「不滅」の主張と、作家の実在
デ・ドミニチスの作家活動は、1960年代後半から1970年代後半にかけての、主にコンセプチュアルなインスタレーション(作家自身が批判していた)である立体作品中心の時期、1980年代前半から亡くなる1998年までの主に具象画家として重きを置いた時期に分けられます。
故郷であるアンコーナで暮らしていた頃の若きデ・ドミニチスは絵画に没頭し、建築家である父が地元に開いたアートギャラリーで、100点ほどのドローイングをはじめとする具象絵画を展示した経験があるそうで、そこで展示した作品は全部売れたと言います。このようにそもそもは画家として出発したデ・ドミニチスでしたが、その名を轟かせたのはローマに来て、当時アーティストたちの溜まり場ともなっていたギャラリーL’Attico(ラッティコ)に通ううちに手がけた立体作品でした。なお、芸術学院では、絵画ではなく建築科を専攻しています。
すでに作家としていくつかの展覧会で注目を浴びていた1970年、デ・ドミニチスは「Lettera sull’immortalità(不滅についての手紙)」という短い文章を美術誌に発表しました。そして25歳の時に書かれたこの手紙が、この作家のその後の作品を貫く基盤となっており、作品を鑑賞するうえで重要なひとつの道標となっています。後期の画家の作品には、宇宙的というか、非存在的というか、シュメール文明にインスパイアされた、意外とロマンティックな作品もありますが、個人的には、この手紙を読んで「なるほど」、と作品を貫く哲学というか、宇宙観を少し理解することができたと思っています。
手紙という形式で書かれたその論考は、Cara(親愛なる君へ)と、不特定の女性に宛てられています。以下、抜粋します。
「僕は、あらゆるものは存在しないと思う。たとえばひとつのコップ、ひとりの人間、一羽の雌鶏。しかしコップも人間も雌鳥も存在しない。ただコップ、人間、雌鳥の存在の可能性が確認されるにすぎない。真に存在するためには、あらゆるものが永遠で、不滅でなければならない。ただそうあることだけが、あらゆるものの存在の可能性が確認されるにすぎない状態から、真の存在となる」
「(流動性=時間が『自然』として存在する)宇宙(ミクロにおいてもマクロにおいても)にも同様の法則が成立する。宇宙は膨張、あるいは流動しており、惑星や星たちは移動しながら、膨張した宇宙の次元に適合し、その存在を確認する。(略)永遠に同じ場所にとどまるものは存在しないので、それらは永遠の物体ではなくなり、宇宙の存在の可能性の確認、つまり運動=エネルギーとなる。あらゆるものの存在における可能性は、宇宙における存在に関する問題と同じである。そしてわれわれ人間においての問題は存在が一時的(束の間)だということなのだ」
「たとえば、われわれが真に時間が停止する状態に存在することができれば、ようやく自分自身を生きることができる」
「(老いと死に抗う)永遠の生命については、理想として語り続けられてきたし、現在でも語り続けられている。過去の人々と僕らが違うのは、われわれの時代は、それを実現する可能性があるということだ。実際、不死という唯一の目的のために、われわれは全力を(特に科学とテクノロジーの領域で)尽くすべきだ。(略)老いと死を巡る不安は、詩人、哲学者、宗教、アーティストによって、崇高に扱われてきた。しかし今まで、老いと死を巡る不安に、十分に必要な冷徹さを持って直面しようとはしなかった」
「不老不死を獲得することで、人間はおそらく地球上に出現して以来はじめて、他の生物とは明確に差別化できるようになる。 自分で選んだ年齢で時を止め、老いることを中断することが、宇宙を支配する最も神秘的な次元の呪縛を解き放ち、生命をより深く理解する可能性への真の第一歩となるのだ」
そのほか、不滅=不死が実現した場合、人口が増えないようにするにはどうすればよいか、など作家独自の考察が描かれており、この手紙を読んだ感想としては、常に死を抱合する生命と宇宙に関する鋭い観察と、不死を巡る凡庸な解決策が入れ混じっている、と思いましたが、冒頭の「(時間という流動が存在する限り)あらゆるものは存在しない」という部分の、仏教的というか、量子論的というか、「実在だと思っているこの世界は、実は幻想なのだ」とのコンセプトに心惹かれます。
