イタリアの70年代、つまり『鉛の時代』へと遡るうちに底なしの闇に迷い込み、「このまま先に進むことで何かが見えて来るのだろうか」、そして「これらは果たして本当のことだろうか、もし本当なら、こんなことが許されるのか」という不信感が交互に湧き上がり、なかなか踏み込んでいけなかったのが、欧州最大の極左テログループ『赤い旅団』にまつわるエピソードでした。一方で、自分とはまったく関係なさそうな遠い次元の話に思えても、わたしたちの生活そのものが、個人、社会、世界、と多次元のレベルで構築されていて、それを認識するしないに関わらず、実はあらゆる次元を同時に生きている、ということを再確認した次第です(タイトルの写真はBlog di Carmelo AnastasioのAlbumより引用させていただきました)。
1974年を境にエスカレートしはじめ、1978年の『元首相アルド・モーロ誘拐・殺人事件』という、イタリアにおいては『JFKの暗殺』に匹敵するショッキングな事件の後、メンバーによる常軌を逸したテロ事件が連続。現代イタリアでも『赤い旅団』と言えば、「節操なき狂った狼たちの群れ」として、社会を恐怖に陥れたテロリストたち、と認識されています。しかし調べれば調べるほどに、違う側面もあれこれと浮き上がってくるのです。
2015年の2月15日のWSJ紙日本語版は、「イスラム国と『赤い旅団』、西ドイツの『赤軍』RAFには驚くほどの類似点がある」と指摘しています。「当時の共産主義思想―実際の共産主義国家では生命の恐怖があったにもか かわらず―はより良い、より公平な、より純粋な社会を約束していたように 見えた。イスラム国のプロパガンダの最大の力は、今日の独自のユートピア的ヴィジョンでかつての共産主義と同じような感覚を与える能力で、欧州全域のうんざりした理想主義者、不適応者、冒険主義者らを引きつけている」という記事を掲載(ママ)。しかしこの指摘は、イタリアに暮らし、イタリア人の見地から捉えた70年代の歴史を、ほんの少し知っているだけのわたしでも、やや「こじつけ」に感じられました。
網の目のように張り巡らされた国際諜報の『東西スパイ合戦』が繰り広げられた冷戦下、イタリアでは当たり前のように語られる『グラディオ』、ステイ・ビハインドの存在をまったく無視しながら、したり顔で『赤い旅団』やRAFと『イスラム国』を比較するのは、あまりに安易な分析、片手落ちだ、と正直なところ思います。
そもそも『赤い旅団』とはどのような極左グループだったのか、そんな若者たちが現れた時代にはどんな背景があったのか、時代と場所の空気を体感していないわたしにはよく分かりません。しかしデモやストライキを繰り広げる学生運動や労働者たちの闘争に、突如として、映画にでも出てくるような極端にプロフェッショナルな精鋭武装グループが現れる、という現象は考えがたい不自然なことのように感じられた。そんな疑問もあって、『赤い旅団』を理解するには、その誕生以前を追わなければ分からないのではないか、と考えるようになりました。
なお、普段は記事の間に写真や動画を載せることが多いのですが、今回はその時代を少し共感したいと思い、1968~70年に流行り、当時の若者たちも、多分聴いたことがあるであろう音楽を載せていくことにしました。
いまさら『鉛の時代』を掘り起こすことについて
わたしがローマに住みはじめたのは、今よりは幾分真摯な態度で政治を語るベルルスコーニ元首相が、その勢力をみるみる増大させていた頃でした。そしてその頃のわたしはといえば、馴染みのお肉屋さんをはじめ、周囲の人々が日々、政治の話ばかりしていることに驚きはしても、かつてイタリアに深く刻まれた時代の傷跡を、彼らのなかに見出すほどの鋭さはなかった。イタリアの70年代の騒乱も、日本を含めて世界中で起こった学生闘争から生まれた混乱、ぐらいにしか考えが及びませんでした。確かに日本の60年、70年代にも衝撃的な事件がいくつも起こりましたが、市民の銃撃戦にまで発展した、というような話は聞いたことがありません。
