ローマ、パニスペルナ通り90番地から『マンハッタン計画』へ、そしてエットレ・マヨラーナのこと

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4年間の隠遁生活

1933年8月、ドイツ、そしてコペンハーゲンから戻ってきたマヨラーナは、ほとんどパニスペルナ通りの研究所には顔を出さないようになりました。突如としてローマの家に孤独に閉じこもり、家族とも疎遠な生活を送るようになっているのです。

同僚との交流を避け、閉じこもったマヨラーナについて、のちにフェルミ夫人は「彼はそもそも奇妙な青年だったが、おそらくカターニャのマヨラーナ家に起こった悲劇的な事件(遺産相続を巡っての復讐として、子守の少女をそそのかして、ライバルの息子である幼児をゆりかごもろとも燃やすという凄惨な殺人事件)を気に病んでの精神的な落ち込みからではないか」(要約)と語っています。

また、この時期に、彼の良き理解者であった父親を失ったことも、マヨラーナになんらかの影響を与えたのかもしれません。

しかしながら、フェルミ夫人が語った内容に関して、亡くなった幼児とマヨラーナの間には姻戚関係はなく、事件そのものが、マヨラーナの精神状態に影響を与えたとは考えにくい、とシャーシャを含め、研究者たちも口を揃えている。

むしろ留学中に出会ったハイゼンベルグをはじめとする人物たち、出来事、そして状況が、彼を『瞑想』に向かわせたのではないか。そしてもし、その事件がマヨラーナに何らかの影響を与えたとすれば、「ゆりかごもろとも燃える幼児」という凄惨なシーンが、マヨラーナが携わる『原子核物理学』の行き先としての『炎と死』メタフォライズする出来事として脳裏に刻まれたのではないか。そしてそれこそが5年後に企てることになる失踪へと突き動かしたのではないか。

そう分析するシャーシャは、ナチスが掌握するドイツでの経験と、ハイゼンベルグとの密な交流で、そもそも本能的に感じ取っていた予感が、少しづつかたちのある疑いとなり、フェルミをリーダーに研究を続けるパニスペルナ通りの同僚たちとは、その疑いを共有できないことを、マヨラーナは察知していた、と考えるのです。

もちろん、このシャーシャの推理は、確かにロマンチックすぎるのかもしれませんし、むしろフェルミ側がマヨラーナを暗に拒絶していたのではないか、あるいはインスティチュートの同僚たちとの間に問題があったのでは? という仮説が存在することも確かです。

しかしわたし個人としては、『原子核物理学』が進みつつある方向性を敏感に察知した、「科学、文学、芸術の境界を超える(とシャーシャが形容する)」マヨラーナという天才のヴィジョン、「破壊と恐怖の予感」という人間としての葛藤を信じたいと思うのです。

それから10余年の時が経ち、『マンハッタン計画』におけるニューメキシコでの原爆実験の大成功を知った時、ロス・アラモス研究所のフェルミ、セグレは大喜びしたそうです。

一方マヨラーナが信頼したハイゼンベルグは、ヒットラーがそれを手にしないために、核兵器の開発を「故意に遅らせた」という説もありますが、今となってはそれが真実なのかどうか、知るすべはありません。

さて、1933年の夏から37年にかけ、マヨラーナが自分の思考に閉じこもる4年の月日の間に、アマルディ、セグレ、ジェンティーレという同僚たちは、時々彼を訪ねては「普通の生活」をするよう説得しています。

しかしフェルミは1回も、彼を訪ねたことはなかったそうです。そもそもフェルミとマヨラーナの間に、たとえばRai制作のフィクションに見られるように、兄弟、あるいは家族のような温かい関係が築かれたことは1度もありませんでした。

ともあれマヨラーナは、訪ねてきた同僚たちと『原子核物理学』の話をすることは皆無であり、話す内容はといえば、哲学、あるいは海戦医療の話だけで、同僚たちは、マヨラーナがその間、物理学の研究をしていたかどうかは、まったく見当がつかなかったと言っています (アマルディ)。

しかし妹のマリア証言によると、現実は寝る間も惜しむ大変な勢いで、マヨラーナは研究に没頭していた、と言うのです。

そして、その4年間の研究が1937年、叔父である物理学者、クゥイリーノ・マヨラーナが責任編集する科学誌に発表された、『Teoria simmetorica dell’elettorone e del positrone』ー粒子反粒子が同一の中性フェルミ粒子マヨラナ粒子の存在を予言した、伝説的論文として結晶した。

そのマヨラーナ粒子が80年後の現在、量子コンピュータの構築理論への応用が期待されるとして研究され続け、その存在を実証したのが日本人の学者たちであったことには、なにかハッとするような、特別な感慨を覚えます。また、アブルッツォのグランサッソの研究所Infnでも、マヨラーナ粒子の手がかりが着々と集められているところです(マヨラーナのニュートリノ)。

