニと近いのではないかと思いますし、カトリックのDNAといえば、かつてファシスト政権に対抗、銃を持って闘ったカトリック僧パルチザンが、意外に多く存在したことも事実です。
結成当時から74年あたりまでは、『労働者の力(トニ・ネグリ)』『継続する闘争(アドリアーノ・ソフリ)』『マニフェスト(ヴァレンティーノ・パルラート)』、『10月22日(アナーキスト・グループ)』と、プロパガンダの巧みさは別として、他の武装を謳う極左グループと『赤い旅団』の間には、ほとんど差異はありませんでした。それが突然血まみれのテロ集団のイメージとして社会に刻み込まれるのは、初期の執行幹部、レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニが逮捕され、クルチョのパートナーだったマラ・カゴールが死亡、そのあとを引き継いだマリオ・モレッティが執行幹部となってからのことです。その変質は、『赤い旅団』そのものが、まったく違う集団に変化したかのような印象すら受けるほど大きなものです。
その『赤い旅団』のそもそものはじまりは、レナート・クルチョ、マラ・カゴール、コラード・シミオーニが、トレント大学の政治運動から、アルベルト・フランチェスキーニがレッジョ・エミリア(パルチザンの伝統が色濃い地域)のイタリア共産党パルチザンの流れから、マリオ・モレッティ、アルフレッド・ボナヴィータがSit Seamense(シット・シーメンス)などが大企業の工場労働者の流れから、と極左運動の3つの流れのメンバーが集まって、前身となるCPM (Collettivo Politico metropolitano)を結成した1969年まで遡ります。
青年極左グループや往年のパルチザンたちが、当時のイタリア共産党党首ベルリンゲルがモスクワの68年チェコ侵攻を批判したことに決定的な反感を抱き、イタリア共産党をブルジョワ、米国に懐柔された軟弱な政党と見なし、彼らには『革命』は任せておけない、と憤っていた頃の出来事です。
さてここから、初期の執行幹部であったアルベルト・フランチェスキーニが出所して、何年もの時間を経て、少しづつ明るみに出た事実、記憶の破片を照らし合わせながら『赤い旅団』の初期メンバーとして再構築した、つまりフランチェスキーニが紡ぐStoria(物語)をベースに、周囲の人々の人物像などを追っていきます。したがって、これが事実である、と当時のメディアなどで公表された内容とは異なる部分もあります。また、彼が語る物語には、数限りない人物の名が上がりますが、あまりに複雑になるため、重要と思われる人物のみを追いました。
「70年代、全ての出来事はひとつに繋がっているのに、全ての出来事がバラバラのままだ。われわれがそれを語れないのは、それらをひとつに結びつけるための言葉と証拠がないからだ。しかしわれわれは全てを知っている」
最後のインタビューでそう語ったレナート・クルチョは、刑期を終えて出所したのち、社会学者、作家として多数の本を出版していますが、過去については、固く口を閉ざしています。それは確固とした証拠が上がらないまま、過去を掘り起こすのは潔しとしない、という態度にも思えるし、終わってしまった曖昧な過去を詮索するよりも、いま、現在の問題について考察することが重要であり、有意義だ、と考えているようにも思えます。一方、フランチェスキーニは現在、アンチファシズムの精神のもと、移民や受刑者、薬物中毒者のサポートを行うイタリア全国規模のアソシエーションで、重要なポジションにつき弱者を助け続けています。
なお、このフランチェスキーニのインタビューには、数多くの疑惑に満ちた人物が登場しますが、誰よりも重要な秘密の鍵を握ると思われるのが、コラード・シミオーニという人物だということを先に記しておきたいと思います。米国情報サービス機関に協力していた事実からイタリア社会党から追放されたのち、トレント大学で政治運動をしていた学生たちの周辺に存在していたこの人物は、他のメンバーよりも10歳近く年上なので、学生として当時の政治運動に関わっていたわけではありません。
『赤い旅団』の前身であるCPMにおけるコラード・シミオーニは、武装精鋭グループを構成したり、さらにはのちに発覚する『スーパークラン』という非合法極秘武装グループをオーガナイズしたりと、当時から行動や言動に秘密と謎が多く、背景が見えない人物でした。『赤い旅団』が結成される直前、クルチョ、フランチェスキーニと決別したあと、一旦は消えますが、1976年にはパリに『ヒペリオン』という語学学校を設立しています。
あらゆる全ての経緯を飛ばして結論を言うなら、この『ヒペリオン』というパリの語学学校が、『秘密結社P2メンバー』と関わりの強い国際諜報ベースだった、いや、武器の調達など各国のテロをオーガナイズするためのセンターだった、あるいはその両方だったのでは? という根強い疑惑があり、のちに捜査され、関係者は取り調べも受けています。しかしそのたびに有力者から圧力がかけられたり、証拠が消滅していたり、と確証がないまま現在まで至っているのです。この『ヒペリオン』という語学学校については、のちに少し考察しなければならないことになるかもしれません。
なおインテリでもあることで有名なシミオーニは、アベ・ピエール財団の副代表としてローマ教皇(ヨハネ・パオロ2世)にも謁見するなど、テロリズムとは無縁の宗教者のような晩年を送っていますが、彼が『グランデ・ヴェッキオ(赤い旅団を操った人物)』であるという疑いは根強く、『タンジェントーポリ(1992年の大汚職事件)』で断罪されたイタリア社会党のベッティーノ・クラクシーも、1980年からシミオーニ=グランデ・ヴェッキオ説を主張していました。
余談ですが、2003年、ドナルド・サザーランドが主役を務めた映画『Piazza delle cinque Lune(五つの月広場)』は、『アルド・モーロ誘拐・殺害事件』の背後に見え隠れするパリの諜報機関(?)『ヒペリオン』の存在からインスパイアされたと思われるフィクションです。その映画のストーリーに、罪悪感に囚われ『アルド・モーロ誘拐事件』への関与を告白する余命短いシークレットサービスの手紙という要素が盛り込まれていますが、そのフィクションが『現実』になるかのように、2009年には実際、病魔に侵された元シークレットサービスであったという匿名の人物から、新聞社に手紙が送られてくるという出来事があり、そのエピソードを裏付けることになりました。
そういうわけで、イタリアの70年代を知らなければよく分からないストーリーで、映画としては「すごく面白い」というわけではなくとも、なかなかミステリアスな顛末を持つ映画です。
▶︎来たるべき日を青年たちに託したパルチザンたち