ですからやがて時が経ち、たまにドキュメンタリー番組や、新聞で特集される70年代、『鉛の時代』のひとつひとつの事件が、大きなひとつながりの物語として全貌がぼんやり浮かび上がってくると同時に、「ええ!?」と大きな衝撃を受けたのです。あれこれ語られる、世界の「陰謀論」の数々をうすうす知ってはいても、基本的には「裏」の取れない話は信用しない、という方針であったわたしの、それまで抱き続けたイタリアのイメージは、多少おおげさに言えば「崩壊」、いや、イタリアだけではなく、「世界」に抱いていたイメージも同時に崩壊した、と言ってよいかもしれません。
「そんな説は陰謀論、フェイク、幻想だ」では片づけられない、社会そのものを動かす緻密な「国際オペラ」が、わたしたちの住む世界に存在するケースがある。そしてその、日常からはまったく見えない危険水域に、イタリアの多くのジャーナリストや司法関係者は果敢に飛び込み、何十年もかけて(そしていまだに)、過去に散らばりながら置き去りにされた欠片を拾い集める作業をしています。
もちろんイタリアにも、「すでに終わった時代だよ。いまさら『鉛の時代だ』なんて」と笑う若人たちも存在しますが、50年の歳月を経てもなお、その時代を描く映画や書籍、テレビのドキュメンタリー番組で当時の事件の詳細が語られ、新たな真実、告白が明るみに出る、という執拗な探求の理由も、今なら理解できるように思えます。冷戦下のイタリアが巻き込まれたグラディオという理不尽な状況や、『秘密結社ロッジャP2』の存在、国際諜報の暗躍、その時代の真っ只中からはまったく見えない、人工的に創出された大きな流れにいつの間にか巻き込まれてしまう、わたしたちが暮らす社会というものは、意外と脆く、危ういものです。世代が変わリ、社会が変わり、テクノロジーが変わっても、現在のような激動の時代はなおさら、現象を冷静に判断するためにも、いろいろな過去の例を振り返る作業が必要なのではないか、と考えます。
イタリアの『鉛の時代』では、その時代に起こったあらゆる重大テロ事件において、綿密な捜査が行われたにも関わらず、最終的には司法が機能せず、長い年月の裁判を経てもなお、主犯と目された、国家軍部とも通じる極右テロリストたちがことごとく『無罪』となりました。その時代を生きた人々にとっては、何が「真実」で「正義」なのか判然としないまま、誰もが前を向いて懸命に生きるうちに、多くの重大事件は、遠い昔に起きた夢のような現実となってしまいました。あらゆる事件の背景に諸説あり、いずれも確証がないために焦点が定まらず、多くの死傷者が確かに存在するにも関わらず、すべてが幻のように、遙か時の彼方の向こう、黒雲のように浮かんでいるという印象です。そして、たった50年前の戦後の歴史だというのに、誰にも「真実」が把握できないことは異様にも思います。
しかしさらに考えるなら、実はわたしたちが『歴史』と呼ぶ物語そのものには、そもそも「真実」などないのかもしれません。『歴史』というものは、後世の誰かが、自身の信条に基づいて、現存する文献や証拠品から、それぞれの時代の思想や倫理、文化や風俗を推測し、出来事の断片を巧みに紡いだ、もはや検証しようのない『物語』と言えるかもしれない。イタリア語では、『歴史』、『物語』、『筋書き』を、すべてStoriaと言いますが、語源学を調べると–もちろんそのあとに、それぞれの意味に沿った説明があっても– 第一項に、「人間の営みとそれに相互に関わる事柄を、リサーチ、探求し、ひとつの筋道に統一して再構築、その関連を評論すること」とあります。
さて、イタリア全土を震え上がらせた、この欧州最大の極左テロリストグループ『赤い旅団』については、数限りない書籍が出版され、映画が創られ、ドキュメンタリー番組が放映され、国際諜報の関与も含んでのあらゆる背景が研究され続けていて、誰の、どの説が真実なのか、あるいは真実に近い物語であるのか、わたしにはまったく判断がつきません。
出版されている元メンバーのインタビューを読んだり、ドキュメンタリーをも観てみましたが、もちろん、何らかの核心を把握しているメンバーがいたには違いなくとも、おそらくメンバーの大勢は、当時自分たちが何をしようとしているのか、何処へ向かっているのか、皆目分からないままに時代に押し流されたのではないか、とも考えます。