また、科学の発達によって老化を遅らせ、遂には不老不死を実現することができるかもしれないという願望は、オートファジー研究の応用など、現在の科学でも盛んに議論され続ける人類の夢でもあり、それはやがて実現する、との科学者たちの楽観的な展望もあります。しかし個人的には、やみくもに不老不死を望むなんて、想像するだけで疲れ果て、いつか終わりが来る自然の摂理がホッとする、というのが率直なところです。
いずれにしても、デ・ドミニチスの表現の核には、このような不滅ー不死、時間の停止、宇宙、非流動性、反自然(環境としての自然ではなく、時間とともに流動する自然)反重力(万有引力に逆らう)という「科学の帰結である」超人としての理想がありそうです。そして、それらを具現しているのが、反エントロピーとしての芸術なのだ、ということでしょう。
実際、初期のデ・ドミニチスの作品には、「こうして飛ぶ練習をし続ければ、重力に逆らって、いつか空を飛べるようになるかもしれない。たとえ今できなくとも、僕の子孫やその子孫が練習し続けることによって、いつか空を飛べるようになるかもしれない」と空を飛ぶ練習をする自分自身を撮影した作品、あるいは川に小石を投げ入れて、水の波紋を四角にしようと試みる作品があります。なお、デ・ドミニチスのムービーは、(おそらく)この2点しか存在しません。
さらに、12星座のシンボルを、すべて実物で展示した(檻に入ったライオンや、牡牛、牡羊、魚、蠍、乙女や双子など)「Zodiaco (黄道十二宮)」と名付けられた作品、あるいはローラースケートを履いた骸骨が、同じく骸骨の犬を連れて指で金色の棒のバランスを取っている作品「Il tempo, lo sbaglio, lo spazio(時間、過ち、宇宙)」など、当時のアートの流行の方法論を二重に批判するホメオパシー的な(ラウラ・ゲルビーニ)作品でデ・ドミニチスは注目を集めることになりました。
初期のデ・ドミニチスの作品は、当時としてはかなり斬新で、たとえば1971年のD’IO(Di me stesso「自分自身」→Dio「神」の言葉遊び)と題された展覧会は、空っぽのギャラリーに、悪魔的で、恐ろしい作家の笑い声が、ひたすら大きく、長く響き渡る、ある意味トレンドを先取りしたとも言えるものでした。悪魔といえば、後期の絵画にも、「画家」「悪魔」とのタイトルで、ぞくっとするような不気味な作品も存在します。また71年、ミュンヘンで開かれた展覧会では、作家が知らないうちに組み込まれていたグループ展を不服とし、作品を展示しなかった上にカタログのページを破り、展覧会のタイトルが書かれた壁に自分の名前をタイトルとして貼る、といった大胆な行動をとっています。
※これはミラノのPalazzo Realeで展示された「D’IO」で、他の作品も展示されていますが、まったく他の展示物がないギャラリーで、こんな声が大音響で響き渡るなんて、かなりインパクトがある、恐ろしい展覧会だったことだろう、と察します。
そうこうするうちに、大変な物議を醸して大スキャンダルとなったのが、1972年のヴェネチア・ビエンナーレにおける「Secondo Soluzione d’Immortalità(不死の第2の解決策ー宇宙は動かない)」と題された立体作品の展示です。その作品は、それまでの作家の創作における総論とされ、制止したボールと石、(目には見えない)立体柱とともに、ダウン症のパオロ・ローザという青年、さらに若者、老人という実際の人間を配した作品でしたが、ダウン症の青年が作品の一部として展示された瞬間から直ちに非難の声が湧き上がり、あっという間に会場から消滅することになりました。
パオロ・ローザを侮辱する作品!と脊髄反射したメディアからは「恐怖の展覧会」と総攻撃され、この時がデ・ドミニチスのその後のイメージに「呪い」が刻印された瞬間であると同時に、その名が広く知れ渡るきっかけにもなったわけです。なお、訴訟ともなったこの作品のアシスタントを務め、パオロ・ローザを作家に紹介したシモーネ・カレッラは、のちにアヴァンギャルド演劇の第一人者となり、自身の演劇スペースBeat72からロベルト・ベニーニ、マリオ・モントーネなど、現在のイタリアの演劇、映画文化を支える多くの優れた人材を輩出した人物です。
