エニグマとしての死
作品を破格のキャッシュで売却して得たお金(あるいはカジノ?)で、貴族的に、まるでハーレムのように女性たちにかしづかれながら、創作に打ち込んでいたジーノ・デ・ドミニチスは、1998年11月29日に突如として亡くなることになります。そもそも重篤な病気を抱えていたという説もあり、直接の死因はおそらく「心臓発作」ということになってはいても、いまだに詳細は明らかになっていません。
たとえば美術評論家のアンドレア・ベッリーニは、流麗なジャガーに乗ったデ・ドミニチスが亡くなるしばらく前から、ローマの街中でピストルを探し求めていた、という証言をしていますが、もちろん、誰ひとりとして彼にピストルを手渡す友人はいませんでした。
死の直前、デ・ドミニチスは月刊誌の1ページを買って、自らの死亡広告を出す手筈を整えた後、ランチェロッティ宮のすべての女性たちに家を出るよう促し、描きかけの作品群を真っ黒に塗り、家具、所持していた写真や手紙、書類などをすべて破棄します。そしてその後まもなく、着衣のまま靴を履いて、ベッドに仰向けに横たわって亡くなりました
その死後、解剖が行われなかったため、実際の死因が何であったかは確認されることがありませんでしたが、作家の友人であった弁護士で美術評論家のイタロ・トンマソーニは、作家が亡くなる日の夜に電話を受け、作家の死に付き添ったことを告白しています。トンマソーニは、MAXXIの展覧会のカタログで「その夜、彼と一緒にいたのは、わたしの知らない女性だった」とその夜の様子を綴っているのです。
「緑色の布に包まれたギルガメッシュ自身(デ・ドミニチス)、途方もない焦燥に駆られながら、何も映っていないテレビの近くに座り、響き渡る声でこれまでの出来事の深遠さを語り、『ひとつのサイクルの帰結』を受け入れていた。自身の失踪のための手続きとして、最後の作品、文書、写真、未完の作品が破壊され、ナッセン(Naassenes)派、グノーシス派、フルカネッリ(錬金術)、ニコラ・フラメル(錬金術)、ユリウス・エヴォラとルネ・ゲノン、カリオストロの著作を保管していた秘密図書館も同様に破壊された。残ったのは、シュメールの宇宙論に関する、誰が書いたか分からない 1 冊の本と、手書きの、単行本のための引き裂かれたメモ(決して出版されることはなかった) だけだった。薄暗い中、彼の最後の狂言魔的な視線が女性像に向けられ、まさに終わりの恐怖の中で自らを捧げた」
その夜、デ・ドミニチスははじめてカタログを作ることに同意し、その著書として友人のトンマソーニを選んだそうですが、それは写真を一切入れない、文章だけで作品を描写する大変なボリュームの本、という突拍子もないアイデアでした。トンマソーニが「それは無理だ。自分には書けない」と言うと「じゃあ、(作品とは何の関係もない)旅の風景の写真を入れよう」と提案し、そのまま亡くなったそうです。その際、作家がトマッソーニに託したいくつかの作品の相続人は、従姉妹の女性ひとりだけでした。
それから12年の時が経ち、トンマソーニは約束通り、デ・ドミニチスのカタログを出版し、しかしそれはデ・ドミニチスのアイデア通りのものではなく、作品の写真が掲載された通常のカタログでした。いずれこのカタログを欲しいと考えてはいても、けっこうな値段のため、とりあえず欲しいものリストに加えた次第です。なお、そのトンマソーニが管理するフォリンニョのデ・ドミニチス・アーカイブにより常設された「Calamita Cosmica(宇宙磁石)」を抱く1700年代に建てられた建物は、整然と美しく、作品がゆっくり鑑賞できるうえに、未知のビデオも放映されており、かなり充実しています。
こうして「不滅・不死」を表現した作家自身が自らの死を演出し、ある意味存在そのものを消滅させ神話として時間を停止させた直後、作家の友人たちであるイタロ・トンマソーニ、美術評論家ドゥーチョ・トロンバドーリ、同じく美術評論家、政治家でもあるヴィットリオ・スガルビィなどがデ・ドミニチス・アソシエーションを設立し、何事もない静かな時が過ぎる間、国内外でいくつかのデ・ドミニチスの展覧会が開かれました。
