レトロスペクティブ:戦後イタリア「抽象芸術」の女王、カルラ・アッカルディの100年

Cultura Cultura popolare Deep Roma letteratura

ロンツィとの決別とその後のアッカルディ

ここで少し、アッカルディ、バノッティとともに「リヴォルタ・フェミニーレ」を結成した美術評論家、そして活動家としてのカルラ・ロンツィという女性について、考察しておきたいと思います。前述したように、しばらく忘れ去られていたロンツィの著書の数々は、「イタリアのフェミニズムを語るうえで外すことはできない」、と近年になって再評価されています。

カルラ・ロンツィは、ミケランジェロ・メリージ・カラヴァッジョを時代の闇から再発掘し、ボローニャ大学時代のピエール・パオロ・パソリーニに大きな影響を与えた美学者、そして美術評論家であるロベルト・ロンギに、その論文が高く評価されたことから、美術評論家としてのキャリアをスタートさせました。そこで、美学的には「共通の師」を持っているロンツィとパソリーニの間に何らかの共通項があるか調べてみましたが、互いが認めあう、あるいはすれ違うような場面は見つけられませんでした。

ただし1975年、コリエレ・デッラ・セーラ紙にパソリーニが寄稿した「中絶法(国民投票ののち、1978年に制定)」に反対の意を表明する記事で、「フェミニズム運動はセクシュアリティの問題や、生殖や中絶の関係を扱っていない」と批判したことに、ロンツィが「すでに考察済みである」旨を舌鋒鋭く抗議したことがありましたが、パソリーニからは何の返事も受け取ってはいません。確かに、パソリーニが女性に投影した、理想化された詩的で崇高な思いと、ロンツィの戦闘的な言論の間に、大きな隔たりがあることは明白です。

ところで、グループを結成した頃のアッカルディとロンツィは、それまで10年以上にわたって育んできた強い友情を保っていましたが、グループの活動が活発になるにつれ、ふたりの間に亀裂が生まれはじめます。というのも、それまで美術批評に関わっていたロンツィが、自らが担う批評家という機能を再評価しはじめ、自らのフェミニズム理論をさらに急進化させるうちに、男性優位社会家父長制文化そのものでもある美術界決別することを決心するに至ったからです。つまりロンツィは美術評論家の役割を捨て、純粋な活動家としての道を歩みはじめた、ということです。

そうこうするうちに、ロンツィは自分が信頼する友人であるアッカルディが、美術界という女性抑圧の構造の中で芸術活動を続けることを、許し難い妥協と見なすようになりました。やがてロンツィは、西洋の芸術の歴史に脈々と息づく「創造」は、女性排除することが基本にあり、それゆえ本質的に家父長制的であり、それはまさに男性主体(芸術家)の独自性と、女性である受動的他者(鑑賞者)との間の非対称性の上に成り立っている(シンボリックな意味で)、という結論に達します。アッカルディとロンツィが次第に疎遠になったのは、このようなロンツィの極論が原因ではありますが、本質的には、家父長制秩序との関わりのなかでの「女性の創造性」を考えるうえでの難しさに起因していると考えられます(Manifesto)。

とはいえ、ロンツィのこの結論で、個人的に理解しがたく思っているのは、ロンツィが芸術ー創造を、男性的な行為だとみなしていることです。わたしが東洋人だからかもしれませんが、芸術界のシステムが家父長制的ということは当然認識していても、「創造」、つまり表現そのものを、主体が男性、女性に関わらず、わたし自身、その人物の女性的な行為だと受け止めてきた、という経緯があります。

そこで、あれこれと思いを巡らすうちに、ロンツィの「創造そのものが男性的=父権的」という観念は、西洋に根づく唯一神信仰に端を発する固定観念なのではないか、と考えるに至った次第です。

唯一神信仰においては、創造主である「神」が、いわば歴史上初のクリエイター、つまりアーティストでもあります。その「神」は本来、あくまでもメタフィジックな存在で、性別も、年齢もないはずだと考えますが、キリスト教においては、確かに「なる神」「息子ーキリスト」「聖霊」の三位一体が原則です。カトリックには聖母信仰が存在しても、マドンナもまた「父なる神」により「無原罪懐胎」したわけですから、「父なる神」の所有物として、その「処女性」を神聖化するために、教義として発展したのだとも思います。しかしながら神学の分野については、わたし自身がまったくの無知であるため、このあたりの考察は今後掘り下げてみることが必要だ、とも考えます。

閑話休題。

ともあれ、美術界を去る頃のロンツィの理想は、キュレーター、アーティスト、鑑賞者の区別を完全に取り払い、現代美術システムのフェティシズム的な商品化にある、広く拡大された「創造」へと向かうことでした。資本主義論理に翻弄され堕落した芸術システムを、徹底的に拒絶するロンツィは、女性アーティストの存在を認めず、ましてやフェミニズム芸術の存在など考えもしなかったため、差別的な芸術システムの中で、現実的に自分の道を切り開こうとしている女性アーティストへの支援も欠如していったのです(Doppiozero)。

このようにロンツィが芸術システムそのものを否定する過激な言論へと向かうにしたがって、アッカルディとの距離はいよいよ広がり、結局1973年に、アッカルディは「リヴォルタ・フェミニーレ」と断絶してしまいます。ロンツィが主張する「家父長制は女性の創造性に刻み込まれた、消すことのできない現実だ」という考えに、アッカルディはまったく同調できず、自らの目的は、男性だけの特権であった芸術界に、女性の知性を刻み込むことだと確信していました。

