カリ・ユガのまっただなかで
何度も作家の展覧会を開き、作品も多く所蔵しているナポリのギャラリーの所有者、リア・ルンマは「その作家にはじめて会ったのは真夜中のローマのプリニオ・デ・マルティスのバール(Galleria la Tartaruga)だった」とインタビューで語っています。ちなみにこのバールは、ローマの芸術家たちのドルチェ・ヴィータにとって重要な場所のひとつで、デ・キリコ、モラヴィア、クネリス、ウンガレッティ、デュシャン(65年にローマで展覧会を開いた)、ラウシェンバーグなど、イタリアのみならず、世界中から訪れたアーティスト、画家、彫刻家、詩人、作家たちが通っていたそうです。
思い起こせば、わたしがローマを訪れた90年代半ばには、この時代にローマで繰り広げられた、アーティストたちの甘美な(と同時に無秩序で横暴で気まぐれな)サロンの余韻が多少残っていましたが、時が経つにつれ、微かな街の記憶に変わっていったように思います。かつて芸術家や作家、詩人が通った有名なバールや伝統的なエノテカの跡には、いつのまにか洒落たジェラート屋やモダンなカフェバーが軒を並べ、今では、その面影すら消え去りました。
さて、デ・ドミニチスは1980年代まで、テベレ川にほど近いマンテッラーテ通りにアトリエを持っていましたが、その近くに、デ・ドミニチスのアトリエに面したバルコニーがあるマリオ・スキファーノのアパートがあり、デ・ドミニチスは「ほら、あのテラスからスキファーノが僕の絵を見て模写しているんだ。だから別のアトリエを探そうと思っている」と知人に話していたそうです。そして実際、その直後に、ナヴォナ広場のすぐそばのサン・パンタレオ通りに越しています。
引越し先の建物は、友人である、とある貴族の婦人が作家に貸してくれたもので、暗く埃っぽくはありましたが、宮殿といっても差し支えないほどゴージャスな建物でした。ちなみにスキファーノが作家を模写した作品を制作した形跡はなく(ジャンカルロ・ポリティ)、デ・ドミニチスの疑心暗鬼か、いつものホラだった可能性があります。いずれにしても、せちがらい現代では、「どうせ使ってない家だから、自由に使って頂戴」、とアーティストが借りることができる家賃で、気前よく宮殿を貸してくれるような貴婦人は見つかりますまい。
昼間は寝ていて人目につかず、夜の帳が降りた頃から活動をはじめるデ・ドミニチスの、特異ないでたちもまた伝説のひとつで、現在残っている写真の数々も一昔前の貴族か、と見紛うフォーマルで、エレガントな装いの気取ったものばかりです。目撃者によると、日が暮れた冬の闇から、黒いマントにアストラカンのコサック帽を被って現れるデ・ドミニチスの姿は、このうえなく文学的だったと言います。
そのいでたちで、1980年代に有名だった、コッペッレ通りの「ヘミングウェイ」クラブに通っていた作家は、コサック帽を天井に下がっているフックに架けようと、椅子に座ったまま空中に投げていたそうですが、失敗してもテーブルから動こうとはせず、カメリエラがその帽子を持ってくると、再び帽子を空中に投げ、成功するまでやめなかったそうです(ヴィットリオ・スガルビィ)。
鑑賞者としては、デ・ドミニチスの立体作品については、現場で直接体験していない、という理由もあり、今ひとつ作家の宇宙に入り込めないのですが、80年代から現れる絵画の数々は、それがカタログの写真であっても、長い時間見とれたくなるような作品が多くあります。神秘的というか、イコノグラフィーというか、特に冒頭に載せたカタログのカバーとなっている、ニューヨークのMOMAが所蔵している「in principio era l’immagine(はじめに像ありきーはじめに言葉ありきではなく)をはじめとする、シュメール文明期の彫像からインスピレーションを得た作品の数々には強いインパクトを覚えます。
この作家が、シュメール世界に神秘的とも呼べる強い影響を受けていたことについては、すでに多くの評論家によって語られていますが、「シュメール文明こそが、エジプト、ギリシャ文明より時系列的に先行し、現在の文明の起源となる」とデ・ドミニチスは考えていたようです。または「シュメール人は地球外生命体と接触し、そこから文明がもたらされた」とも語っており、フランコ・ファネッリのインタビューには「とある地球外生命体が、シュメール人に言ったそうです。『絵のない宇宙船はこれまでもこれからもありえない』と。わたしはクレメンティーナ(?)と何度か旅に出るつもりだ」と答えています。したがってデ・ドミニチスの後期の作品では、シュメール起源の図像、宇宙というテーマが多く見られます。