ともあれ、彼らとは世代が違うわたしは、全体主義を強いる古いタイプのあらゆる政治思想には興味がなく、また、戦争、テロリズムを含めるあらゆる「暴力」というものを、倫理的、宗教的、というよりは生理的に、まったく受け入れることができません。したがって、60年代の工場労働者階級の人々の闘争、学生運動のカオスを心情的には理解しても、『赤い旅団』をはじめとする当時のイタリアの新左翼グループが標榜した『武装革命』にまったく賛意を示すことはできません。
70年代の後半から彼らが起こした数々の事件に、市民たちは喝采をあげるどころか恐怖と絶望に突き落とされたわけですから、市民の同意なき『革命』は、ひとりよがりなユートピア幻想にしかすぎない。しかしながら、その、『ユートピア』を追い求めた彼らの理想主義の闘いが、時代を形成する劇的な「オペラ」のひとつの要素として巧みに使われた、あるいは利用された、という疑惑があるのであれば、「利用される方が悪い。彼らが馬鹿なのだ」とは決して思えません。
戦後の急激な日本の復興同様、第一次世界大戦の敗戦ののち、ルーズベルトが打ち出したマーシャルプランの恩恵を受け、物質的な見地からいえば、イタリアの市民生活は豊かに一変しています。パルチザンたちはともかく、「学生革命家」たちの親の世代である、戦争を終えたばかりの当時の社会を担う市民たちは、いまさらの『革命』など欲してはいなかった、と捉えるのが自然だとも考える。
ゲバラ、カストロが少数のゲリラ隊を率いて、道なき道を行き、ジャングルを駆け巡り、市民たちを親米独裁政権から華々しく解放したキューバの、権力機構のコントロールの網をくぐり抜けられるほどの緩みがある、市民たちの大きな不満と嘆きが充満していた状況と、イタリアは(そして日本も)大きく異なっていました。
さらに穿った見方をすれば、ゲバラもカストロも『革命』に成功したからこそ、英雄として伝説に残る偉人となったわけで、『キューバ革命』に成功がなかったならば、テロリスト、とまでは言わずとも、非常に真摯に革命を考えた「武装抵抗勢力」ぐらいの認識だったに違いなく、英雄として歴史に刻まれたかどうかは疑問です。
さて、大変長い前置きになりましたが、その後のイタリアを大きく変えた『赤い旅団』というテーマを扱おうという気持ちになるまで、わたし自身、長い時間がかかったし、それでもまだ充分に咀嚼できたわけではなく、多くの謎が残ったままです。しかし、極左武装テロの道のりを通らなければ、先へ進めないのも事実であり、グラディオー諸刃の刃の一方の刃は欠けたままになります。そこでとりあえず、実験的に、という気持ちを抱いて、イタリアを揺るがしたテロリストたちの物語を探しはじめようと思います。
この項では、まず、『赤い旅団』が生まれる背景を、ジャーナリスト、ジョヴァンニ・ファサネッラが、創立メンバーのひとりであるアルベルト・フランチェスキーニをインタビューした書籍、『Che cosa sono Le BR (赤い旅団とは何なのか): 2006』を軸に、イタリアの著名ジャーナリスト(94歳で現在も健在の)セルジォ・ザヴォリの『La Notte della Repubblica (共和国の夜)』と題されたTV番組及び書籍、ネットに上がっている『鉛の時代』のドキュメンタリー映像の数々、ロッサーナ・ロッサンダ(マニフェスト紙)、カルラ・モスカによる、モーロ事件の主犯として服役中 (とはいえ、最近はほぼ自由なようで、フランス制作のドキュメンタリーでは、車に乗ってインタビューを受けたりしていました)のマリオ・モレッティのインタビュー『Una Storia Italiana(イタリアのひとつの物語)1994年初版』を参考に、Storia − 歴史、物語を追っていこうと思います。
「テロリストの話なんて信用できない。小説じゃないんだから、こんな馬鹿げた話が現実にあるものか」と、一笑に伏されるかもしれませんが、このような証言もあるほど混乱し、不信に満ちた時代だということが少し伝わればいい、とも考えます。また、フランチェスキーニが物語るほとんどの内容、人物は、いまやWikipediaイタリア語版にも根強い疑惑として、多くの証言とともに挙げられています。さらには2016年、『モーロ事件に関する政府議会捜査委員会』でフランチェスキーニが証言した内容を、ラ・レプッブリカ紙が報道していることを付け加えておきたいと思います。
▶︎フランスの五月革命 そしてイタリアの68年