キャンバスを貼る木枠に彩色されたシコフォイルが貼られ、光の当たり具合によってその重なりから、さまざまな図像が浮かび上がります。Verde 1974の一部。vernic su sicofoil e telaio di legno 130cm×180cm

やがて、「リヴォルタ・フェミニーレ」に参加していたスザンヌ・サントーロ、アンナ・マリア・コルッチらの若手アーティストたちも、ロンツィの精鋭的活動と調和が保てなくなり断絶。1976年には、アッカルディとともに、女性アーティスト、詩人、美術史家たち11人で「ベアト・アンジェリコ・コーポレーション」を設立する運びとなりました。

同年にはアルテミジア・ジェンティレスキに捧げた「ベアト・アンジェリコ」による展覧会「Origine」が開かれ、アッカルディは、その展覧会で自らの家族の母系である祖母、母へのオマージュとして、彼女たちの写真を並べ、シコフォイルで覆ったインスタレーションを制作します。そのモノトーンのシャープなインスタレーションは、今回の展覧会でも観ることができました。

また、この「ベアト・アンジェリコ」では、ジェンティレスキの大作「オーロラ」を修復した経緯があるそうで、現在では途方もない値段がつき、プライベート・コレクションとなっているジェンティレスキの名作を、「ベアト・アンジェリコ」のスタジオに皆で運んで、「和気あいあいと修復した。いい時代だった」、とかつてのメンバーは言います。ジェンティレスキは、理不尽な困難と直面しながらも、画家として生き抜いた、その力強い生涯から、70年代フェミニスト運動アイコンでもあります。

しかしながら、この女性たちのコーポレーションもまた長くは続かず、6回展覧会を開いたのち、1978年に解散します。後日、解散の理由として、「グループに参加していた女性アーティストたちが、差異を強調するために女性としての経験を基盤としたアートに焦点を当てるようになり、その姿勢に失望した」とアッカルディは述べているそうですが、「フェミニスト芸術」に走ったメンバーたちに抱いたアッカルディの違和感を理解できるようにも思います。むしろ女性が女性の経験から生まれた表現に固執することにより、分離が強調され、さらなる差別を助長することになるのでは?とも考えるからです。

このような経緯で「ベアト・アンジェリコ」の解散ののち、アッカルディはフェミニズム運動から遠ざかるわけですが、それでも現在に至るまでイタリアのフェミニズムの中心人物であり、芸術、女性の創造性、差異について、その一連の問いに基本的な役割を担ったことには違いなく(Doppiozero)、現代においても、芸術シーンにおけるフェミニズムを語る時、アッカルディの名前が出ないことはありません。

こうして、フェミニズムから遠ざかったアッカルディは、1978年以降も「シコフォイル」を使った実験的な作品を手がけるとともに、幾何学的な視覚表現を使った作品も多く制作し、どのような言語でもないカリグラフィや記号を使った言語的絵画を発展させていきました。また、80年代には「Lenzuoli(シーツ)」と呼ばれる、巨大なキャンバスに絵画を描くインスタレーションやアンビエント・アートの作品を多く手がけています。90年代になると、アッカルディは絵画表現に回帰していますが、それ以前のインスタレーションにしても、絵画にしても、大胆で鮮やかな色使いで表現される、躍動感のあるエネルギッシュな作品であるには違いありません。

記号、形態、素材を再提案しながら、常に更新されるアッカルディの作品は、年を追うごとに、国際的にいよいよ認知されるようになり、1976年ヴェネツィア・ビエンナーレの「アンビエント・アート」部門で賞賛された「シコフォイル」による展示に続き、1988年にもビエンナーレに再び出展。1994年にはニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催された重要な展覧会、「Italia Metamorfosi(イタリア変容) 1943-1968」に参加しています。1996年にはミラノのブレラ美術アカデミーの会員となったのち、1997年からはヴェネチア・ビエンナーレ委員会の顧問を務めることになりました。

のびのびと壁一面に広がる、巨大なキャンバスに描かれた作品。Pieno giorno(veduta),1987 220cm×420cm Archivio Accardi Sanfilippo.

1995年、かつて「フォルマ1」で、ともに活動したジュリオ・トゥルカートが亡くなった際、アッカルディは、ベッドに横たわる旧友の亡骸に毅然として近づくと、興奮した様子で「しかし、わたしたちは共産主義者なのです!」と囁いたそうです(ファブリツィオ・ダミーコ)。そのときすでに政治思想からも、フェミニズムからも遠ざかっていたアッカルディですが、おそらく亡くなったばかりの若き日の同志と対面し、自らの原点となった、活気に満ちた時間が蘇ったのかもしれません。

なお2024年、6月で終了するはずだったパラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ(ローマ市立美術館)のアッカルディのレトロスペクティブは、2024年9月1日まで延長され、2014年に亡くなったその画家の影響力は、ますます再認識されることになりました。90歳で亡くなる年まで、ダイナミックな躍動を描き続けたアッカルディは、性別を超え、生涯、自身の表現を追求した、いかにもアーティストらしいアーティストだったのではないか、と考える次第です。

2014年、亡くなった年に描かれた作品。Ordine inverso 2014 vinilico su tela ,130cm×180cm Collezione privata.

RSSの登録はこちらから