少しずつ、その様子がおかしくなってきたのは、デ・ドミニチスが最後の展覧会を開いたモデナのギャラリー所有者、エミリオ・マッツォーリが亡くなってからでした(ジャンカルロ・ポリッティ)。このマッツォーリという人物は、ニューヨークのロングアイランドのグループ展で、ジャン・ミシェル・バスキアを見出したことでも有名で、バスキアの最初の個展はニューヨークではなく、イタリアのモデナで開かれたことを知っている人は、あまりいないのではないかと思います。
※2015年、ニューヨークのコンテンポラリー・アートセンターで開かれた展覧会の様子
さて、一連のいざこざの発端は2011年、作家の唯一の相続人である従姉妹パオラ・ダミアーニが、ヴェネチア・ビエンナーレの最中、カ・ドーロのギャラリーで開かれたデ・ドミニチスの展覧会『Teoremi Figurativi(具象の定理)展』のカタログに、「贋作と思われる作品がある」、と展覧会のキュレーターを務めていたヴィットリオ・スガルビィに警告を発したことでした。
デ・ドミニチスの30年来の友人で、作家についての本も出版しているドゥーチョ・トロンバドーリによると、ダミアーニが発したのは「イタロ・トンマソーニが許可した作品以外は、デ・ドミニチスの作品とは認められない」という内容の警告だったそうです。さらに、デ・ドミニチスの作品とされる3000万ユーロ相当の、少なくとも250点以上の贋作(?)が存在し、画廊や個人に売却されていたことが発覚。それらの作品がオリジナルであるとの認定書にサインしたスガルビィが、17万ユーロの報酬を得ていたことも明らかになりました。
その頃、作家の死後に結成されたデ・ドミニチス・アソシエーションは、すでに分裂し、スガルビィを会長とした新たなデ・ドミニチス財団が発足していましたが、贋作の発見から、財団の副会長マルタ・マッサイオーリ、前述したトロンバドーリ、著名なギャラリー所有者を含む23人が組織的贋作売買に加担したとして捜査され、実際に贋作の制作者としてマッサイオーリとジョルダーノ・ジョゼッペ・ヴィッラのふたりが逮捕されています。
この贋作騒ぎは、そもそもデ・ドミニチスの10年来の愛人だったと言うマルタ・マッサイオーリが、作家自らが署名した遺書とも言えるホログラム文書(いかにもデ・ドミニチスらしい)の存在を明らかにしたことからはじまったようで、彼女の存在は、作家ときわめて親しかったトロンバドーリすらまったく知らず、デ・ドミニチスが彼女に残したとされる、200点近い作品のリストを見て驚愕しています。その経緯は、トロンバドーリが自らの著書のタイトルで作成したSNSアカウント(De Dominicis Amico Pittore, Storia e Cronotoria di un sodalizio/2012)にまとめられているので、ざっと要約します。
マッサイオーリの話によると、デ・ドミニチスは、マルケ州に住む彼女の家に定期的に通って、ローマとマルケで完全な二重生活をしていた、ということでした。微に入り細に入る彼女の告白が、まさにトロンバドーリが知るデ・ドミニチスの性格、行動様式に合致するため、トロンバドーリは狐につままれたような気持ちのまま彼女の話を信じ、2013年、作家が残したというホログラム文書をはじめて見ることになります。
最初の文書には2012年(秘教的で象徴的な数字として、デ・ドミニチスが選んだ)に、彼女の名前で財団を設立するよう、2通目の文書には、彼女に贈られた約120点の作品とともに、作家の生涯をより深く理解するための興味深い文書、著作、ノートが列挙され、作家を巡る映画の制作をも提示されていたそうです。彼自身の手で署名された文書の日付は、作家が亡くなる3日前で、それらの文書の筆跡は、すでに専門家によって鑑定されていましたが、さらに権威のある鑑定士に依頼しての筆跡鑑定が行われ、真正と認められています。