カレッラは1979年、オースティアのカステッロ・ポルツィアーノに、ビートジェネレーションの大御所、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、ジョン・ジョルノ、ローレンス・ファーリングヘッティ、レロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)、エフゲニー・エフトゥシェンコ、さらにダッチャ・マライーニ、ヴァレンティーノ・ザイケンをはじめとするローマの詩人総勢104人の詩人を集めて、3日3晩ぶっ通しの「詩のフェスティバル」を企画。1万人近い観客を集めたそのフェスティバルは、イタリアのウッドストックとも例えられました。そのカレッラは、ビエンナーレのデ・ドミニチス作品について、こう述べています。
「彼は、この不死の第2の解決策を表現する人物を探すように僕に頼んだんだ。そして時間を遮断することで不滅を可能にする人物として選ばれたパオロ・ローザが、その解決策を体現している」部屋の反対側のふたつの高い席には若者(カレッラ自身が扮する)と長老役が座り、「不死と永遠の微妙な分別を超えて、デ・ドミニチスが関心を寄せているのは、今この瞬間の固定性、この瞬間という認識だ」
カレッラによれば、「跳ね返る瞬間のゴムボール(2メートルから落下したと仮定)は人工的な要素であり、飛行の試みを暗示している。一方、石(一方向でランダムな分子運動を期待させ、物質の自発運動を発生させる)は地球に結びついた自然の要素である。この空間が「魔法の領域」であることは明白で、作家自身が「作品内部の視点」と語るコミュニケーション不可能な空間なのだ」(ラウラ・ケルビーニ)
この作品について、ボニート・オリーバがキュレーションしたMAXXIにおける展覧会のカタログでは、「デカルトの『コギト・エルゴ・スム』(我思う、ゆえに我あり)、ヘーゲルの理性と現実の同一視、あるいはハイデガーの『死のための存在』など、プラトン的な考え方に代表される伝統に挑戦するこの作品は、ロゴスに基づいて確立された西洋的な同一性の概念を根底から覆すものである。事実上、その伝統における比較は、意識的な知覚、目に見えるものとの明晰で正確な関係(目に見えないものは、知ることのできない神の精神の領域に限定される)という点でのみ理解されている」とコメントされています。
「パオロ・ローザは、生物学的な理由から、一般的な人間の関心の外に置かれているからこそ、目に見えるものと目に見えないものの間に存在する緊張を見ることができる。彼のイメージの能力(イメージの形成)は、覚醒した思考によって低下することはない。この意味で、この作品は世界を見る異なる方法の、生きたイコノロジーなのである」
さらに1975年にノーベル文学賞を受賞したエウジェニオ・モンターレはストックホルムの授賞式のスピーチの際、デ・ドミニチスの作品に触れ、「manu militari(法と秩序勢力)」により中断された実験であったが、理論レベルでは正当なものであった」と語ったそうです。
しかし、このように理解者が多くいたとしても、デ・ドミニチスは、この予期せぬスキャンダルで、当時契約していたギャラリーとは縁が切れ、その後長きにわたって、賞賛と注目と同時に、この作品の負のイメージを背負うことになりました。それでもデ・ドミニチスは、それをまったく意に介すこともなく、パオロ・ローザと自分を重ね続けていたふしがあり、後年、パオロ・ローザと思しき人物像を多く描き、亡くなる直前には、美術誌の表紙を飾る写真を、自分の写真にするか、パオロ・ローザの写真にするか、最後の最後まで悩んでいたことを、当時の編集長が語っています。いずれにしても、シモーネ・カレッラは、パオロ・ローザはとても心優しい人物だったと発言していました。
▶︎カリ・ユガのまっただなかで