また80年代には、シュメール文明初期王朝の伝説の王ギルガメッシュとインドの女神ウルヴァシーの横顔のシルエットのモチーフを使い、その異質な文化、感性、エネルギーを結びつけ、混合させる連作を多く制作しています。「わたしはエジプトの芸術家より確実に古い」「完全な生きた物体である芸術作品は、生物学的プロセスに影響を与えることができる」「デッサン、絵画、彫刻は、伝統的な表現形式ではなく、独創的なものである。したがって未来のものである」とも発言しており、デ・ドミニチスは「時間が存在しない(停止した)芸術の不死性、反エントロピー」をたびたび強調しました。
ラウラ・ケルビーニはボードレールの言葉を引用し、「(デ・ドミニチスは)進歩という概念そのものが芸術とは何の関係もなく、市場同様、芸術の敵だと考えている。芸術とはポイエーシス(創造)であり、形の起源、アーカイブ、底知れぬもの、あるいは底知れぬ第一原理を探究する行為である。それゆえ芸術とは、不可視のものを解き明かすことであり、ヘンダーリンが望んだように、世界を再び神聖化し、神秘を回復させることのできる形而上学的な営みであるとともに、その欲望なのだ。この次元において、芸術家は魔術師であり、メディア(媒介)であり、呪術師だ(略)」と書き、デ・ドミニチスは、死を食い止め、無害化するための数少ない解毒剤としてのスタイルを探し求めていた、と評論しています。
1991年のインタビューで、デ・ドミニチスは「現代は本当に例外的な時代です! 今日ほど多くの展覧会と多くのアーティストが世界に存在し、アーティストと芸術作品との間にこれほど問題があり、穏やかでなく、相反する関係が存在したことはない。(略)今日、多くの画廊のオーナー、批評家、美術館長たちは、ちょっとした芸術家であると自負し、『自分たちの』アーティストの作品を使い、興味をそそるグループ展を実現することで『自分たちを表現している』と感じている」と語り、「大衆(鑑賞者)は芸術作品よりも美術史や芸術家を好む」と、芸術システム全般をざっくり批判しました。
さらに「マルチメディアという馬鹿げた流行によって、音楽家、映画監督、詩人、ジャーナリスト、写真家、ダンサー、エコロジスト、俳優、批評家、画廊のオーナー、社会学者、劇作家、パフォーマー、哲学者などなどが、アーティストとして主要な美術展に参加することが可能になった」と嘆いてもいます。「画家はトリックで自分自身を驚かさなければならない呪術師のようなものだ。そこに複雑さがある」「(過去の)芸術作品はすべて現代的なものだ。そうでなければ、1920年の車を見て、別の時代のものだから轢かれることはないだろう、と、冷静に道を渡ろうとするようなものだ。芸術作品も同様に、常に『生きている』のだ」
このような言葉を残したデ・ドミニチスは、あちらこちらで自分の作品や自身が映った写真を次々に破壊したり、隠したり、と自分の存在を消すような異常な行動をとっています。たとえばアートフラッシュ誌の編集部にジャンカルロ・ポリッティを突然訪ねてきたデ・ドミニチスが、「自分のアーカイブ資料を見せて欲しい」と言うので、ポリッティは何の疑いもなく、デ・ドミニチスをアーカイブ室にひとり残して、昼食に出かけました。やがて編集部に戻ったポリッティがアーカイブ室のデ・ドミニチスのファイルを見ると、それまで数多く収集されていた作家自身の署名が入った手紙、個人的な写真や作品の写真がすべて消え去っていたそうです。
そのうえデ・ドミニチスは、ニューヨークをはじめとする多くの有名ギャラリーから展覧会のオファーがあっても拒絶し、最も目立たないスペース、周縁的なギャラリーを選んで作品の展示をしています。アーティストにとっては、なるべく露出すること、それもできる限り有名で、権威のあるギャラリーや展覧会で自身の存在を強調することも大切な仕事のひとつですが、デ・ドミニチスは、通常、われわれが知るところのアーティストとは、まったく逆の行動をとっているのです。
