子供たちの叛乱:ラミィ、アダム、シモーネ、そしてローマにやってきたグレタ・トゥーンベリ旋風

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イタリアの、そして世界の権威ある大人たちが、謀略や政争やつじつま合わせに夢中になっている間に、子供たちはロジカルに冷徹な視線で世界を見つめ、「こんなことはおかしいんじゃないか」と声をあげはじめています。たった8ヶ月の間に欧州だけでなく、世界中のエコロジストのアイコンとなった16歳環境活動家グレタ・トゥーンベリを支持する子供たちはもちろん、この春のイタリアでは、ラミィアダム、そしてシモーネと、未成年の子供たちが次から次に世間を「ハッ」と驚かせ感動させる、あるいは大人たちの深い共感を呼ぶ出来事が相次いでいるのです。日々の生活に追われ、世間の垢にまみれた「わけ知り顔」の大人たちがすっかり忘れていた、まっすぐで無垢な彼らの信念が、われわれ大人たちの「汚れちまった悲しみに」まぶしい光を当てました。

たった今、イタリアに吹きすさぶ新しい『政治』の風

さて、子供たちの活躍に触れる前に、少し現在のイタリアの政治の有り様を俯瞰してみたいと思います。たった今の政局はといえば、5月末に開催される欧州議会選挙が間近になるにつれ、現政府を形成する2政党『同盟』『5つ星運動』間で、もはや単なる足の引っ張り合いにも見える「今までになく緊張した政府の危機」というプロパガンダ戦が繰り広げられているという状況です。

赤字国債が、音もなくじわじわと、毎週毎月増殖し続ける不穏なイタリア共和国だというのに、政権を担う2政党が国政をそっちのけに、まったく収拾のつかない葛藤を継続するなんて、無責任極まりないとしか言いようがありません。こんな光景を見ていると、かのロジャー・ストーンが主張したように、政治はやっぱりショー・ビジネス、という他ない、という気持ちになります。

にもかかわらず、現政府の対抗勢力である中道左派の中核、『民主党』はなかなか方向性が定まらないうえ、ウンブリアのメンバーの不正も発覚して、どこか弱々しく頼りになりません。「イタリアには、左派の政党はなくなってしまった。われわれにはどこにも投票する党がない」と、「そもそも左派」の人々は憂いを隠さない状況です。

しかしながら巷では、市民たちが繰り広げるアンチファシズム、アンチレイシズム、フェミニスト、トランスフェミニストムーブメントが、いよいよホットに燃え盛り、ローマでも毎日必ず何らかの抗議行動、あるいはイベントが開催され、新しいネットワークが日々誕生してもいます。したがって現在のイタリアにおける現政府に対抗する真の勢力を形成するのは市民たちであり、左派政党がいつの間にか、ふらっとそこに乗っかる、という感じでしょうか。

このような状況下、元ヴェネチア市長である哲学者、左派論客として大きな影響力を持つマッシモ・カッチャーリは「イタリアにおける今後の左派、右派の政治対立は、さらに過激に、急進的になっていくだろう」と分析しています。事実、イタリア各地では極右グループによるホモフォビア及びレイシズム・ムーブメントが、たびたび世間を震撼させ、そんな騒ぎが起こるや否や、アンチレイシズム、アンチファシズムの市民グループがいくつも駆けつけて抗議集会を開く、という具合です。

また、各種メディアの姿勢も右派、左派まっぷたつに分裂。その日の新聞のタイトルをざっと見ただけでも、両者間に燃え上がる反感、憎悪に油を注ぐ、扇情的なタイトルが並ぶようになりました。

さらには、右派連合の一角をなす『イタリアの同胞』からベニート・ムッソリーニの孫にあたる、カイオ・ジュリオ・チェーザレ・ムッソリーニが「国家主権、防衛、家族」を謳って欧州選挙に立候補するという、いくら何でも調子に乗りすぎなニュースも流れ、74年前に死に切れなかった魂が目の前に現れたような、いまさら感を市民の間に喚起しまた。そのムッソリーニの孫という人物は「自分の家族を恥とは思わない」と堂々と宣言したうえ、「ファシズムを悪とは言い切れない」と発言しており、戦後、イタリアが培ってきた価値観を、根底から否定しようと試みています。