リストの内容は、1970年のほぼ終わりにまで遡る立体作品が含まれ、ビデオ、有名な作品、多くの自画像、ドローイングなどで、「ファラオかメソポタミアの王のように、自分の名を冠した霊廟から発掘されるがごとく、彼が傍に置いておきたかった選りすぐりの作品群だった」とトロンバドーリは回想しています。ただ、それらの作品の中には、すでに現代美術コレクターか、ギャラリーが所有している作品も含まれており、トロンバドーリはマッサイオーリに「作品を全部を見たい」と申し出ていますが、彼女は「すべてが同じ場所にあるわけではなく、それにイタリアにはない作品もあるため、今のところは不可能だ」と答えたそうです。
そんなマッサイオーリと話すうちに、「組織的な詐欺かもしれない」という疑惑をトロンバドーリは抱いたそうですが、そのリストには「あまりに有名な、特異な発想の作品が含まれており、安易な利益、という錯覚のもとに贋作者が複製した、とは考えられなかった」と、その疑惑を払拭しています。
リストの中には、前述の「Calamita Cosmica(宇宙磁石)」もあり、マッサイオーリによれば、全体が金箔で覆われ、長い金色の棒が添えられたその作品の「最終ヴァージョン」は、彼女しか知らない場所に注意深く隠されていて、デ・ドミニチスは「作者の死後、半世紀を経た(彼を個人的に知っていた人々ももはやいないであろう)2048年まで人目に触れないように」と言い残した、ということでした。
ところが、マッサイオーリを含む23人の人々が関わって売却した作品が、「贋作!」と糾弾されたことで大変な騒動となり、政治家でもあるスガルビィにも捜査の矛先が向いたため、主要各紙が報道する事件となりました。結果、捜査当局の鑑定により、いくつかの作品は確実に贋作とされ、マッサイオーリが住むマルケ州ファブリアーノで贋作造りが行われた、と見られる工房が存在する可能性も指摘されています。
また当局は、マッサイオーリがこの事件の中心人物であると考え、「過去に画家の個人的なアシスタントを務めていたことから、1998年に死去した巨匠の絵画技法と概念的な図像に関する深い知識を作品の偽造に利用したのだろう。犯人とされる者たちは、それぞれ異なる立場で、犯罪謀議に積極的に関与し、デ・ドミニチスの作品と偽って偽造、鑑定、販売に関与した」(Gazettino)とし、共謀罪、美術品偽造罪、盗品受領罪で、23人全員が捜査されました。
その捜査は十数年もの間継続し、最終的に23人全員が「無罪」となったのは今年、2023年6月で、押収された作品は、すべてギャラリーや個人に返却されることになっています。スガルビィは「警察に作品の真偽を鑑定できるはずはない。作品は本物」あるいは「作品はコンセプトであり、(アシスタントが注文に従って創る)芸術作品に真偽はありえない」などと言い張り、「美術評論家としての正式な肩書のない、弁護士であるイタロ・トンマソーニが『自分が認めない作品は、デ・ドミニチスの作品ではない』と言う権利はない」と主張しています。
とりあえず、全員が「無罪」となったということは、確実に「贋作」だという決定的な証拠がなかったからだと推測しますが、権威ある筆跡鑑定人が鑑定して真正だと認めた、デ・ドミニチスが遺したホログラム文書とは、いったい何だったのだろう、その後どうなったのだろう、という謎が残ります。
この経緯の真偽、それぞれの人物の正確な立ち位置は、わたしにはまったく分かりません。「われこそが作家が信頼した友人」と考える人々の心情的争い、あるいは周囲の人間たちの金銭的欲望にかられた早とちりかもしれませんし、本当に大がかりな贋作詐欺だったのかもしれません。あるいはかなりの変人だった作家が生前仕組んだ、芸術システムへの無邪気な挑発だったのかもしれない可能性すら考えられます。ただし、作品を写真撮影することすら拒んだデ・ドミニチスが、その死後に贋作騒動に巻き込まれるとは、神秘的とも言える皮肉な出来事ではあります。
いずれにしても、デ・ドミニチスは、多くの謎を残したまま、イタリアの現代美術史にくっきりと刻まれる存在となりました。そして、いまだに「亡霊となった作家が夜の街を歩いているのを見た」などという都市伝説が、ひそひそと語られるのは、「あのデ・ドミニチスならありえる」、と誰もが思っているからでしょう。
そういうわけで、デ・ドミニチスの宇宙を探検することは、なかなか面白い冒険となりましたし、何より、これから機会があれば、絶対ライブで作品を観たい作家に出会えたことは大収穫でありました。