と、このようなエピソードを書いていくと、彼が自身の観念的理想に忠実な、夜行性の変人として、偏屈な作家生活を送っていたようなイメージですが、実際のデ・ドミニチスはといえば、サン・パンテレオ通りのランチェロッティ宮で、何人もの上半身が裸の美しい女性たちに囲まれて(ええ!)、お茶の時間以外は、誰とも一言も話すことなく作品を作っていたそうです。さらには熱心なカジノ愛好家(えええ!!)でもあり、ヴェネチアのカジノとローマを行き来する生活でもあったと言います。この事実を知って、開いた口が塞がらず、知人たちからは悪名高き「男尊女卑」と捉えられていたことには唖然ともしました。
というのも、デ・ドミニチスは、「女性と芸術家は創造する能力において似ている」と考えていた、という評論をいくつか読み、本人もそう語っていたため、この作家は女性の理解者であったに違いなく、当然、注意深くリスペクトしていたであろう、と勝手に想像していたからです。作家が貴族的に暮らすランチェロッティ宮に客人が訪れると、品のいい振る舞いの上半身裸の女性が、お茶を運んでくる、などというシーンは、正直、想像だにしていませんでした。しかも傲岸不遜で独裁的であるこの作家を、周囲の女性たちは慕ってもいたらしいのです。
そういえば、デ・ドミニチスがたった1回だけテレビのインタビュー番組に出演したことがあり、それもベルルスコーニ所有局の、どこか怪しげな空気を醸す番組で、どのようなトリックなのかは判然としませんが、作家が宙に浮きながら人を食った態度でインタビューに答える、10分程度の動画でした。その動画では、「すべての鑑賞者は、美術評論家であろうが、子供であろうが、皆同じ」など、大変に意義深く、考えさせられる内容の会話が交わされますが、その動画をはじめて観たときは、「何て趣味が悪いはじまり方をする番組なんだろう」と訝しくも思いました。しかし作家が送っていた宮殿での生活を知って、ヴィジュアル的にはそのTV番組と作家の私生活に整合性を見出せたように思います(そのビデオは、こちらから見ることができます)。
「デ・ドミニチスは、ちょっとした吸血鬼で、快活で、絶対的にダンディで、女性たちの友人であり、ジャガーに乗って旅をする。作家が亡くなる数年前、『イル・フォリオ紙』のインタビューのため、ランチェロッティ宮を訪れたマリーナ・ヴァレンシス(ジャーナリスト)は『わたしは、狂人か完璧主義者を目の前にしている。いずれにしても狡猾で、横暴で、独創的なタイプで、コンプレックスが全くなく、世の中の規範や法律を超えて生きていることを自覚している。(略)それがどんなに気まぐれであろうと、自分の横暴に、他者をおとなしく従わせる方法を、彼は知っている(略)、狂人や自暴自棄な男や天才ができるのと同じくらい自分自身に確信を持つ、愉快なペテン師を目の前にしていることを理解した』と言っていた」と、フランコ・ファネッリ(アーティスト、トリノの芸術学院教授)は、Il Giornale dell’Arte誌(アート新聞)に書いています。
このファネッリの記事は「ミステリアスで快活、スキャンダラスで洗練され、軽快でありながら、芸術を芸術システムの罠から守ろうと固く決意した芸術家の足跡はどこに残っているのだろうか? 美に不死への道を求めた絵画のギルガメッシュとは誰だったのか?」とはじまり、デ・ドミニチスに対する、けっこう辛辣な批判もありましたが、「このような記事が書けるのはデ・ドミニチスがすでにこの世にいないからだ。彼の生前には、こんな記事は書けなかった。もし彼が生きていたならば、お茶の時間が終わった頃、少なくとも1ヶ月間にわたって何キロメートルにも及ぶ長い電話で詳細を点検し、修正し、1972年の「D’IO」のような、終末的で悪魔的な、雷のような笑い声がいつ聞こえてくるか、と怯えなければならなかったであろう」と、苦笑に満ちた一文で締めくくられています。きっとファネッリ同様、多くの人々が、デ・ドミニチスの横暴で執拗な変人ぶりには随分翻弄され続けたのでしょう。
なお、作家が亡くなった1998年、5月に開かれた最後の展覧会は、「カリ・ユガのまっただなかで」と題されました。カリ・ユガとはインド哲学における4つのユガの最終段階で、男性の悪魔カリの時代とされ、悪徳が蔓延る時代とされます。そのカリ・ユガは紀元前3102年にはじまり、その後43万2千年続くとされますから、現代は、まさにカリ・ユガのまっただなか、というわけです。この展覧会は、現実と芸術界で起こっていることについての作家の考えを示しており、美しく、調和がとれた作品群の展示だったということです。
▶︎エニグマとしての死