L’esperimento Gerda (foto: ufficio comunicazione Infn) Gerda実験。La repubbulica紙より。

さらに同時期に書かれた、科学者ではなく、一般の人々向けに書かれた小論『Valore delle leggi statistica nella fisica e nelle scienza sociale(物理学、及び社会科学における統計原則の評価)』は、のちにジョバンニ・ジェンティーレ. Jr が編集し、1942年に雑誌『Scentia』で発表しました。

2016年にはジョルジョ・アガンベンがその小論を論考。シャーシャとはまったく違うアプローチで、エットレ・マヨラーナの失踪を哲学的見地から考察しています。

なお、この小論でマヨラーナは、伝統的な科学ー物理学は、たとえば人口統計のような社会科学同様に、『蓋然性』によって結論を導き出すことができるが、放射能(放射性同位元素が放射性崩壊を起こして別の元素に変化する性質)は、従来の伝統科学が基づく『蓋然性』をまったく受け入れず、起こりうるべきこと、つまり結果がまったく推論できないことに言及。

La cui interpretazione richiede un’arte speciale, non ultimo sussidio dell’arte di governo(その理解のためには、特別なアート(技術、直感を含む総合的な技能)を必要とし、とりわけ統治(政府、管理)のアート(技術、直感を含む総合的な技能)の助けを必要とするのだ)』と締めくくられます。

そして、この小論の結論にこそ、マヨラーナの不安、恐怖がほのめかされている、とシャーシャは指摘するのです。

それ実行されたことは、われわれに不安、恐怖心を成長させた。あなたたちにもそれを感じてほしい。もしそう感じるなら、(マヨラーナの)凄まじいエピグラム(短く詩的、観念的という意味でエピグラムと呼ぶのだが、彼独特のアイロニーや愚弄が含まれているかもしれない)を目にしていることに気づくであろう」(シャーシャ)

4年の隠遁の間、マヨラーナはのマリアに「物理学は間違った道を歩んでいる」あるいは(マリアの記憶が不確実なので)「物理学者は間違った道を歩んでいる。われわれはみんな間違った道を歩んでいる」とさかんに言っていたそうですが、それが自分自身の研究を指しているのではなく、パニスペルナ通りで継続される研究と実験を指すのは明らかです。

さて、マヨラーナはこの論文を発表したのち、4年間の沈黙を破り、アカデミックな世界へと突然舞い戻ります。それもまた、ある種「芝居がかった」とでも言いたくなるような方法での参入でした。

まず、マヨラーナは、事前に人選が決定していたパレルモ大学の『原子核物理学科』の教授選出のコンペティションに応募することで、学会をパニックに陥れることからはじめています。飛び抜けた業績を持つマヨラーナを選出しなければ、大問題に発展するとともに、3位で選出が決定していた、マヨラーナの友人であるジョバンニ・ジェンティーレJr. を落とさなければならなくなるからです。

そこで苦肉の策として、父親のジェンティーレ国家教育大臣が動き、とりあえずパレルモ大学のコンペを保留。その間マヨラーナには、ケンブリッジ大学、イエール大学、カーネギー・ファンデーションからの誘いがありましたが(コリエレ・デッラ・セーラ紙)、すべて断ったのちナポリ大学の物理理論の教授職を受け入れることになります(Chiara fama)。

こうしてマヨラーナは、その後改めて継続したパレルモ大学のコンペをぶち壊しにすることなく、パニスペルナ通りの他の同僚たち同様、アカデミックキャリアを持つ、規則的な『普通』の生活をナポリではじめることになったのです。インスティチュート創設から約10年、同僚たちは、もはや『少年たち』とは呼べず、それぞれが確固としたキャリアを築いていました。

なお、マヨラーナの講義は、あまりに特殊な分野の難解な講義だったため、生徒は6人という少人数で、しかも授業を理解していると思われるのはたったひとりの学生だったそうです。それでもマヨラーナは、楽しげに週3回の講義をこなし、1月から3月25日まで、通常通りに講義しています。

マヨラーナに質問に通ったという、かつて学生だった老婦人は後年、「すべての質問に丁寧に嬉しそうに答えてくれた」とインタビューで語り、「ただし質問が終わるとスッと距離を置く、掴みどころのない人物でした」と付け加えていました。

近年リサーチを続けている学者たちは、ナポリ大学の教授になったことで、マヨラーナは完全にフェルミ・グループから排斥されたかたちとなった、との見方をしているようです。あるいは自ら、完全に遠ざかろうとしたのかもしれません。

▶︎『人種法』と消えたマヨラーナ

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