そういえば最近になって、カイオ・ジュリオ・チェーザレの従姉妹、長年の『フォルツァ・イタリア』議員である、アレッサンドラ・ムッソリーニが、SNSでベニート・ムッソリーニを茶化したジム・キャリーに「祖父を侮辱するなんて許せない」と食ってかかる騒動もありました。

実際、少し前まではサルート・ロマーノ(右手を垂直の体に対し135°に掲げる、ナチ・ファシズムの敬礼)を公共の場所で実践しようものなら、わらわらとポリスが現れて厳重な注意を受けるのが常でしたが、最近は、あちらこちらの極右集会で普通に行われている様子で、「危険な兆候」と多くの人々を憂慮させてもいます。

戦後の混乱ののちのグラディオ下、共産主義を敵とみなす軍部、政治家、そして米国、英国、イスラエルの諜報、『秘密結社ロッジャP2が入り乱れ、当時、多くの市民の支持を勝ちとった共産党を徹底的に排斥。「国家」が絡む謀略とされる「緊張作戦」のもと、ネオファシストグループ、極左グループが、市民を震え上がらせる激烈なテロを応酬した『鉛の時代』を経て『ベルリンの壁』が崩れ去ったあと、イタリア政治の主流は極端なイデオロギーを捨て、中道へと向かっていきました。

もちろん右派、左派、両者の政治対立が消え去ることはなくとも、『政治』そのものが時代の主人公ではなくなった。『政治』にはもはや、若者たちが熱狂するような興奮も魅力もなくなり、グローバリゼーションという地球規模のゴールドラッシュと、時代を大きく変えるテクノロジーへと人々の関心は移っていったわけです。

ところが去年の総選挙での『同盟』の台頭が引き金となり、長かった中道時代をひっそりと生き延びた極右勢力たちがにわかに活気づき、イタリアは再び、急進的な『政治』の時代に突入することになったのです。

「生まれ変わった右派は、社会主義的国粋主義、アンチリベラル、そしてポピュリストで、市民に寄り添い、エリートたちからは距離を置いている。対する新しい左派は、フェミニスト、エコロジストであり、今までとは違う、経済的な差異、人種、性別に関わらず、平等に安全を確保できる政策を提案しなければならない。つまり新しい左派が主張しなければならないのは『イタリア共和国憲法』第3条に70年以上前に書かれている内容のことだ。新しい左派はエコ・ソーシャルでなければならず、つまり、環境問題、社会問題、人々の生活条件に矛盾した状況を作ってはならない」

前述したカッチャーリは、新しい右派と新しい左派は、過去の両者が提示した価値観とは違うタイプの主張のもとに、闘うことになるだろう、と予見しています。

※参照 イタリア共和国憲法 第3条

Art.3. Tutti i cittadini hanno pari dignità sociale e sono eguali davanti alla legge, senza distinzione di sesso, di razza, di lingua, di religione, di opinioni politiche, di condizioni personali e sociali, E’compito della Repubblica rimuovere gli ostacoli, impediscono il pieno sviluppo della persona umana e l’effettiva partecipazione di tutti i lavoratori all’organizzazione politica, economica e sociale della paese.

すべての市民は、性別、人種、言語、宗教、政治意見、個人的、あるいは社会的条件により差別されることなく、同等の社会的尊厳を有し、法の前において平等である。共和国の課題は、人間としての最大限の発展を妨げる諸々の障害を取り除き、すべての労働者の、国の政治、経済、社会機構への参加を実現させることである。

さて、そういうわけで、イタリアの政争は国政、市政レベルだけでなく、市民が普通に暮らす社会においても、だんだんに顕著な対立を形成しつつありますが、そんな重い風吹く春に、期せずして黎明をもたらしたのが、この項の本題である未成年の子供たちでした。その子供たちの英雄的行動を、大人たちはすぐさま「政治利用」しよう、と手ぐすねを引きましたが、彼らの子供らしい純粋さと賢明さ、いい意味での世間知らずな発言が、政治の世界を軽々と超えてしまったように思います。

ひょっとしたら未来は明るいのではないか、実はわれわれは杞憂しているだけではないのか、と明るい展望を抱かせる子供たちの出現でした。生まれたときからあたりまえにネットとハイテクで育った子供たちは、われわれには想像もつかない、シャープな判断力と豊かな感性、機敏な行動力を持ち併せているのかもしれません。

4月19日、ローマを訪れたグレタ・トゥーンベリとともに#Frydayforfuture、金曜日のストライキを決行した子供たち。

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